(1197)比志先生 投稿者:田中 紀子 投稿日:04月29日(日)22時29分39秒
美術の比志先生なつかしいお名前、先生の油絵を2枚20号、10号を 持っております、実にそのとうり、「夕張岳の美しい自然」を描かれた 絵です、部屋にかけていると、いつもそこは、あの汽車通して列車の窓 から見るシューパロ湖と向こう岸には赤い林鉄の橋其の向こうに、 そびえる夕張岳、この絵を見て今は無き故郷を思い出しております、 幾つになっても、幼い頃の想い出は眼に焼きついております、 確か鹿島中の閉校式でお会いしましたが、 お元気でしょうか? 先生の絵のご指導のお陰でしょうか今同期生の大久保正義さん遠藤宜世さんが 大変素晴らしい絵を描かれてご活躍しております、 先生の素晴らしさとあの大夕張の自然が豊かな感性を育んでくれたのは 確かでしょう。なんと素晴らしい故郷よ、街わ無くとも心にはあの頃の町並が 確かに浮かんできます。
(1195)九人の乙女と吉田様の思い出の続き 投稿者:小野 美音子 投稿日:04月28日(土)10時06分07秒
奥山様、ヒロ様のおっしゃる通り想い出の列車には皆様の念がこもっている ので新参者の私でも、「近日中に金具を返さなければ御陀仏じゃ〜!」と、 叫び、警備員を送りたいところですが・・親戚からもらったニセの警備プレー トで、自宅の空き巣を防いでいるのが精一杯の実情で、力になれず残念です。 久々湊様、弟様が“94年に受賞なさったのは、世界的にも権威のある賞 なのではないでしょうか。 御活躍をお祈りしております 九人の乙女や吉田先生の事で、田中様や池田様とお話が合い、嬉しいです。 田中様、吉田先生の立派なのは、想像がつきます。冴子先生も真面目な方と 伺っております。家の裏にお住まいだったので、おばさんが、時々 とうきびなどの野菜を若夫婦のために運ばれましたが、少量で間に合うため 余った野菜を、子供でワイワイしている我が家へ置いて行って下さったのが お付合いのはじまりです。農作業で忙しいのに、息子さん達への愛情と 心配りが感じられました。あの苺やとうきびは最高に美味しかったです。 吉田先生へ田中様のもプリントしていずれ送りたいと思っております。 池田様、真岡の鉄道官舎でお生まれとは驚きました。私の祖父は室蘭で 鉄道員でした。伊藤千枝様ら九人の乙女はひたむきで優秀だったのでしょう。 せっかく終戦になったのに自決した、というより自決をするよう洗脳 されていった悲劇に、軍部の暗影を感じます。戦争が長引くにつれ、民間の 郵便業務は減り、彼女達は軍の暗号電文を正確に必死に打ったのでしょう。 生き残れば対露戦略の失策なども明らかになるかもしれないので 犠牲になったのではないかと思います。 私も大夕張の方とこのようなお話ができると思っていなかったので 池田様と同じく不思議な御縁を感じております。 これですっかり私も年○りの仲間かしら? いえ 田中様、池田様が40代の仲間ですよね。 大夕張幼稚園中退様、私は小、中、高、途中でやめ、別のところから ひそかに出ました。改行にめげずにお話しお聞かせください。 私は飯田様に何回も直してもらいました。『・・様』を入れずに呼び捨て 状態で投稿してしまった時はアセリまくりました。 お互いめげないことを長所にしていきましょう。
(1194)せりふ は? 投稿者:内川 准一 投稿日:04月27日(金)19時35分14秒
七夕の夜の想い出 「ろうそく出せ、出せよ 出さないと かっちゃくぞ おまけに 食いつくぞ」 と、言っていたような? 幼稚園の卒業の歌 「お滑り台も ブランコも お庭のお花も さようなら 私は、もうじき 一年生 さよなら さよなら 幼稚園」 と、歌ったような。
(1193)なつかし、なつかし 投稿者:大夕張第2幼稚園中退 投稿日:04月27日(金)01時13分05秒
ひょんなことで本ホームページに突入。昭和43-44年頃、父が営林署に勤めていた 関係で営林署の上の官舎に住んでいました。 本ホームページの千年町の住宅地図に自分の家の名前を見つけてびっくり。 大夕張で幼稚園に入園、第2幼稚園というキリスト教系の幼稚園に入園。 当時千年町からは確か夕鉄バスに乗って通ってました。時々、観光バスタイプのバス で「しゃくなげ号」とか名前のついたバスが走っており、そのバスに乗れたときは 非常に喜んでいたような気がします。 また、夏か秋、お祭りか何かの時に子供たちで提灯をぶら下げ、各家を「ろーそく ちょーだい!」と合唱しながら練り歩いた記憶があります。10才で内地に移動し、 今も東京住まいですが、私のふるさとは北海道、そして大夕張がもの心のついた 最初の場所です...
(1192)南部の夜 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月22日(日)19時21分49秒
昨日の三菱大夕張鉄道保存会、シューパロ塾総会の参加ご苦労様でした。 午前中に客車のシートを外し簡単な作業を行いましたが、ラッセルに続き客車 にも白く鮮やかな三菱マークが甦りました。 総会では厳しい意見も出されましたが、それだけ活動に対する期待が大きいも のと受取り本年度の活動を進めたいと思います。 総会後は飯田さんの投稿の通り「張張」での懇親会になりましたが、大夕張出 身者も多く、古里の話題に南部の夜は更けていきました。 夏には客車を簡易宿泊所として夕張オフ会も楽しいのではと思いもしました。 飯田さん、お忙しいところありがとうございました。伊藤事務局長お世話にな りました。
(1191)南部の出来事 投稿者:飯田雅人 投稿日:04月22日(日)16時54分02秒
昨日,南部のコミュニティーセンターで,3:00より三菱大夕張鉄道保存会, 5:00からシューパロ塾の総会があり,出席させていただきました。 保存会は,月一回の補修活動を中心に,シューパロ塾は「ダニ峠探検会」や 「化石採集体験」等大夕張地域の歴史を学ぶ体験会の開催など,年間計画が決まりました。 (詳しくは後日保存会やシューパロ塾のページに掲載されると思います。) 自分の気持ちとしてはふるさとの歴史を学び,大夕張へのエールを送るつもりで,今年も どれだけ参加できるかわかりませんが,出席させてもらおうと思っています。よろしくお 願いします。 6:00からは南部の居酒屋「張張」での懇親会。「張張」は,大夕張では平成2年頃よ りあの池田屋さんのあった場所で開業していた居酒屋で,ダム工事に伴い南部に移転し てきた店です。 その店で正木先生,山影さん,伊藤さんを始め南部地区の多くの方々と温かな,楽しい ときを共にすることができました。ありがとうございます。 (追記)---------------------------------------------------------------------- 小学館の『各駅ネット』というサイトで,「南大夕張駅」が取り上げられ,大夕張地区 の歴史や大夕張鉄道の客車の保存活動について紹介されています。ここの掲示板などで 参加してくださっている方々の協力で完成しました。ぜひご覧になってください。
(1190)久々湊さんへ 投稿者:片山利明 投稿日:04月21日(土)12時54分20秒
お返事、どうも有り難う御座います。 義隆くんとは、小学1〜3年まで、毎日の様に遊んでいました。 場所がうろ覚えですが、線路伝いにあった親戚の家にも (確かハンコ屋さんだった気がしますが、『久々湊』と大きな看板が有りました) 良く遊びに行きました。このページで始めて知り合いを見付けることが出来、 感激しております。
(1189)塩狩峠のロケの合間 投稿者:石原 賢治 投稿日:04月20日(金)23時58分42秒
下の投稿に関しまして。世の中には悪い人もいるんですかね? 奥山さん達、気を落とさず頑張って下さい。 先月の投稿で、塩狩峠の書き込みが多々ありましたね。わたしも、ひと言。 ちょうどロケの時、池田屋食堂にラーメンを食べに行ったんです。 勿論、ロケがあるなんて知りませんでしたし、頻繁に池田屋さんに行っていた 訳でないのでほんとうに偶然でした。 当日は3月の中旬で雪が激しく降っていました。 店に入るとわんさか人がいるわで商売繁盛ね、なんて思いましたら あの新克利さんや中野誠也さんがいるじゃないですか。 当時、新さんは何かのホームドラマに出たりで結構顔が売れていました。 お客さんたちは食事どころか、ハンカチや何かにサインをお願いしていました。 自分も遠目に見ていましたが、がぜん俺ももサインが欲しいと思い ポケットを探っても色紙や新品のハンカチは無いですよね。 仕方なく、使用中のハンカチを持ち新さんのところへ行き、『お願いします』 と恐る恐る出すと、『随分キタねーハンカチだな』とひと言いわれながらも 気さくにサインしてもらいました。 弟と一緒でしたのでその光景はずーと観察していたようで、何かあるたびに その話が飛び出しました。 その日は芸能人と遭遇した初めての出来事でした。
(1188)車両破損 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:04月16日(月)21時44分51秒
皆さんに悲しいお知らせです。 多くの方々の善意を得て補修を進めている南大夕張駅の客車の扉の金具が盗難に あいました。私達が補修を手掛ける以前からラッセル車の計器類や客車内部の照 明などが盗難・破損にあっており再調達が困難な部品であり、どう補充をするのか 頭を悩ましている中での被害です。 新聞、雑誌などでこれらの車両が多くの人々に支えられ往時の姿に戻されつつあ るのは周知の事実だと思います。「犯罪者」に何を言っても「馬の耳に念仏」で すが、それらの人々の善意を踏みにじる行為は決して許されないものです。 我々の管理にも限界がありますが、今後再発防止の為、警察へのパトロールの強 化要請、鉄道雑誌などへの事故報告等、何らかの措置をとります。 取り急ぎ、支援者の皆様に盗難の報告とお詫びをさせて頂きます。
(1183)住所入れてください 投稿者:飯塚フミ子 投稿日:04月14日(土)23時06分10秒
1丁目5番地は、佐藤です。
(1182)片山さんへ 投稿者:久々湊 真一 投稿日:04月14日(土)19時06分00秒
片山さんが確認を求めている対象は、従弟の久々湊義隆のことだと思われます。 彼は、私の父の弟(昭三叔父)の息子です。大学で建築を専攻しエンジニアになり ましたが、現在は某建設プロジェクトで、フィリッピンに駐在作業中と聞いていま す。彼の姉の佳世子は、結婚して札幌に在住しています。 昭三叔父さんは、鹿島小学校で教頭を勤めましたが、転勤後に校長で定年を迎えま した。現在は、北海道北広島町で悠々自適の生活を送っています。
(1181)ご無沙汰しております 投稿者:片山利明 投稿日:04月14日(土)13時25分52秒
久しぶりにこのページを見ました。ご無沙汰しております。 掲示板の中に見覚えの有るお名前が有ったので確認 させて下さい。 九々湊さんは鹿島東小に通っていませんでしたか?(確かご両親は学校の先生) 私の兄はお姉さんと同級生でした。
(1180)昭和33年 電化された奥鹿島 投稿者:飯田雅人 投稿日:04月14日(土)12時36分33秒
昭和25年に鹿島開拓団12戸が入植し,開拓の第一歩が記された奥鹿島ですが, その後,鹿島開拓団は昭和30年に開墾の70パーセントを終了し,農地が国から 売却されました。 一方,大夕張ダム建設により水没する桜ヶ丘開拓団も,S30年に3戸,S31年に5戸, 奥鹿島に入植します。 そして,S33年には大夕張炭砿からの受電によりそれまでのランプ生活から解放さ れます。 当時の昭和33年11月7日付け新聞記事です。 ----------------------------------------------------------------------- ・・・・・・・・・ 夕食もこれで楽しく 奥鹿島の開拓団地 待望の電化竣工 ”暗いランプ生活から解放される”よろこびの奥鹿島開拓団地の農村電化竣工式 が5日午前11時から夕張市東小学校奥鹿島分校で盛大に行われた。 同開拓団地には26年に12戸が初入植以来現在20戸が入植,開拓の鍬を振 つているが,立地的に文字通り陸の孤島,同開拓地と大夕張地区を境界とする シューパロ川にはわずか幅員60センチ余の釣橋一本があるのみで文化の導入 など縁遠い話しだつた。 これではいかぬと昨年20戸の農家が一丸となり一戸平均数万円を負担,国庫補助 金150万円,市補助金30万円を得て,今夏着工よろこびの竣工式をむかえたも ので同日は長谷川市産業課長,長桶市鹿島支所長,西田市農協組合長,三菱大夕張 鉱業所長代理等が出席,約10年間の”暗い生活から”の解放をよろこびあつた。 夢にまで見た電灯の下での夕飯に子供たちは大喜び,農民らはこれまでの苦労も ふつとんだようですと明るい表情につつまれている。 ※写真上 電灯の下で夕飯を楽しむ開拓農家 写真下 喜びの竣工式典 ------------------------------------------------------------------------- 以上ふるさと誌『しろがね』(平成9年3月発行)より
