その他のタイガーマスク

日本・韓国



タイガーマスク(韓国版)/ザ・タイガー(台湾版)

一番最初に「タイガーマスク」を名乗ったプロレスラーは、実は佐山サトルではない。71年、日本プロレスの韓国遠征の際、轡田友継(のちサムソン・クツワダ=引退)がタイガーに変身していたという事実がある。試合では大人気で、上田やエディ・サリバンらに連日快勝、最後に大木に敗れたのだという。詳細は轡田の甥・甲斐靖丸氏の「靖丸さんと私」を参照されたい。これは、現地でアニメのタイガーマスクに人気があったためで、その後も踏襲された。例えば83年、全日本プロレスが遠征したときにも菅原伸義(現・アポロ菅原=フリー)が虎のマスクを被ったらしい。
99年5月8日追記)70年代には、全日から遠征したサンダー杉山高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)らも「タイガーマスク」を名乗ったという(JOE HOOKER SR.さんからの情報提供)。
(左)このシューズ、初代タイガーと同じ 同様のケースとして85年、新日本プロレスが初めて台湾に遠征したときには、ザ・タイガー(老虎、写真左)というマス クマンが出現した。これは現地で「ワールドプロレスリング」が放送され、初代タイガーの人気が高かったためで、正体はブラック・キャットだった。マスクはいかにも安っぽく、耳はあるが白毛がない。現地ではヒールとしてファイトし、それなりの人気だったという。ちなみに翌年、全日が遠征したときも2代目タイガーが「虎面人」として人気を集めたという。
98年9月5日追記)98年7月28日、新韓国プロレス(大木金太郎会長)のソウル特別市オリンピック体育館大会でも「タイガーマスク」が出現したという(写真右)。この日はテレビ生中継があり、夏休みの子供向けに登場させたとのことだ。現在も同団体の興行には、「タイガーマスク」が出現している模様である。

フライング・タイガー

83年6月、いわゆる梶原一騎事件が発生。初代タイガーのイメージダウンを恐れた新日は改名を計画した。いったんはファンの反対やCM契約の問題などで難航テレビで流されたイメージデザインし、タイガーはIWGP後のメキシコ遠征からコスチュームを赤のマーシャルアーツ・パンタロンとジャンパーに一新。マスクも額に「III」の文字が入ったニューデザインのものに改めた。これまでのタイガーは梶原原作のアニメ「タイガーマスク2世」を再現していたのに対し、新生タイガーをアピールしたものだった。ファイトスタイルも空中殺法に比して、キックの占める比重が高くなった。
しかしこれだけでは不十分と考えたか、「タイガーマスク」の名前も返上することになった。8月4日、蔵前国技館での発表では、タイガーは次のブラディファイト・シリーズ終了後海外遠征に発ち、84年に帰国。新マスクマンに再変身するというもので、ファンに新リングネームを当てさせるという企画も始まった。
このプランで、新しい名前として予定されたのがフライング・タイガー写真はイメージイラスト、『スペース・タイガー』説もあり)である。初代タイガーはこの直後に新日を離脱し、F・タイガーが実現することはなかったが、要するにたとえ引退していなくても、タイガーマスクは消える予定だったのである。
タイガーはリング上でのプラン発表のとき、落ち着きがなく、不満げにみえた。ファンからも「エェ〜?」という溜め息まじりの声(当時はブーイングなどというお洒落なモノはなかった)が漏れ、拍手はまばらだった。「マスクを脱ぐのは引退するとき」と常々言明していたタイガーだけに、この改名問題が引退の一因となった可能性もある。

ザ・タイガー(UWF版)スーパー・タイガー

(左)このマスクは裏地に新しい工夫をしていたとか(右)銀地に紫のデザインは84年9月から 初代タイガーは新日離脱後の84年2月、新間寿氏の手によるカムバックを決意し、ザ・タイガー写真左)に再変身した。計画では同年3月のニューヨーク・MSG定期戦がその舞台となる予定であり、リングネームはほかに「タイガー」「タイガーマン」が候補に上っていたという。新間氏との対立からMSG出場は実現しなかったが、マスクとコスチュームをつけて4次元殺法を「独演」するビデオなども制作、開かれたばかりのタイガージムの経営を支えた。
ザ・タイガーの復帰は7月23、24日、第1次UWFの後楽園ホール2連戦「無限大記念日」でようやく実現。初日は高田伸彦(現・延彦)と組み、藤原喜明、前田日明組に敗れたものの、翌日はマッハ隼人(初代・肥後繁久=引退)との初対決で快勝。約1年ぶりのカムバックを飾った。
8月1日、ザ・タイガーは正式にUWF入団を発表。ただし名前の権利はマネジャーだったショウジ・コンチャ氏が持っていたようで、彼との関係を断った佐山は改名する必要があった。更に全日で2代目タイガーのデビューが決まっており、類似商品とのクレームがつくことを強く恐れた。「ギャラクシー・タイガー」「スペース・タイガー」などが検討され、最終的に選ばれたのが「スーパー・タイガー」。マスクは当初、紫地に銀デザインのものだったが、すぐに銀地に改められている(写真右)。後頭部と臀部に大きく「SUPER TIGER」の文字を入れ、白毛の生え際の位置も当初は変えるなど念を入れ、著作権に強く配慮していた。
S・タイガーは8月29日、リチャード・チャーランド(ザ・テンペスト)戦で再デビュー。9月には藤原、前田を連破し、「UWF実力No.1」の称号を獲得。マスクは翌年2月に脱いだが、リングネームは最後までスーパー・タイガーのままだった。

