(昭和40年代 ) @@画像をクリックすると拡大表示されます@@ | ※昭和43年版 夕張市戸別案内図をもとに作成 |
中学生の頃,他愛もない話ですが,当時人気のあった青空晴夫,明夫という漫才のコンビが大夕張にきて,その時,「池田屋で飯を食べていたのを見た」という友達の話をと感心しながら聞いていました。昭和47年4月,家族とともにいよいよ大夕張を去ろうという時,この池田屋で母親,弟とラーメンで昼食を取りました。当時の習慣からして大夕張内でほとんど外食というものをしたことがなく,池田屋で食べた大夕張で最初で最後のラーメンは嬉しいようなさびしいような悲しく何とも言えない複雑な気持ちで,人の少ない店に響くつけっぱなしのテレビの画面とともに覚えています。また,当時大夕張にあった唯一の旅館が鹿島旅館で古くてちょっと重厚な感じのする建物だったように思います
(3)【邦雄さん】
小学校四年生の時に明石町より緑町に越してきました。
明石町は大夕張への入口にあたる所に位置して、小さく孤立した町で、商店は生協・購買会・津留商店の三店舗と記憶しております。
当時、緑町に越して来た時は大きな都会のイメージがありました。
その頃よく池田屋の店先で棒アイスを買って食べるのが楽しみでした、今考えると、あの棒アイスの棒は池田屋食堂で客が使った割り箸をアイス棒に使っていたのでしょうか?
(2)【斎藤敏幸さん】
1978年・大夕張・再会
私は、閉山の前年に当たる1972年3月に夕張東高を卒業しました。 閉山後両親は、函館に居を構えました。そのためか、大夕張に帰る機会もなく数年が過ぎてしまいました。 大夕張と再会できたのは、1978年の7月でした。当時私は、釧路に住んでいましたが、職場の研修で札幌に出た時、帰ることができました。 その頃は、大夕張の夢をよく見ました。夢から覚めると、たまらなく会いたくなったものです。 バスが明石町を過ぎたあたりから、あれ程軒を連ねていた炭住は既になく、町は原始の姿に戻りつつあるように見えました。 終点の大夕張でバスを降りる人は、3人ほどでした。 バスを降りてから、あちらこちらと思い出の場所を歩きました。しかし、18年間生まれ育った故郷でありながら、違和感みたいのものを感じていました。 懐かしくはあるのですが、以前と違って溶け込んでいけないのです。 既に両親も転居し、知人も離散してしまった後では、落ち着ける場所が見つからないのです。 そんな時、池田食堂に立ち寄ってみました。こちらの長女の方とは同級生で、何度か遊びに来たこともありました。 食堂はまだ営業していました。おばさんは、私のことを覚 えていて下さって、色々と「その後」の話をしました。 ビールを飲みながらそばを食べて、支払いを済ませようとするとおばさんは、「これが、故郷の味だよ、元気で頑張るだよ」と言って、お金を受け取ろうとはしませんでした。 バスを降りて以来感じていた違和感が、ここで一気にほぐれるのを感じました。 池田食堂のおばさんは、今もご健在かと思いますが、再会できる機会があれば、改めてお礼を言いたいと思います。 帰りのバスの窓からは、小高い丘にそびえ立つ東高の校舎が見えましたが、陽に当たり輝いていたのが印象的でした。 今は、東高の校舎も、池田食堂(建物は残っているようです)もありませんが、これが1978年の、私と、大夕張の再会でした。
(1)【小笠原 憲 さん】
大夕張の旅館
先日の新聞に永山則夫さん(同い年なので)の死刑が執行されたという記事が大きく載っていました。その付け足しのように日高夫妻も処刑されたとありました。大夕張の元旅館だった作業員宿舎に放火して大勢の作業員を焼き殺した夫婦です。鹿島のニュースが全国に流されたのはこの陰惨な事件が最初で最後だったのでしょうか。この、元旅館は生協の向かい側、ソバ屋の池田屋の並びにありました。わたしは、大夕張から三笠に引っ越す前の2日間ほどをこの旅館で過ごしたことがあります。中学に進む春休みのことで、友達にも会えませんでした。
もと池田屋(現「張張」)と鹿島旅館跡 (平成9年8月13日)
【もと池田屋食堂】
かつての池田屋の建物は,『張張』(ばりばり)という居酒屋になっていました。建物こそ昔の佇まいを残していますが,池田屋は今から13年前(昭和63年)に売却され経営者が変わりました。その後,7年前に母親から食堂を継いだ息子さん夫婦が経営しているそうです。地区で唯一の居酒屋に集う,常連の方々の様子は,平成9年4月28日にTV番組で放送されました。ダムの話が持ち上がってからというもの,お客の数も半分になってしまったとか・・・・。大夕張で多くの人々に親しまれてきたこの店も,どこかへ移転ということになるのでしょうか。(追記…その後,『張張』は南部のかつての駅前に移転しました。)
【鹿島旅館跡地】
『張張』のとなりの空き地が鹿島旅館の跡地です。あの事件(注)を知っているせいでしょうか,日中でも木が生い茂り薄暗く不気味な感じがします。
(注)
(((( 夕張保険金放火殺人 ))))
1984年5月5日午後10時過ぎ,夕張市鹿島栄町一,三菱南大夕張砿業所の下請け,日高工業の宿舎(旧鹿島旅館)から出火。従業員4人と,住み込み賄い婦の長女(当時13)と長男(同11),消火作業中の消防士が死亡。同年8月15日,配下の元暴力団員が「火を付けたのは自分だ」と名乗り出たため,保険金目当ての放火殺人と断定,18日夜,主犯として,日高安政(55)と信子(51)夫婦が逮捕された。この時,二人は従業員にかけていた生命保険1億500万円と,宿舎の火災保険3000万円の計1億3500万円を保険会社から受け取っていた。裁判の結果,夫婦そろって死刑判決。事件から13年目の今年(平成9年)8月1日,日高夫婦の死刑が執行された。
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