夕張岳登山 | 長谷川 安造 |
(明治37年生〜平成10年) 昭和13年4月大夕張に教員として赴任。昭和31年4月転出。 |
昭和13年春から夕張岳に一番近い麓の、大夕張尋常高等小学校に勤めることになった。 この学校では早くから、児童の健康体力増進を重視し、その一つとして、毎年夏休みに入るとすぐ夕張岳(1668m)への登山を計画し、年中行事としていた。 高等科1,2年生の内病弱な者をのぞき全員が参加することになっていた。 岳の高さは道内11番目くらいだが、登る途中のお花畑が美しいこと、頂上からの展望がすばらしいということもあり、麓の人はよく登った。 昭和の初めには、登山道もなく、ぺンケモユーパロ川沿いに(一名白金川)右岸、左岸と川を渡り歩いて9時間かかり、たどり着いた上流地の木陰で一同野宿した。 翌早朝食事を済ませ、高山植物の美しく咲くお花畑やはい松の中を横断しながら頂上をめざし、ようやく登りきって、遠く太平洋上にご来光を拝む。 この快感を忘れ得ず、私など十数回登った。 その後、夕張岳には狭いながらも登山道、つり橋、ヒュッテなども設けられ、営林署の許可を得て、学校行事として活用できることとなった。 昭和16年、7月受け持ちの高等科2年女子生徒40名と職員4名で、夕張岳登山行事が発表された。児童は夏休みに入るとすぐ、一日千秋の思いで登山準備、私もこのたびは責任者として緊張しつつ、出発までは持ち物等再点検して待った。 いよいよ当日となり、一同予定時間どおり8合目付近のヒュッテをめざし出発した各自のリュックには2泊分食料と衣類等が詰め込まれ、かなりの重さになっている。特に小柄な児童には背負う大きなリュックがめだつ。途中の坂道や、所要時間等が頭に浮かび彼の児は歩きとおせるのかなと不安が頭をよぎる。 いつもの要領で1時間歩いたら、必ず10分間は休憩を取りながら登った。嬉しくもみんな良くがんばってくれたので、午後4時前には一同ヒュッテ着となり、皆指示に従い、疲労も忘れて夕食の準備に入った。山での炊飯は早いもの、あちらこちらと分かれて石暖炉を囲む児童達の輪から歓声が湧いてくる。 やがて、ヒュッテ内でそろいの舌鼓うち、明日の頂上への夢枕につく。 翌早朝は洗顔もそこそこに、薄く霞む霧の中を足元に気遣い、皆言葉もなく黙々のぼる。明け行くとともに、お花畑の美しい登りを過ぎ、はい松の群生を横断し、間もなく急な崖道になる。大石のごろごろ重なり続く道。これを登り切ると頂上だ。東の空は幸い明るい。 登り着いた者から「万歳万歳」の声。しばらくして一同ご来光を眼前に神々しい壮観に見とれ感慨無量。 用意の汗とりと厚着に身を包み、ゆっくりと腹ごしらえにかかる。小樽・苫小牧の海、日高連峰、十勝岳、芦別岳を眺め、雲間からわずかに見下ろすことのできるわが街を見つけ、皆大喜びの爽快ぶりだ。 下山は急がず走らず今日の恵まれた天候に感謝いっぱいでヒュッテに着く。 汗拭き、川原で手足を洗い、これから昨夜同様夕食の準備に入る。 その矢先、一人の児童があわただしくかけより、 「先生!Mちゃん橋から落ちたの!」 「ええっ!」私は驚いた。 すぐ、ヒュッテ横の小川にかかる二本の丸太掛け橋(高さ4・5メートルくらい)にかけつけた。 M子は石の川原に起き上がり、 「先生・・・私の手動かないの、どうしよう」 と泣き寄る。 見ると片手首複雑骨折らしい。 「大丈夫、しばらくがまんしてよ」 となだめ、持ち合わせの麦粉と酢、を練り合わせ、油紙で患部に塗布、それから風呂敷で前腕を吊り固定する。そして安静に休ませ一夜明けるのを待った。この驚きと心配でにぎやかな昨夜にかわり、隠忍自重といった様子で夜明けを待ち下山の途に着いた。 M子は朝食もふだんと変わりなくとり、意外と元気であった。日頃から明るく、滑けい味のある性格で、応急処置の吊り腕ながらも友を笑わせて下り歩いてくれた。 橋から落ちた際も、わらじの紐をほどき、そのまま足を引きづり飄々と渡って、紐を踏んで落ちた様である。 下山後は直ちに町内に整骨治療には有名人がいたので、そこで手当てを受けた。治癒も順調に進み、完治までの日数は長かったが、事無く終わり、私もようやく胸なで下ろす次第であった。いつもの世でも児童と教師府警が一つに心になれることだ。M子は今は天理市で相も変わらず朗らかに、還暦を迎える頃と思う。益々幸多かれと祈る。 |
(昭和62年8月17日 記) 卒寿記念随想集(平成7年)より |