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〜大阪の歴史のページ〜
《update 19.OCT.1997》

このページは「大阪の歴史のページ」です。

   ●府のホームページにある主な項目     1.大阪の歴史と地理      <歴史>       大阪の地は遠く一万年以上も前から人類が住み、生活していた      ことが明らかになっています。5世紀ごろには、朝鮮半島などか      らもたらされた大陸の文化が広まり、大阪が日本の政治・文化の      中心となりました。7世紀には、日本最初の中国の都にならった      都城が大阪に置かれました。       その後、都は近隣の奈良や都に移りましたが、文化・通商の玄      関口としての役割は変わることなく繁栄を続けました。       12世紀の終わり以降、政権が武士の手に渡り戦乱の世となりま      したが、堺は中世のイタリアに見られるような自由都市として発      展しました。       さらに1583年、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、大阪を本拠      地と定め、巨大華麗な大坂城を築城、日本の政治・経済の中心地      となりました。       17世紀には政治の中心は当江戸と呼ばれていた東に移りました      が、大阪は「天下の台所」、つまり全国の経済や物流をとりしき      る所として重要な役割を果たしました。       この時代に、大阪では広く町民を中心とした文化が成熟し、さ      らに、懐徳堂や適塾といった官制の学問にとらわれない私塾によ      る学問も大阪に根を降ろしました。       このようにして、開放的な気風や旺盛な企業家精神が育ち、や      がて近代の大都市となる豊かな地盤がつくられました。       その後、19世紀には、明治維新と近代国家成立に向けての混乱      により大阪商人は非常な打撃を受けましたが、その低迷から脱出、      工業都市として発展を遂げ、近代都市への脱皮を図りました。       第二次世界大戦による空襲の大被害からも立ち上がった大阪は、      日本を代表する商業の都として、流通に、貿易に、工業に大きな      役割を果たしてきました。       そして今、大阪は内外の人・物・情報が交流する世界都市へと      大きく飛躍する代を迎えています。      <地理>     アジア大陸の東に位置する弓のような形をした国、日本。   日本には、都道府県、市町村という2種類の地方自治体があり   ますが、大阪府は都道府県の一つで、日本のほぼ中央部に位置し   ています。       府内は更に33の市、10の町、1の村に分かれています。       面積は約1,890平方キロメートルで全国土の0.5%しかなく、都   道府県で2番目に小さいですが、人口は約880万人と全国の7%を   占め、東京都の次に多くの人が居住しています。       また、大阪には全国の15.6%にあたる約21万人の外国人が居住   しています。       地形は、南北に長く湾曲しており、大阪湾に向かって開けた西   側以外は三方を山地に囲まれています。       気候は、一般的に温和で四季の区別がはっきりしており、年平   均の気温は16.3度、降水量は1318mmです。

    2.四天王寺(大阪市)       南大門から中門・五重塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ四天   王寺式伽藍配置で知られている大寺院で、593年に聖徳太子が開い   た日本最初の官寺です。       度々の戦火、天災にあいましたがその都度再建され、1400年前   の様子を今に伝えています。いずれの宗派にも属さぬ庶民の寺院   として親しまれ、毎月21日には弘法の市がたちます。

    3.住吉大社(大阪市)       航海、武道、和歌の神として古くから崇敬をあつめた神社で、      摂津国一ノ宮の格式を誇り、全国2000余りに及ぶ住吉社の総本宮      です。       4棟ある本殿は檜皮葺き屋根の「住吉造り」と呼ばれるもので      国宝に指定されており、4棟ともが西、つまり海に向かって建て      られています。       朱塗りの太鼓橋は、淀君の寄進と伝えられているものです。

    4.竹内街道(太子町)         竹内街道は、難波津と大和の飛鳥の都を結び、遣隋使や渡来人      が大陸の文化を運んで来た、日本で最初の国道です。       日本書紀によると推古天皇が開いたとされるこの道は、シルク      ロードの延長ともいわれています。       竹内街道歴史資料館では文書や写真、発掘物などの史料が展示      され、映像やパネルで古代へのタイムトラベルが楽しめます。