(1177)吉田先生について 投稿者:池田憲治 投稿日:04月14日(土)09時44分41秒
私は真岡の鉄道官舎で生まれました。9人の乙女の内の一人伊藤千枝は親類です。 今、近くに住んでいる叔母は、私の家族と共に移転するまでは、真岡の郵便局に 勤めていたので、死んだ人たちと一緒の写真をみたことがあります。同じ大夕張 にいたなんて、不思議な縁を感じます。
(1176)東小の吉田先生 投稿者:田中 紀子 投稿日:04月13日(金)21時49分47秒
思い出の吉田先生は東小での5年、6年生の担任でした、とても立派な先生 でした、私達が6年生の時奥様を亡くされまして、後に同じ東小の藤原先生 と結婚されました、今は沼の沢にお住いです、 6年生の夏開拓の白金の沢にキヤンプに行き先生の実家で野菜をもらい、 川原で炊事をした事を思い出します、 其の頃開拓に行くには、吊り橋を渡らなければなりませんでした、 一度に5人位ずつしか渡れませんので、先生は何回も何回も行ったり来たり して皆を渡してくれました、今でしたら絶対できないことでしょうが、 あの頃は私達は先生を絶大に信頼しておりましたので、 先生について行けば大丈夫と思い渡りました、50年位前の思い出です、
(1174)「九人の乙女」と開拓吉田さんの思い出 投稿者:小野 美音子 投稿日:04月13日(金)16時42分33秒
イケ様、とし様チャットでありがとうございました。 長谷川様、もと女の子ですがわかりません。すみません。 懐しいおばけに会えるなら神社まで飛んでいきたいです。 三菱君を書いて下さった楽しい斎藤様の家では、当時受信料が 三百数十円程かかったのではないでしょうか。 私の母は堀田牛乳店の月々の支払いがほぼ同額だったので、 TVと牛乳どちらにするかと迷いましたが、キャラメルの箱の 大きさまで比べてしまう子供達を見てTVをあきらめました。 エンゲル係数が超高の我が家は毎週、卵三十個、野菜、季節に なると苺、小豆やささげ豆一斗〔約14kg〕ずつ開拓農家の吉田さん のおばさんが運んでくれ、購入しました。 重い荷物を背負ってくるので、我が家でのお茶飲みを楽しみにされて いました。茶飲み話には亡くなった娘さんの話がよく出てきました。 稚内の「氷雪の門」の隣に「九人の乙女の碑」があります。 終戦の5日後、昭和20年8月20日、戦時下の樺太真岡郵便局を 必死に守り抜き、電話交換業務を終えた9人の乙女が自ら別れの 長い電文を打ち自決しました。 その中の一人が吉田さんの娘さんだったのです。 「娘が可哀想だったんでさあ・・、青酸カリを飲んだんだよ・・・」 「一緒に樺太から引き揚げてればねえ・・・時代がねえ・・・」 私にとっては驚きの、しかし、娘さんの死から15年以上経っていた せいか淡々と話す、おばさんの声はまだ耳に残っています。 長男の方は東小の先生で、ヨチヨチ歩きの時の私を可愛がり、 追いかけっこしてくれたそうです。 跡取りの息子さんには購買会でも評判の良い働き者の娘さんがお嫁に こられ、おばさんが喜んでいました。 一番下の息子さんは、高校生になるとおばさんの代わりに配達を 手伝っていました。私はこの爽やかなお兄さんが大好きで夏の暑い日 母が「お風呂に入っていけば?」とお兄さんに勧めると、私と一緒に 入ってくれて嬉しかった記憶があります。多分四,五才の頃だったと 思います。札幌の市役所に入られたと聞いています。 この思い出も大夕張年表の「開拓団長吉田藤之助」の記述を見て 蘇りました。昭和26年12戸で開墾を始め、つり橋建設や 農耕馬5頭の導入。電力供給は7年も後の昭和33年との事です。 ここでも頭の下がるような御苦労をされた方々のいらっしゃった 事がわかり、感慨をいっそう深めております。
(1173)おばけ神社? 投稿者:長谷川潤一 投稿日:04月12日(木)22時30分42秒
どなた様か、おばけ神社の由来というか何というか、どうしてそういう呼び名 なのか、もともと何があったのか?などなど、お詳しい方、どうぞ教えて下さ いませ。友人の一人からちょっとした文に載せたいとのことで相談されました が、結局、謎のままなんです。その友人の話によると、女の子たちが、かもめ かもめのような遊びをそこでしていると、知らぬ間に人数が増えたり減ったり するというような、座敷童子のようなちょっと恐い話を女の子たちから聞いた ことがある、と言っております・・・。 とくに諸先輩方、女性の方、もと鹿島小で女の子をしていた方がた、よろしく お願い致します。
(1172)懐かしい奥付 投稿者:久々湊 真一 投稿日:04月12日(木)15時59分28秒
飯田さん 懐かしい「みなと印刷」の奥付アップをありがとうございます。 昭和28年の頃は、あの一帯は錦町だったのですね。泉町とつけたのは、その数年後 で、南さん(建設業)杉村さん(クリーニング業)と父の3人で命名したと記憶し ています。泉町を流れる川(7号沢と思いましたが)は、「きれいな清水であり泉が 湧き出すような感じなので」とのコメントを思い出しました。
(1171)中村先生 投稿者:内川 准一 投稿日:04月11日(水)18時36分11秒
「はずかし」←これ、何回使ったろうね。私 9日の「ダニ峠」の中で進発所を「新発所」としてしまいました。 奥山さん訂正有り難う。 「がんぴ原」でも「タコ部屋跡」でも、「アイヌネギとり」でも、何でも行きま すよ。私ゃ。 飯田さんの「ダニ峠」を読んで、今頃になって、峠の意義にうたれております。 ウウ感動(遅いって!) それにしても、峠のさらに上にあるミズナラの大木は「でかかった!」 石原さん、中村素先生の記憶は私もほとんど同じです。 今は札幌中島公園の高層マンションに住んで、元気に下界を見ています。 まだ、地表の近くにいますよ。(笑) 鹿島小では一度も6年生を担当したことがないため、「だれも来てくれない」 と寂しがってました。住所、電話番号もわかります。連絡ください。 ご一緒してもいいですし。
(1170)「地の響き」からみなと印刷 投稿者:飯田雅人 投稿日:04月10日(火)23時28分41秒
内川さんの書き込みにある『鹿島小校歌』「力よ・誉よ・地の響き」のことですが, 確かに昭和28年25周年記念「学校概要」の最後のページに校歌が載っていて,「地 の響き」となっています。40周年記念誌(S43発行)も見たのですが,それには「血の 響き」とあります。 陸の孤島と呼ばれた山の奥の炭砿には「地の響き」が不気味にぴったりな感じもします。 それが,いつしか時代とともに石炭を掘るヤマの男達の熱い「血の響き」に変わった のでしょうか。 **下にその校歌にリンクを貼っておきます*** 内川さんの投稿を読んでS28発行の「学校概要」の校歌を見つけて,ふと裏表紙をみると そこには,先日久々湊さんや小野さんの書き込みにあった「みなと印刷」の奥付けが・・。 思わぬところからまた一つ再発見です。資料室にアップしておきました。ごらんくださ いね。
(1169)中村先生 投稿者:石原 賢治 投稿日:04月10日(火)23時16分46秒
内川さんの投稿で中村素先生というお名前を見て大変懐かしく思いました。 私の小学校1年・2年の担任の先生でした。 とても楽しく、面白く、生徒を引き付ける先生でした。 時には、勉強時間中に催眠術をやって皆を興奮の中に引っ張り込んだり してくれました。 勿論、今考えれば、即興の芝居だったんでしょうけどね? NHKの高橋敬三という国会議員にもなったアナウンサーがいましたが、 その人に似ていると自慢されていた気憶が有ります。 放課後、グランドで野球のユニフォーム姿で小学校先生チームとして投手で 試合に出てる姿をみた時は、とてもまぶしく感じたもんです。 そう、僕らの先生はピッチャーなんだぞ!なんてね。 ところで、中村先生は今どうされてるのでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。
(1168)ダニ峠=青葉峠 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月10日(火)19時48分01秒
昭和37年10月発行の国土地理院5万分の1地形図「石狩鹿島」では自動車道 が旧南大夕張駅の上方に延びており、大夕張鉄道のトンネルの上当たりで行き止 まりになっています。 「鹿島のあゆみ」(昭和53鹿島小)には「また、昭和26年、ダム築造工事に 支障のないところまで南大夕張を起点として、延長約1.500m工事費450 万円をかけ改良工事に着手した」とあります。 これがダニ峠(青葉峠)に連なる旧道ですが、大夕張ダム建設に伴い現在の国道 が開削されなければこの道が大夕張への自動車道となっていたのでしょう。 土曜日、山影さんのところに「かんじき」が用意してありました。「ダニ峠」行 きにはこれが活躍したようですね?今度は「がんび原」等どうでしょうか? ところで進発所は北炭でも「繰込所」「捜検所」と言ってました。
(1167)ダニ峠のはなし 投稿者:飯田 雅人 投稿日:04月09日(月)23時29分41秒
内川さんのダニ峠の話を読んで,「鹿島のあゆみ」(S53発行)の79ページからの一部 抜粋です。 以下は大夕張鉄道が開通する前の開発途上の大夕張の話です。 ------------------------------------------------------------------------------ 大正15年春に大夕張開発計画が通同案に決定した。 これにより,ダンツケ馬によって建築資材や機械類が運ばれた。南部の二股市街(現在 の大宮町)を出て(現在線路側の)ダニ峠(ダニがよくついた)を登りつめ,なだらか な台地(現在のシューパロ湖畔亭付近)におりてくる坂や沢の山道を通った。荷のたく さんつけた馬はこの個所を一気におりてくることができずに,2・3回と馬を休ませな がら,アエギアエギ登り下りする。途中には笹ぶきの屋根だけのバラックのトマヤが建 ててある。そこで小休止する。熊の出たといわれるところには『熊に注意』と書かれた 立て札が2ヶ所,3ヶ所とある。 川の浅瀬を渡り渡り,5時間以上もかかって建築資材を通洞の台地(現,鹿島小学校 グランド(旧富士見が丘グランド)におろして野積みにしておく。作業するものは,い くつもいくつものテントを張った幕舎で寝泊りする。作業に出たあと,幕舎の中にうま いものがあるかと山親父(熊)の訪問があって,テントが破られることもしばしばで あったし,馬も何頭かエジキになった。 山岳地帯にはめずらしい一大台地でもあった南部・北部(大夕張)をさえぎるのは函岩 であった。(現大夕張ダム付近)ここを人馬一体となって急坂を注意深く,一足一足通 うのだけれども,足をすべらせて函岩の青くよどんでいる川にまっさかさまに馬が落ち ることもある。これを弔う馬頭観音像が坂の下り口の岩の上にあったが,道路開通に よって取り除かれ,往時の苦労を知るよすがもなくなった。シューパロ川本流にそそぐ 沢も函岩を越してから8つあって,そのいずれも本流に入る河口は切り立つように高く 人跡の容易に踏めるところではなく,北部(大夕張)への道は川沿い,川沿いと往復せ ざるを得なかった。 ------------------------------------------------------------------------------ ダニ峠は,当時南部から大夕張へ向かう重要な道路だったのですね。大夕張開発当時 労苦がしのばれます。その峠が内川さんの投稿を読んで昭和37年までもの長い間大き な役割を果たしていたことがわかりました。 それにしてもダニ峠の由来は,ダニがつくからというとは。。。
(1166)ダニ峠 投稿者:内川 准一 投稿日:04月09日(月)20時58分07秒
はずかし、先生の名を間違えました。 私の3,4年生時代の担任教師、中村素 先生でした。スイマセン!
