<論考> 出世と出世主義 

− 学閥とからみついた出世主義はいかにして教育をゆがめるか −





出世と管理職に求められる能力・資質
 私たちが肯定できる出世とは,管理職として人格的にも人権尊重の感覚にもすぐれ,教育現場の教職員の教育諸活動を真の意味でリードできる能力・識見を持っていることをまわりの誰からも認められている者が,自らもその能力・資質を備えていると自負し,管理職に昇任してその職に就いたあかつきに,何よりも児童・生徒のための教育活動の外的諸条件の整備や教職員が働きやすい労働条件づくりなどの管理労働の能力を発揮して,教育の発展のために,不当な圧力に屈することなく,私心なく尽力したいという願望を現実のものにしようとする人生の指向や行程のことをいう。

 このような指向性を持つ者は,それぞれの独自の個性的な教育観・学校観を持っているべきことは当然であるが,学校運営において教職員全体に自らの教育観や特定の教科指導方法などを押しつけるような強圧的・独善的性向はきびしく自己抑制するべきであるし,具体例をあげるなら,全校の児童・生徒を前にして集会や式など場合に管理職としてのいわば「授業」を行うとき,場面に応じて,児童・生徒の心を引きつけ,目を輝かせるような教育的な訓話を自らの言葉で語りかけることができる豊かな教養と能力を持ち,絶えずその能力をみがく努力を続けていける人物でなければならないことはいうまでもない。

 だが,中島地方においても,このような心にひびく教育的な語りかけを自分の言葉で行うことができる管理職は,きわめて希にしかいない。それどころか,一般の教員のレベルよりもはるかに低い話しかできない管理職が圧倒的に多いのが現実である。何よりも,自らの教育的な力量が認められて,その力量で出世してきた管理職があまりにも少ないからである。
 児童・生徒の心をうつ話が管理職の身体全体からにじみ出てくるのが普通であろうが,何を話しているのか分からないような管理職や,何かの本を読んでお茶を濁してその場をやり過ごす管理職のことなど,あちこちの職場からそのような管理職のことを数多く耳にする。現場の一般教員はほとんどがそれを見抜いているし,児童・生徒の中にいると,そういう管理職の資質を見抜いてしまっている子たちがけっこういる。
 つまるところ,こういう管理職は,教育をなめてかかっているのである。この手の管理職は,降格処分にでもすべきであろう。

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出世主義と学閥
 私たちが否定し批判する出世主義とは,出世したい願望が他の何よりも優先し,事実上,児童・生徒を二の次にし,あるいは犠牲にしても,何ら心にうしろめたさややましさを感じず,また,仮に少しは感じたとしても,自らの教育者としての良心を打算的に押し殺してまでも,どんな手段をとってでも何が何でも管理職に昇進したい我欲を満足させずにはおられない指向性を,ひそかにあるいはあからさまに示す立場をいう。
 だから,ここには,一般の教職員とともにどういう学校をつくりあげるのかという教育に燃える理想やその手だての発想がまったくない。あるようにみえたとしても,それは時の文部省が財界などの意向を強く受けて出す『学習指導要領』で主唱するそのときどきの「新しい教育」(例えば最近では「新しい学力観」)の実現のために,「われ先に」と競い合うようにして先頭を切って取り組み,共同で「研究」する場合も,その成果をあたかも自分の成果として出世の材料に利用できる場合に限られる。成果の横取りも平然とやってのける。それは,管理職になることだけがまず最終的な自己完結的な目的になっているからである。ここでは,分厚い一見目新しい文書を作り上げて「研究」の「成果」をあげた,とすることが自己目的であり,児童・生徒が学習内容が分かろうが分かるまいが,それは事実上二の次,三の次の関心事である。あるいは,そのようなことはまったく関心外である。
 また,ある学校のある教務主任などは,日頃の一般教職員に対する「指導的」な言動とは裏腹に,授業の持ち時間数が極端に少ないためにたっぷりとある空き時間を利用して職員室で平然と「教頭昇任試験」の受験勉強に精を出しているという。これは,それを見たという校長が「腹が立った」といってまわりの者に言ったことだから,単なる噂ではなく,実例である。校長にとっても,これは「腹が立った」ではすまされない問題ではないか。
 これらの姿のどこに教師としての純粋な魂や崇高な使命感が見いだせようか。こういう立場を出世主義というのである。