    5.近つ飛鳥 風土記の丘(河南町)       河南町北部の丘陵地帯には、6〜7世紀の古墳が 250近く点在し      ています。一須賀古墳群を中心に、古墳を巡る遊歩道や展望台も      整備され、「府立近つ飛鳥風土記の丘」という史跡公園になって      います。       公園内に「大阪府立近つ飛鳥博物館」があり、古墳内部の探索      をイメージした館内で、古墳時代から飛鳥時代の歴史や文化を学      べます。

    6.仁徳天皇陵(堺市)       3重の堀をめぐらした前方後円墳で、総面積は46万4123uもあ      り、エジプトクフ王のピラミッドや中国秦の始皇帝陵と並ぶ、世      界三大古墳のひとつに数えられています。       20年の歳月と延べ80万人の労力が費やされており、着工の日、      大きな鹿が天皇の前で突然倒れ、その耳から百舌鳥が飛び立った      ため、百舌鳥耳原中陵とも呼ばれます。       5世紀の仁徳帝の墳墓と伝えられる前方後円墳で、面積では世      界最大。三重の壕に囲まれ、墳丘部の全長は486m、高さは35mに      もなります。

    7.難波宮(大阪市)       大阪城の南に広がる広大な宮跡が難波宮(なにわのみや)跡です。       飛鳥〜奈良時代、2度にわたって造営された宮殿あとで、'93年      に付近から朱雀門とみられる遺構が出土しました。       調査の結果、太極殿跡、十二堂院などが次々と発見されました。      現在では国の指定史跡となり、史跡公園としての整備が進められ      ています。

    8.富田林寺内町(富田林市)       寺内町は、元禄年間、真宗寺院を中心に造られた宗教自治都市      で、碁盤の目状に大きな家と蔵が建ち並んでいます。町の医院や      仏壇店など、多くの古い家が現役で使われていて、広い間口や紋      入りの瓦が、商家独特の重厚な雰囲気を漂わせています。       寺内町最古の旧杉山住宅は、江戸時代中期の建築で、内部が一      般に公開されています。

    9.大阪府立弥生文化博物館(和泉市)       全国各地から弥生時代のみの考古資料を収集、1つの時代に限      定した世界初の博物館。館内は第1展示室「目で見る弥生文化」、       第2展示室「泉州の歴史と文化」、特別展示室の3室から構成      されており、稲作の伝来、土地や水をめぐっての戦乱など、日本      文化のターニングポイントとしての弥生時代をハイテクを駆使し      ながら学べます。

    10.大阪城       大阪のシンボル大阪城は、天正11年(1583)豊臣秀吉の命で4      万人の人手と2年7カ月の歳月を費やして完成したといわれていま      す。       大坂夏の陣と落雷で過去に2度消失し、現在の天守閣は昭和6      年(1931)に再建されました。5層8階の内部は大阪城の歴史を紹      介する博物館になっており、3階には黄金の茶室も復元されてい      ます。       1585年、豊臣秀吉が築いた城は、後の戦乱で焼失。現在の天守      閣は1931年、市民の寄付により再建されたものですが、今も大阪      のシンボルとして人々に親しまれています。

    11.適塾(大阪市)       著名な蘭学者、緒方洪庵が1843年に開いた私塾。       全国から英才が集まり巣立っていきました。       卒業生の一人福沢諭吉の肖像は紙幣に刷られています。

    12.泉布館(大阪市)       イギリスの建築家によって1871年に建てられた日本最古の西洋      建築物。造幣局の迎賓館として使用されていました。

    13.銅鐸(羽曳野市)       今から約2000年前に儀式で使われた青銅製の鐘。時代につれ、      実用から離れてシンボル的なものとなりました。

    14.大阪府章       太閤さんの「千成びょうたん」を図案化したものです。      大阪(OSAKA)の「O」を基礎にして、希望(明るく)繁栄      (豊かで)調和(住みよい)を上に伸びる3つの円で表わしています。      昭和43年6月21日の「府政100年の日」に定められました。

    15.大阪の鳥 もず       翼長9cmの小さな鳥。       いろいろな鳥の鳴き真似が上手で、「百舌」と書きます。       堺市にある「百舌鳥」の地名は、「仁徳陵築造の際、倒れた鹿      の耳からもずが飛び去ったことから『百舌鳥耳原』とした」(日      本書紀)のが由来。鳥獣保護シンボルとして昭和40年6月に府民      投票で決まりました。

