緊急発言! 〜神戸の事件について〜


神戸のあの事件をめぐる一精神科医の感想です。


10月29日

神戸の事件に最終的な審判が下された。少年に対して医療少年院送致が決定したという。彼が実際に医療少年院に身柄を送られたことで,彼をなるべく長期間隔離しておきたかった人達もホッとしたのではないか。これで一件落着ということで事件への関心は急速に薄れていくだろう。しかしこの事件が提起した問題はあまりにも多く,あまりにも重い。これらを決してこのまま風化させてしまってはいけない。

マスコミは最近,彼自身の言葉を引用して,「暗い森」とか「心の闇」とかいう表現をよく使う。これは,彼の心の中には何か普通ではないすごく異常な部分がある,という考え方に基づいているようだ。また鑑定医は,彼の診断について,「精神病ではなく,性的サディズムと行為障害の併発したもの」としている。やむを得ない診断とはいえ,この「行為障害」という診断名が概念としてはっきりしないため,結局この診断からは彼の本当の姿は見えないままだ。
彼が犯した犯罪が極めて異常であることは言うまでもない。しかし,だからといって彼の存在全てが極めて異常というわけでもない。彼はどこまでが異常でどこまでが普通の子供だったのだろうか。

----------------------------------------------------------------------

サディズムの起源についてここで語るだけの知識も技量も私は持ち合わせていない。しかし,サディズムがその重要な要素として攻撃性と性愛性の両者をきわどいバランスで持ち合わせていることには誰も異存はないであろう。臨床的な理論である精神分析の理論を,あたかも普遍的な科学の法則のように引用することは避けたいが,それでもその攻撃性と性愛性に発達的なレベルが存在し(口愛期とか肛門期とか男根期とか−−−−−知らない人がこういう言葉読んだらびっくりするだろうな),我々が発達する際には普通にそれらを経験し,そしてそれらは様々な形で成人の心理の中にも固着を残している,つまりそれらの攻撃性や性愛性は何も特別に異常な心理ではなく,いろいろな形で我々の精神の中にごく普通に存在する,というのが臨床的な事実である。

軽い(重い・軽いがあるのかどうか分からないけど)サディズムならAVやネット上でいくらでも見られるし(重いのでも見られるか),現に今これを読んでいるあなたにもSM的行為の心当たりがあるかもしれない。死体写真の流行というのも何かサディズムの普遍性を想起させる。また,子供というのも多くはかなりサディスティックである。カエルや虫などの小動物を残酷に殺すことにそれほどの抵抗はないし,結構楽しんで,軽い興奮を感じながらやっている。
また,西洋にしろ東洋にしろちょっと歴史を振り返ると,そこには必ず「拷問」や「大虐殺」の事実が多数存在する。現代でも,戦場に行けば同じことが形を変えてくり返されている。あなたも,憎い人間を残虐に殺してやりたいと思ったことはないだろうか。生き物を残酷に扱うというのは実は大変快いことであり,大人だって場合によっては極めて残酷になれるのである。しょせん人間は猿に毛の生えたようなもの,いや猿の毛を抜いたようなもの。動物なのである。うんことゲロのいっぱいつまった肉袋なのである。

しかしいくら残酷だといっても,普通の子供は猫や犬は殺さない。大人も普通は戦場ででもなければ人は殺さない。それはなぜか? 答えは簡単,殺してはいけない社会だからである。「殺してはいけない」「殺したらかわいそう」などという何らかの規範が存在するからである。牛や豚は殺してもいいが,犬や猫はかわいそうなのである。「死刑」とか「戦争」とか言う形で集団で人を殺すのはいいが,個人で人を殺してはいけないのである。それは,そうでないと「社会秩序」を保てないからである。そのように我々の意識や無意識の中にいつの間にか書き込まれているのである。
このような有形無形の社会規範によって我々の残虐性は無意識の中に封印され,普段は自分でも意識することはできなくなっているが,もし規範による制御が手薄になれば,いくらでもこういった残虐さが顔を出すはずである。それは先にも述べたように人類の歴史が証明している。