 これらは,出世主義が教師を堕落させるほんの一例であり,出世主義に自らのめり込んでいった教師たちの一群が,私欲のために学校教育を食い物にして児童・生徒を事実上ないがしろにして学校教育の現場に最悪の害悪をもたらしているほんの一例である。
 このような底知れぬ堕落の汚泥を温床にして愛知県では管理職や管理職の予備軍が大量に再生産されているのである。

 学校現場には「良心的な」と言われる管理職がいないわけではない。しかし,それはただ「良心的な」と評される一面もあるという程度の違いだけだ。彼らは管理職としてまわりが期待する以上の仕事をすることはない。
 ただ,校長会の中での「地位」や校長会の陰の「実力者」の「地位」をさらにねらう者の中には,文部省行政が期待するようなもっともっと悪い方向へ学校を変えることに強い意欲を示す者も出てくる。これは最悪の質の管理職である。

 こういう出世主義の立場においては,すでに新任や青年教師の時代から,教育活動で公に「認められたい」ために,できるだけ目立つところでだけ頑張り,あるいは,同じ特定学閥の先輩や管理職などからそういう「有利な」場が与えられて頑張り,実践論文づくりなどに精を出すが,それら実践研究の対象となる児童・生徒は,それらの教師がどんなに言いつくろおうとしても,自らの「成果」を誇示したいための「研究」実験材料以上のものとしては決して扱われない。なかには,実践「成果」を少しでも見栄え良くするために,「研究」の段階で児童・生徒に対してつらくあたったり,虚偽の「成果」をねつ造する者も出る。

 また,この出世主義の立場においては,管理職をめざすにあたって任命権者(教委関係者)や有力者に金品の付け届けをして取り入り,何が社会的教育的そして人間的に正しく大切かではなく,どういう取り入り方で誰とどのように結びつくことが自らの出世欲・金銭欲・名誉欲を現実のものにするための一番の有効な近道であるかが,教育界での自らの人間関係を築く上での唯一の尺度となる。
 こういうことが,たとえ噂だけだとしても,なるほどとうなずく「管理職」があちらこちらに誕生していては,裏に打ち消しようがない事実があるとしか思えないのはいたし方なかろう。人格高潔,教育力量優秀,公平・公正な管理職をいたるところにくまなく配置する事実でもって応えてもらうしかない。

 こうして,学閥とからみついた出世主義は,教育界や職場の中で,学閥の力によって本人の能力や資質をはるかに超えた教育行政職や管理職に就く人間を学閥の中に数多く作り出す。学閥出世主義相乗作用である。余談になるが,地位が人間をつくるといわれるが,ある地位が与えられるとその人間までが確かにそれらしい能力が身に付いたかのように「偉く」なって「みえる」ことがある。

 学閥が,内なる出世主義の要求に呼応して「地位」を与え,「地位」がそれらしい人間をつくり,その人間が教育界の「指導層」となって教育界の各分野で権威づけられ,一般の教員から「指導」を求められるような「機会」がまた数多くつくられ,いっそうの「権威」付けがすすみ,一般の教員との「格差」が広がったようにみえるようになる。すべてが手前勝手なでっち上げによる奇妙きてれつな密室の連鎖である。

 「地位」が学閥によって与えられるなら,「地位」を得る出世のためには,大学の選択の時点から特定学閥に入る道を選ぶか,特定学閥の外の者でも特定学閥に限りなく元気良く尻尾を振ることが一番の近道である。こうして,出世主義は,特定学閥教育界支配力によって特定学閥の外へもさらにいっそう膨張をしてはびこり,教育を食い物にして破壊していく。

 こういうわけであるから,最近では,特定学閥のまわりにいろいろな尻尾の振り方をしてみせる第二,第三,第四の学閥が公認され,特定学閥から「地位」のおこぼれをいくつかいただく学閥がじわじわと幅を利かすようになってきた。これらの学閥は,しかし,特定学閥に取って代わる運命を決して持たない「恵まれない」学閥であり,特定学閥は,一生懸命に尻尾を振ってくる学閥を,自分の番犬のように上手に利用して使っている。尻尾を振る学閥の人間が自分たちの運命を知っているのか,自分たちの法(のり)をいつまでもおとなしくわきまえていく覚悟であるのかは私たちの知るところではない。