    16.大阪の木 いちょう       「ちちのき」とも呼ばれ、春は明るい新緑、秋は黄葉となる美      しい木。氷河代を生きのびた「生きた化石」です。       御堂筋の並木は大阪を代表する景観。       実の「ギンナン」は食用になります。       「国土を緑に」の運動の1つとして、昭和41年10月に府民投票      で決まりました。

    17.大阪の花 うめ       2月から3月にかけて紅白の清々しい花を咲かせます。       古今和歌集に「難波津に咲くやこの花…」と詠まれるなど、大      阪にゆかりの深い花です。       枚岡公園や大阪城公園の梅林は府民の憩いの場として親しまれ      ています。       原産地は中国。       「まちを花いっぱいに」と昭和63年1月に花木の中から府民投      票で決まりました。

    18.大阪の花 さくらそう       11月から6月にかけてピンクや白の可憐な花をつけます。       花言葉は「希望・青春」で、若い人に人気が高い花です。       原産地は日本、中国、欧州。府内では、金剛山麓に「クリンソ      ウ」という原生種が自生しています。       「まちを花いっぱいに」と昭和63年1月に草花の中から府民投      票で決まりました。

    19.「おおさか ふれ愛 夢づくり」府民運動シンボルマーク       卵は、大阪のOをイメージしたもので、色も水都大阪の水を象      徴するブルーを採用しています。       これは、生命、若々しさ、可能性、やさしさを象徴しています。       赤い丸は、新しい誕生、あたたかさやエネルギーを表わし、新      しいふれあいと魅力や夢にちた大阪を創造するエネルギーを象徴      しています。

    20.なみはや国体シンボルマーク       国体マークに「おおさか ふれあい 夢づくり」を合言葉とす      る府民運動のマークを配置したことによって、府民が国体を支え      ているイメージを表現しています。

    21.なみはや国体マスコット “モッピー”       大阪の鳥「もず」をモチーフにデザインされた、元気でのびの      びとしたマスコットです。       名前の「モッピー」には、「ハッピー」や「ピース」の意味も      含められています。


   ●出題が予想されるもの(『県史27大阪府の歴史』より)

    1.いわゆる大化の改新(645年)後、難波の地に難波長柄豊崎 宮が営造された。       この豊崎宮は天武天皇の朱鳥元(686)年に焼亡したが、後 に聖武天皇のときに同じ地に再建された。    長岡京遷都(784年)まで、難波宮は首都あるいは副都とし     て政治的にも外交のうえにおいても重要な役割をになっていた。

   2.「ナニワ」の語源について、日本書紀の記す語源説は上町台地     東側に大阪湾と結ぶ広大な湖や入江があった古代に、その水が潮     汐の干満時に大阪湾に流入するときの状況を示したもの、即ち「     奔流のために航行困難である」という意味から浪速(なみはや)     が訛って難波(なにわ)となったとある。

   3.戦国時代から近世初期にかけて、一向宗(浄土真宗)寺院の境     内に成立した町を寺内町という。      一般に神社・寺院を中心として、その周囲ことに正面に成立し     た町は門前町と呼ぶが、寺内町は最初から寺院の境内に町家をつ     つみこんだもので、町全体が広い意味の境内であり、国家や封建     領主に対する年貢・地子(じし)などの公租を免除された。    全国でおよそ30カ所ばかりの存在が知られているが、代表的     な例は摂津石山本願寺寺内町や和泉貝塚寺内町がある。

   4.文明元(1469)年に帰朝した遣明船が入港して以降、堺は     遣明船の発着地となった。      堺では15世紀末以降、屋敷の奥に蔵と考えられるせん列建物     が出現する。日明貿易などによる富が堺の町並みに変化をもたら     したのである。

   5.菱垣廻船は元和年間(1615〜24)に堺の商人らが、日用     品を積み込んで江戸に回航したのが最初であるが、商業の隆盛に     伴いしだいに発達して定期船になり、寛永元(1624)年には     江戸大廻船問屋がおかれ、同13年には大坂に廻船年寄10人を     命じて取り締まりを行わせた。船腹に菱形の竹垣を組み立ててい     たので、この名がある。

