アンサンブル・ベルデ コンサート#35 曲目について
■モーツァルト:アダージョとフーガ ハ短調 K.546
この曲は、自作品目録に、「以前に2台のクラヴィーアのために書いたフーガへの、ヴァイオリン2、ヴィオラ、低音弦のための短いアダージョ」とあるように1783年12月29日に書かれた「2台のクラヴィーアのためのフーガ」K.426を弦楽合奏用に編曲し、新たに52小節からなるアダージョの序奏を書き加えた作品である。モーツァルトの対位法技法による作品のなかで、とくに力強く男性的な厳しさとエネルギッシュな力をもち、形式・内容においても優れたものである。
どのような事情でこの曲が書かれたかは不明であるが、1788年6月26日にウィーンで、「フーガ」の編曲と、「アダージョ」の作曲がなされた。この日には、三大交響曲の1つ、第39番 K.543も完成されている。フーガの終りではチェロとコントラバスのパートが書き分けられているため、弦楽オーケストラのために作曲されたことは確実だが、弦楽四重奏による演奏もよく行われる。
「アダージョ」はハ短調、4分の3拍子。付点音符と複付点音符の連続する荘重な感じの前奏である。アインシュタインは、フーガそのものと同様の重みと大きさをもつ前奏曲であると評している。
「フーガ」はアレグロ、ハ短調、4分の4拍子。フーガの主題に関して、R・エルヴァースは、「主題法はすべてバッハの息吹きを感じさせ、この主題はバッハの〈主要主題(テーマ・レギウム)〉に由来するものである」と述べている。
■モーツァルト:セレナーデ 第13番 ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K.525
モーツァルトのセレナーデの中でも特に人気の高い作品で、「聴いたことがあるクラッシック音楽」という投票をしたら必ずベスト3に入ると思われるのが、この曲である。1787年の8月10日、ちょうどオペラ「ドン・ジョヴァンニ」K.527の第2幕の作曲に取りかかっていた頃に完成されたものである。この曲は機会音楽的な華麗さを備えており、おそらく他のセレナーデと同様に何らかの機会のために作曲されたものと思われるが、現在のところ明らかにされていない。
一般に親しまれている"eine kleine Nachtmusik"という表題は、モーツァルトの自作品目録の記載に由来するものである。これは「小夜曲」、つまり「小セレナーデ」と同じ意味のドイツ語であるが、実質的にも明らかにセレナーデであり、モーツァルトの死後出版された初版ではこのドイツ語の表題を用いずに「セレナーデ」としている。
楽章構成も、現在では交響曲的な4楽章構成をとっているが、モーツァルトの自作品目録には「アレグロ、メヌエットとトリオ、ロマンツェ、メヌエットとトリオ、フィナーレからなる」とあることから、作曲時にはアレグロとロマンツェの間にもう一つのメヌエットをおいた、セレナーデの原則どおりの5楽章構成をとっていたものと思われる。その上、モーツァルト自身が自筆譜に付した枚数番号から、自筆譜は本来は8葉からなるものであったが、その後(初版の時にはすでに)第3葉が失われてしまったことが明らかになるため、おそらくこの消失部分にもう1つのメヌエットとトリオが書かれていたものとみられる。しかし、この部分は発見されておらず、偶然の消失であるのか、あるいは何者かによって故意に省略されたのかについては決め難い。
楽曲は非常に簡潔な書法で書かれており、第1楽章の主題から全楽章の主要主題が導き出されているためか、全体の構成が非常に統一のあるものとなっている。こうした楽曲構成と、何よりもまず親しみやすい美しい旋律によって奏でられるセレナーデらしい開放的で明快な曲調が、この曲の人気を高めているものと思われる。
■ディーリアス:「2つの水彩画」・フルートと弦楽合奏のための「舞曲」
Frederick Delius(1862〜1934)はドイツ人の父を持ち、イギリスに生まれた。パリやパリ郊外に暮らし、活動の場はフランスにあったが、生地イギリスでは国民的作曲家としてファンの多い作曲家である。音楽的には若い頃アメリカのフロリダで生活したときに耳にしたアメリカ音楽にワグナーからの強い影響を加え、私淑したグリーグの繊細な民族的音楽からの影響もあって、独特の折衷的作風となった。ドビュッシーと同世代でその影響も受けており、ドビュッシーほど先鋭的ではないものの、その初期に似た和声感覚を導入して濃厚だが清浄という作品世界を確立した。現在ではほとんど取りあげられないが、オペラにも旺盛な創作意欲を持っていたようである。一方でこの作曲家の主たる領域である小管弦楽曲や交響詩も数多く作られた。国際的な活躍をした作曲家であり、描写的表現の巧みさと、実に感動的な音楽表現はすべて清澄なひびきに彩られる。妻が画家だった影響もあったせいか、その音楽は絵画的でありそれも水彩画のような美しさを湛える。晩年は若い頃のパリでの放蕩生活による梅毒がもとで、全身の麻痺に陥いり、1925年には失明したが、ラジオでその窮状を知って記譜助手に名乗りを上げたエリック・フェンビー(1906-1997)の献身的な手助けにより、その死まで作曲活動を続けた(よくフェンビーがディーリアスの弟子との記述があるがそうではないようだ)。晩年の作品は音楽が純化され、もう目にする事のできない美しい風景に対する強いあこがれを託した傑作群となっている。
