統合失調症の病理学


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伝統的な精神医学から



クレペリンの「早発性痴呆」
「精神病」,つまり精神に異常を来たす病気については,有史以来様々な記述があり,「狂気」というものがいかに人を惹きつけ,また恐れさせてきたかがうかがえます。時代によって狂気は神聖なものとみなされたり,逆に悪魔的なものとして追放・虐殺・拷問の対象になったりしてきました。狂気は,病的なものというより非日常性,宗教性などと関係したものとしてとらえられていたようです。

しかしルネッサンス以降「病気」の概念が発達し,狂気というものも一種の病的な状態であり,「精神の病気」つまり「精神病」としてとらえられるようになってきました。狂気は「病気の症状」として記述されるようになり,治療の対象として考えられるようになりました。

と言っても19世紀の後半になるまで,妄想とか興奮とか錯乱とかいった症状がそのまま「妄想病」「興奮病」「錯乱病」のように一つの病気としてみなされたり,逆に全ての精神病は単一の精神病の異なった段階・表現型であるとする考え方がされていて(グリージンガー Griesingerの「単一精神病」(1845)),現在の精神疾患の診断体系とはかなり異なったものでした。

精神病の中でも,思春期・青年期に好発し,幻覚や妄想・興奮といった特徴的な症状の消長を繰り返しながら次第に人格が疲弊・荒廃していく疾患が知られていました。この中にはヘッカー Hecherの言う「破瓜病 Hebephrenie」(1871)やカールバウム Kahlbaumの「緊張病 Katatonie」(1874)も含まれます。また持続する妄想形成のみを症状として著しい人格の変化を起こさない,古くから「偏執狂 Paranoia」と呼ばれていた一群の病態もこれに類するものとして考えられていました。
カールバウムはこれらの疾患を全て別々の病気であると考えていましたが,これらはいずれも単一の病気の中の異なるタイプの病像であり,末期には同じような状態に至るとして教科書に記述した(1893)のがドイツのハイデルベルグ大学教授であったクレペリンEmil Kraepelin (1856-1926)です。
彼はこの病気を含め幅広い精神疾患を病因論的に分類し,現代の精神医学の(特に診断学の)基礎を作りました。

彼は,治療方法など何もなかった当時のこの病気の末期状態が痴呆に似ていたことから,「若い時期に発症する痴呆」という意味でこの病気を「早発性痴呆 dementia praecox」と呼び,1893年の「精神医学書 Compendium de Psychiatrie」第4版の中で,上記の緊張病やパラノイアの一部とともに精神病の中で大きな部分を占める一群の疾患として分類しました。

彼の分類によると,中毒・身体疾患による精神障害(進行性麻痺など),外傷や脳外科・神経内科的な疾患による精神障害,心因性の精神障害(神経症など),生来性の精神障害(発達障害など)を除いた狭義の精神病は躁うつ病と早発性痴呆の2大精神病に分けられています。彼のこの分類は「2大精神病論」と呼ばれ現代の精神医学の診断学にも色濃く影響を残しています。

彼はこの病気に「痴呆」という名前を与えながらも,実際の痴呆とは全く異なる病態であることは理解していました。彼の書いた教科書は死の直前まで何度も何度も彼自身の手によって改訂され,その度にこの病気の定義や範囲が微妙に変化していることからも,彼はこの病名に決して満足していたわけではないようです。
実際,彼の命名に先立ってフランスのモレル Morelがdemence precoceという語を似たような精神障害に使っている(1860)ことからも,現在の分裂病,統合失調症の中核的な症例群を若年性痴呆,早発性痴呆という言葉で呼ぶことはクレペリン以前にすでにある程度定着していたと考えられます。クレペリンがこの病名を使ったのは「やむを得ず」「とりあえず」だったのではないでしょうか。

