Rokuoh-Sha
Konishihonten    Cherry  Cmera
上   チェリー1號  名刺判  明治36年  
下右 チェリー2號  手札判  明治37年
下左  チェリー3號  手札判   明治37年


チェリー1號
チェリー2號



軽便写真器と児童用教育カメラについて

ブリタニア零番
明治20年代に、関西の人が東京人形町の辺りで営む有田商店が、素人用の写真器と云つて軽便写真器を売り出し好評を博した。それは手札の半分のサイズでニス塗りの箱型であった。夫れから又、神田の松富町の通りに、小さな店で素人写真器やが出来た。之れも物珍らしいのでたちまちの中、其店は多町の表通り新石町あたりへ移つて、営業にやる写真器を作り出して次から次と御客が来る。・・・・・・そんなに流行が盛んになつたので、追々写真趣味を持つた連中は製作して見たり、金具をやるものは見本を呉れゝば何んでもやると云つた様な、猫も杓子も軽便写真器を作つて店へ持つて行き考えて又やり直すと云つた具合だつた。凡て不完全極まるものであつたが、軽便写真器としては夫れ等が元祖と云つてよい位で、営業家の使用する丈夫向きな本式に出来た写真器などは本町の小西本店や浅沼商店でないと見られなかつた。有田商店の主人は西洋の簡易な幻燈器械を買つてきてはそれを職人に見せて写真器を考案させた。そして神田の御成道の大時計台が有つた下へ(旅籠町の通りでせう)引越し軽便写真器の店を盛大に開店した。・・・・・・・其店では、写真師になれる技術と云うものを器械を買つた人には特に一週間で秘奥を教えると云う広告をし客を呼んだので、来るは来るは毎日市をなした。そんな具合に大衆的に写真が流行しだして、あっちでもこっちでも箱型の中で種板を入れた枠が順々写せばエボを押して倒れる様なのが、方々売出された。横浜で革張りで優秀な外国製の軽便写真器が輸入されていたが、東京では其頃は外国製の軽便写真器は小西さんとか浅沼さんには見本ぐらい来ていたろうがあまり見かけなかった。そのうち小西や浅沼も外国製の軽便写真器を扱うようになつた。(新たな小売店が多く出来、小売店が下請けに注文して簡易な軽便写真器がさまざまに形を変え製作された。指物師が箱、錺職が金具、眼鏡屋が小さなメニスカスレンズを研ぎ、それを組み立てて販売していた。それは後の「円カメ」や戦後の「四畳半カメラ」の製造・販売の原形態である。この頃を以ってカメラの国産化が始まる。)簡易な軽便写真器はすぐに具合がわるくなるので、器械の直しの傍ら販売もする、云わば職と商を兼ねた軽便屋が繁盛した。浅草の西鳥越に「天外」という人がいて写真器の直しや相談をしていて繁盛し、職人を十人位かかえた。「天外」氏のもとにしげく通い勉強していた市川という人は神田猿楽町に写真器の店を開店し、しばらくして「天外」氏は神田今川橋の松屋の横町の方へ修繕と中古専門の店を開いた。「天外」宮崎氏の無三四堂である。
東京写真材料商業共同組合発行
東京写真材料商組合五十年史中の亀屋南北述「材料商としての四十年」より

営業写真師以外のアマチュア間に写真趣味がいっそう広まるようになったのは明治20年前後からで、その原因は、明治15年ごろから輸入されるようになった乾板にあった。写真もいいが、あのぬれ板(湿板)を作るのではと二の足を踏んでいた人々が乾板写真術に飛びついてきたのである。といっても、当時の写真器材は非常に高価なものだったので、ごく少数の大金持や華族、大学の教授のような高級サラリーマンにかぎられており、これらの人々は小西や浅沼のよいお客様であった。                                 
                                                                                                           小西六写真工業(株)社史編纂室編 「写真とともに百年」より引用