タイガーキング

虎王降臨!東京ドーム熱狂!この瞬間を待っていた! 1995年暮れ、A・猪木主催興行でプロレス正式復帰を果たした佐山はその後、力道山OB会やみちのくプロレス、UWFインターナショナル、東京プロレス、WARなどに出場。さらには冴夢来プロジェクトやチーム・ウルフなど、極小インディペンデントのリングでも「初代タイガーマスク」のリングネームで活動を続けていた。しかし97年に入り、プロ格闘家に転身した小川のトレーニングに従事したことを契機に、新日マット復帰の機運が生じた。同年4月12日の東京ドーム大会での猪木との初のシングルマッチである。そしてこの試合の直前、佐山は「タイガーキング」(写真=左はオーバーマスク)への改名を発表した。タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパー・タイガー、初代タイガーマスクに続き、5度目の虎であった。
この改名の理由は著作権の問題と、みちのくで活躍する4代目タイガーへのマイナスを考慮した、と説明された。しかしタイガーキングの名は新日で6試合、力道山OB会の興行で1試合しか使われず、翌年新日マットを離れ、みちのくやUFOに転進した際には再び、初代タイガーマスク名義に戻った。推測ではあるが、新日(あるいはテレビ朝日)では、タイガーマスクの名を使うことに問題があったのかもしれない。恐らく故・梶原一騎氏サイドと、みちのくとの契約の関係ではなかろうか。もし仮に佐山の新日再復帰が実現したならば、そのときはまた、タイガーキングが「復活」するかも知れない。
なおザ・タイガー、スーパー・タイガー、タイガーキングの国内シングル全戦績はこちら覆面の変遷はこちらです。

ブラック・タイガー(新日版初代/ブラック・タイガー(新日版2代目

いずれも、初代及び3代目タイガーマスクのライバル用として、新日がつくった外国人マスクマンである。
(左)黒いピラピラのついた初来日時のマスク。その後何度もデザインを変えた(右)黒地に金のマスクは試合用として最初に着用 初代ブラック・タイガー写真左)は82年4月21日、蔵前国技館でデビュー。正体は国際プロレスに来日経験のある、英国の元世界ヘビー・ミドル級王者ローラーボール・マーク・ロコ(ジム・ハジー・ジュニア)だった。この試合で初代タイガーのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦、両者リングアウトで引き分けた。そしてタイガー負傷による王座返上後の5月6日、福岡での決定戦でグラン浜田を下し、第6代王者となった。
初代タイガーとのシングル通算対戦成績は4敗1引き分け。独特のツームストンドライバー(通称・暗闇脳天)を得意とし、スタミナとスピードの固まりのようなレスラーだった。タイガー引退後も新日ジュニア戦線を支え、84年暮れにはMSG進出を果たし、ザ・コブラと対戦(別人説もあり)。87年に1度だけ素顔で来日したが、すぐにマスクマンに戻った。また一時期、英国マットでB・タイガー1号・2号のタッグチームを組むとの報道もあったが、実現しなかったようだ。
89年に若手レスラーを試合中に死なせたことなどが元で引退し、死亡説も流れたが、現在はカナリア諸島で移動遊園地を経営しているという。
2代目ブラック・タイガー写真右)は93年8月8日、両国国技館に突如乱入し、9月20日、名古屋でエル・サムライを破ってデビューを果たした。正体はゲレロ一家の末弟、エディ・ゲレロ(元初代マスカラ・マヒカ)で、これ以前は素顔で来日していた。同月23日、横浜での唯一のシングル対決で3代目タイガーを一蹴し、以後は獣神サンダー・ライガーらと抗争。スイング式DDTとBTボムに加え、思い切りのいい空中殺法を売り物に活躍を続けた。タイトルには無縁だったが、96年にはライガーを破って「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」を初制覇した。その後は素顔でWCWマットで活躍、更にはWWFに移籍して脚光を浴びている。
なお3代目についてはこちらを参照されたい。

