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ポケットアイデアB号の久保工場製シャッター
    大正4年 久保工場 
小西本店の職方(下請け)、久保鉄次が営む久保工場は神田松富町の通りから一間ばかりの路地を入ったところにあった。久保鉄次の家が右側にあり、工場は突き当たりに、左側は宿舎になっていた。職人は錺屋、仕上げ師、旋盤師、プレス屋など20人程でいて、仕事着は印半纏と紺のももひきで、半纏の襟には「小西??工場久保」、丸の中に「写真機械」と縦横に並べて書いてある赤い部分があって、新聞配達のそれによく似ていた。久保工場では多種のカメラを小量づつ製作していた。この時代のカメラはほとんど木製皮貼りで、中田工場(中田泉之助)が造ったボディーに黒川工場(黒川清)が革張りし、久保工場はレンズ、シャッターを取付け、金属部品の細工をほどこし組上げていた。カメラのほかに三脚、自在雲台、閃光器、現像タンク、暗室ランプなどの附属品も作った。また久保鉄次は輸入カメラのシャッターの修理から、その模造も行った(過去、優れた輸入品を真似てよく写し、安価に販売することが求められてきた)。久保工場で出来た品物は日本橋本町にあった小西本店に週に2回ぐらい荷車で納品をした。電車通りをさけて多町の青物市場前から二六新聞社前を通って舗装のない砂利道を通った。帰り道は電車通りに出た。電車通りを出た角に永徳斉という人形店があり、ここの人形の錺ものを作る錺屋が久保鉄次の親方であった。     (亀井武 編 東京都写真美術館叢書 日本写真史への証言 第8章 カメラとともに五〇年 川村兼吉 を参照)




大正8年 六櫻社

第1次世界大戦によって独国からカメラの輸入が止まったことにより日本において金属製写真器械の自主製造の必要性が説かれるようになる。小西本店の乾板・印画紙の研究製造を目的として明治35年、東京の淀橋十二社に建設された工場が六櫻社であるが、大正8年、六櫻社は東京の各所に在った下請工場を淀橋の敷地に収容し,独逸の機械技師メッケル氏を聘し精密工作機械による写真器械の製造をはじめる。久保工場(久保鉄次 金具、組立て)、中田工場(中田泉之助 暗函)、黒川工場(黒川清 革工)、小林工場(小林啓信 蛇腹)が新たに器械部として統合され、久保工場の久保鉄次は器械部の主任となる(それまでも中田、黒川工場などを下職としていた)。また、森戸工場(森戸次郎 暗函)、東条工場(東条平吉 小型暗函)が木工部へ加わった(すでに神田の長谷利工場が長谷川利之助が亡くなり、妻長谷川ユウが当主を継ぐにともない明治39年に淀橋の敷地に移り、明治44年には木工部となっている)。六櫻社は台紙部(本郷の勝山工場は大正初年台紙部となっている。)、元々の感光部、インキ部とあわせた総合写真工場となる。
明治以来、大型室内用暗函や大型野外用暗函などは長谷川が作り、小型室内用暗箱、野外用携帯暗函や木製手提げカメラを東条が作っていた。金具類は久保が受け持っていたが大正8年の六桜社木工部においても同様の分業形態であり、長谷川利之助の後を継いだ妻ユウ 東条亀次郎の息子平吉が長となっている。そして明治36年発売のチェリーカメラ以降、ブランド名のついた手提カメラは暗函部分を中田が、久保は小西本店が輸入し供給するレンズとシャッターを取付けて仕上げる形態となっていたが、これは大正12年まで続いた。