明治二十一年、二年のころ、東京・日本橋人形町のあたりに有田商店という店があった。この店主は、なかなか商才にたけた人で、 当時ようやく盛んになろうとする写真熱に眼をつけて、軽便写真器という粗末なカメラを発売した。小西、浅沼の店頭に並ぶ写真機 を高嶺の花とながめていた人々はこの安カメラに殺到し、たちまち門前市をなす活況を呈した。これに刺激されて、日本橋田所町の(注.東京市日本橋区人形町通田所町18番地、写真器械問屋東京冩眞館)や京橋新富町の内藤政愛商店でも一組三円五〇銭ぐらいの軽便写真器をまた大阪でも、西区京町上通りの扶桑商会 が一組一円二○銭のもの(ブリタニア零番と考えられる)を発売して写真趣味の普及に大いに貢献したのである。しかし、軽便写真器はあまりにもお粗末であった ため、せっかく育てた写真趣味の芽ばえをそこなう恐れもあった。いままで写真師や比較的高い社会層ばかりを営業の対象としてきた小西本店も、新しい需要層を無視できなくなった。こうして 生まれたのが、明治三十六年九月に発売された教育用写真器械「チェリー手提暗函」であった。木製革張ボックス型、名刺サイズ レンズは単玉、シャッターはT・I。種板は乾板で、撮影のつど次々に前に倒れて交換される、いわゆる乾板倒置式で、取枠は使 わない(ブリキ製の簡易片面取枠に乾板を入れる方式と考えられる。6枚を仕込む)。価格は二円五〇銭。なお「チェリーカメラ」は、小西本店製カメラでは、はじめて固有名称をつけたカメラである。
[小西六写真工業株式会社刊 写真とともに百年より引用]

ブリタニア零番(零番は乾板サイズ)は児童向け簡易練習カメラでありシャッターが付いておらず、レンズキャップにより露出の加減をした。また1枚撮りであった。1900年(明治33年)頃、英、独国で児童用教育カメラが流行し、 小西は英 ブッチャー社の児童教育用カメラであるリトルニッパー及び同社の旅行用手提暗函ミッグ(Midg)を模しての国産化に着手した。(小西は当時、 英 ブッチャー社のカメラ、レンズを輸入販売していた)。明治36年9月、リトルニッパーを模したチェリーカメラ1號(名刺判)を発売、続いて明治37年1月に同じく英 ブッチャー社の手提暗函を模したチェリーカメラ2號(名刺判) 3號(手札判)を発売した。2號3號は回転絞り(3つの絞り穴がある)を備えた児童から大人向けの製品であった。チェリー1號は1907年(明治40年)頃に販売を終え、チェリー2號3號はミニマムアイデアとともに大正9年頃まで販売された。
    
カメラ名 乾板 暗箱 レンズ周り 乾板仕込 価額
プリマー 普通名刺判 ブリキ  単玉 クロスコープ式シャッターT・I (ニッケル鏡胴) 1枚 二円
リトルニッパー 普通名刺判 ブリキ  単玉 クロスコープ式シャッターT・I (ニッケル鏡胴) 6枚 三円
チェリー 1號 普通名刺判    単玉 クロスコープ式シャッターT・I (ニッケル鏡胴) 6枚 二円
チェリー 2號 普通名刺判 木製   単玉 シャッターT・I   絞り大中小  6枚 二円50銭
チェリー 3號 手札判 木製   単玉 シャッターT・I   絞り大中小 6枚 三円90銭






チェリー1號手提暗函〈名刺判)
        
「亀井武=編 東京都写真美術館業書 日本写真史への証言 下巻」における山崎四郎造氏(小西本店の暗函を製作していた方)の述懐によると(163P),明治39年頃の3ツ穴絞りのチェリー2號(名刺判)と3號(手札判)は、おのおの月に100個ほど作られたということである。(山崎氏の暗箱製作の実体験 を亀井武氏が記録したものである)
明治36年発売のチェリー1號も1ヶ月で約100台が製作されたと推定され
4年ほどの期間に約 2000台作られたと考えられるが現存していない( 当時の偽革(まがいがわ)を張った木製暗箱は湿気により偽革がダメになり外観を成さないものとなっている)