タイガーマスク2号

84年8月、2代目タイガーマスクをデビューさせた全日は、引き続いてタイガーマスク2号も作り出し、タッグチームとして「タイガーマスク兄弟」を結成させる計画だった。正体を予定されたのは、当初は添野義三率いる士道館の若手空手家、続いてメキシカンも検討されたらしいが、最終的には川田利明の名が挙がった。川田は高校時代から三沢の後輩に当たり、スパーリングパートナーも務めた一方、いまのファンには考えられないだろうが、若手時代は「和製青い翼」の異名があったほど空中殺法を志向していたのである。しかしこのプランはなぜか、実現には至らなかった。ちなみにこれよりやや遅れて、新日も当時活躍中だったザ・コブラの2号(高野俊二を予定)を計画したが実現せず、最終的にストロング・マシーンを「増殖マスクマン」化させて決着した。
99年2月19日追記)「週刊ゴング」誌に連載され、日本スポーツ出版社刊「劇画バカ一代・梶原一騎読本」にも再録された故・梶原一騎氏の回想録「我が眼中の裸の男たち」によれば、士道館の黒帯だったY選手をタイガーマスク2号にする計画はかなり具体的な段階まで進み、本人が全日道場に入門、巡業にも同行したという。しかし、持病の内臓疾患が悪化し、御破算になったとのことだ。

タイガーマスク(SWS版)

初代・2代目を渡り歩いたマスクなのだ
怪物団体SWSもまた、タイガーマスクの登場を計画していた。91年秋、ユニバーサル・プロレスから移籍してきた浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン=闘龍門)が変身する予定だった。浅井自身が持ち込んだ企画といわれ、そもそも本人はメキシコEMLLでもタイガーを名乗る予定だったが「フェリーノなど同様のキャラクターが多いので」と却下されたという。結局メキシコではU・ドラゴン、日本ではタイガーを使い分けるつもりで、コスチュームも製作するなど相当乗り気だったというが、著作権の問題などから実現には至らなかった。SWSの某幹部レスラーの反対もあったとかで、浅井は12月から日本でもドラゴンを名乗った。これが実現していれば、3代目タイガーは金本ではなかったということになる。
なお写真は初代の「ヤギリ」タイプのマスクを着用した浅井だが、このマスクは「ゴング」誌の清水勉記者が佐山から譲り受け、特写の際に被らせたもの。同じものを2代目タイガーもデビュー当時、同記者から借りて着用していたといい、実に由緒正しいマスクということになる(「2代目タイガーマスク・覆面の変遷」参照)。

ジャガー・ナンバーワン/ザ・ジャガー(新日版)

82年秋、メキシコ〜ロサンゼルス遠征中だった小林邦昭の帰国時にも、マスクマンへの変身が計画された。予定リングネームはジャガー・ナンバーワンともザ・ジャガーとも伝えられており、初代ブラック・タイガーと同様、初代タイガーのライバルとして企画されたもの。マスクの出来具合がいまひとつだったといい、小林本人も難色を示したとかで、実現には至らなかった。

ザ・タイガー(新日版)/ザ・ジャガー(新日版)

当初のマスクのままだったらタイガーっぽかったのに 88年秋、新日が開いた「ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦」で、スーパー・ストロング・マシーンのパートナーとしてザ・タイガー、ザ・ジャガーの2人が「来日」した。正体はそれぞれ若手の笹崎伸嗣(引退)と大矢健一(現・剛功)。合同記者会見のときはタイガーマスク風のマスク(写真左上がザ・ジャガー、左下がザ・タイガー)を被っていたが、試合時は耳も白毛も消え、マシーン・スタイルのワンショルダー・タイツになってしまった(同右=上がザ・タイガー、下がザ・ジャガー)。開幕戦こそコンビでH・斉藤、佐々木組と対戦、まだ若手だった佐々木からフォールを奪ったものの、公式戦では振るわず、ほとんど話題に上らずじまいで終わった。
これは推測であるが、あるいはこのシリーズの途中にメキシコ遠征から帰国した佐野直喜(現・巧真=ノア)、畑浩和(引退)の2人を売り出すためのプランが、何かの事情で変更になったのかも知れない。

