フェリックス・メンデルスゾーン-バルトルディ:
弦楽の為の交響曲第9番ハ長調 「スイス」
Jacob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy: Sinfonia for Strings No.9
フェリックス・メンデルスゾーンは1809年11月14日、ユダヤ人の銀行家、アブラハム・メンデルスゾーンとその妻レアとの間にハンブルクで出生。4人兄弟の長男であったが、姉ファニーもまたピアノ演奏、更に作曲にも並々ならぬ才能を示した。音楽家にはめずらしい資産家の子弟であり、両親は幼少時から、学業、ピアノ、指揮法等に関して一流の家庭教師をつけていた。これは当時起こったユダヤ人迫害運動により、学校に行かせなかったことも関係していたようである。フェリックス9歳の時、初めて公衆の面前でピアノを演奏した。
10歳の年、メンデルスゾーン家を訪れたとある女性は、フェリックスを見て「後期ゴシックの天使の絵」を想像したという 逸話がある。少年時代の肖像画がいくつか残されているが、確かに相当な美少年だったようである(美少女的?)。(右図)
フェリックスは、11歳の時最初のピアノ曲の作曲をした。12歳の時、家庭教師だった指揮者のツェルターはフェリックスを文豪ゲーテに紹介、ゲーテは才気溢れる美少年にメロメロとなり、彼のピアノを聴くのを日課としたという。
この年、弦楽の為のシンフォニア第1番から6番までを作曲。1822年、13歳の時メンデルスゾーン一家はスイス旅行に出かけた。そのイメージを翌年作曲した弦楽シンフォニア第9番のスケルツォ楽章に活かし、また24年作曲の11番にもスイス民謡の旋律を用いている。
またこの年、父はキリスト教に改宗し、バルトルディBartholdyを姓に加えた。(メンデルスゾーンMendelssohnはメンデルの息子の意でドイツ語圏のユダヤ人の姓である。Bartholdyは12使徒の一人、バルトロマイを意味し、キリスト教に改宗したことを表す。フェリックスはその必要性を感じず、単にFelix
Mendelssohnと名乗っていた。)
その後の大きな出来事:20歳でバッハのマタイ受難曲をバ作曲者の死後初めて演奏。26歳でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任。34歳でライプツィヒ音楽院を創設。1847年、4歳年上の姉ファニーの急死の報(脳内出血だったようだ)に接し、大きなショックを受け、それ以後人が変わったようになった。一時回復したが11月3日には意識を失い、翌日ライプツィヒにて死去
、享年38歳。モーツァルトにしてもパーセルにしても、メンデルスゾーンにしても、天才は短命である。天才でなくてよかった。
弦楽の為の交響曲はフェリックス12歳から14歳にかけて作曲された交響曲の習作である。彼が生涯敬愛していたJ.S.バッハとともに、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハやモーツァルトの影響も受け、さらにメンデルスゾーン
の後のロマン性も十分伺える。多彩な旋律、高度な対位法と和声を用いた初期の優れた作品群である。13曲存在するが、13番目の曲は一楽章のみで未完成であるといわれ、自筆譜に番号がないこと、後の交響曲第1番Op.11の譜面に作曲者が交響曲第13番と書き入れているところ
などから、この曲は含まず、12曲とすることが多い。
これらの曲は作品番号はつけられておらず、メンデルスゾーン自身は出版する気も無かったよう
だが、メンデルスゾーン家にこれらの手稿は大切に保管されており、1959年になってやっと総譜として出版された。1962年には、弦楽シンフォニア第9番の最初の実用版が出版された。そしてようやく1971年にクルト・マズア指揮、メンデルスゾーンゆかりのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により録音された。生誕200年の記念行事としてこれらの曲のCDや楽譜も新たに発売されるようである。
第9番ハ長調は、前述のようにその第3楽章スケルツォのトリオはスイス旅行の想い出からヨーデルを題材としている。そのため「スイス La Suisse」という副題がつけられている。弦楽シンフォニアの中では最も演奏される機会の多い曲であろう。