チェリー1號のレンズ周りはニッケル鏡胴にクロスコープ式の軽便シャッター、単玉を収めたものであり、ニッパーやプリマーと同様のものを輸入し、久保工場において自製暗箱と組みあげた。Goerz 社製の真鍮鏡胴にペッツヴァール氏設計の風景用レンズ〈色消し単玉)とシャッターを組み込んだChoroskop鏡玉を小西本店は明治30年頃から輸入販売している。クロスコープ鏡玉は7円80銭、チェリー手提暗箱2円である。

チェリーカメラのクロスコープ式の軽便シャッターはT・I シャッターは穴の開いた回転盤のつまみロをの位置に半回転させ、イを軽く押すとハで止まり、さらに押すと元のロにもどる(T)。イを強く押せばハの位置では止まらずに元のロにもどり瞬時撮影となる(I)。付属の蓋でふさいでからロをセットする。
前掲のチェリー1號の図像はシャッターが速写のチャージをした状態となっている。

         

          


左写真
STAR CAMERAの内部。小西本店の大阪の販路であった上田写真機店のスターカメラの断面の寸法はチェリー1號と同一であり 内部の金属金具の構造、寸法も同じと推定される。


下写真
左写真の乾板シースの反対の面(左のシースは乾板を挿入した状態)。上部の切込みが異なる2種のシースを互違いに暗箱に収める








チェリー1號の手本となったリトルニッパーカメラ



トルニッパー1號は名刺判、2號は手札判で、1號を模してチェリー1號は製造された。英 ブッチャー社は独国のイカ社の前身である会社のカメラを自社ブランドで販売していた。リトルニッパーも 独 ヘルマン社が製造したものをブッチャー社が販売していたと考えられる。
チェリー1號の手本となったリトルニッパー(独 ヘルマン社製造)はグノムと同様のカメラである  
明治36年9月発売
チェリー1號の手本となったカメラは
独 ヘルマン社で造られ 英 ブッチャー社が販売した児童用教育カメラ・リトルニッパー2號である。リトルニッパーはボデーが鉄(ブリキ)であったが、これを模して作られたチェリー1號のボデーはチェリー1號は板厚0.65cm(現存するチェリー2號、3號の板厚と同じと考えて) の木製暗箱であった。外寸はリトルニッパー2號が縦4寸横2寸3分奥行き4寸3分でありチェリー1號が縦4寸横2寸4分奥行き4寸2分と上田写真機店(小西本店の卸・小売店)の目録にあり同じ大きさである。リトルニッパー2號は大陸判乾板6cm×9cmを使用したがチェリー1號は木の板厚により内部が狭くなり大陸判乾板四分一判は入らず、本邦で主流であった英国判乾板普通名刺判5.3cm×8.3cmを使用した。(当時の乾板の寸法には大陸判と英国判の二種があって、わが国では英国判が使われていたので大陸判は東京、大阪の写真器械材料商店でしか買えなかった。それ故大陸判の写真機は英国式に改造するとか、中枠を用いて一回り小型の英国判乾板を使うよう細工していた。)
またリトルニッパーの暗箱の乾板を出し入れする後蓋は菓子のブリキ缶様のプレス成型の嵌め合い式だが、チェリー1號はチェリー2號3號と同様に蝶番で開閉する仕掛けと考えられる。(ただし小西のチェリー1號の木版図像にはそれがうかがえない)
さて、上田写真機店は明治42年に「改良新式ニッパー懐中写真機」を発売したが、このカメラは木製ボデーであり、当時本邦で主流であった英国式名刺判乾板サイズであった。上田写真機店の自社製造カメラを改良ニッパーカメラとして販売したものであり、その際小西の木製暗箱・英国式乾板サイズのチェリー1號を参考にしいるとおもわれる。また大正時代には、この改良新式ニッパーのデザインを改変して上田写真機店独自のリトルニッパー(スターカメラ)、同店製チェリーカメラ(スターチェリー)を発売している。