スペル・ティグリート/レオパルド・ネグロ/獅龍

(左)「小・スーパータイガー」の意(右)額に「豹」の字が入ったマスクもあった いずれもユニバーサル・プロレスに出現したマスクマン。
スペル・ティグリート(写真左)は92年6月12日の後楽園ホール大会に出現し、前座の第1試合で巌鉄魁(現・ディック東郷=大阪プロレス)に敗れた。若手がこのスタイルでデビューしたわけだが、すぐに消えてしまった。マスクはパンテーラに似た黒地のもので、ヒョウ柄のタイツを穿いていた。
99年2月19日追記)「プロレス・ファン」誌No.38によれば、S・ティグリートの正体は島津克彦なる若手選手だったという。現在は引退したとのことだ。
99年5月8日追記)99年4月27日、みちのくプロレス東京・大田区体育館大会での「覆面時間差バトルロイヤル」には、「2代目」としてスペル・ティグリートII(セグンド)なる選手が出現している。その後もたまに同団体のリングに上がっている。
レオパルド・ネグロ写真右=ほんずさんより提供)のマスクとコスチューム、及びファイトスタイルは明らかに初代タイガーを意識したものだった。正体は言うまでもなく中島一学、後の中島半蔵である。リングネームは「黒い豹」の意。なおみちのく時代、中島は「サスケが4代目タイガーを潰さなかったのに立腹し、海援隊入りした」と語っていたが、本音はやはり自分がタイガーをやりたかったのではないだろうか。マスカラ・コントラ・マスカラを強要され?サスケにマスクを剥がされたことを思えば、その感情は理解できる。
また、かつての獅龍(現カズ・ハヤシ=全日本)のマスクも少なからずタイガーの影響を受けていたため、ここに名前を挙げておく。その後獅龍2号なるレスラーも出現しており、こちらの正体は不明ながらもファンタスティック説などがある。

マスクド・タイガー/マスクド・タイガー二世/マスクド・タイガー三世

初代はデビュー当初のマスク もともとはみちのくプロレスに、4代目タイガーマスクのライバルとして出現したマスクマン。通称「偽タイガー」。
マスクド・タイガー写真左=ほんずさんより提供)は97年4月29日、新潟大会でデビュー。黒地のマスクを着け、サスケ・ザ・グレートのパートナーとして活動していた。しかし同年9月23日、酒田大会での敗者覆面剥ぎタッグマッチでタイガーマスク、ザ・グレート・サスケ組に敗れ、正体がバトラーツの小野武志であることを明かした。
マスクド・タイガー二世写真中)はその2代目として、S・T・グレートが連れて来たマスクマン。99年9月11日の岩手・大迫町大会でデビューしたが、やがて姿を消した。マスクは基本的に「初代」と同じデザインで、カラーリングのみ異なる。コスチュームも初代と同じであり、正体はやはり小野武志である可能性が濃厚だ。その後、02年2月3日の後楽園大会で一夜限りの復活を果たしている。
3代目に当たるのがマスクド・タイガー三世写真右)だ。03年5月18日、メビウスの歌舞伎町大会に出現した。こちらも体型やファイトスタイルから見て、小野武志に間違いない。写真では分かりにくいがマスクもこれまでと同じデザインで、黒と青を基調にしたものを被っていた。

ジェット・ジャガー

なんだかアステカイザーに似てる。額にジャガーの絵 91年8月7日、第1次W★INGの旗揚げシリーズ「TAKE OFF 1st.」の開幕戦第1試合でデビューした「覆面格闘家」(写真左)。W★INGに所属してファイトしていくと発表されていた。試合では金色のレガースを着けて、蹴りを連発、相手のザ・モンゴルマンなるマスクマンからダウンを連取して快勝した。だがいまひとつ反響を呼べなかった上、負傷したと称して以後は欠場、そのまま姿を消してしまった。わずか1試合のみで終わった、文字どおり幻のマスクマンである。正体についてはいまだに明らかにされていないが、一説にはベニー・ユキーデ主宰のジム、「ジェット・センター」に所属するジェット市川という格闘家だったという。
ちなみにモンゴルマン(本名:斉藤俊一)もその後1試合に出場しただけで消滅したが、後にインディペンデントのリングで復活。素顔で試合をしている。
01年6月24日追記)J・ジャガーは01年4月22日、東京・ディファ有明で行われたW★ING同窓会興行で復活、10年前と同様第1試合でモンゴルマンと対戦し、敗れた(写真右)。当時と同一人物かどうかは明らかにされなかったが、マスクはほぼ同様。コスチュームはキックのトランクスに変わっていた。