(1165)ダニ峠 投稿者:内川 准一 投稿日:04月09日(月)20時52分41秒
ダニ峠に行って来た。 シューパロ塾の正木先生から誘われて、1年半ぶりに大夕張の地を踏んだ。 峠は、そうね、大夕張ダム堤体がよしかかっている右岸の尾根の途中にある と言うか。途中と言ってもダムのすぐ上で、南幌浄水場からものの10分も かからないし、峠と言うよりは斜面まき道の尾根筋のことだった。 昭和37年に大夕張への車道が開通するまでは、この細道が大切な道だったん だね。さて、さすがにこれだけでは物足りないので、夕張園芸の政氏さんは、さら に尾根を詰め、標高470メートルまで我々5名を案内してくれた。そこまで登 ればダム景観も南部の景観も振り分けに見ることができてもう最高の場所。 みんな満足して足が埋まる雪道にも関わらず、にこにこして帰途に着いたのだった。 戻ってからは行かなかったメンバーも合流して、一緒に食事をしながら、復 員した当時の大夕張のことを聞いたり、ビデオを見たり、ダムの嵩上げに伴う、 南部の町の道路の切り替えルートを聞いたりして午後になった。朝5時に起きて 、充実した半日だった。 今先生有り難う、奥さんお疲れさん、山影さんお昼をごちそうさま。 政氏さん!博学と記憶の良さには脱帽です。皆さん有り難うございました。 そして、旧食堂「吟月」の一階で寝ている私を真夜中に起こしに来た酔っぱらい のさかい(?)さん、熊の敷物を頭からかぶって真夜中に町を歩いていれば、撃 たれたり、轢かれたりするかもよ。いくら車が走ってなくとも、一応国道なんだ からね。 さて、ここで、2つのことをお話ししたい。 一つは大夕張を守る犬のことです。なんと、今でもいたのです。7日夜9時頃に 大夕張駅のあったあたりで車を降りると、道路の縁の雪の壁の上に白いものが載 っていて、それが犬だと言うことが最初はわからなかった。 当日は満月で、それにも関わらず、星空が明瞭に見える澄み切った雪の原に、こ のハチ公は何を待ち続けているのか、声をかけると嬉しそうには鳴くが、近寄る とその分だけ離れて、寄ってこようとはしない犬。 何を食べてこの厳しい冬を乗り切ったものか? 元の飼い主さん、あなたのワンちゃんは、一人で、誰にもなびかず「山の彼方の 空とおく、今日も幸いを探し続けて」いますよ! 今度は短めに。炭坑夫が坑道に入るとこを「新発所」と言ったの覚えてました? それが三菱の呼び名で、住友系列では「繰込所」と言うのだそうです。知ってた? 蛇足。鹿島小学校校歌。「力よ・誉れよ・血の響き・・」と思っていませんでした? あれ、本当は「・・地の響き」だったのよ。知ってた?実は、中村誠先生に、以前、 教えてもらったのだ。
(1164)チャンピオンになった少年との黒帯の約束 投稿者:小野 美音子 投稿日:04月06日(金)23時17分05秒
東京オリンピックが終わり、しばらくしてからの事でした。 父宛てに、青いインクで丁寧に書かれた、葉書が届きました。 父はその差出人である笹原富美雄五段を小学生の時に、柔道を教えた事が あり、いつか強くなったら父の黒帯をあげると約束したというのです。 私はその時、父が柔道をできるのも、黒帯を持っているのも、全く知ら なかったので、それが本当の事なのか? と思いました。 そこで、「その人はどの位 強いの?」と聞くと、父は、静かな口調で 「世界で一番、強い」と答えました。 でもオリンピックで金メダルを 取ったのは、オランダのヘイシング選手で、銀が神永?選手だったはずで した。(重量階級別など知らなかった。) また 不思議に思った私は、 もう一度 父に、「ヘイシングより、強いの?」と聞くと、やはり静かに、 「ヘイシングより強い。誰よりも 強いのだよ。」と、答えました。 私には、よく訳のわからぬまま、会話が終わり、歳月が流れました。 笹原五段が、オリンピックで まさかの初戦敗退したのを新聞で見て、 父がガックリしてたと聞いたのは、私が大人になってからでした。 小さい娘だった私だけには、父は、「世界で一番強い」と言えたのだと 思っていました。 しかし父は、世界選手権などの国際大会で 笹原五段が、世界チャンピオンになり、後に、鹿島小学校に凱旋訪問を されたのを、聞いていたと思われるのです。(私は今年になり、大夕張 年表を見てやっとわかりました。飯田様、ありがとう!) ボロでヨレた父の黒帯はどこかへ行ってしまい、それは幻の約束になって しまいました。 ただ 笹原五段がその事を 忘れずにいて下さり 父の消息を尋ねておられたと、後に正木先生からお聞きしました。 家族としてはそれだけで 有難いと思うばかりです。
(1163)碁のはなし 投稿者:飯田雅人 投稿日:04月03日(火)22時32分50秒
閉山から30年近く経ち,当時働き盛りだった世代の方々も60代以上になって いるのですね。少年少女だった私たちの世代も今は当時の親達の年齢になって しまいました。年月の過ぎ去る速さをあらためて感じると共に,鬼籍に入られ た方々をここで偲ぶことは,当時の大夕張の記憶につながっていきます。 先日小野さんの書き込みに出てきた長谷川安造は私の祖父ですが,昭和13年か ら昭和31年まで大夕張で過ごしました。沼の沢から大夕張へ小学校の訓導とし して赴任してきた時,汽車の切符の裏に「人命の保証はしない」旨が書かれて あり,正直とんでもないところへ来たとその時思ったそうです。 若いときから囲碁を打つのが好きで,多くの方々と碁盤を囲んでいたようです。 昭和39年以降,札幌に出てきましたが,生前,よく大夕張時代の縁ある方々が 見えて,「一勝負しますか」というと,碁盤を抱えてきて,石を打っていまし た。よく「田舎10段の腕だ」と冗談で言っていましが,若いときから打ってい た碁の腕は結構強かったようです。 碁の話から,山の中の小学校勤務で,宿直もあった当時の生活が浮かんでくる ような気がします。
(1162)久々湊真一様へ 投稿者:小野 美音子 投稿日:04月03日(火)22時00分37秒
そうでしたのですか・・・。母も「いい方だったのに・・」と 残念がっております。 平成二年に大夕張に行かれた時の 風景の寂しさとともに、こみあげてこられた万感の思いを お察し申し上げます。 お父様の心意気は、戸板一枚の上に野菜を載せて、道端で売って・・! と、いうお話で、感銘を受けた母は、父とそれができるかどうか 割と真面目に話し合ったそうです。 戦争や食料難を経験した世代は、生きる事に真剣だったのですね。 千年町の妙法寺や、教員ブロックの友人宅へ、一人で行くときは 必ず、線路の泉町側を、イタドリの葉っぱをむしりながら、 みなと印刷を、横に見て通りました。 みんな、遠い思い出の底に沈んでしまおうとしていた時、このページで 亡くなられた方々を偲ぶこともできました。 鎮魂と共に、その方々も一緒になって、私達の肩越しから画面を楽しみ 大いに喜こび、懐かしがっているような、気がしてなりません。 久々湊様、お父様にもう一度よろしくお伝えくださいませ。
(1161)小野美音子さんへ 投稿者:久々湊 真一 投稿日:04月03日(火)15時18分31秒
お便りありがとうございます。 残念ながら、父は既に他界しております。平成2年に大夕張を訪問したのは、父の 遺骨を抱いてでした。お墓に入れる前に、大夕張の空気に触れさせたかったので。
(1160)セピア色の駅舎 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月02日(月)20時54分47秒
皆さん既にご覧になったでしょうか? 今日の北海道新聞夕刊コラム欄「窓」に栄町出身の乗田さんの話題が出ています。 今回、私たちが制作した絵はがきのデザインは乗田さんが担当しました。 閉山で大夕張を離れたときは新しい土地になじむのに精一杯という乗田さんですが、 セピア色の駅舎には「ダムで故郷は沈む。生まれた地に行けなくなる。今こ そ何か残したい」という気持ちが込められてます。
(1159)新岡くんへ 投稿者:長谷川潤一 投稿日:04月01日(日)11時49分30秒
もちろん知っています。記憶喪失みたいなことを言わないようにしましょう。 このHPへの住民登録を済ませた後、登録者をさかのぼってよく見ましょう。 この掲示板も、さかのぼってよく見ましょう! 知ってる名前があります。 一緒に罰当番をした同期の長谷川より、同級生ラブラブの新岡くんへ
(1158)山桜の頃 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月31日(土)23時14分36秒
あと1ヶ月から1ヵ月半すると大夕張にも桜が咲き乱れる季節が到来 神社があった所は山桜がとてもキレイな場所でしたね 淡いピンクの山桜は本当に優しさに溢れた楚々とした 美しい色合いで何とも言葉で表現する事は難しいほどの風景で 今年も花の咲く頃に訪れる事が出来ればと考えています 桜色で彩られた屏風のような故郷の名所とも言えますね! そこで花見酒が一番でしょう・・・・
(1157)久々湊さまへ 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月31日(土)21時09分10秒
久々湊さま はじめまして! 春休みと共に、母が北海道から、遊びに来ていますが、久々湊様の お父様の事を、懐しく思い出しております。 よく、我が家の玄関口で、みなと印刷を始められた時の 心意気などを、頼もしく話して下さったそうです。 ある夜、まだ八時前に、お父様が用事で、家まで来て下さった時、 母は、父だと勘違いして「お父さん どーして遅かったのよオー!」 と、大きな声で出て行ったら、久々湊様で、穴があったら 入りたかったほど、恥ずかしかったそうです。 お父様は、ニコニコされて、人柄の良い楽しい方だったそうです。 じきに、父が帰って来て、遅くなったわけを、「教頭の(長谷川) 安造先生に囲碁を誘われたので。」と、言ったそうです。 父が、他の先生と囲碁をする場合でも、上司の安造先生のお名前を 拝借して、母への言い訳に使ったそうです。 私もおぼろげながら、その時の記憶があります。 そして今、いかに母が、家族を掌握できた、幸せな主婦だったか いうことが、久々湊さまのお父様とのことを通してわかりました。 現在、私が主人に「おそい!」 と言える時は、午前様をこえてから なので、今後、地位向上にヒタスラ邁進したいと、考えております。 久々湊様、お父様にどうぞよろしくお伝えくださいませ。
(1156)大夕張の住人 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月31日(土)14時09分37秒
新岡さん,S32生まれというとこのHPでは掲示板や交流会でにぎやかな 鹿島中26期のお仲間ではございませんか? 新岡さんとは2期違いだと思いますが,確か宝町生協のそばに佐藤海男 くんが住んでいて中学校時代に何回か学校の行き帰りに寄ったことがあ ることを思い出しました。 HPの住民登録のページが,116名に達しましたが,宝町と泉町で登録された 住人の方がいらっしゃいませんでした。 先日「みなと印刷」の久々湊さんの登録により泉町にもついに住人の方が! あとは宝町だけ・・・。新岡さんぜひぜひ住民登録のページへ!