上田写真機店のスターカメラはリトルニッパ−名でも販売された。
明治34年から大阪において小西本店製品の卸・小売をおこなっていた上田写真機店は、大正になり自社製のカメラの製造販売を始めた。当時「模造品」を廉価に販売することが好評であったが、それらの上田製カメラは自社のスターカメラにリトルニッパーやチェリーの名を冠したものであった小西製チェリーと上田製チェリーはチェリーとスターカメラの外観の違いのほか暗箱内部にも違いがあり、小西製チェリーは暗箱内の乾板取枠を据えるエ字型の台座両端を暗箱ボデーの下部の欠取りに納めるものであったが、上田製はレール式ベッドに挿入するようになっている。また乾板取枠を前へ押し出すスプリングを見比べるとちがいがある。上田写真機店製であるイチョウの葉型回転絞り板付きチェリー(名刺判)は細部の造りを見ると2種類に分かれる。初期型は小西のチェリー名刺判の部品金具を自社製造のスターカメラのボデーに取付けており、手提げの部分に小西チェリーと同じく肩掛け用バンドをつけるための環金具がある。後期型は自社で調達した部品金具を使用している。

明治40年 上田写真機店
ニッパー1號 乾板サイズ 4.5cm× 6 cm 2円 輸入品
ニッパー2號 乾板サイズ 6 cm× 9 cm 3円 輸入品
明治42年 上田写真機店 
新ニッパー1號 乾板サイズ 4.1cm× 5.3cm 1円50銭 上田製
新ニッパー2號 乾板サイズ 5.3cm× 8.3cm 2円 上田製



小西本店のチェリーは大阪の上田写真機店、扶桑商会の目録に教育用簡易カメラとして舶来のブリタニア零番、プリマー、ニッパーとともに載っている。

明治39年9月 「簡易写真術」 扶桑商会写真部編

明治40年4月 「最新写真機 第二編」   上田写真機店


チェリー2號手提暗函〈名刺判) チェリー 3號手提暗函〈手札判)



チェリー手札判は直径3.5cm程のメニスカスレンズを凹面を前面の絞り穴に向けて木枠に嵌め込んである。



チェリーの暗箱の仔細について
チェリーの銘
チェリー2號名刺判には真鍮エッチングの銘板がボデー前面下に取り付けてありCHERRY CAMERAと表記されている。チェリー3號手札判には皮に直接エンボスがあり、桜の花が2つ上に添えられた縁取りの内にCHERRY CAMERAと刻してある。
シャッター周り
シャッターは暗箱内の仕切り板内にありブリキ製の横走り式。 はじめのころのチェリーはT・I シャッターの切替えレバーが向かって左側で下にあるシャッター周りに保護プレートが付いているが、大正になると切替えレバーが右側となりシャッターの保護プレートはなくなる。


チェリーの取り扱い方法







明治40年4月 「最新写真機 第二編」   上田写真機店






小西製教育用(初学者向)カメラ

暗箱 明治36年 第1号携帯用暗箱  →
明治36年 第2号携帯用暗箱     
 甲第1号携帯用暗箱

箱形
固定焦点
明治36年 チェリーカメラ
             大正末まで販売
大正15年 レコードカメラ      さくらカメラ
昭和 6年 木製ボデー
昭和12年 ベークライト製ボデー



蛇腹折り畳
固定焦点
明治44年 ミニマムアイデア
              大正末まで販売
大正3年 ヴェストコロク
            製造期間短い

             
蛇腹伸縮
焦点可変
   大正4年 アイデアスナップ
                大正末まで販売