フェースブック「六櫻社」開設しました。
パーレット   ベスト判 4×6.5cm  8枚撮り 大正14年〜昭和22年
 


大正14年製 Pearlette (ボデー写真)    (レンズ写真)  




1925 (大正14年) コンテッサネッテル社のピコレットを模したボデーに輸入レンズとシャッターを取り付け。
Wollensak社 単玉 F11 75mm 色消し Wollensak社Wocoシャッター 
Wollensak社 Deltas Aplanat F6.8 75mm セミ レクチリニア Wollensak社Wocoシャッター 

大正14年の最初期型のWOCOシャッターはT 25 50 100



1928 (昭和 3年) Wocoシャッターの T,25 ,50 ,100 が B,25 ,50 ,100 に変る。 



昭和3年のB(バルブ)の文字はT(タイム)に書き足したB



1929 (昭和 4年) 前板にファインダー金枠が付く。

昭和4年写真月報広告
    昭和5年写真月報広告



1931 (昭和 6年) 前板のファインダー金枠が補強される。
側面がしだれ櫻文様となる。




1932 (昭和 7年) Wollensak社 単玉 F11 75mm 色消し Wollensak社Wocoシャッター 
Wollensak社 Deltas Aplanat F6.8 75mm セミ レクチリニア Wollensak社Wocoシャッター 
六櫻社 Hexar Ser.U F6.3 75mm テッサータイプ 六櫻社PEGASUSシャッター
虎マスク




            ヘキサーシリーズU F6.3

      
昭和7年小西六本店写真器械定価表より Deltasレンズ付きの図






1933 (昭和 8年) 側面の蓋を外してフィルム装填を行う方式が昭和8年春より後蓋開閉式に改められ、2枚撮りの装置が付く。
8年前期型はフイルムガイドが取り外し可。
旭光学合資 単玉 F 8 75mm 色消し 六櫻社PEGASUSシャッター 虎マスク
旭光学合資 Zion F6.3 75mm トリプレット 六櫻社PEGASUSシャッター



虎マスク
1934 (昭和 9年) 単玉の絞り開放がF11となる。
旭光学合資 単玉 F11 75mm 色消し 六櫻社Echoシャッター 虎マスク
旭光学合資 Optar F6.3 75mm トリプレット 六櫻社Echoシャッター
虎マスク

昭和10年11月小西六本店写真器械定価表には昭和8年型が載っている











1935 (昭和10年) 旭光学合資 単玉 F11 75mm 色消し 六櫻社新Echoシャッター
旭光学合資 Optar F6.3 75mm トリプレット 六櫻社新Echoシャッター



1937 (昭和12年) 旭光学合資 単玉 F11 75mm 色消し 六櫻社新Echoシャッター
旭光学合資 Optar F6.3 75mm トリプレット 六櫻社新Echoシャッター

昭和12年10月小西六写真器械定価表より







昭和12年型パーレット
Echoシャッターのデザインが変更される。

1940 (昭和15年) 前板のpearletteの刻印がプレートに変更され、左上の六櫻社のマークが廃止される

1946 (昭和21年) 製造再開される






高級パーレット

1937 (昭和12年) 六櫻社 Hexar Ser.T  F4.5 75mm テッサータイプ 六櫻社APUSシャッター
旭光学合資 Optar F6.3 75mm トリプレット 六櫻社APUSシャッター
旭光学合資 Optar F4.5 75mm トリプレット 六櫻社APUSシャッター


Bパーレット
昭和11年、初学者用としてBパーレットが売り出される(パーレットBの表示の物もある)














パーレットの単玉について
六櫻社は大正12年の関東大震災後に、それまでの設計図なしで経験によって木製ボデーのカメラを組み立てていた生産体制から、設計に基づく金属ボデーのカメラへ移行していく。大正10年六桜社に第1番目の技術者として入社した毛利広雄氏はベストポケットコダック、ピコレットなどの輸入カメラを研究し、自社の生産に向く小型カメラ パーレットを設計する。大正14年発売の最初のパーレットには色消し(MA)単玉とDeltas F6.8(3枚玉・セミレクチリニア)の2種のレンズがついた。それは明治末以来、多種の小西製カメラに使われた米ヲーレンサク会社のレンズである。小西本店は大正2年(1913)、米国でイーストマン・コダック会社がベストポケットコダック(ベス単)を発売すると同時に日本で輸入販売を始め、翌大正3年には米ヲーレンサク会社のVeritoレンズを輸入販売する。やがてベス単やヴェリトを開放近くで撮影した軟焦点写真が南実氏などにより披瀝される(米国ではどちらもほとんど絞って使われたという)。ベス単のフードを取外し球面収差を露にして撮影する「ベス単フードはずし」の軟焦点写真は昭和の初めまで流行した。毛利広雄氏は昭和3年から国産レンズの生産について研究し、その結果ヲーレンサク社の2種のレンズは国産レンズにかわる(写真レンズ用のガラスの生産体制は整っていなかった)。六桜社の下請け工場であった旭光学合資会社の製造する単玉と3枚玉・トリプレットとなる。単玉は絞れば3枚玉とは違う鮮鋭な画となり、開ければ軟焦点画となる。安価に販売される。故にパーレットは最終まで単玉付きが3枚玉付きとともに発売され人気であった。
色消し単玉自体は f 6.3だが昭和7、8年のペガサスシャッターは絞りが開放でf 8、フードが絞りの役目はしていないので「フードはずし」は意味がない。しかし絞りをはずせば 「フードはずし」またはフードの開口径をヤスリで拡げて球面収差を露にできるがボケた映りということになる。良好なソフトフォーカスにするにはフードは外さずに、絞りなしとするとよい。フードの開口が絞りの役目となり、レンズと絞りの間隔が長くなるので f11となる。
昭和9年のエコーシャッターは絞り開放がf 11に1段絞られ、昭和10年の新エコーシャッターはフードの開口部をレンズから離しかつ拡げて日除けの役目を改良している。フード開口部が広いので絞りなしとすると球面収差が著しくなるので絞りf 8 にとどめるとよい。ただしフードの開口が絞りの役目はしないので昭和7年〜昭和9年のシャッターを用いたソフトフォーカスにはならない。
フードの開口径は昭和12年に元の口径にもどっている。


          



昭和7年単玉 絞りはずしの作例





パーレット同人会会則