 当時の六櫻社工場

大正12年、関東大震災により六櫻社工場は1ヶ月休業し、再開後久保鉄次氏は職を退き、六櫻社器械部は毛利広雄氏のもと 金属製ボディーカメラの製造へと転換する。大正10年に六櫻社に入社した技師 毛利広雄は木製カメラボデーの金属化と乾板からフイルムへの移行をめざし米コダック社ベストポケットコダック、独コンテッサ・ネッテル社ピコレットを模した127フイルム使用のパーレットを設計する。大正14年発売のパーレットをさきがけに、大正12年パールがそれまで乾板とロールフィルム兼用であったものをブローニーフィルム専用機とし(パール2號)、昭和2年にはアルミ軽合金製とする。昭和5年にはリリーがアルミ軽合金製の縦型となる。
大正14年、海軍艦政本部造兵監督官 山田幸五郎は六櫻社に対し自国での光学兵器自給のため軍用カメラ(写真銃など)を製造するよう命じた。また写真レンズを自国で製造することが必要であると説いた
。これを受け毛利広雄は自社でカメラを生産するため輸入軍用航空カメラを分解、研究する。六櫻社は大正14年2月に陸軍から小航空写真機を受注、同5月に陸海軍から射撃訓練用写真機を受注し、大正15年に回転式射撃鑑査写真銃(陸軍)、十五式写真銃(海軍)が誕生する。昭和2年、六櫻社 器械部技師 毛利広雄は監督官 山田幸五郎をたずねレンズの製作について教えを受け、またドイツのレンズや書物をもとにレンズの研究を続けた。昭和3年、六櫻社 器械部主任 小菅正吾と同 技師 毛利広雄はシャッターとレンズの自社製造を話し合う。そして淀橋の六櫻社工場内に60坪ほどの2階建ての作業場をつくり2階全部と1階の半分をシャッター場、1階のもう半分をレンズ設計室とレンズ試作場とする。最初は技術者松田保久、研磨工奥田某ほか2名で製作していた。その後多少の増員を行う。
昭和4年には一号自動航空写真機の注文が陸軍からあり、これと前後して海軍からも固定航空写真機K-8型(アメリカフェアチャイルド社の測量用大型航空用カメラと同型)の注文があり、新たに専門の部門を置くことになり昭和5年に淀橋の六櫻社器械部に精密場作業場ができ毛利広雄は技師長となる、この精密作業場で一五式写真銃改一(海軍)の量産、八九式写真銃改一(海軍)、一号 自動航空写真機(陸軍 )、固定航空写真機K-8型(海軍)の製作を行う。
毛利広雄はレンズの研究の結果設計にとりかかり1931年(昭和6年)6月 テッサータイプのヘキサーT F4.5が完成する。このヘキサーTはトロピカルリリーに装され(11.5cm大名刺判 13.5cm手札判)、追ってヘキサーSer.U F6.3が昭和7年8月に完成する。またトリプレットタイプとしてザイオンf6.3を昭和8年3月に完成し,昭和9年4月オプターF6.3 F4.5を完成した。テッサータイプのヘキサーは自社で量産し、トリプレットのザイオン、オプターは、旭光学合資会社に製造を外注した。(昭和8年から昭和10年にかけて六櫻社の整備が検討され、昭和10年、毛利広雄はヨーロッパを視察したのち、細かい部品は外注し、六櫻社は組立て工場とすることが得策との考えを小西六本店に進言した結果である。)昭和11年、六櫻社(淀橋)の工場は鉄筋コンクリート地下1階地上4階の新工場となり、その3階にレンズ場が設けられる。それまでの間、旭光学合資会社は六櫻社に単玉、トリプレットレンズを供給した。六櫻社は昭和11年に淀橋工場の3階にレンズ場を設けると全てのレンズを自社で製造するべく、それまで旭光学合資に外注していたトリプレットレンズは小原ガラスの硯材を使いマシーン導入による製造に切り替え、ヘキサーについては輸入したイエナガラスを自社の工場で成型、研磨した(昭和10年頃からは軍用カメラ用のヘキサーレンズの増産のためイエナガラスの輸入が増加した)。



普通鏡胴のヘキサーレンズ

      普通撮影用 Hexer F4.5  15cm、18cm、21cm、25cm、30cm、36cm


初期のヘキサーレンズ
櫻に六のマーク付きHexar.1 F4.5 25cm


 

     普通撮影、引伸し両用 Hexer F4.5   5cm、7.5cm、10.5cm、13.5cm

万能向きに収差を修正したレンズ

実物写真


六櫻社カメラとレンズ

レンズ シャッター
1931(昭和6年) トロピカルリリー 六櫻社      HexarSer.T F4.5  11.5cm
13.5cm
COMPUR
1932(昭和7年) パーレット 旭光学合資  単玉     F8 7.5cm PEGASUS
 昭和9年 Echo F11(レンズ自体は同じ)  
六櫻社     HexarSer.U F6.3 7.5cm PEGASUS
1933(昭和8年)
パーレット 旭光学合資  Zion     F6.3 7.5cm Echo
パール 旭光学合資  Zion   F6.3 F4.5 10.5cm APUS又はDurax
アイデア 旭光学合資  Zion   F6.3 F4.5 10.5cm APUS又はDurax
アイデアスプリング 六櫻社      HexarSer.T F4.5 18   cm フォーカルプレン
1934(昭和9年) パーレット 旭光学合資   Optor  F6.3 7.5cm Echo
パール 旭光学合資   Optor  F6.3 F4.5 10.5cm APUS又はDurax
アイデア 旭光学合資   Optor  10.5cm APUS又はDurax
ベビーパール 旭光学合資   Optor      F6.3 F4.5 50mm ROX
六櫻社      HexarSer.T F4.5 50mm
1936(昭和11年) パール 六櫻社     HexarSer.T F4.5 11.5cm Durax