(1155)鹿島中学のS48の卒業生です。 投稿者:新岡 勝彦 投稿日:03月31日(土)11時01分38秒
誰か私を知っている人がいたら連絡下さい。 ◎プロフィール 生年月日:S32年5月11日 当時の住所:宝町?(忘れました
(1154)閉山反対号 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月31日(土)00時41分45秒
小野さん、佐々木さんありがとうございます。 色々な資料や「絵はがき」に使った写真などは飯田さんをはじめ、ホームページ を通じて知り合った本間様、小林様、長谷川様、乗田様など皆さんの提供による ものです。 下にリンクを入れたホームページには大きく「閉山反対」と書かれた大夕張のS Lの姿が掲載されてます。鉄道に働いている方々の愛情か大夕張のSLは美しく 手入れされていました。SLブームの最中、薄汚く「閉山反対」とペイントされ たSL等撮りたくないと言うマニアもいましたが、人々の暮らしがあり鉄道が存 在することを考えると、これが本当の鉄道の姿なのかも知れません。大夕張のS Lは炭鉱があっての存在だったのです。 「塩狩峠」のロケが終了して間もない48年4月19日大夕張炭鉱の閉山が提案 されます。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 【読売新聞】昭和48年5月10日 『ヤマの灯消すな−三菱大夕張砿閉山反対闘争・鉄道労組も支援』 会社側が提案した三菱大夕張炭砿大夕張砿の閉山まであと50余日。同砿労組( 千田晶組合長)は、ヤマ元や道庁前でのすわり込みなどで閉山撤回闘争に追い込 みをかけているが、ヤマの男たちの闘争に呼応して、三菱大夕張鉄道の従業員も 、炭住街を走るSLの車体に「ヤマの灯を消すな」「閉山反対」などと書き連ね、 道内外からやってきたSLファンにヤマの苦境を訴えている。三菱大夕張鉄道は 、明治44年、清水沢から南部までの7.6`が開通、さらに昭和4年、大夕張 砿の開坑によって、南部から大夕張炭山駅までの9.6`が延長され、石炭の積 み出し線、地域住民の「足」として活躍した。4月19日に会社側が提案した閉 山提案では、大夕張砿従業員を6月30日限りで全員解雇するのに伴って、時期 は多少ずれるが鉄道も撤去、鉄道従業員を解雇、配置転換することになっている。 三菱大夕張鉄道の従業員で結成している三菱大夕張鉄道連合会(会員百四人)は 、大夕張砿労組のさん下にあり、閉山撤回運動に代表を送り込んでいる。表面に 出た積極的な行動はこれまで見られなかったが、8日から石炭車などをけん引し て走る四台のSLの車体の横に「ヤマの灯を消すな」「閉山反対」さらに前後に は「団結」と白いペンキで大書したりしている。三菱大夕張鉄道では、国鉄職員 の殉職物語「塩狩峠」(三浦綾子原作)の映画ロケがあったばかり。いまではS Lファンが連日十数人も訪れてカメラのシャッターを切っており「順法スト」並 みのアピールに「これは面白い被写体になる」とSLを次々とカメラに収め、閉 山撤回闘争のなりゆきを見守っている。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 絵はがき「想い出の駅」の明石町駅前では少年達が遊び、入口には東高生でしょ うか少女が佇んでます。閉山、鉄道廃止…、ここに写っている少年、少女は今は どこで暮らしているのでしょうか… 鉄道やSLが廃止されることより、この鉄道を取り巻く人々が減少する事の方が 遙かに悲しいことでした。
(1153)SL 冬の湿原号 投稿者:飯田 雅人 投稿日:03月30日(金)22時19分43秒
佐々木さん,遅ればせながらおめでとうございます! 今後,佐々木さんの口(手?)を通じてご両親のお話も聞けることを楽し みにしています。 さて,先日釧路に行きました。そこでSL『冬の湿原号』に乗ってきました。 11:08 釧路発。釧路湿原の中に丹頂鶴を見ながら蒸気機関車C11にひかれた 列車が標茶へと走ります。 それは遠い記憶を呼び起こす,懐かしさに出会う旅でした。 発車とともに,ガタンと一揺れ。最初は静かに,そして徐々に力強くなる走り。 旅立ちの汽笛は何か物悲く響きます。 だるまストーブを囲んで華やいだ観光客の人たちの談笑。声も自然に大きく 響きます。その上で焼かれるスルメが香ばしい匂いをさせていました。 窓の外を見ていると,並んで走る自動車が,列車を追い越していきます。 このスピード感。そうだ,時間はもっとゆったりと流れていた。 大夕張炭山と清水沢の間を1時間をかけて走っていた頃。一つのことに時間 をかけ,手間をかけ,山の中で暮らしていた。 標茶高校の女性徒が途中アンケートを取っていきました。幾つかの質問の中に 「SLに乗ったことは何回目ですか」という項目がありました。「子どもの頃 たくさん・・・」と書きかけて,質問の意味に気がつきました。SLに乗った ことがある年代は限られているのですね。 ゆったりとのんびりした片道1時間半の時間はあっという間に過ぎてしまい ました。そしてちょっとだけタイムスリップしたあとは,現代の自家用車で 快適な高速道路,道東自動車道・道央自動車道をフルに乗り継いで,札幌ま で6時間程の行程を飛ばして戻り,2001年に無事帰ってきました。
(1152)ありがとうございます 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月29日(木)22時55分38秒
三浦様 小野様 池田様 皆様 ありがとうございます なんだかとってもうれしいです さっそく、奥山様の大夕張ロケの記事を読んで、父が『そうそう明治時代の 格好をした』と言っておりました。 もう一度、『塩狩峠』のビデオを見なくては・・・ ビデオを見たら、記憶がよみがえってくるでしょうか? 父の参加した撮影の記憶が、はっきりしたらお知らせします。 私も「想い出の駅」を注文しましたら、母も札幌の妹に頼んでいたのです。 でも私の方が先に届きました。 私の記憶は「大夕張駅」しかありません。 5.6歳の頃だったと思いますが、父の乗務した機関車で 母と清水沢に行った時、運転席から客室に居る私たちに 父が手を振ってくれ、とてもうれしかった事を思い出しました。 父は昔からカメラ好きで、機関車を良く写していました。 皆様にお見せ出来るとよいのですが・・・
(1151)佐々木様 おめでとう! 奥山様 有難う! 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月29日(木)21時34分41秒
佐々木さん、おめでとうございます!! 便利になりましたネ!! 奥山さん、スゴーイ!! 膨大な資料の中から、たちどころに、お知らせ下さり ありがとうございます。 何でも出てくる玉手箱!・・ですね! 「想い出の駅」が届いた時、大変感動しましたが、今日は思いがけず、 あの夕張岳の描かれている美しいカードが届きました。 佐々木辰雄様が丹精こめて描かれたのでしょうか。。 さっそく額に入れて飾りたいと思っております。 本当に、ありがとうございました。
(1150)佐々木さん、おめでとう! 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月29日(木)20時13分18秒
佐々木さん 今晩はー 今頃は「ふるさと大夕張」ツアーで忙しいかな? でも本当にうれしい事ですねー 自分もこのページを見つけた時はホンマ最高! こんな感じでした..... これからも「ふるさと大夕張」を愛して下さい (^.^) なーんてガラにも無い事を言っちゃって! とりあえず開通おめでとう!
(1149)やっと・・・ 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月28日(水)22時40分57秒
皆様 おばんです ようやくインターネットつなぎました そして新しいアドレスもいただきました これからもよろしくお願いいたします もう父母 大変です 思い出帖の写真を見ては、大騒ぎです これからじっくりと見て行きたいと思っています
(1148)映画「塩狩峠」大夕張ロケ 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:03月27日(火)22時33分22秒
手許の「夕張よみうり第115号」(昭和48年3月25日)に「塩狩峠」の 撮影の様子が掲載されてますので、一部抜粋し紹介します。 【地元エキストラも熱演】 3日間の大夕張ロケは、映画のクライマックスとなる事故当日のシーンを撮影 した。事故の起きた明治42年2月28日の朝、主役の信夫が前夜、名寄駅集 会所で行われた「鉄道キリスト教青年会」の結成会に出席して講演し、勤務地 の旭川に帰るため、同僚達に見送られて名寄駅から乗車する場面は名寄駅に見 立てた遠幌駅のホームで、信夫の乗った客車が暴走するシーンは明石の展望台 付近で、また信夫が殉職するシーンは炭山駅の引込み線で撮影された。 18日の撮影は、午前9時30分から遠幌駅で。ふだんは閑静な同駅構内も、 この日は早朝からロケ隊のトラックや車でゴッタ返した。二時間がかりで信夫 が名寄駅から乗車するシーンを撮影したが、登場人物は、黒の詰めえり服姿の 信夫(中野誠也)と、見送りにきた同僚4人のほかは、全部が大夕張鉄道課が あっせんしたエキストラの同課従業員と家族たち。 「駅前に遊んでいた子供たち」の役で、三上博幸君、高橋敏之君、安田友行君 、三国満君、平野美和子ちゃん、南岡吹砂ちゃん、南松瑞江ちゃん(いずれも 九才、鹿島小三年)が紺ガスリの着物にチャンチャンコ、ワラの深ぐつ姿で「 せっせっせ」や雪合戦など元気に熱演した。 信夫と乗り合わせた乗客で、赤皮の長靴(ちょうか)に将校マント姿の旭川第 七師団中尉には山田義雄さん、大きなトランクを下げたその従卒には近藤幸政 さん、山高帽に「トンビ」姿の金満家のダンナには藤原正一さん、それを見送 る丸まげ、角まき姿の芸者、また「鉄道院」と染め抜いた紺のハッピに地下た び姿の駅夫など、みんな明治の人になり切っての好演だった。
(1147)聖堂の香り 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月27日(火)21時15分03秒
飯田さま、お世話になりました。ビデオの事までお教えいただき ありがとうございました。 ヒロ様、今すぐ、旭川へ行きたくなりました!!! 昔、あのカトリック教会の、聖堂の清らかな香りは、一体どこから くるのだろうと、不思議に思い、聖水を手に取る時、匂いを かいだり、床のワックスなのかと、床に鼻を近づけたり 壁の匂いをかいだりした記憶があります。しかし、どこから くるのか わかりませんでした。 祭壇の方には、畏れおおく、近づくのがはばかられました。 河村先生が、聖堂はいつも開いています。とおっしゃって 下さったので、誰もいない静謐な時を、あの香りにつつまれて 過ごしたことも、懐しく思いだされます。 数年前、ハーブや、アロマテラピーのお店に立ち寄って 色々なエッセンシャルオイルの香りを、試してみると、 イギリスのニールズヤード社の、紺色の小さなガラス瓶に 入った、パイン(PINE,松の木)が、そうではないかと 思い当たりました。しかし、お香のように焚いたのか、 ろうそくに混ぜてあったのか、河村先生にお聞きすることも できなくなりました。オイルは、高濃度なので、お試しになる方は かなり強く感じますので、お気をつけください。
(1146)「塩狩峠」へのアプローチ 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月26日(月)23時46分24秒
小野さん、佐々木さん、はじめ沢山の塩狩ファンの皆様、今晩はー こんなルートで小説「塩狩峠」をたどってみると、いかがでしょうか? 札幌からJRで旭川駅まで、特急で80分位かな・・・ 旭川駅よりタクシーで約10分程度、ちょうど旭川駅裏の方向に位置する 見本林、これが実は三浦綾子さんの代表作「氷点」の舞台となっている所です 多分、かなり昔TVドラマのロケにも使われていたはずですが・・・ 忠別川のほとりにあると思いましたけれど この見本林の中に「三浦綾子記念館」があります ここには彼女の生い立ちや青春時代の過程、特に彼女がキリスト教信者として 洗礼を受けてゆく道筋等が事細かに分かりやすく展示されています この展示を見てゆくと「氷点」の原点らしき考察や生き方が 伺えるような感じがしました 記念館へは雪の頃に行きましたが、とても街中近くとは思えないくらい 落ち着いた場所です。 そして、ここを見てからズバリ「塩狩峠」の旧宅へ行くと 本当に一目瞭然で「三浦綾子」ワールドへいざなわれます 塩狩までは国道で1時間程度かな? 昨年秋にはこの少し向こうの和寒町まで高速道が延伸しましたので 札幌から高速直通ですと多分110分くらいで行く事が可能かも?ね! 旭川はこれからが残雪の大雪山と緑の平野が鮮やかなコントラスト を描き最高の季節ももう、間近です 是非、一度行く価値はあるよー オススメ!