「2つの水彩画」はディーリアスの初期の合唱曲「水の上の夏の夜を歌わん」(To be sung of a summer night on the
water)を、フェンビーが弦楽合奏用に編曲したものである。1曲目はヴァイオリンの低音、ヴィオラ、チェロなど中声部がかわるがわる美しい旋律を奏でる。2曲目は楽しい雰囲気の舞曲だが、やがてディーリアス独特の夢見る世界に溶けてゆく・・・
1.Lento, ma non troppo
2.Gaily, but not quick
フルートと弦楽合奏のための「舞曲」は、1919年にラジオ放送の為に作曲された小曲、「ハープシコードのための舞曲(Dance for Harpsichord)」を後にフェンビーが編曲したものである。一見フランス古典風の舞曲的な調子で始まるが、やはりそこはディーリアス、独特のハーモニーを使って、目眩すら感じさせるモダンな和声進行に なってくる。
■バルトーク:ルーマニア民俗舞曲 Sz.68
バルトーク・ベーラ (Bela Bartok, 1881〜1945)はハンガリーの片田舎ナジュセントミクローシュ(現ルーマニア)に生まれた作曲家である。同時に民俗音楽学者でもありピアノ奏者でもあった。彼は20世紀前半における最も優れた音楽家の1人であるが、コダーイとともにマジャール(ハンガリー)民俗音楽の収集と研究でも卓越した業績を残した。
この曲は1915年ピアノのために作曲され、その後管弦楽やヴァイオリン独奏、その他様々な形に編曲された。
第1曲 ジョク・ク・バータ(杖を用いる踊り)はトランシルヴァニア山地の舞曲で、各節の終わりの杖で突くようなリズムが特徴的である。
第2曲 ブラウル(飾帯を付けた踊り)は、トロンタールの農民舞踏。第3曲
ベ・ロック(足踏み踊り)はトロンタール脱穀の労働歌が起源となっており、
第4曲 プチュメアーナ(角笛の踊り)はトルダヌラニョシュ県のもの。
第5曲 ボアルガロチカ(ルーマニア風マネスポルカ舞曲)ポルカは本来2拍子だが、バルトークは独特の拍子を使っている。
第6,7曲はマルンツェル(急速な踊り)は足を小刻みに踏む踊り。(5-7曲は続けて演奏される)
■ヴェイネル:ディヴェルティメント第2番イ短調(ハンガリー民謡)
ヴェイネル・レオー(Leo Weiner, 1885〜1960)はユダヤ系ハンガリー人の作曲家。バルトーク、コダーイに次ぐ彼らと同時代(20世紀前半)のハンガリーの代表的作曲家といえる。1901年から1906年までブダペスト音楽アカデミーにてハンス・ケスラーに師事。その後は歌劇場のコレペティトールを務めた後、1908年よりブダペスト音楽高等学校で作曲ならびに室内楽の教授に就任したが、教育者としても名高く、著名な門人にはアンタル・ドラティ、ゲザ・アンダ、ゲオルグ・ショルティ、ヤーノシュ・シュタルケル、ロリン・マゼールら錚々たる音楽家が名を連ねる。管弦楽のための5つのディヴェルティメントや交響詩、2つのヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲やピアノ小品などがある。音楽教育に関する著作も残している。ヴェイネルは国民楽派ながら、バルトーク、コダーイとは異なるロマンティックな路線を進んだ。トランシルヴァニアの民俗音楽やフランス印象主義音楽の影響を受けながらも、簡潔な構成と旋律的・和声的な魅力を失わず、独自の新鮮な作風をとった。
弦楽オーケストラのためのディヴェルティメント第2番Op.24は1934年の作曲で、「Hungarian folk tunes−ハンガリー民謡」と副題がつけられ、ハンガリーの民謡をもとにした4つの小曲からなる。
I. Wedding Dance(結婚の踊り:チャルダッシュのテンポで)
II. Joking(冗談:Allegretto scherzando)
III. Plaintive Song(もの悲しい歌:Andante sostenuto)
IV. Swineherd's Song(豚飼いの歌:Allegro)