@@@画像をクリックすると拡大されます@@@ (昭和45年/長谷川潤一さん 撮影)
<長谷川潤一さんのコメント>
『昭和45年くらいに大夕張炭山駅11:40発の列車をとったものです,大胆な混合列車の編成(人も石炭も同じ扱い)という,いかにも北海道の炭坑の鉄道という写真です。のんびりした昼下がりのサイレンと汽笛の音,山の中に消えていったのを線路に座って聞いていました。』
【旭沢橋梁】
清水沢駅に向かう間,この旭沢橋梁をはじめ深い沢を何度も通ります。この鉄橋も高さはかなりあったものです。その崖を少し下ったところから撮影されたのだと思いますが,この位置からみると蒸気機関車の迫力に圧倒されます。今でも多くの人たちの心を捉えるSLの魅力を感じます。さて,この旭沢橋梁ですが,私の祖父が教員として大夕張に赴任して2年程たった昭和15年頃,明石町の辺りの荒地を開墾耕作に入った時の事を,次のように書き記しています。
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・・・「世は一日一日と大戦争に近づいている。この頃の私の家で家族の栄養,物資不足補いの意味で養鶏,養兎,山羊飼育等を試み,自給自足方針の実施に入る。(中略)7月末,夏休みに入ると直ぐ,家族共々笹刈りから荒地開墾をし,秋大根の種まきまで,母には留守を頼み皆で耕作にはげむ。秋に入り収穫の大根運びはこれまた危険を伴う仕事であった。歩く道なく高さ25メートルの鉄橋を渡らねばならなかった。それぞれ背中いっぱいに大根をのせ,命がけの思いで渡ったものだ。」
(卒寿記念随想集『流れのように』長谷川安蔵著)
【旭沢橋梁の思い出】 真田裕一さん 平成10年11月23日(月)
あの鉄橋には、大変思い出がありまして、大夕張鉄道がなくなる直前、僕は鹿島東小学校の4年生で明石町に住んでいましたから、通学は、汽車に乗ってあの旭沢橋梁を通って千年駅で降りるのでした。
恐ろしく深い渓谷で、大人になった今でも、見下ろすと恐怖で目眩がするのでした。
しかし、当時の小学生の間では、とんでもない遊びが流行っていて、汽車が旭沢橋梁を通過するとき、おもむろに列車のドアを開けて(何故か走行中も開いたのです)、手すりにつかまって外にぶら下がるというものです。
つまり列車の外側で宙づりになるという、一種の度胸試しです。
今だったら、即刻PTAにねじこまれ、鉄道関係者は大騒ぎになるとことろです。
なにより、よく事故がなかったものだと思っています。
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