(1145)我が家での「塩狩峠」 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月26日(月)23時41分07秒
佐々木さん、心にかけてくださり、ありがとうございました。 奥山様、ヒロ様、「塩狩峠」が、より近くなりました。 小説の方は、涙ながらに読みましたが、映画の舞台だと知ったのは、 今年になり、パソコンを使えるようになってからでした。 我が家で「塩狩峠」の話題が全くでていない、去年の暮れ、 中2の長男(彼は、池田さんの金字塔の表現に感動して おります。)が、バトルロワイヤルなる、恐ろしげな本を 手にしていました。彼が、キョーフの17歳になるまでには あと、2年数ヶ月・・・・その時にそなえて、ひそかに私は 覚悟を決め、辞世の句でも詠まなければ・・と、思ったので あります。 しかし、 数日後、彼が、あっけらからんと 申しますには、「流行っている本も読んでるけど、イイ本だって 読んでるよ。「塩狩峠」というんだ。 読みやすいのに 奥が深いんだ。 県立図書舘の推薦本になっているよ。」と・。 そして、私に、「お母さんが、信夫ならどうする?」と 話を向けてきたのです。 私は、ハタと答えに困りました。皆で死ねばコワくないという 肝っ玉もないし、まして、この身を犠牲にする勇気など 持ちあわせていないのです。「誰か〜、助けて〜〜!」と、 あられもなく叫んで、終わりかもしれない。 そんなふう に言うと、彼は、そうだろうなあ、お母さんならそんな ところだろう といった顔で、うなずきました。 でも、教育や信仰があれば、違うのでしょうね。 飛行機事故がおきると、日本の、けなげなスチュワーデスさんは、 乗客のため、最後まで身を挺する人が多いと聞きます。 頼りない母である私は、それでも彼に続けて言いました。 今、ここに、包丁を持った悪者が来たら、 「私はどうなっても かまわないから、この子だけは、お助け下さい!!」と言うよと・ 親ならば、皆おなじ気持ちでしょう。 彼は、納得した様でした。 そして、最後にこう言って、寝に行きました。 「機関車は、でかくて重いのに、たった一人の 人間で、よく止めることができたのは不思議だ。」と・・。 そこで、我が家も、皆さんからの、色々なお話をもとに 映画「塩狩峠」を手に入れて、観賞したいと思っております。
(1144)会社から・・・ 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月26日(月)13時14分59秒
皆さま こんにちわ 待望のパソコンが3月28日から使えそうです ケーブル回線なのでディスクトップです 父や母も掲示板デビュー出来る日がくるといいな まず最初に開くページは『ふるさと大夕張』でしょう 休み明け会社に来てパソコンの電源を入れて このページを開きます すごく楽しみにしています 私の下手な文章を読んでくださり、お返事まで頂き感謝感激です 「塩狩峠」ですがあまり良く覚えていないのです 同じ長屋に住んでいた湊美佐子ちゃんに連れていってもらったのです どこかの和室で着物を着させられ、教会で讃美歌を唄い 美佐子ちゃんに手を引かれ、教会から走って出てきました この走って出てくる場面を何度かやったような気がします 出演料は母に聞いたけれど忘れてしまったようです ごめんなさい 父も他の場面の撮影を見たようなので、何かおもしろい話があったら おしらせいたします
(1143)中山 隆一さんへ 投稿者:田中 紀子 投稿日:03月25日(日)18時11分47秒
田中です、中山さんメールありがとう御座います 確かに小堀君、柚原君と同期です、よくわかりましたね、 天馬に行かれたとのことですが、ススキノのエルム会館の天馬ですか、 あそこも同期の天間ヒロさん店でした、今はクローズしましたネ、 時々私もススキノに出た時は寄っていました、 ところで、方言モッチョコイよく使いましたネ、
(1142)田中紀子さんへ 投稿者:中山隆一 投稿日:03月25日(日)13時06分57秒
中山と申します。田中さんはもしかしてS.15年生まれでしょうか? だとしたら友人の小堀君が還暦祝いに出席したのではないでしょうか? 一昨年、札幌の天馬というスナックに小堀、柚原君と行って来ました。 ところで方言の話ですが...次のような言葉も使っていました ヒヤッコイ...モッチョコイ...チョスナ...コワイ、エライ(これは 一般に使う言葉とは意味が違う) などありました。
(1141)宜しくお願い致します 投稿者:五島健太郎 投稿日:03月25日(日)00時19分30秒
ご返事有難うございます 私は無人になった後の 大夕張しか知らず、もっと以前から関わりを 持っていれば、と悔やまれてなりません しかし 今の夕張の姿を私なりの視点で写真に収めて行こうと 考えています 雪解けの頃、鹿島・南部の街に撮影に 行くと思います その時、鹿島小学校の校庭でお会い できることを楽しみにしております。
(1140)五島さん、これからもよろしく! 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月24日(土)14時28分26秒
五島さん、初めまして! ライフワークとして北海道を追い求めていらっしゃるんですね これからのご活躍お祈り申し上げます 大夕張人間の一人として、このHPが今は故郷そのものになりました ノスタルジー、メモリー 全ての言葉を尽くしても 伝えきる事が出来ないほどのエネルギーを授けられた 母なる大地でしょうか・・・ 何時訪れても「ほっと」する大気がこの山間の地に溢れています たくさんの方々に思い出していただければ、とても素敵な事です 何時の日か「イタヤカエデ」の樹下でお会いしましょう!
(1139)池田憲冶さんへ 投稿者:田中 紀子 投稿日:03月24日(土)13時34分50秒
色々有難う御座います、歯医者の忍さん、二郎さんはよく知っています、忍さんとは 上京した時はお会いしています、奥様のキミエさんも同級でした、、 池田守先生は弟の担任でした、最初は憲冶さんを二郎さんかな、?と思いましたが 名前がちがうので、千年町の地図で探していましら確かに池田さんが通りに面して 有りました、37年もたつと記憶も定かでなく御免なさい、 北の悪魔さんも私の家の近くのようですね、懐かしい情景が浮かんできます。 洞爺湖温泉へ行って来ました、有珠山も落ち着き観光客も沢山来ていました、 全国の皆様もどうぞおいでください、これからの北海道は最高ですよ。
(1138)田中紀子さんへ 投稿者:池田憲治 投稿日:03月23日(金)22時14分44秒
私を知らなかったら南校で悪やっていたなんて、書くの止めとけばよかった。 中学名簿をみると、貴女は菊池先生のクラスで従兄弟の池田忍と同じ クラスになっていた。私と兄の二郎とは同学期。その上の兄も、もちろん 従兄弟になるが、池田守と云って東小の教員でした。
(1137)三菱君とご近所さん 投稿者:斎藤 敏幸 投稿日:03月23日(金)18時15分22秒
掲示板では,一足早く春が訪れたようで「大夕張談義」に花が咲いていますね。 TVの「琴姫様」も話題にあがっていましたが,僕もTVにまつわる思い出があります。 まだ,栄町にブロック住宅が建つ前の話なのですが,普段は倹約家の父が何を思ったのか,三菱 マークのTVを長屋で一番最初に買ったのです。 さあそれからが大変。朝となく夜となく、ご近所さんが我家にやってくるのです。当時はまだ就 学前で、記憶は定かではないのですが「相撲」「プロレス」の時間になると,狭い住宅は大人たち であふれていました。 また,ゴールデンタイムになると連続ドラマを見るために、主婦たちがやって来ました。確信は ありませんが,「君の名は」だったような気もします。 スイッチを切っているときは,大切に布をかぶされて静かにしていましたが,一旦電源が入ると, 我家の「三菱君」は,それは長屋中の人気者でした。 でも,ブロック住宅ができた頃には,ご近所さんの家にもそれぞれTVが入ってしまったため, 我家の「三菱君」の人気は,長続きしませんでした。 昔のTVの話が出ると,「三菱君」と「ご近所さん」のことを思い出します。 ちなみに,白黒TVは早く買ったのにカラーTVは一番遅く閉山後にやっと買いました。そして, カラーTVもやはり「三菱君」でした。
(1136)千年町の風景が〜 投稿者:北の悪魔 投稿日:03月23日(金)10時46分22秒
所商店、りりー、馬屋原さん、私の住んでいた近くの・・ 懐かしい少年に戻れる 響きです。 家から出て 大きなドブ沿いを通り、りりーの横から出て 所商店へ行く。 10円玉を 握りしめ何度通っただろうか、少し上の(駅寄り)高田商店へも よく行きました。 確か、カ○ビーのかっぱえびせんを、初めて食べたのは所商店で買ったもの うまい、うまいと、思って食べていたら、この会社大きくなりましたね まあ、それはどうでもいいか。 最近、投稿がたくさん有るので 毎日楽しみです。
(1135)再度挑戦します 投稿者:五島健太郎 投稿日:03月23日(金)02時37分13秒
パソコンでメールを送ったことがないもので、 大変失礼しました 私は東京でカメラマンの仕事をし、北海道で ライフワークの撮影を致しております 鹿島、南部地区を初めて訪れたのは一昨年 ですが、その時私は誰もいないのに生活の 匂いの残るこの町を見てかつての姿を 知りたいと思いました そして去年 の夏訪れたときに慰霊碑の手入れをされていた ご夫婦にお話を伺い、この町を撮影することを 決意しました 私のような炭鉱の実態も生活も 体験していない者が皆さんの故郷を 撮影するということは失礼に 当たるかもしれません しかし、この沈み行く街を詳細に撮影し、 後世に少しでも伝えることが出来れば と思います 今日初めてこのホームページを 閲覧し、皆さんの熱い思いを知りました 今度夕張を訪れたときに皆さんと 直接お話できることを願っています。
(1134)鹿島、南部地区の撮影 投稿者:五島健太郎 投稿日:03月23日(金)02時10分01秒
東京でカメラマンをしている五島と申します、26歳になります、申し訳ありません、 前の4件、慣れないもので間違えました、現在北海道と東京の往復生活をしております、 北海道の大地を初めて踏んだのが6年前、鹿島・南部地区を訪れたのは一昨年です、 その時私は誰もいない、しかし生活の匂いの濃い街を見て、どんな生活があったのだろう、 と思いました、その時は富良野へ急いでいたこともあり、撮影も調査もせずに去ってしまっ たのですが、去年再び鹿島、南部を訪れました、その際、慰霊碑の手入れにいらしていた ご夫婦に、かつての街の姿をお聞きして、今の姿を撮影することを決意しました、この年の 夏から晩夏、今年の2月に撮影、調査を行っています、私のような、炭山で栄えた時代も 生活も知らぬ者がこの町の最後の姿を撮影しているということは、ここを故郷とする方々に 対し、失礼に当たるかもしれません、しかし北海道を愛する私にとって、ダムに沈み行く街を 詳細に撮影し、後世に伝えることのほんの一部でも担うことが出来れば幸いである、と考えた のです、今日このホームページを見つけ、住民の方々の熱い思いを知りました、今度取材に訪 れたとき、皆さんと直接お話をさせていただければ幸いです、宜しくお願い致します
(1133)中学入学式 投稿者:田中 紀子 投稿日:03月23日(金)00時07分18秒
佐々木さん、投稿に有りました入学式で合ったのは私の姪と思います 千葉の君津に私の兄弟姉妹が大夕張から移住しています、 北海道には私1人残っています、私は大夕張を39年春に出ておりますので、 最近の事はあまり知りません、でも所さんやスナックりりーは知っています、 家のすぐ側でした、懐かしいです、 でも池田さんは知りませんネ、私が大夕張を出たあとかしら、 ちなみに私は東小学校第2回卒業ですから、佐々木さんの父母上様と同じくらい かしら、それにしても佐々木さんの投稿楽しく読ませて頂いています、 パソコン購入おめでとう、置く場所決まりましたか、私はノートにしました、 映画「塩狩峠」大夕張ロケだったのですね、知りませんでした、 小説を読んで泣いたことを、思い出しました、 泣いたと言えば、大夕張を後にした時も泣いて泣いて、シュウパロ湖を車の窓から 見ながら、生まれ育った街にさよならしてきました、・・・・・・・・・・・ あれから37年になります、明日が丁度結婚記念日です、 明日2人の息子家族と総勢10人で洞爺湖温泉に小旅行です、
(1132)塩狩峠 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:03月22日(木)23時10分00秒
映画「塩狩峠」が話題になってます。 大夕張での撮影は昭和48年の3月18日〜20日と5月に行われています。 4月20日には大夕張鉱業所の閉山が提案され、SLには閉山反対のペイント が施され町全体が騒然とした中で5月の撮影がなされたようです。 映画では和寒町の塩狩峠はラストの部分だけで、全編にわたり大夕張鉄道の 書駅や鹿ノ谷の教会などが登場します。 小説の映画化に当たっては当初は予算もなく、列車も撮影所でセットを組み撮 影の予定でしたが、アメリカの伝道教会の資金援助が得られ大夕張鉄道での撮 影になったそうです。 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5963/movie.html
(1131)塩狩峠ピョン 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月22日(木)21時34分03秒
「塩狩峠」ですが本家JR宗谷本線?チョット怪しい 昨年出張途中で国道脇に有りましたので見て来ました 線路と駅舎の感じは大夕張駅のような感じで 勾配はシューパロ駅付近かな?・・・ ちょうど秋も終わりの頃でしたが、原作者の「三浦 綾子」さんの 1周忌の頃でしたので、ファンの方やかなり御付合いの深かったような 人達が多勢いらっしゃいました 駅舎の脇には、三浦綾子さんの旧宅が移転保存されており 記念館兼資料館として開放されており 尚且つ無料には驚きです! 線路脇には、この題材に取り上げられていました、 献身的な鉄道職員のかたを顕彰する碑が 行き交う列車を見守るように建立されています。 一度訪れる価値は大有りですね! 秋の頃に訪れると、紅葉に包まれた風景も本当に素敵でした オススメの一つです....。
(1130)佐々木様へお願いします 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月22日(木)20時24分22秒
佐々木さん、素敵で楽しいお話、いつもありがとうございます。 「塩狩峠」の貴重な秘話まで聞くことができました。 もし、よろしければ、もっとお聞かせ願えますか? 例えば、監督さんや、スタッフのかたの事とか、教会での 聖歌の練習の様子とか、撮影の合間の様子とか、出演料の額とか、 何でも結構ですので、さしつかえなければ、お教え下さい。 よろしくお願いいたします。
(1129)佐々木洋子さんへ 投稿者:池田憲治 投稿日:03月22日(木)19時51分13秒
パソコン購入おめでとう。「かしがっていた」など懐かしい言葉を憶えて おりますね。所さんは店を始める前は、我が家と隣同士でした。 馬屋原さんとは、私と10歳ほど下の妹と同じクラスの子がいたようです。 幼稚園がいっしょというのは、年齢が合わないような気がするので、 馬と銭湯をやって居られた方の他に親類がおられたのかな。それとも 長男の子?
