官行全景

大夕張官行全景

(昭和40年頃) @@@クリックすると拡大表示されます@@@


 850山頂から父が撮影した写真。左手に官行方面,右手の黒々としたところが炭住街。官行には,発電所・メタノール工場,営林署主夕張事業所,貯木場,チップ工場などがありました。メタノールを輸送する為に三菱大夕張鉄道の側線が伸びていました。昭和5年開砿の拠点になったところでした。昭和30年の戸数80戸,人口438人。昭和34年にはメタノール工場の設置。昭和45年には,戸数52戸,人口188人だったそうです。昭和44年,「北に栄える町」の意味で鹿島北栄町になりました。昭和48年に閉山の後,昭和51年には貯木場も閉鎖され,砿業所の建物はイサオ製作所の工場となりました。閉山後程なくして住民はいなくなりました。
 大夕張の工場地帯。夏には,砂埃の舞う道を川へ魚釣りや昆虫とりに,学校の遠足にと私にとっては自然とのふれあいも記憶に多いところでした。

【みなさんからの投稿より

(104)懐かしいですね。  投稿者:斎藤敏幸  投稿日:平成10年02月23日(月)19時56分55秒

 目黒さんの投稿を読んで、官行の呼び名が初音沢であることを
初めて知りました。大夕張には、18年間住んでいましたが、初音
沢という地区名は知りませんでした。
 初音沢には沢山同級生がいました。白鳥君、峰岸さん、それと多
分目黒さんのお兄さんとも同級生であったと思います。
 こうして、身近で関わりのあった人たちと再会できるのは、とても
うれしいですね。
 これからも、懐かしい色んな人たちと出会うのが楽しみです。
 これからも、飯田さんのH.Pを通じて沢山の懐かしい人たちと再会したいですね。

(103)初音沢地区について  投稿者:目黒則男  投稿日:平成10年02月23日(月)00時42分53秒

最初に、2月21日の私の投稿が、手違いによりダブってしまったことを
お詫びします。
飯田さんの指摘があったように、官行=初音沢(はつねざわ)です。
我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていた
ようです。
チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたり
を初音沢(官行)と呼んでいました。
私の父が炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に
住んでいました。通学には大変苦労した記憶があります。
大雪の日には朝早くおきて、腰まで雪につかって歩いていった思い出が今でも
忘れられません。
山や川で遊んだ子供の頃のことが今でもときどき走馬燈のように私の頭の中を
駆けめぐっていきます。
もう二度といけない場所とわかっているだけに、よけい走馬燈の光も強く感じ
ます。

(102)初音沢  投稿者:飯田 雅人  投稿日:平成10年02月22日(日)18時03分03秒

初音沢地区(はつねさわ?)というと,ぼた山や発電所などがあったほうでしょうか。
官行(かんこう)とは違うのでしょうか。どのあたりをいったのでしょう。
確か鹿島小学校の郷土室の写真のキャプションには,チップ工場やその他にも工場が
あったと書かれていました。
私の父は昭和47年1月に46歳で炭坑病院でなくなりました。
私にとって父との別れが大夕張との完全な別れになりました。
その父が,独身の頃写した写真をよく見るのですが炭坑病院の裏手のほうにあった吊
り橋や,吊り橋をわたったところののどかな山の風景が写っています。
いまとなってはどこの場所なのかわからないのですが,病院裏の吊り橋をわたって,
昼休みによく職員で遊びに行ったというのです。
私の記憶の中でも父が若い頃いったというその場所も思いあたりません。

私は生れてから15年大夕張で過ごしたのですが,故郷のことを意外に知らないでいたと
いうことを今になって思い知らされます。

(101)大夕張への想い  投稿者:目黒則男  投稿日:平成10年02月21日(土)23時58分12秒

昨年6月、父の病気のお見舞いのため、静岡から札幌の実家を訪れました。
そのおりに母から、「鹿島小学校が廃校になるみたいだよ。」と聞かされた。
続けて、「大きなダムができて大夕張が沈むみたいだよ。」の言葉に一瞬
なんのことか、すぐには理解できませんでした。私が18歳の頃大夕張から
札幌へ引っ越したのですが、望郷の念は40歳を過ぎた現在でも少しも
色あせていません。
若い頃は帰省の度に大夕張へ足を向けていました。
明石駅、千歳駅、岳富町商店街の通り、鹿島小学校、大夕張駅前、購買会など
が並ぶ商店街、炭鉱病院、炭山駅、の順番でとおり、メタノール工場を右手
にみて、さらにシュウパロ川?沿いの山道を2キロほど行くと、生まれ育った
初音沢地区に到着というのが、その頃のお決まりのコースでした。
5年ほど前に家族を連れて訪れたのが最後で、その時はメタノール工場より
先は通行止めでした。
今度は大夕張全部が通行止めになるんですね。
そんな想いをいだきながら、昨年の8月頃「ダメもと」のつもりで検索ソフト
にて『大夕張』を入力してみて飯田さんのホームページが現れた時は
ものすごく感動しました。
父はその後、9月に他界しました。病院のベッドの上でよく、「もう一度
大夕張をみてみたいなあ。」と言っていました。父にとって、大夕張へは25
年間行ってないことになるんだなあと、複雑な想いをいだきました。
飯田さん、これからも大夕張出身者の架け橋となって頑張ってください。

【平成10年夏 官行】
夏の暑い一日・・・・。シューパロ川のせせらぎと,指を伸ばせばいくらでもよってくるとんぼの群れが印象的な夏でした。
上の写真は発電所の前からかつて営林署の貯木場があった辺り。
下の写真では,道路の右手にメタノール工場とポンプ場があります。この道は小学生の頃の遠足の道でした。今はこの先で車止めと草木が先を遮っています。この写真では良く見えませんが,道路の左手に当時の赤く錆び付いた40k制限の道路標識が朽ち折れて立っていました。

この向こうにシューパロ川が流れる 右手下の取水堰からシューパロ川の流れの音が大きく聞こえてくる・・・。

八百五十 八百五十山頂より 夕張岳とメタノール工場 大夕張炭山駅 初音沢(1) 


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