   6.米市場は大坂堂島のほか、江戸・京都・大津・下関などでも開     かれたが、堂島米市場は全国市場の中核であり、その米市場は全     国の基準となって堂島の米相場は飛脚便で各地に伝えられたが、     やがて仲買人らは取引所前の家の屋根に樓(やぐら)を設置し、     ほぼ3里(約11.8q)ごとに受場(中継場;うけば)を設け、あ     らかじめ決められた信号により大旗を振ってリレー式に各地に伝     えた。      これを「旗振り通信」といったが、夜間には提灯も用いられ、     天候不順で旗や提灯の明かりがみえないときには伝書鳩も用いら     れた。      大坂が「水の都」「天下の台所」のほか「諸色値段・相場の元     方」ともよばれたのは、こうした基本的な米相場が堂島でたてら     れ、全国の基準になったためである。

   7.近世大坂の三大市場といえば、堂島米市場、天満青物市場、雑     喉場(さこば)魚市場。いずれも「天下の台所」大坂三郷の流通・     経済基盤であるが、この三郷の南に隣接する東成郡天王寺村(大     阪市天王寺区)に、いま一つの大市場があった。      「毎年霜月に牛市あり。」天王寺牛市がそれである。      明治維新後の廃止まで摂津及び河内・和泉・播磨の四カ国への     農耕用牛の流通に重要な役割を演じた。

   8.町人学者として知られた山片蟠桃は、その著「夢ノ代」に「今     の諸侯、米価何程貴(たか)しと雖(いえど)も国用足らず、故に三     年・五年の貢物税を一年に得るとも補ふべからず。近年だんだん     天下の金銀多くなりて、その半ばは大坂にあり。ゆへに天下これ     を富饒(ふぎょう)の地とす。東西の諸侯、みな大坂に借りて用を     弁ず」と、諸藩財政運用の実権が大坂町人によってにぎられてい     ることを記している。

   9.江戸時代初期の代表的な大坂町人は門閥特権商人で、末吉家や     淀屋は大坂の陣のとき徳川方の軍需商人として活躍した家柄であ     り、その後「大坂の三町人」とよばれる三郷惣年寄の上位にあっ     て幕府から最高の特権と格式を付与された尼崎・寺島・山村の三     家も、大坂の陣のとき徳川方として働いたり、もともと徳川氏と     縁故が深かったものたちであった。

   10.浄瑠璃操芝居(人形浄瑠璃)は明暦(1655〜58)の頃、京都に本     拠をおく伊藤出羽掾(でわのじょう)や井上播磨掾の座が大坂で興     業していたが、竹本義太夫が大坂独自の義太夫節を創始して、貞     享元(1684)年5月、大坂道頓堀に新興浄瑠璃竹本座の旗揚げを     した。      地味で堅実な芸風は大坂町人らから好評を得て黄金時代をきず     いたが、その繁盛は座付作者の近松門左衛門に負うところが大き     かった。

11.竹本義太夫の門弟竹本采女(うねめ)も、元禄16年に豊竹若     太夫と改称して道頓堀に豊竹座の樓(やぐら)を揚げ、竹本座と     並んで庶民大衆から親しまれた。      その座付作者として竹本座の近松に対抗したのは、文芸家・狂     歌師として知られた鯛屋貞柳(たいやていりゅう)の弟にあたる     紀海音(きのかいおん)である。      近松の主情的な作風に対して主知的なものを得意とし、「鎌倉     三代記」「傾城無間鐘」「八百屋お七」などの傑作をものして浄     瑠璃界の興隆につとめた。

   12.竹本座は宝歴7年(1757)に火災にあったうえ経営の不調も重     なって明和3年(1766)12月に閉鎖し、一時再興したものの、     寛政(1789〜1801)の初年には姿を消し、豊竹座もまた明和2年     に一時閉鎖され、再開後も人形浄瑠璃は不調であった。      それを蘇生させるきっかけをなしたのは、初代植村文楽軒で、     「人形浄瑠璃文楽」の名称はここにはじまる。

   13.儒学を懐徳堂の中井竹山・履軒に学び「中井門の孔明」と称さ       れた山片蟠桃は、当時大坂財界の中堅どころであった升屋の大番       頭で、通称を升屋小右衛門といい、号の「蟠桃」は「番頭」をも じったものという。      天文暦学を麻田剛立に学んだ実学者で、彼の該博な知識を基礎     にした現実的な合理主義は、一切の神秘主義を排除し、神代史に     はじまる日本歴史の批判から無鬼論(無神論)に到達した。       一九年の歳月をついやして書きあげたライフワーク「夢ノ代」  は、天文・地理・神代・歴代・制度・経済・経論・雑書・異端・      無鬼・雑論の11部からなる。       論述は一貫した合理主義。地動説を確信して大宇宙論を展開し、      一切の神秘主義を排撃。建国神話を疑問視して無鬼論を展開する      など、日本近代史学・唯物論の代表的先覚者、関西における洋学      の祖とされている。