(1128)本の名は・・ 投稿者:内川 准一 投稿日:03月22日(木)18時44分33秒
3月13日の投稿の続きです。 本のタイトルは「日本語ウォッチング」(岩波新書) 読み返してみて、投稿に間違いがありましたので訂正します。 青梅市ではなく「奥多摩町の氷川地区(鉱山)」でした。 「10人の炭鉱夫とその家族が北海道方言を当地に持ち込んだ」 とありました。 (バカコクナヤ!ナ) はい、すいません!気い付けます!
(1127)申し訳ありません 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月22日(木)12時56分15秒
池田さん まだ不慣れなもので同じような文章を 入れてしまいました ごめんなさい 昨年中にパソコンを買おうと決心していたのに ついつい買いそびれていました(設置場所等) しかーしついに注文しました この『ふるさと大夕張』のおかげです あっとゆう間に決定です 父や母も楽しみにしています 4月上旬には家で拝見出来そうです 先日 馬屋原さんのお名前を拝見しました 私は中学の入学式に馬屋原さんと会いました なんと大夕張の幼稚園で一緒だったのです いちご狩りに一緒に行ったような思い出があります その馬屋原さんと親戚の方でしょうか?
(1126)『塩狩峠』と○○の臭い 投稿者:飯田 雅人 投稿日:03月21日(水)22時07分16秒
佐々木さんの書き込みを読んでうちにある『塩狩峠』を見てみると,かわいい 子ども達が着物を着て賛美歌を歌っていますね。佐々木さんがその中にいるの ですね。なんだか大夕張でロケをしたということともに映画『塩狩峠』にいっ そう親近感がわいてきました。 池田さんの臭いで思い出しましたが,子ども自分遊んでいてかくれんぼやかんけ りなど,家の軒下を駆け回っていました。今のように塀とか門などがあるわけで なく,他の家も自分の家もありませんでした。そんな中かならず家の裏手にまわ るとしめっていて,コケなどがたくさん生えている場所にでました。そして鉄の 丸い蓋がある・・・そこはアンモニアの強烈な臭いが漂っていましたが,不思議 ときたないとか,さけようなどとは思わなかったような気がしますが・・・。 今は納豆のにおいさえ気になる人がいて,先日においのない納豆が発売されると か報道されていました。当時は,まだまだいろんなにおいが街のいたるところに あったように思います。 野田さんありがとうございます。ここに投稿されている以外にも,まだまだいろ んな方が見てくださっているんでしょうね。
(1125)残して 投稿者:池田憲治 投稿日:03月21日(水)21時33分47秒
佐々木さん、せっかくですから残して下さい
(1124)またもやごめんなさい 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月21日(水)18時50分53秒
飯田さん 先の投稿を削除して下さい お手数おかけ致します
(1123)突然ですが塩狩峠 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月21日(水)18時46分05秒
昭和48年松竹作品の「塩狩峠」は 三菱大夕張鉄道でロケがありました(有名ですね) 私の父は主役の中野誠也さんと新克彦さんを 機関庫から鹿島旅館まで送迎したそうです 当時はまだ自家用車を持って居る人が少なく 抜擢されたのでしょうか 車内の天井にサインを頂いたそうです エキストラとして撮影にも参加しました 恥ずかしながら私も出演したのです 6歳の時 鹿ノ谷の教会で着物を着せられ 讃美歌を唄い さようならと出てくる場面です 出演料も頂きました 十数年前 ビデオを探し2万円?くらいしたのですが 取り寄せして家族で見ました はりきって見ますと父は画面から外れている〜 私は映っているけどわからない〜 という結果に終わりました 懐かしい思い出だけが残りました 飯田さん おいしい情報ありがとうございました
(1122)臭い 投稿者:池田憲治 投稿日:03月20日(火)19時20分36秒
冬は教室のストーブの下に入れた弁当の臭いが教室中に漂っておりましたね。 話は替わって自分達の時代は教室の電気はどんなのが、点いていたのか 思い出しません。
(1121)ご苦労様 投稿者:野田 卓見 投稿日:03月20日(火)14時45分50秒
S25.4.2生まれです s43まで大夕張にいました。 飯田さん・・面識はありませんが時々このホームページを眺めています。 知っている人はあまり見かけませんが、楽しく拝見させてもっらっています。 このホームページを管理されている飯田さん及び手伝いの人達? に一言 [ご苦労様」です メールを出さなくても閲覧している人はたくさんいるはずです。 今後も頑張って下さい。
(1120)ヒロ 三浦様 ありがとう!! 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月20日(火)14時22分40秒
ヒロさん、そうです、そうです、あのカレーのCMの、 女優さんは、たしか松山容子さんですよネ! 昔は、我が家では、もなか形のカレー粉を使っていました。 母が、「夕飯に何が食べたい?」と、聞くと すかさず、大食漢の兄達が、「カレーがいい!!」と こたえていました。 亡くなった父だけが、「カレーか・・・・」と、ボソッと つぶやいていました。 つぶやいたところで、豪華なお刺し身が、出てくるはずがないのは、 皆、わかっていましたけれど・・・! いつも、あたたかなことを書いていらっしゃる、ヒロ様のハイカラな、 お名前を、拝見するたびに、ヒロ様は、洋行帰り(レトロな 表現よね・・) かしら、と思うことがありました。 父が、脳溢血で倒れる前夜、日ごろの様子からは思いもつかぬ ことを、母に言ったそうです。 「退職したら、一度、ハワイに行こうな・・!」と・・・ そのことは、果たせぬまま終わりました。 ヒロさんの、お名前で、つい、夢のハワイの連想をしておりました。 ホノルルに次ぐ、第2の都会、ヒロ市・・ ごめんなさい、ヒロさん。 かってな事を、書いてしまって。 でも、ヒロミウラ・ハレクラニ、というホテルや ヒロミウラ・ハワイアンズ、というバンドがあったら さぞ、すてきでしょうね!!
(1119)チャンバラ と カレー 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月20日(火)00時41分52秒
カレーライスorライスカレー美味しいそうですね、小野さんの書き込みは ヒョットすると「琴姫様」小塚D○N カレーでしょうかね? あれは何時食べても美味しさ最高ですねん! キャンプには必需品です、お子の頃に有ったなら 今時はMACを超えていたかな? 今、食べても美味しい事には変わらないかな ところで「ハリマオー」様は何処へ消えたのでしょうか
(1118)食憶11・お湯 投稿者:長谷川潤一 投稿日:03月19日(月)22時06分05秒
冬の味の大元だと思うんですが、湯沸かしのお湯のことなんです。ほとんどの家 では当然石炭ストーブでしたよね、鋳物のフジキ式とか鉄板のやつとかいろいろ。 ひょうたん型やトラックオーバル型、後部にいくと煙突が出るだけの尻すぼみ型、 石炭をまとめて投入する山高型、前からジュウノでくべるのとか上部の丸フタを デレキで引っ掛けて開け、さらに何重かのドーナツ状のフタを上げてオキを突っ ついたのとか。そして、湯沸かし器です。銅、真鍮、ステンレス製などで、これ 用のスタンドまでありましたよね。上から見た断面が満月から六日ぐらい?経っ たような欠けたお月様のようになっていて、その欠けたところがストーブの後部 側面に大体ピッタリくるような作りで、針金でグルッと巻いてガッチリつけてい ましたね。いっつもストーブをガンガン焚いて、湯沸かし器がグラグラ煮えて、 お茶でもご飯支度でも即席麺でも、掃除の雑巾掛けでも何にでも使ってました。 実際のお湯の味というよりも、とくに冬場はそこの家のニオイというか住んでる 人の風味というかカラーがちょっぴり解ったものでした。それは窓に張った防寒 対策のビニールが、すきま風の流れを止めていたせいです。よそんちに入ると、 湯沸かしからの湯気加湿にのって、たばこの臭い、漬け物の臭い、線香の臭い、 なんか油っぽい臭い、防虫剤の臭い、食事時の臭いなどそこの家に入った瞬間、 モワモワーッと顔に当たりました。そこにはいろんな人たちのいろんな生活の ニオイがありました。うちはきっと、かなり焼酎臭かったでしょう、ははは。
(1117)薬の包みと父の思い出 投稿者:飯田 雅人 投稿日:03月19日(月)19時11分16秒
魔法の薬の包み紙・・・子どもの頃,目にしていて,今も時々目にするもの なのに,思い出とは全然結びついていなかったものが,小野さんの文章がきっ かけで父の姿がふと蘇りました。 晩年病気がちで家にいることが多かった父は,夕食がすむといつも薬の入った 缶を開け,その日飲む分の白い薬包紙に包まれた粉薬と,オブラートを取り出し ました。そして,オブラートの上に粉末をのせ,丁寧に舌でオブラートを丸め ゆっくりと湯呑茶碗に入れた一杯の水で飲み込んでいました。 ある日,父がその粉薬を包んでいる紙の折り方を教えてくれたことがありました。 自分では,きちんと折っているように思ってはいても,どうしても父のように きれいに折ることはできませんでした。 やや背中を丸めてすわり,紙を折っているふだん物静かでやさしかった父の姿を思 い出すことができました。 ありがとうございました。
(1116)琴姫七変化のチャンバラごっこ 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月19日(月)11時54分37秒
テレビの無かった我が家に、御近所の、木下さん、古山さん 星山さんなど、色々な方が、おもしろそうな番組があると、よく、 誘って下さいました。 木下さんの家では、よく琴姫七変化を、見に行かせてもらいました。 それはきれいな琴姫さまが、主役で、悪者がでると、 七変化してやっつけ、最後には、何事もなかったかの様に、ニッコリ 笑い、日本髪にかんざしがキラキラゆれた、琴姫さまの美しい 顔がアップになって終わるという展開でした。 このチャンバラ番組は男の子も、女の子も結構、楽しめました。 木下家の2兄弟と、すぐ上の兄と私の4人は、ものさしを 刀替わりに、この番組をまねて、派手な立ち回りを して、ワクワクするほど、楽しく遊びました。 幸か不幸か、女の子は、私1人だったので、お姫さまとは、 遠くかけはなれたご面相でも、琴姫役を演じる 栄誉にあずかりました。もし他に女の子がいたら、くのいち 女忍者が、私のハマり役だったでしょう。 おかげで、ふすまはボロボロ、畳はすり切れていましたが 親の都合など、お構いなく、チャンバラに夢中でした。 テレビでは、琴姫さまが、悪者をやっつけ、アッパレという 最後なのに、年下に生まれた因果でしょうか、私の方は 敢え無き最期を遂げるように、命ぜられ、あわれ畳の上に 斬り捨て御免となることもたびたび・・・ でも、サイコーに楽しかったんだ!!! オーイ、木下さんのひろあきちゃーん たまには、天国から降りてきて、思い出話をしようよ!!!