そして彼の早発性痴呆の概念はブロイラーの"Schizophrenie"の概念へと引き継がれて行きます。

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ブロイラーの「Schizophrenie」
クレペリンの2大精神病の概念はこれまで混沌としていた精神疾患群をそれぞれすっきりと位置付け,それがまた病因論と(一応の)対応を持っていたため,ドイツ国内に止まらず世界の国々にも大きな影響を与えました。
「精神病者私宅監置の実況」(1918)という本の中で「我が国十何万の精神障害者は,実にこの病を受けたるの不幸のほかに,この国に生まれたる不幸を重ぬるものというべし」という名言を残している呉秀三(1865-1932)も,1897から4年間を彼の教室で過ごし,クレペリン式の精神疾患体系の影響を強く受けた一人です。

同じくクレペリンの2大精神病の概念,特に早発性痴呆の概念に強く影響を受け,これを受け入れながら当時の心理学の主流であった連合心理学的な概念と合わせ「統合失調症(精神分裂病) Schizophrenie」という疾患概念を確立した(1911)のがスイスのチューリッヒ大学教授 ブロイラー Eugen Bleuler (1857-1939)です。
彼は,当時新しく興ってきたフロイト Sigmund Freud (1856-1939)の「精神分析学」にも理解があり,フロイトの弟子として有名なユング Carl G. Jung (1875-1961)を師として最初に育てたのは彼であることはあまり知られていません。また「現実との生き生きとした接触の喪失」や「生きられた時間」の概念で有名なミンコフスキー Eugene Minkowski (1885-1972)も彼の弟子です。

ブロイラーは,連合心理学でいうところの「連合 association」の障害こそがこの病気の背景にある基礎的な障害であり,様々な概念と概念の連合がうまく働かないことから種々の精神症状が産生されてくると考えました。特に「自閉 autism」「感情のマヒ flat affect」「両価的で矛盾した考え ambivalence」を重視し,先の「連合障害 loosening of association」と併せてそれぞれの頭文字をとりこの"4つのA (4A)"をこの病気の基本症状としました。
またこの病気が必ずしも末期像として痴呆様の状態にはならないこと,単一の病気ではなくたまたま同じような経過と症状を示すいくつかの病態の集まり,つまり「症候群」であることなどを考慮に入れ,「早発性痴呆」という病名ではなく"Schizophrenie"と呼ぶことを提唱しました。

この"schizo-"というのは「分かれる」「分離する」というような意味を持ち,"-phrenie"というのは心とか精神という意味を持つ古い言葉です。したがって"Schizophrenie"という言葉は先の連合障害を表現した全くの新しい言葉,ブロイラーの造語です。
この言葉はやがて世界中で広く用いられるようになりましたが,日本語に訳される時に「精神分裂病」と訳され,これがあまりに直訳に過ぎるため,ブロイラー自身の意に反してこの病気に対する様々な誤解や偏見を呼ぶ原因の一部となって,最近になり「統合失調症」という訳語に変更されることになったのはみなさんご存知だと思います。

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ヤスパースの「了解」概念
ドイツ北部の田舎町に生まれたヤスパース Karl Jaspers (1883-1969)は,生まれながらにして呼吸器と心臓の病気を患っていたため,医師の資格をとった後,精神科医としてハイデルベルグ大学の精神医学教室に7年ほど所属したものの通常の勤務につくことができず,ついに無給の助手のまま哲学者に転向,後に同大学の哲学科教授になり,ハイデガーやサルトル,メルロポンティらと並んで実存主義哲学の巨人の一人に数えられる存在になりました。

彼の短い精神科医時代に書かれた書物の代表的なものが有名な「精神病理学総論」です。クレペリンの後継者であるニッスル Franz Nissl (1860-1919)に「クレペリンをはるかに超えている」と言わしめ,同じくハイデルベルグ学派の後継者であるコッレ Kurt Kolle (1898-?)をして「4年しか精神科の経験のない30歳そこそこの無給助手が一挙に精神医学の知識の全体を包括的にとらえた」と感嘆せしめたこの書物は,現在でも精神病理学を志すものが必ず目を通さねばならないものの一つです。それまでは単に精神疾患の診断・分類のための学問に過ぎなかった精神医学の中に精神病理学という一分野を確立したのはまさにこの書物であったと言えるでしょう。