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<小項目>特定学閥の醜さ・あくどさ

 ただ,特定学閥の支配の醜さ・あくどさについては,二三の事例をあげることができる。
 学校の中で,特定学閥に関係しない教員,特定学閥とあえて距離を置く教員が指導の困難に突き当たった場合,特定学閥に関係する教員たちは決してその教員に援助しようとせず黙って放置しておく場合がほとんどである。逆に,特定学閥に関係する教員に自らが招いた災難が降りかかった場合,特定学閥の教員は特定学閥内部のさらに細かく分かれた各教科ごとの「教科閥」や「組合」ルートで出世していく「組合閥」などの内部の今後の勢力範囲の帰趨もしっかり見据えての上だが,その限りで特定学閥の教員を必死でかばい護ろうとする。

 また,ある学校が生徒指導で荒れた場合,特定学閥の教員は,より「安全な」学校へ転出希望を出し,人事異動の時期にその希望はみごとかなえられる。そして,逆に,その荒れた学校へは特定学閥以外の人間が送り込まれる。こういう「芸術的な」ともいえるあくどい所業は,愛知県においては特定学閥の人間が県教委・地教委のすべてのポストを手中に収めているという異常な派閥構成がまかり通って人事権のすべてを握っているからできることなのである。

 さらに,こういう例もあった。特定学閥のKという首領が校長職にあった中島地方のI市立I中では,生徒が荒れていたため,そのうちの一人の「問題生徒」とされる生徒に対して親も学校に呼び,校長の方から因果を含めて,その生徒を同一市内の隣接するJ中に転校するように「指導」して強引に転出させてしまった。相手方のJ中の校長は,特定学閥につながる第二第三の学閥の校長であった。この校長はこれが自らの学閥の「運命」だと諦めて怒りをこらえたかも知れないが,J中の職員はK校長のあまりに汚いやり方に猛反発をした。K校長のやり方は仁義も何もあったものでない。自己の安泰だけを確保しようとしたものである。このK校長は現在は退職して,愛知県の教育外郭団体の理事というポストに就いて,中島地方の教職員人事の陰の「実力者」として今もなお「君臨」していると言われている。愛知県における特定学閥とはこういうものなのである。

 そのようなことはどこの世界でもあることだと言われる人がみえるかも知れないが,子どもの教育や医師の世界のような純真な心や生命を守り育てようとする職場ではせめて,こういう,特定学閥に関係のない弱小勢力に分類される人間のことだから協力しない,突き放すというようなことは無いようににすることが最低限の倫理としてまもられなければならないのは当然のことではなかろうか。児童・生徒に対しては,誰でも困った人があったら助けてあげましょうね,と指導するはずの教員の世界の中で,教員が児童・生徒に対する指導と正反対のことをやって児童・生徒の前で平然としているのは,人間として腐っているとしか言いようがなかろう。

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<小項目>愛知の特定学閥と愛知の教育

 とにかく最近ではこのようにして,教育界や学校の中に特定学閥を中核とした何層もの特殊な従属する層を持つ,職場の他の人間関係群とは区別された一連の人間関係群が形成されてきて,それらが学校の校務分掌の中軸を占めるようになっている。したがって,校長・教頭・教務主任・校務主任・学年主任・生徒指導主事等の各主事で構成される「企画委員会」を中心にすえた職場階層制のもとで,上意下達の流れは,今やたまにしか開かれない「職員会議」を形骸化して一見スムーズに流れているようにみえる。