(1115)魔法の薬の包み 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月17日(土)21時44分07秒
普段は、丈夫な子供だった私ですが、6歳のある夜半、 激痛で眠れず、枕に黄色い膿と血が、耳からタップリ 流れました。 子供の事は、母まかせだった父が、翌朝、年休を取り 炭鉱病院につれて行ってくれました。 医師は、「中耳炎ですが、ペニシリン注射だとショック死する 危険があるので、飲み薬にしましょう。」 と、言いました。 私は、あんまり痛かったので、死ぬのではないかと怖れましたが、 「くすりを飲めば助かる!!」と、安心しました 白いサラサラした薬は、私を救う魔法の粉に思えました。 10個前後あった薬の包みは、寸分のたがいもなく、きれいに 折られていました。そして見事に美しく重ねられ、つながって いました。 私は薬を飲み終えるたびに、その紙をひらいては折り、また開いては 折り、くすりのお家をつくって遊びました。 あの頃、炭鉱病院はいつもこみ、忙しそうでした。 薬は、今のように熱シール封もなく、分包作業も大変だったに 違いありません。 薬を手渡してくれた、端正な顔立ちをした真面目そうなおじさんのことを 最近、母に電話で聞いたら、母や、兄が入院したときにも、 誠実で真面目な対応で、首をちょっと振るくせのある方だったと 申しておりました。 仕事とはいえ、薬の名や量を正確にはかり、一所懸命に患者さんのため 御家族のために頑張られた飯田さんのお父様の御霊前に よろしくお伝えください。
(1114)思い出話に花咲いて 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月17日(土)17時40分21秒
ヒロさんのお話は,8月13日イタヤカエデの木の下 でのお話でしょうか。町田さんご兄弟が見えていま した。交流会のページに,小さいですが,みんなで とった写真がのっていますね。町田さんが手にして いた鹿島中学の先生の名簿に石井のおじさんの名を 見つけ,お話したことを覚えています。 佐々木さんのお母様とお父様の 蒸気機関車と三菱バスが並走,恋人達の合図!σ(^^) なんて素敵なお話でしょう。 学校の見学旅行に札幌行きのバス中で,お世話になっ た憧れのバスガイドさんの,ほのぼのとしていて,し かもドラマの中に出てくるような絵になる情景ですね。 スナック「りり」が映っていた写真を以前見たことがある ようなのですが,手元にありません。 鹿島中へ通っていたころ,「白いスナック」という 曲が流行っていて,三吉神社の近くに白い扉をした (本当にそうだったのかわかりません・・・)スナック があったように記憶しています。 そこが「リリ」だったのかな・・・。 北海道銘菓ですが,最近夕張のワインにはまっています。 お酒はなかなか××な私でも美味しくていけます。 実際人気があって買われる方も多いようです。 次の銘柄がお勧めです。 「夕張スウィートワイン レッドナイヤガラ」 「シューパロスウィートワイン ナイヤガラ」 参考までに夕張市でやっているネット通販のアドレスも入 れておきます。
(1113)「通学列車」 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:03月16日(金)23時04分34秒
三菱大夕張鉄道保存会の奥山です。 当会で今回発行した絵はがき「三菱大夕張鉄道・想い出の駅」、お名前を拝見 すると大夕張掲示板の参加者の皆様からも沢山申し込み頂いているようです。 注文と共に皆さん、故郷や列車の想い出を綴って頂いているのですが袋詰めか ら発送まで会社から帰宅し家内と二人でやっている(家内制手工業です(^_^;)) ので個別にお便り出来なく申し訳なく思っております。お陰様で増刷分も底を つき、再度増刷しています。 田中さんが通学の想い出を書かれていますが3月14日の北海道新聞社会面「朝 の食卓」に下記のコラムがありました。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 「三菱大夕張鉄道」石森信義 2月27日の道新に「三菱大夕張鉄道の駅舎が、絵はがきになってよみがえる」 の記事を見つけたときはうれしかった。ありがたかった。その日は汽車通学生だ ったころを思い出して過ごした。 昭和21年の4月から27年の2月まで、私は旧制夕張中の生徒として、後半は 高校生として南大夕張から三菱大夕張鉄道に乗り通学した。 昭和21年の4月といえば、終戦の日から半年ほどしかたっていない。日本中が 貧しかった。当時、列車を利用していた学生は、夕中生、夕工生、女学校生、洋 裁学校生…その数、二百名は下らなかったろう。 複式の小さな小学校出身、大病から治ったばかりの私は、心身ともに小さかった。 だから、彼らがとても大きく大人に見えた。私は列車の中で、低い位置から観察 しては感心ばかりしていた。 日本画がうまい先輩、楽器が達者な先輩、いつも英語を暗記していた先輩、分厚 い文学書を読みふけっていた先輩…。みなが輝いていた。それは死のふちからは い戻ってきた者たちの喜びであったのだろう。 三菱大夕張鉄道の小柄な機関車は、豊かな才能を持った若者をいっぱい抱え、休 みなく走り続けてくれた。 「石ころの会」代表・静内 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 皆さんの声援と共に、雪融けからの列車の補修に力が入いる「コラム」でした。 http://plaza22.mbn.or.jp/~Noritax_World/ehagaki/ehagaki.htm
(1112)年寄りが増えてよかった 投稿者:池田憲治 投稿日:03月16日(金)19時37分51秒
田中紀子さんが2期下とは知りませんでした。私、教科書を折りたたんで ポケットに入れていたり、家に帰らず土曜日の教科書をもったまま月曜日に 学校に行っていた悪だったので、同じ駅から乗っていたので知っていたと 思います。弟と妹は出来が良かったのが幸いですが、妹は3年程前、東京にいる 貴女の妹に呼ばれて泊まりに行ってます。
(1111)同期会 投稿者:田中 紀子 投稿日:03月16日(金)19時02分29秒
ヒロ三浦さん、去年の夏の出来事拝見しました、確かに私達の同期生です、 定山渓の帰り何人か大夕張に向かいました。私は行きませんでしたので、 ヒロさんにはお会いしておりません、残念でした、昨年の同期会は還暦記 念の会でしたので大変盛会でした、 大夕張を23歳で出てから早や37年にもなります、清水沢の南高まで 1時間の汽車通毎朝確か7時10分位に千年駅から乗り清水沢駅から さらに30分位歩き学校につきます、あの頃は交通の便も悪く大変でした。 皆さんの掲示板を見ますとお若い方達ばかりなので私の話は見えないかもネ、 でも佐々木洋子さんの投稿をみてほんと昔の方言思い出し懐かしいです、 私の母はよく失敗すると(ゴッペカエシタ)なんて言ってました、今私が 孫に使うと何それってと笑われています、 食べ物も確かに地域性ありますね、我が家も赤飯は甘納豆でした。
(1110)去年の夏の出来事! 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月15日(木)22時31分47秒
住民登録を拝見したところですが、田中さん(旧姓 馬屋原さん)の同期会が 昨年、定山渓で開かれたとの内容でしたが、その翌日 何人かの方々と 鹿島小学校のグランドでお会しましてお話をお聞きしたのですが 田中さんの同期生の方々だったんじゃないかな その時の模様が「最近の大夕張」のコーナーに掲載されているはず?ですねー 詳しくは「飯田さん」が覚えているんじゃないかな、確か卒業年次が同じだった 記憶が・・・その日はホテルシューパロに宿泊の予定とお聞き致しました 皆さん、本当に童顔そのもので輝いていました!
(1109)うれしいです 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月15日(木)19時12分10秒
飯田さん ありがとうございました やっぱり砂糖ですよね・・・あーよかった 昨日家に帰ったらな・な・なんと甘納豆のお赤飯でした ちょっとびっくりしました 今、我が家のブームは大夕張です この掲示板を最初から印刷しましたので 母が毎日家事もせず、読みふけっています(本人談) ただ同年代の方が少ないようで、知り合いの名があまり出ず 残念そうです 学校の先生の名前や懐かしの地名など見ては、なつかしがっています 昨日、突然「夕張岳の写真を飾ろうか」と言っていました 私の父は機関庫で機関士助手(釜たき?)として働いていました 母は三菱バスでバスガイドをしていました まだ恋人同士だった頃、線路と道路が並行して走っているところで (シューパロ湖?南部?)お互いが乗っているのがわかると 運転手さんはクラクションを・・・機関士さんが汽笛を鳴らして 合図してくれたそうです そんな事が出来るなんて、機関車がよほど遅かったのでしょうか H9年に大夕張にお別れに行ったとき、札幌の叔母(母の妹)が 話してくれました たまに千年町の「所商店」が、話題になっていますね 私の親戚になります 叔母が父の姉です 隣の「スナック リリ」(リリー?)を経営していました 所商店はおじいちゃんかおばあちゃんの経営ではないかな? 私が中学3年の秋に行った時は、なんだか家がかしがっていて 特にトイレがすごかったのを覚えています 話は変わりますが今日、北海道銘菓の「カステーラ」(一本70円)を 電話注文しました このお菓子は大夕張に居た頃にあったのかわかりませんが すごくなつかしくて大好きなのです (牛乳と一緒に食べるともっとおいしい) 会社にもファンがいるので4ケースもお願いしました それから「きびだんご」(一本100円)も好きです 栗山のだったと思います 「きびだんご」は東京有楽町の北海道プラザで販売していました 残念ながら「カステーラ」は、探したけれどありませんでした 皆さんの北海道銘菓はなんですか?
(1108)方言かな? 投稿者:池田 憲治 投稿日:03月15日(木)19時07分37秒
同じ愛知県に住んで、ゴルフ場のキャディをして働いている妹が、客がバンカーに 入れた球を出した後、デレッキ、デレッキというので、北海道の人ですかと聞くと、 大夕張だと云うのでビックリしたそうです。もしかしたら、ここを訪れている人かも?