クレペリンは混沌としていた精神疾患をスッキリ分類し,現代精神医学の基本骨格を作りました。しかし彼の診断学は科学としての信頼性を保つためにあえて患者さんの内面に踏み込むことを避け,外面的な所見のみに頼るものでした。また疾患としての経過や予後には言及しているものの,今,目の前にいる患者さんの症状に対するアプローチは全く初歩的で深みに欠けるものでした。またブロイラーの"Schizophrenie"概念も,膨大な臨床経験の上に作られたものとは言え,治療者が患者さんの内面をとらえる手段について多くを語るものではありませんでした。確かに彼らの仕事は素晴らしいものですが,あくまで「患者さんを外から観察してあれこれ言っているだけ」の面があるのは否定できません。

本来人間は,いかに近しい人であろうとも,相手の気持ちを完全に理解し,相手と全く同じ体験をすることはできません。人と人の間には絶望的な壁があると言っていいでしょう。精神科医と患者さんの間もそうです。患者さんからいくら長時間話を聞いても完全に患者さんと同じ体験をすることは決してできません。
「了解 Verstehen」というのはこの壁を越えようとする試みです。従来の精神医学はそしてまたある意味で現代の精神医学も,この人と人の間の壁に最初から背を向けていました。ヤスパースの試みはこの壁に真っ向から挑戦するものです。

患者さんの言葉や表情,問診による情報などから「患者さんが現実に体験する精神状態を,まざまざと我々の心の中に描き出し,近縁の関係にしたがって考察し,できるだけ明確に限定・区別し,厳密な述語をつけること」というのが了解の定義で,もっと簡単に言えば,患者さんについての様々な情報や患者さんの言葉をもとに「必死で感情移入してみること」と言ってもいいでしょう。この試みが患者さんの心をそのままで理解しようとする「静的了解」であり,ここからさらに患者さんの心の動き・症状の生成メカニズムを理解しようとするのが「発生的了解」と呼ばれる方法です。十分な情報,十分な診察,十分な了解の試みを経てもどうしても患者さんの心を了解することができない場合は,患者さんの心は病気の存在などによって「説明 Erklären」する他なくなります。

具体的な例をあげてみましょう。安物のドラマにでも出てきそうなお話ですが,全くの創作です。

症例1:ある若い男性が気分の落ち込み,不眠,意欲・集中力の低下,イライラ,希死念慮(自殺願望)などを訴えて精神科を受診したとします。彼は有名私立大学を卒業後一部上場企業に就職し,その企画力・実行力と英語力を買われて若手ながら米国駐在に抜擢されたところでした。5年の駐在を終えて帰国した時には中間管理職を一気に飛び越えた人事もあり得る超エリートコースです。
これだけなら名誉の栄転であり,なぜ抑うつになったのか理解できないところですが,よく聞いてみるとまだまだ裏の話がありました。彼には大学生時代からの彼女がいて,結婚の話も出ていたのですが,この海外転勤をめぐって彼女とうまく行かなくなったということなのです。彼は自分の人生がこの先どのように動いていくかも分らない現時点での結婚には消極的で,単身での渡米を希望していました。一方で3つ年上の彼女は彼が単身で渡米するつもりであることを聞いて以来不安定になってしまい,想像妊娠騒動やリストカットを繰り返したあげく実家に帰ってしまいました。そして先日彼女の父親が顔色を変えて上京してきて,ものすごい形相で彼を長時間なじったのです。彼女の父親にはこれまで何度も会ったことがありましたが,これまでの温厚そうな印象とは似ても似つかないものすごい剣幕だったそうです。父親の話では彼女も精神科に通院中で,彼の仕打ちについて彼の会社の上司に報告することや婚約不履行による民事訴訟も考えているとのことでした。生まれてこの方,人から責められたりなじられたことのほとんどないエリートの彼は一連のできごとですっかりめげてしまい,最近では仕事も手につかなくなったために来院したのでした。