 しかし,このことは,学校現場にとって真に民主的で教育的で有益な人間関係であると言えるであろうか。確かに,特定学閥による特定の教育「思想」や「理論」や教育方法は,彼らがそのようにしようと思えば,特に抵抗する勢力がない場合には教育現場では上から下へと見事に貫徹されていくだろう。だが,それで学校現場は生気に満ちあふれる教育実践の場となるであろうか。まったく逆である。
 学校という場には,そもそも「上」から「下」への命令系統が走る職階制はなじまないのである。ここへ営利企業の管理機構をあてはめようとするから様々なねじれた不合理な問題が発生して学校が混乱するのである。
 教育にあたっては「上」の先生も「下」の先生もない。『学校教育法』第28条に「教諭は,児童(生徒)の教育をつかさどる」と明確に規定してあるではないか。教育を「つかさどる」のは教諭であって,「上」の先生の指図で指導内容の選択から指導方法まで何もかもが動くものではない。さらに言えば,職階制は,教員が相互にアンサンブルを奏でることによってしか成り立たない『教育の条理』にそもそも背反しているのである。そのとき,教育は死ぬのである

 一般の教員は上意下達には弱い側面を持っていても,上から指示された指導方法で児童・生徒と直面して教育実践の前線で向き合うとき,それがまずい指導方法である場合は,たちまちに児童・生徒の眼を曇らせる現実に突き当たる。そして,当惑する。それでもなお,指示された指導方法に拘泥する教員も数多く残るかも知れないが,それらは,必ずいつかは破綻をきたす。愛知の管理主義教育と呼ばれる「規則」ずくめで従順さを装わせる「教育」や,すさまじい競争のオリの中に追い込む愛知の高校入試の複合選抜制度が,いじめ,不登校,無気力,向上意欲の喪失,学校の新たな荒れというようないろいろな形となって矛盾を噴出しているのはその証明である。

 これらは,特定学閥による教育界全体の支配という構造そのものを通して,県教委・地教委などの「上から」もたらされたものによって生じている矛盾である。決して「下から」もたらされたものではない。
 特定学閥による教育界全体の支配を打破しない限り,出世主義は繁殖の場をいつまでも持ち続け,学校をさらに腐らせる。

 この問題こそ,今まで全県民的な批判の的となることから免れ続け,隠微な世界に棲息して,現在まで長年にわたって愛知県の教育界に害悪を流し続けてきた,愛知県のさまざまな教育問題のもっとも根源的な病巣ともいうべき根本問題なのである。
 いくらかの人たちからは勘ぐられるかもしれないが,私たちは「出世できない者たちのねたみ」などという卑俗な低レベルな視角からこの問題を全県民的な批判の俎上にあげようとするものでは断じてない。どこまでも児童・生徒の立場に立って愛知県の教育の蘇生を心から強く願う立場からさまざまな問題を掘り下げていくと,どの視角から迫ってもどうしてもこの問題に突き当たらざるを得ない,これはそれほど根深い問題なのである。

 何かことが起こるとそれは「学校」の問題として取り上げられるのが一般だが,私たちはその際にも,いろいろな学校関係の事件の真相を隠蔽しようとするのは,私たちを含めた「学校」が,ではなく,「学校」の中の管理職を独占する特定学閥が自らの地位の保持・学閥の安泰を何よりも第一に考える姑息で醜い思考回路と行動様式を持っているからであることを,ここでぜひ強調させていただきたい。