(1107)人々でにぎわった教会のバザー 投稿者:小野 美音子 投稿日:03月15日(木)19時06分32秒
もう 40年も昔になるのでしょうか? 教会の裏庭でそれはそれはにぎやかな バザーが催されました。 沢山の人々が ジュースや食べ物を手に 即席ステージで 演奏される 音楽を楽しみました。教会は聖歌のように聖らかな音楽を演奏するところと 思い込んでいた幼い私は、カントリーウエスタンの陽気なオープニングの バンジョーや、動物のいななく擬音などに圧倒され最初は固まっていました。 しかし、ウエスタンシンガーの哀愁にみちた故郷への歌を熱唱する頃には すっかり魅了され、その場に立ちつくしていました。 たしか、ハワイアンも演奏されました。 西牟田神父様はことのほかゴキゲンでいらっしゃいました。 河村先生は忙しそうに働き回っておられました。 私の母は、信者ではなかったのですが、お手伝いを頼まれ、ハムを焼き、 ハムサンドバーガーの様なものを作って売ったそうです。 2週間前位の朝日新聞の死亡欄でカントリーウエスタン歌手、黒田美治(70) 氏の写真を拝見し、もしやあの時のシンガーでは?という気がしています。 葬儀はカトリック教会でおこなわれたそうです。 アメリカにいらっしゃる神父様も、にぎやかだったあの大夕張のことは 忘れられないことと思います。 優しかった最初の憧れの河村先生の御冥福を心よりお祈りしたいと思います。
(1106)懐かしさに・・・ 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月15日(木)00時18分06秒
佐々木さんの食べ方の話を読んだら, いっぱい思い出しちゃったべさ。 そうそう,ふかしたジャガイモにバター うちもやってたよ。砂糖かけて。 トマトに砂糖はこれまたうまかったね。 今はミニトマトで野菜サラダの上なんかに 上品面してのっかって出てくるけど,当時は 子供心にたいしたデザートで,まず皿にたっ ぷり砂糖を山盛りにのせるんだわ。そしてト マトはぜったいひとつまんまさ。切ったりし ないのよ。そいつにたぁ〜ぷり砂糖をつけて, がぶっとやったねぇ。厚くて固い皮のがりっ とした感触と,内側からこぼれ出てくる汁が 懐かしいなぁ〜。 おれ,今でも時々やるよ。トマトはこの喰い 方が一番うまいんだわ。 納豆に砂糖もうまいよ。うちはそれに生卵と いてから,ご飯にぶっかけてくってたもんな。 これやると納豆の糸があんまし気になんなく なるのね。 お赤飯には甘納豆が正しいと子供の頃,ずーと 思ってたね。だからこっちきて,喰った赤飯の 味気ないのはまいったわ。 甘いといえば大夕張の甘酒も甘かったな〜。 甘酒が甘いのはあたりまえかもしれんけど, たしか大夕張でつくる甘酒は砂糖がどっぽり ハイってたんでないかい。ここらで売ってる 缶入りの甘酒の薄いったらないしょ。大夕張 の味は濃かったべさ。 ---------------------------------------- すみません,ちょっとおふざけがはいりすぎ ました。m(_ _)m 佐々木さんの書かれた方言や,食べ物の話は, 当時の生活を思い出させてくれました。 年越しの料理のことも「北海道では,正月料 理でご馳走一杯で年越しするけど,内地はち がうんだよ」という話を本州から来ていた近 所のおばさんに聞いたことがありました。
(1105)方言 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月14日(水)20時46分13秒
方言の話題が続いています。 書名は忘れましたが北海道新聞社から方言に関する書籍が刊行されていて その著者が夕張東高校の校長を努めた方でした(既に絶版と思います)。 その中で三菱大夕張炭鉱病院で、高額の紙幣しかなく清算に困っており 居合せたおばあちゃんから小銭を「けれる」(くれる)と云われ、その善意 に甘えたエピソードが語られていました。
(1104)気になっている事 投稿者:佐々木 洋子 投稿日:03月14日(水)13時22分05秒
初めまして まだ自宅にパソコンが無いので会社で拝見しています 初心者なのですがよろしくお願いいたします 君津にはたくさんの大夕張出身者がいると思います 引っ越しした当時は同じ団地に住んでいました 皆 家を建ててバラバラですけど・・・ 北海道方言と言えばたくさんありますが『うるかす』(つける・ひたす)は 標準語だと思っていました 10数年前に千葉県人に指摘され驚いて辞書で調べてしまいました 先日 友人(親が室蘭出身)に『うるかす』の話をしたところ いままで標準語と思っていたと言っておりました 『かしがってる』(傾いている)もそうでした 祖父 祖母 父 母 家族が大夕張出身で北海道弁でしたので当たり前です 特に祖母が『あずましくない』(居心地が悪い)とよくしゃべっておりました 10年前に亡くなりましたので最近はあまり聞きませんね 家では(ごみ捨ての日)は『ゴミを投げる日』です 『かまかす』(かき混ぜる)は千葉では『かんます』と言っている人がいます でもその方のご主人が札幌の方なのでたまに北海道弁を使っています 『ばくる』(交換する)は最近あまり聞きませんが 社員に訓子府出身者が いますのでたまに聞くとなんだか懐かしく思います 気になっていることは食べ物の食べ方です 祖母が単に砂糖が好きだったからでしょうか? ふかしたジャガイモにバターと砂糖 トマトに砂糖 茶碗蒸しもポテトサラダも甘い 父と私はいまだに納豆にも砂糖です(会社のものに馬鹿にされます) お赤飯は甘納豆です 内地(本州)の赤飯を初めて見たときびっくりしました 木更津のお肉屋さんで甘いポテトサラダが売っています 食べると祖母を思い出します 大晦日には年越しそばを食べますが わが家では夕飯に 正月料理のご馳走を年越しとして食べています(そばは23時頃に食べます) 普通はそばだけとか 普通のご飯とか聞きます 皆さまはいかがですか?教えてください
(1103)ふと思ったこと 投稿者:内川 准一 投稿日:03月13日(火)19時23分34秒
下のヒロさんの掲示を見ていてあることを思い出した。 千葉県君津市と東京都青梅市の一部では、以前から北海道方言「アオタン」 が通用する。と言うこと。 これは不思議な現象です。 堂々たるこの北海道弁は、昭和30年代から40年にかけてこの土地に 持ち込まれ、しかも、現在、都心制覇に向けてじわじわと拡大中とのこと。 テレビの影響力とは全く逆方向な、これは、方言が共通語としての市民権を 獲得する動きらしい。 オチは、はい、もうおわかりですね。 そうなのです。 当時、炭鉱が落ち目だったとき、北海道の炭鉱から青梅鉱山に職を求めてわたった 炭鉱夫の息子たち。君津の鉄工所に職を得たお父さんについていった炭鉱の ワルガキ仲間が、あちらでもパワフルだったため、 彼らの使う方言も、へこたれることなく、ついに市民権を得たのでした。 終わり。 (興味ある人がいれば本の名調べます。)
(1102)昭和37年鹿島中学卒業生探しています。 投稿者:福本 喜芳 投稿日:03月13日(火)17時47分56秒
昭和37年卒業のかた連絡ください。D組武井宏幸先生が担任でした。 名簿は手に入れました。同窓会ができたらと思っています。
(1101)あちこちにいらっしゃいますね! 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:03月12日(月)22時19分37秒
先程、住民登録を見て思い付きましたが、千葉県君津市は自分の同期生がいまして 高校卒業以来、約30年同じ職場で勤務しているんですが、この街はカナリ 大夕張出身者が多いんじゃないかな? ちなみに同期生は大夕張でも数少ないパン屋さんのご子息でしたので ハローページを探すと意外と簡単に見つかる可能性も有るんじゃないかな? 意外と近くにいる大夕張原人!です
(1100)空知地方史研究協議会編「空知の鉄道と開拓」 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月10日(土)18時26分27秒
空知地方史研究協議会より「空知の鉄道と開拓」が刊行されました。 内容は空知管内の国鉄から私鉄・専用線・森林鉄道までの歴史が網羅され、各 市町村の郷土史家等が中心になって執筆しています。 「三菱大夕張鉄道」については一時期、夕張東高校の教諭を務めた北海道開拓 の村学芸課長の野村崇氏が執筆しており想い出として以下のコラムが掲載され てます。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 思い出の大夕張鉄道 私がはじめて、大夕張鉄道に乗ったのは1951(昭和36)年、春3月の 末、大夕張の地はまだ深い雪におおわれていた。3月25日の大学卒業式の 前夜、「ユウバリカシマコウコウにキマル」という実家からの電報に、少し 晴れやかな顔で卒業式をすませ、就任の手続きのため帰省した。数日後、朝 早く室蘭線三川駅から蒸気機関車の牽引する客車に乗り、追分で乗りかえ、 だんだん山奥に入っていく。清水沢で大夕張鉄道に乗り換えた時は、まだこ の先に人が住んでいるのかと思った。清水沢方面から車で行く場合は南大夕 張で貨車に積み替えると隣の人から聞いて驚いた。南大夕張〜明石町間には 、1952(昭和37)年まで道路がなく陸の孤島であった。赴任以来の8 年間、大夕張鉄道は私の通勤列車であり、発掘調査から疲れて帰って清水沢 駅から、あの煤煙のしみこんだ客車に身を横たえると、我が家に帰ってきた 安堵感にひたらせてくれる憩いの列車だった。就職、結婚、長女誕生と、私 の人生のスタートには、三菱大夕張鉄道がいつもそばにあった。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ この「空知の鉄道と開拓」一般には1.500円で販売され、希望者は開拓 の村野村崇氏に連絡くださればとの事です。
(1099)「地域のお年寄りのお話を聴く会} 投稿者:奥山道紀@シューパロ塾 投稿日:03月08日(木)23時38分12秒
「シューパロ塾」本年度最後の学習会の案内です。 南部地区に長くお住まいのお年寄りの方々に、昔の生活や文化、まちの 移り変わりなどの話を伺い、参加者とお年寄りの気軽な懇談形式で行います。 日 時 平成13年3月10日(土) 午後1時 場 所 南部コミュニティーセンター(夕張市南部東町) 参加料 無料 問い合わせ先 事務局 伊藤勲 夕張市南部幌南町31 電話01235−5−5011 Eメール:isao5011@seagreen.ocn.ne.jp
(1098)バスのはなし 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月04日(日)16時59分01秒
先程,鹿島小とグランドに停車中の夕鉄バスの写真をアップしましたが, 大夕張から夕張や札幌に向かう時の記憶は昭和30年代は,大夕張鉄道, 40年代はほとんど,バスの印象です。 子供の頃,きっと男の子だったらどなたもそうだったと思うのですが,乗 り物に心惹かれ,とくにバスは絵や紙工作で描いたり作ったりしていました。 夕鉄は色や(赤いラインのものや旧夕張バスの青系のもの)形(日野を はじめ,メーカーも何社かあったような・・)も三菱(鉱)バスにくら べてバリエーションがいろいろあり,興味がひかれ,形を覚えていきました。 その名残りで,今でも当時のバスの絵を鉛筆で描くことができる程です。 下記に当時の夕鉄バスの写真が出ています。バスの姿を見ていると,大夕張 駅前からバスに乗って出かけた少年時代にタイムスリップします。
(1097)夕張タイムス記事 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月03日(土)01時14分21秒
3月1日発行の夕張タイムス(発行所・夕張市昭和1−12夕張タイムス社)で も「想い出の駅舎絵はがきに・三菱大夕張鉄道保存会」と大きく紹介されてい ます。記事では「セピア色のそれぞれの駅舎に各駅発行の入場券・切符のカラー 写真も配している。走行中の列車の写真を表にした説明カードつきで一組千円。 市内鹿島出身の広告代理店勤務乗田功一さんがデザインした」とあります。 乗田さんの素敵なデザインが故郷を離れた人々の心を捉えたようです。 北海道新聞のホームページでも地域の話題として掲載されています。↓http://www.hokkaido-np.co.jp/News/Backnumber/Index/20010228.html
(1096)「想い出の駅」増刷 投稿者:乗田 功一 投稿日:03月02日(金)20時25分05秒
乗田です。 飯田さんのHPにはもう1年(以上?)もお邪魔していませんね。 申し訳ありませんm(_ _)m 奥山さんや飯田さんからのご紹介どおり、絵はがきセット『想い出 の駅』は大変好評のようで、製作担当者として御礼申し上げます。 新聞(道新)に紹介記事が掲載され、その反響の大きさに驚きまし た。記事は広域地方版だったようですが、全道版だったとしたらさ らに多くの注文が殺到したのでしょうね。 この絵はがきセットは単に鉄道ファンの方だけでなく、かつて沿線 に住んでいて色々な想い出があるという方にぜひお勧めします。 いずれは道内だけでなく全国的に告知できれば、閉山で全国に移転 された大夕張出身の方々の目に留まると思います。 追加印刷は発注済みなので来週には発送できる見込みです。 どうかよろしくお願いします。
(1095)想い出の駅(2) 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月01日(木)22時02分36秒
昨日と今日で「絵はがき」在庫がなくなりました。 急遽増刷をかけておりますので、来週早々には発送出来るものと思います。 既に申し込みの皆様には申し訳ありませんがもう暫くお待ち下さい。 それにしても反響の大きさに驚いてますm(_ _)m