症例2:同じく若い男性が気分の落ち込み,不眠,意欲・集中力の低下,イライラ,希死念慮(自殺願望)などを訴えて精神科を受診しました。今度は大学生です。全国的に有名な進学校を卒業して現役で一流国立大に進学した彼にも一見,大きな問題はなさそうです。
ただ,話を聞いてみると彼は大学に入学後あまり授業にも出ず,3年生になる今まで単位もロクロクとれていません。たまに塾の講師のバイトなどに行くものの長続きせず,その他は特に何もせず一日中部屋でゴロゴロしていることが多いそうです。診察中も何か心ここにあらずといった風情で落ち着きません。頭が悪いはずは絶対にないのに,妙に話のまとまりが悪く,質問から少しずれた答えが返ってきたりします。よく見ていると時々小声でブツブツ独り言を言ったり,意味もなくニヤリと笑ったりします。
この時点ですでに診断はほぼ決定していたためこの日はあえてそれ以上突っ込まず,翌週の2度目の診察の時にさらに訊いてみると,やはり大学入学後間もなくの頃より若い女性の声が耳元で聞こえるようになり,だんだんはっきりと彼に話しかけてくるようになり,この頃ではその声と一日中会話していることもあるとのことです。また彼によるとその声はパラレルワールドからのもので,最近では彼を向うの世界との交信者として特別な使命を与え,様々な命令をしてきたり,彼の行動にいちいち口出ししたりし,彼の手足や思考を直接テレパシーのような手段で操ったりするようになり,彼としては逃げ出したいのに逃げ場が全くなく,次第に追い詰められてきたため病院に来たのが本当だったのだ,と打ち明けられました。

症例1の男性の症状は,そのおかれている状況から考えられると比較的よく理解できます。これまで挫折を知らない若きエリートが,生まれて初めて自分でコントロールできない現実に翻弄され,またこれまで身近に感じていた人物から激しく非難されるという出来事を経験してひどく落ち込み,眠れなくなったり仕事が手につかなくなったりすることは,私たちの心の中で再現・追体験し共感することができます。これは十分に了解できるということです。
もっともこれぐらいのことで(と言ったら失礼ですが)自殺まで考えるのは大げさかもしれません。これは,彼が甘やかされて育ったエリートでトラブルに対して非常に打たれ弱く,ささいなトラブルでも自己愛(プライド)が大きく傷つき,自己愛を傷つけられた怒りから相手に対してあてつけ的に死を考えているのだとまで考えると了解できないこともありません。これは発生的了解ということになるでしょう。

これに対し症例2の男性の症状は,そのままでは私たちの心の中で再現し,追体験・共感することは困難です。私たちに幻聴の経験はありませんし,テレパシーであやつられるといった体験もありません。知識として想像することはできますが,自分のこととして実感することは不可能です。これは了解不可能ということで,例えば統合失調症が発症していてそのためにこういった症状が出ているのだとして説明するより他ありません。
しかし彼の症状も,件の女性の声が,彼が大学入学後友人に連れられて初めて行った風俗で緊張のあまり首尾を遂げられず非常に恥ずかしい思いをしたその際の相手の女性の声であること,女性に強いあこがれがあるものの実際には声もかけられないこと,彼が理学部の学生で実際に多元宇宙論に非常に明るいこと,こういったことを考えると決して全く理解不可能ではなく,そのままで「静的に了解」することは不可能なものの発生的に了解することはある程度可能と言えます。

よく誤解されていることですが,ヤスパースの了解概念は,決して了解が可能か不可能かで精神病かどうかの診断をしようとするものではありません。彼は上記の例のように一見了解不能に見える症状を発生的に了解していく試みを否定するものではありませんでした。了解を診断のためのツールとして考えていたのではなく,患者さんの世界に近づき,これをより理解するための基本的な手段として考えていたのです。その点,リュムケ Rümkeの"プレコックス・ゲフュール (分裂病っぽい感じ) Praecox-Gefühl (1958)"の概念とは一線を画すものと言えるでしょう。