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<小項目>同窓会と学閥との区別について

 特定学閥の問題で,ある人の中にはすでに区別がされて認識されているかもしれないが,多くの人たちには大きな誤解を招いているかもしれないので,ここでさらに一言付け加えておいた方がよいだろう。
 私たちが「特定学閥の支配をなくする」,またある時には「特定学閥もその他の学閥も解体する」と言う場合,それは,特定学閥を殺すとか処刑するとかというようなたぐいの空恐ろしいことを言っているのではない。特定学閥についても第二第三の哀れな学閥についても,学閥という存在の仕方そのものをなくする,解体すると言っているのであり,さらに分かりやすく言うならば,学閥という存在を,出身大学を同じくするものが懐かしさをこめて集う単なる普通の大学同窓会の姿にもどすという意味で言っているのである。特定学閥も,学閥問題解決の後には,いくつかの大学同窓会のうちの一つの同窓会として継続し発展していくものであることは言うまでもない。学生時代を懐かしみその後の人生を語り合う心なごむ集いのひとときは,何人たりともそれを奪う権利はない。同窓会という言葉と学閥という言葉は特に区別なく使われる場合が多いが,愛知県の教育界の学閥の問題をここで解き明かそうとする場合には,特に,この混同されて使われる語句の概念を峻別して使用し議論しなければならないのである。それでもまだ,このこと,つまり学閥を解体することに異議を唱えようとする方はおみえだろうか。
 私たちが特定学閥という存在の仕方をなぜ問題にするかというと,それは,愛知県の教員総数の50%そこそこを占めるにすぎない特定の同窓会が,特定学閥を形成して,愛知県の小・中学校の教育界の100%の人事権を握り,教育委員会関係の100%の内部情報を独占し,教育委員会・管理職等の100%〜90%もの割合の地位を独占確保して,県の教育行政の「ブラックボックス」をつくっているからである。これは,他のどの世界の方々が見ても,きわめて公平さと均衡を欠く異常としか言いようがない事態ではないか。この冷厳な打ち消しがたい事実を述べるときに,私たちは単なる同窓会と区別して学閥とか学閥支配と呼ぶのである。この観点にどこに問題があろうか。現に,愛知県のある地域では「○○会」という特定大学の同窓会に,その大学とは別の大学の出身者が「賛助会員」という名前で入っているという。「○○会」という同窓会の賛助会員にならなければ「出世」がおぼつかないからである。このわずか一例を挙げるだけでも,現実の同窓会が純粋な同窓会としてでなく,特別の目的を持った学閥として実際には機能していることの明白な証となるではないか。

 私たちが同窓会と学閥とを区別する観点を明確にしてこれまでに述べてきたことや,学閥の解体ということを述べてきた本意をまだ十分に御理解いただけない方々の中には,「何か自分たちが攻撃されている」と思い違いをして「防衛本能」だけが鋭敏になっておられる方がみえるかも知れない。しかし,決してそうではないということ,私たちはあなた個人に敵愾心を持っているのではないということを正確に理解していただき,時間がかかるかも知れないけれど,どうかご自身のお力で愛知県に特有の特定学閥支配の教育的政治的社会的な問題点をそれぞれの角度から探求されてその不公正さを認識され,ご自身のとるべき適正なスタンスを確定されることを希望するものです。
 そして,日々の同じ職場の中から差別をなくし,互いに出身大学を異にする者どうしが,出身大学の違いを越えて真に対等平等の立場で教育実践をはじめ公私にわたって親しく交流しあえ,気持ちよい職業生活が全うできるようになる日が一日も早くくるように心から希望し,将来的には私たちの主張にご異議がなくなるものと信じ,ここでひとまずわずかばかりの付言を閉じるものです。

  ※【閥】(ばつ)…「出身・利害関係など,何らかの点で共通する人が結んだ排他的な集団」<『大辞林』(第二版)>


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<小項目>希望という名の学校への道−父母県民とともに−

 教職員の創意にあふれた実践が展開されるためには,この愛知県に特有の特定学閥の支配をなくすことにより,あらかじめできあがっている特定学閥を中核とした幾層かの多数派による上意下達のスムーズにみえる流れをまず断ち切り,形骸化された「職員会議」を本来の姿によみがえらせることである。
 そして,その上で,その学校の児童・生徒にとってはどういう教育実践が必要であるかを全教職員が同一線上にたって議論しあい,そのために,さまざまな個性を持った教職員がどう協力しあって実践をすすめるかという観点に立って一致点を広げて実践をし検証をし,さらに実践をしていくしかない。しかし,これでもまだ,一般論に過ぎない。
 世界の子どもの教育と人権尊重の流れは,『子どもの権利条約』に結実されている。今は,そういう歴史的時点にたっているのである。この認識をすべての教職員が持たなければならない。『日本国憲法』『教育基本法』が教育公務員に何を負託しているかということについても絶えず立ち返らなければならない。時代は,子どもたちをいよいよ本格的に学校の主人公として育てていこうということを厳粛に早急に要請しているのである。

 これらの共通のステージにたち,広範な父母県民とともに新しい学校のあり方を模索していく中で,児童・生徒の目がきらきらと輝く生き生きとした学校を創造することは必ずできると確信するものである。


1997年3月12日<XX記>


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