   14.半官半民の学問所懐徳堂は、享保9年(1724)11月に中井甃       庵(しゅうあん)が三星屋武右衛門・道明寺屋吉左衛門・舟橋屋         四郎右衛門・備前屋吉兵衛・鴻池屋又四郎という五人の町人(五      同士)と協力して、師の三宅石庵のため尼崎1丁目に学舎を建て、     町人らに開放したもの。       享保11年には幕府の許可を得、官許の学問所となって学舎を      増築し、学主で教授をかねた三宅石庵以下、並河誠所・井上赤水・      五井蘭州らの助講、中井甃庵の学問所預りという顔ぶれで、五同      士が支配人として運営にあたった。

   15.天保〜弘化(1830〜48)には、緒方洪庵が適塾を開いて蘭学・       医学を教授し、大村益次郎・大鳥圭介・福沢諭吉ら幕末から明治         維新にかけて多数の俊秀・先覚者を世に送った。       また、大坂東町奉行与力で陽明学でもあった大塩平八郎が、先      心洞を開いて子弟に教授したことはよく知られている。

   16.緒方洪庵は、蘭学者であり、また医学者・教育者であった。       大坂に出て瓦町で開業し、医業のかたわら蘭学塾「適々斎塾」      を開いた。略して「適塾」という。その後塾は、過書町に移転。

   17.大坂夏の陣ののち、様々な所領配置により、現在の大阪府域に      相当する摂津八群及び河内・和泉の三国には、近世のはじめから      いくつかの町が生まれたが、大藩が置かれなかったため、城下町      として存続したのは摂津国高槻と和泉国岸和田だけであった。

  18.中世末期に形成された寺内町のうち、北河内の招提寺内、南河     内の富田林寺内・大ケ塚寺内、中河内の久宝寺寺内・八尾寺内は、     支配権を返上するなど、いずれも寺内町の特性である地子(ちし)     ・諸役免許の特典を失い、在郷町へと変貌している。

   19.そうしたなかにあって、和泉国貝塚寺内では、慶長7年に本願      寺が東西に分裂したのちも一派にかたよらず、中心となる御坊六      代住職卜半了友(ぼくはんりょうゆう)以後歴代、日光山輪王寺      で得度して卜半真教院と称し、御坊願泉寺の住職であるとともに、      封建領主として寺内町の特権を維持しながら寺内の地頭をかねた。

   20.大坂の高麗橋付近を起点とする紀伊和歌山への道は紀州街道と      よばれ、紀伊和歌山藩主の徳川頼宣(よりのぶ)が参勤交代の便      と軍事上の必要から、元和元年に代改修を行わせ、東に並行する      熊野街道とともに和泉国の幹線道路となり、交通・産業の発達を      促した。

   21.貝塚の岩崎善兵衛が制作した「窺天儀」という天体望遠鏡は、      伊能忠敬の日本沿海測量に用いられ、その優秀さをたたえられた。

   22.天保8年、市民の困窮をみた元大坂東町奉行与力で、陽明学者      としても著名な大塩平八郎は、蔵書をすべて売り払った資金 620      両を貧民らに施行した。       ついで、2月19日には、市政の最高責任者である大坂東町奉      行跡部良弼(あとべよしすけ)が、困窮民の苦しみをよそに悪徳      特権商人と結びつき私利を追求しているとして、懲らしめのため      自宅に放火して「救民」を旗印に門弟らと挙兵したが、その際に      配布した檄文には「一揆蜂起の企て」でもなく、「天下国家を簒      盗(さんとう;盗み取る)致し候慾念」から事をおこすのでない、     と名言している。       計画は事前に漏れ、挙兵に参加したものはわずか300余人に      すぎず、半日たらずで鎮圧されてしまったが、元幕府の役人がお      こした反乱の影響は大きかった。       この騒動によって天満・北浜を中心に、大坂の市街地の約5分      の1にあたる1万8250戸が焼け、俗に「大塩焼け」といわれ      る大火の記録を残した。