ヤスパースの「了解」概念はこのように,人の心と人の心の間にある壁を完全に乗り越えるものではありませんが,壁に窓をつけて向うをのぞくことを可能にした画期的なものでした。精神病理学における全ての「患者さんを理解しようとする試み」はこの「了解」の上に成り立っていると言っていいでしょう。

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シュナイダーの「1級症状」

あっさり精神科医を辞めてしまったヤスパースの後を継いで統合失調症の精神病理学を大きく発展させたのが同じくドイツのシュナイダー Kurt Schneider (1887-1967)です。彼はクレペリン,ヤスパースと同じハイデルベルク大学を中心に活動し,後に同大学の精神医学講座の主任教授になっています。「精神病理学序説 Psychiatrische Vorlesungen (1936)」や「臨床精神病理学 Klinische Psychopathologie (1950)」という日本でもよく知られた教科書を書いているだけでなく,たくさんの優れた精神科医を育てた教育者としても有名です。また,多くの精神科医がナチスの精神病者迫害・抹殺政策(北杜夫の「夜と霧の隅で」が有名ですね)に手を貸す中で,「患者の命を守るのが医師の第一の使命だ」と著書で述べ発禁処分を食らった硬骨漢でもあります。

彼はヤスパースの了解概念を援用し,様々な精神疾患,とりわけ統合失調症の精神症状を理解しようと試みました。その試みは非常に広範に及び,その多くは後に弟子達によって批判・訂正されることになったものの,精神病理学の守備範囲を広げ,それを後世の精神科医に引き継いだ功績は大きく評価されています。

精神病症状の「等級」概念は,精神病の診断について書かれた"Psychischer Befund und Psychiatrische Diagnose (1939)"という著書に詳しく述べられており,現代の精神医学に今なお大きな影響を与えているものです。彼は「精神病の診断はその病気に特に好発する症状によってなされるべきである」と主張し,ある病気にかなり特異的で診断上の価値が高いものを「1級症状」,その病気でも見られるが他の病気でも出現し得るものを「2級症状」というように分類しました。

具体的に統合失調症の1級症状は下記のように記述されています;

これに対して2級症状は,上記以外の幻覚,困惑感,妄想着想(突然妄想的な考えが頭に勝手に浮かんでくる),躁やうつといった感情の変動,感情の貧困などとされています。因みにうつ病の1級症状は「生気感情の抑制」とされています。 彼は1級症状のうち一つ以上が存在すれば控えめながら統合失調症を疑うことができる,と書いています。

彼のこのアイデアは,精神病の診断は「基底症状」「基礎障害」のような非常にあいまいで医者によって定義が異なってくるような症状によるのではなく,誰から見ても明らかで間違いようのない症状によってなされるべきであるという極めて現実的な理由に基づくものです。これはよく誤解されていることですが,彼は1級症状を「診断のための重要な目安」ととらえているものの決して「1級症状=統合失調症」と考えていたわけではありません。これら1級症状は統合失調症にかなり特異的だとは言っていますが,「最もよく見られる症状だ」とも言っていません。また当然ながら,これらの症状が頻度は高くないものの他の疾患でも見られ得ることも分かっていました。統合失調症の本質はさておき,とりあえず診断のためにはこれこれの症状が結構大事だよ,と言っているに過ぎません。

1960年代にこのアイデアは米国のプラグマティックな精神医学に吸収され,その後DSMの統合失調症の診断基準として発展して行くことになります。現在世界で最も広く使われているDSM-IVという精神障害の診断基準の中にも「1級症状」の考え方が色濃く反映されています。しかし彼がわざわざ「控えめながら」と書いたその真意はいつの間にか忘れ去られているようです。彼が生きていればきっとこう言ったでしょう。
「おいおい,『1級症状』を診断基準に使うのんはええけど,それを統合失調症の本体やとは思わんとって欲しいなあ」何故に関西弁??

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