毛利広雄氏研究のレンズ

シャッターは昭和7年にPEGASUS、昭和8年にEcho、 APUS、 Durax 、昭和9年にROXが六櫻社器械部で誕生したが、昭和11年以降はROXなど小型のシャッターは山本工場で造られ、Duraxなど大きなシャッターは六櫻社工場で造られた。

当時の六櫻社工場


 木村鉄工所  東京府下淀橋十二社  鋳造
 小原レンズ        同  上  レンズ関係
 山本工場  東京府下柴又 (工場に隣接した山本栄之助氏宅は山本亭として保存、見学可)
 金属部品関係
 松浦メッキ工場
 〈松浦一二郎)
 東京市神田五軒町  メッキ
   
 (写真とともに百年より)
小原光学硝子製造所
1935年(昭和10) 小原甚八氏の個人経営として小原光学硝子製造所創立、東京蒲田にて操業開始
1936年(昭和11) 光学ガラス熔解開始


合資会社山本工場
1914年(大正3年)山本栄之助氏は東京市浅草区に金属加工会社を創立、大正12年の関東大震災後、葛飾に工場(六櫻社シャッター製造)を移す。
工場の隣りにあった旧宅は現在山本亭として保存されている。(
寅さん記念館近く)





軍用カメラとヘキサーレンズについて

航空偵察測量用

要点傾斜撮影カメラ
大正14年 小航空写真機 手持式 陸軍 ネディンスコ型木製ボデー皮貼り 半自動 後にHexar 25cm F4.5 18cm×13cm乾板 
大正14年2月陸軍より受注。昭和9年まで製造 。昭和9年から改良を進め、昭和11年に九六式小航空写真機が生まれる。
昭和11年 九六式小航空写真機 手持式 陸軍 小航空写真機のボデーを金属化。 Hexar 18cm
昭和13年まで製造。昭和13年から改良を進め、昭和15年に百式小航空写真機が生まれる。
昭和15年 百式小航空写真機 手持式 陸軍 米フェアチャイルド社F-8型 Hexar 20cm 40cm カビネ 長巻フィルム
昭和20年まで製造。
大正15年 手持式航空写真機 手持式 海軍 米フェアチャイルド社F-8型 半自動 後にHexar 25cm F4.5 18cm×13cm 長巻フィルム
昭和13年まで製造。
昭和14年 九九式手持航空写真機 手持式 海軍 米フェアチャイルド社F-8型 Hexar 15cm F4.5
連続地域垂直撮影カメラ
昭和  5年 一号自動航空写真機  手持式 陸軍 米フェアチャイルド社K−8型 Tessar 25cm 50cm F4.5
後にHexar25cm 40cmに変わる
18cm×24cm 長巻フィルム
昭和4年2月受注。当時の六櫻社精密作業場は100名程いた。製造のため製品検査機を整備した。昭和5年8月試作品4台。昭和9年から陸軍はフェアチャイルド社のK−8の使用を止め年10台納入となる。昭和20年まで製造された。
昭和  5年 固定自動航空写真機 固定式 海軍 米フェアチャイルド社K−8型 Tessar 25cm 50cm F4.5
後にHexar に変わる
18cm×24cm 長巻フィルム
昭和20年まで製造。



航空機射撃訓練用

大正15年 回転式射撃鑑査写真機 固定式 陸軍 英ソルントン社ハイス型写真銃型 ヲーレンサク社レンズ又は Tessar ブローニーフィルム
大正15年 一五式写真銃改一 固定式 海軍 英ソルントン社ハイス型写真銃型 ヲーレンサク社レンズ又は Tessar ブローニーフィルム
大正14年5月、海軍艦政本部山田幸五郎が六櫻社へ受注、技師毛利広雄の指導で大正15年より製造、昭和2年採用。昭和17年まで製造。
昭和 4年 八九式活動写真銃 固定式 海軍 35mmフィルム 長巻
皇紀2589年。スプリングモーターのゼンマイを巻いて連続撮影。昭和4年試作4台、昭和6年精密作業場で 改一4台完成しHexar Ser.T F4.5 7.5cm   4cm(時計写し込み用) が装される。続いて10台製造。昭和8年〜昭和19年  改二製造。


地上写真機

昭和 7年 手持地上写真機 陸海軍 アイデアスプリング アンゴー型 手札、カビネ
組立地上写真機 陸海軍 さくら野外暗箱 カビネ、四ツ切
九七式携帯写真機 海軍 リリー 大名刺 初期はTessar 後にHexar



ヘキサーは第2次世界大戦後に5枚構成の明るいヘキサノンとなる。