タイガマン

この腹はなんとかならないものか 念のためだが、「タイガーマン」ではない(上記のようにかつて初代タイガーがザ・タイガーに再変身する際、『タイガーマン』の名も候補に上がっていたことがある)。95年、日本SOSなる独立プロモーション系の興行に出現したマスクマン。やや太めで、スーパー・タイガーに似たマスクを被っていた。巨体を利したフライング・ボディプレスを得意としていたという(写真及び情報提供:れねさん)。
当時、マスク製作店の広告には初代、4代目両タイガーとともに写真が掲載されており、あるいはタイガー・ファミリー公認のキャラクターだったかとも思われる。正体は島田宏(現・フリー)説が有力とされ、のちにPWCや島田の主宰していたチーム・ウルフの興行にも姿を見せた。その後はEAGLEプロという団体で、コミカルなファイトを披露しており、03年には「妻」としてタイガ秋子なるマスクウーマンも登場した。なお、このレスラーについては、れねさんの「原色怪奇派図鑑」に詳しい紹介があります。
その他いちいち取り上げることはしないが、最近の極小インディ・マットにはJRFライオンキング・ライオンキング・レオなどなど、タイガーマスクの影響を受けたと思われる日本人マスクマンがしばしば散見される。

ジ・ウインガー

獅龍にも似てる? 本名:岡野隆史。W★INGでデビュー後、プエルトリコ遠征中にエル・オキャノン(エル・オカノとする報道もあった)なるマスクマンに変身し、帰国後はウインガーを名乗った。IWAジャパンを経て大日本に上がっているが、BJWジュニアヘビー級、同タッグ、CZWジュニアヘビー級などタイトル歴もそれなりに重ねている。大日本ではブルータウロスやシャドウ・ウインガーと称していたこともあったそうだ。
もともとは薄い角の生えたオリジナルのマスクを被っていたが、デザインは何度となく変わっており、M・ドラゴンに似たものを着用した時期もある。タイガー風のマスクは02年夏ごろから、たまに使うようになった。写真で分かるようにボアが頭頂部にもあるが、「ヤギリ」に似たデザインのマスクだ。ちゃんと耳もついている。

HALIMAO

コスチュームは銀のパンタロン 02年10月31日、東京・ディファ有明でのノアのハロウィン興行で全選手が一夜限りの変身をした際、KENTAが扮したマスクマン。ハリマオとはマレー語で虎の意であり、タイガーマスクそっくりな虎のマスクを着用した。なかなか本格的な、良く出来たデザインであり、これきりお蔵入りしてしまうのは惜しいほどだ。年輩の世代には故・石ノ森章太郎氏の原作で、60年代に人気を博したテレビシリーズ「快傑ハリマオ」(勝木敏之主演)が懐かしいところだが、言うまでもなくドラマのハリマオはサングラスにターバン姿で、虎のマスクを被っていたわけではない。
なおこの日、三沢はタイガーを卒業したつもりなのか、ライオンをかたどった「リオン」に変身、HALIMAOとメインの6人タッグで相対していた。

タイガースマスク

いつかは出るだろうと思われてたが 偽者というよりパロディと言うべきだろうか。大阪プロレス旗揚げ2周年記念シリーズの01年5月19日、なんばマザーホール大会でデビュー。S・デルフィン自らが対戦相手を務めた新人マスクマンだ。プロ野球阪神タイガースのユニフォームをあしらったマスク&コスチュームで、入場テーマ曲は「六甲おろし」。必殺技も同じ名前だ。阪神球団の公認こそ得られなかったものの、背番号は往年の掛布雅之と同じ「31」で、額のマークは「TH」ならぬ「TM」である。
正体は丸山なる名前の吹田市出身の当時24歳で、174センチ・78キロ。大学時代にアマレスを5年間経験し、00年9月に入門したのだという。前座試合で黒星街道を歩んでいるが、同団体のえべっさん、くいしんぼう仮面などと同様の大阪お笑い系キャラクターに留まるか、はたまた本家を上回るレスラーに大成するか、今後に期待したいところである。なおマスク・コスチュームのデザインは、2代目タイガーの「ビクトリー」(Vマーク)などを手がけたイラストレーターの
中川カ〜ル氏が担当している。

番外:村浜武洋(シュートボクシング当時)

村浜はシュートボクシング時代はシーザージム所属で、KICK世界スーパーフェザー級、JSBAカーディナル級選手権者だったそうだ。大のプロレスファンで、タイガーマスク・スタイルのコスチュームも製作。97年7月20日のK−1出場でもこれを着用して戦い、会場を沸かせたという(はちさんからの情報提供)。入場時にはマスクも被る徹底振りだったとか。もともとシュートボクシングといえば、シーザー武志が第1次UWF離脱直後の佐山に触発されてつくった新格闘技であり、何かしら因縁めいたものも感じられる。



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