   23.慶応4年1月22日には大阪鎮台(ちんだい)が任命された。長      官である督には醍醐忠順と伊達宗城とが任命されたが、この二人      の大阪着任にさきだつ1月27日に、大阪鎮台は大阪裁判所に改め      られた。大阪裁判所の長官は醍醐と伊達であったが、伊達は外国      事務科の総督もかねていた。       大阪裁判所は民政をあつかったが、その管轄地は大阪と堺の市      街地及び旧代官小堀数馬支配地であった。2月には旧代官内海多      次郎支配地を編入した。

   24.維新直後の大阪地方は、大阪市街地と堺の市街地が新政府の直      轄地であったが、慶応4年5月2日には大阪府が、6月22日には      堺県が設置された。また、藩領以外のものはしだいに大阪府など      に加えられた。なお、元号が慶応から明治に改元(一世一元の制)      されたのは、慶応4年9月8日のことであった。       6月には大阪府に司農局が設置され、郡部の行政を管理したが、      7月8日に南北にわかれ、北司農局は摂津を、南司農局は河内を      管轄した。       明治2年1月20日、北司農局は摂津県に、南司農局は河内県と      なった。大阪府は大阪市街地だけになってしまったのである。       そして、同年5月10日摂津県は豊崎県と改称したが、同年8月      2日に至り、摂津県は廃止されて兵庫県に吸収され、同時に河内      県も廃止され堺県に吸収された。      なお、兵庫県に吸収された部分のうち、大阪市街地に接続する      住吉・西成・東成郡は9月に大阪府へ戻された。

   25.明治2年6月17日の版籍奉還、明治4年7月14日の廃藩置県に      よって、大阪地域にあった高槻藩・麻田藩・岸和田藩・伯太藩・      狭山藩・丹南藩はそのまま県となり、各藩の飛地も各県領となっ      たが、それらは4年11月までに整理統合され、大阪府は摂津のう      ち7郡(西成・東成・住吉・豊島・島上・島下・能勢)、堺県は      明治9年4月に奈良県を統合したので、河内・和泉に加えて大和      をも管轄したが14年2月にはその堺県が大阪府に吸収合併された       このため、この当時の大阪府の領域は、大和・河内・和泉・摂      津7郡を擁する広大な地域となった。       やがて、旧奈良県の人々は奈良県再置運動を行い、明治20年11      月にいたってようやく奈良県再置が実現した。

   26.安政5年(1858)に結ばれた日米修好通商条約では、1863年1      月1日に兵庫・大阪を開港・開市するとしていたが、これには、      攘夷派の反対が激しく、結局は5年間延長された。       5年目にあたる慶応3年12月7日(1868年1月1日)、予定ど      おり兵庫(神戸)の開港と大阪の開市が行われた。       開市というのは貿易などのため外国人がその地にきて逗留する      ことで、当時、貿易のための船が接岸することができなかった。       大阪が開港でなく開市地になったことについては諸外国に不満      があり、新政府に対して開港をせまったので、新政府も慶応4年      7月15日をもって大阪の開港にふみきった。       なお、元号が慶応から明治に改元(一世一元の制)されたのは、      慶応4年9月8日のことであった。

   27.新政府は、諸外国からお雇い外国人らを高給で招くなどして、      急速な西欧の新知識・技術の導入、文物の輸入に力をつくした。       大阪城と大川をはさむ対岸に造幣局が建設された。造幣局は、      明治4年2月15日に開業したが、その工場群を設計したのは、      イギリス人ウォートルスで、彼はその後銀座のレンガ街を設計す      るなど、西洋建築の導入に影響を残した。       造幣局では、金属の精錬などに必要な化学薬品も製造した。       硫酸、硝酸、曹達などである。       また、ガスも製造され、構内にはガス灯が配置され、夜ともな      ればその明かりを見物するものがいたという。       造幣局のお雇い外国人のなかには、複式簿記を導入したブラガ、      日本考古学の父と称されたゴウランドら、大きな文化的影響をあ      たえた人物もいた。

   28.大阪城の近くには舎密局(せいみつきょく)が、明治2年5月      に開校した。       教頭となったのは、オランダ人ハラタマである。       「舎密」とは、物理、化学のことであり、幕府が江戸につくる      予定であったのを、新政府が大阪に転じたのである。       舎密局はその後名称の変化があり、最終的には第三高等学校(      旧制)となって京都に移った。現在の京都大学の前身の一つであ      る。

29.大阪病院も同様に江戸につくる予定が大阪に変更されたもので      ある。大阪病院にはオランダ陸軍軍医のボードインが勤務した。       明治元年12月には仮病院ができているが、のちに大福寺に移り      さらに鈴木町に移転した。最終的には、阪大医学部になる。       また、大阪城の青屋口には造兵司がおかれたが、のちの大阪砲      兵工廠(陸軍造兵廠)と改称し、昭和20年8月14日に米軍の大空      襲をうけるまで日本陸軍の兵器工場として稼動した。

   30.大阪の西には居留置があり、ここには外国人たちの生活が展開      されて、欧米の生活様式を実見することができた。       居留置の近くにはクリーニング屋・洋服商・ホテルなどができ、      新しい風俗が大阪に流入した。       貿易の不振で外国商人たちが川口をさったあとにはキリスト教      関係者が学校をつくったので、川口は宗教と教育の町に変貌した。

   31.居留置と川をへだてた江之子島には、明治7年に造幣局首長キ      ンドルの設計によって府庁がたてられた。知事の公邸もも居留置      に隣接する雑居地にあった。

   32.明治8年(1875)年1月〜2月にかけて、憲政史上有名な大阪      会議が行われた。       それは、当時政府から離れていた長州閥の木戸孝允(たかよし)      野にくだっていた土佐の板垣退助、それに政府の実力者である大      久保利通の三者のあいだで、大阪北浜の加賀井楼(かがいろう)      で開催された会議であり、木戸・板垣の政府復帰と大審院の設置      や立憲体制への方向が合意された。       この会議を記念して参加者が揮毫(きごう)し、加賀井楼の名      を、花外楼(かがいろう)とした故事は有名である。

   33.明治6年8月に大阪府の公園として、箕面山・四天王寺境内・      住吉神社境内が指定された。       これが、大阪府の公園の発祥である。       箕面山については、大阪や神戸の居留置に住んでいた外国人の     避暑地・保養地ともなっていた。箕面の滝がその中心であった。       また、同年12月には浜寺も公園地となった。

   34.日本を代表する新聞である「朝日新聞」と「毎日新聞」はとも      に大阪で生まれた新聞である。       当時政治的な論戦を張った新聞を大新聞といい、「毎日新聞」      の前身である「大阪日報」は正に大新聞で民権論を主張した新聞      であった。そのため幾度か発行停止処分になり、責任者は罰金や      禁固刑に処せられた。       「朝日新聞」は総振り仮名つきの小新聞として出発し、しだい      に大きく成長した。

   35.大正14年(1925)4月1日には大阪市の第二次市域拡張が行わ      れた。この日東成郡と西成郡の44カ町村が大阪市に編入された。       人口211万4804人・面積181.68q2となり、東京市の199万5567人      を抑えて全国一の人口となった(東京市は昭和7年10月の大合併      で551万人余りとなり、全国一となった)。      この拡張された大阪市を大大阪とよんだ。       この第二次大阪市域拡張を行ったのが、第7代大阪市長の関一     (せきはじめ)である。       御堂筋の拡張などの第一次計画事業もそのひとつで、当時大阪      市の工業生産は全国一であり、その豊かな経済力を背景にして、      つぎつぎと都市基盤の整備が行われた。       そのなかでも御堂筋の拡張整備と高速鉄道(地下鉄)の建設、      中央卸売市場の創出は画期的なものであった。       また、昭和天皇の即位を記念して、市民の寄付によって大阪城      天守閣を再建復旧したことも特筆される。

   36.豊能郡豊津小学校の吉岡藤子と横山仁和子訓導は、2階建ての   南校舎が倒壊したときに、校舎の下敷きになりながらも、吉岡訓 導は5人の児童を、横山訓導は3人の児童をかばって命を救った      が、2人の訓導は圧死した。      この美談は全国に伝わり、教師の鑑として賞賛された。これを     きっかけに、明治5年(1872)の学制実施以来、遭難死亡した児     童・生徒・学生及び殉職教員を慰霊する教育塔が、昭和10年10月     に大阪城大手前広場の一角に設けられた。


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