----------------------------------------------------------------------

重大な犯罪を犯したという点で彼が極めて特殊であることは確かだが,このように彼の持つ性的サディズムは,程度の差はあれ,それ自身はそれほど特殊な心理ではない。問題はなぜそれが実際に重大な犯罪につながってしまったかである。

その点を説明するのには「行為障害」という診断名はあまりに無力である。この診断名はICD-10(医学書院,融 道男,他監訳)によると,「反復し持続する反社会的,攻撃的,反抗的な行動パターンを特徴とする」小児期・青年期の情緒・行動障害の一種だが,「他の精神科的病態の一症状であることもある」と併記されていることからも分かるとおり,問題行動を分類しているだけの症候学的な概念である。つまり,問題行動を起こしてしまう原因に関する記述はほとんどない。あくまで起こってしまった行動の結果や行動の起こった環境からの分類である。
鑑定にあたった医師も当然そんなことは分かっているだろう。思春期・青年期はただでさえ変化の激しい時期であり,仮に精神病的な症状があったとしても直ちに精神病と診断することは控えなければならない。この時期の様々な精神症状は,後になって症状が全く消失したり,全く別の症状に遷移していくこともよくある。そのために小児期・青年期の診断基準は成人の人格障害等とは別に項を設けて記載されている。どうしても診断をつけようとすると,「行為障害」のような症候学的診断にならざるを得ないのである。
いずれにせよ彼の診断については,医療少年院での長期のfollowを経ないと何とも言えない部分が多い。幸い彼については精神科医がずっと観察を行うということだから,この報告に期待するしかない。

誰の心の中にもある「普通の」サディズムが彼の心の中でどのように発展し,それが実際の行動として発現し,次第にそれがエスカレートして重大な犯罪に結びついてしまったか。また社会はなぜそれを途中で止めることができなかったか。
彼は生来,特別に攻撃性の強い子供だったのだろうか。原始的な攻撃性が性的な衝動に結びついたために「性的サディズム」として強い嗜癖性を帯びてしまったのか。それとも攻撃性に歯止めをかけるべき内的・外的・生活環境的な力が最初から弱かったのだろうか。「バモイドオキ神」の存在や「自分は天使である」というやや magical thinking 的な合理化が歯止めの力を無効化してしまったか。あるいはこれらが不運にも少しずつ偶然に重なってしまったのか。

彼を「異常者」ととらえ,医療少年院に長期隔離することで全てが解決したような気分になる人は多いだろう。しかし彼の提示した様々な問題は結局未だ全く解決していない。また,我々が彼について考える際には,自分自身のこころをよりどころに推論するしかないが,それは自分の心の中にも彼と同じ部分があるという認識に依拠する。彼を自分たちとは違う「異常者」で片づけてしまうことは,問題の手がかりを自ら放棄するに等しい。「心の中の闇」は我々にもあるし,我々もいつ「暗い森」に迷い込むか分からないのである。そして我々自身の「心の闇」こそが彼を理解する唯一最大の手がかりなのである。

何度も言うが,あのような行為を実際に行った点では彼は確かに極めて異常である。だが,その心の中は我々や普通の中学生たちとそれほど違わない。我々は,不十分ながらも,自分自身の心の闇を手がかりに彼の心の闇を推論していくしかない。それが少年犯罪や思春期問題症例の扱い,少年法や少年院のあり方等,彼が提示した様々な問題に少しでも答えていくことになるのである。決して問題をこのままにしてはいけない。我々は自分の心の闇に直面しなければならない。


7月28日

神戸の事件をめぐって毎日様々な報道がされている(今は奈良の事件にとって代わられているようだが)。私たち精神科医の間でもこの事件に対する関心は非常に高い。私自身も大きな関心を持ってこの事件に注目してきたが,新聞・雑誌も含めた最近のマスコミ報道の色調には,事件そのものからかなりズレたものを感じるようになってきた。

このような,金目当てや怨恨によるものではない不可解な事件が起こるたび,世間では「このような理由のはっきりしない犯罪を犯す人間は頭がおかしい=精神病者に違いない」と言われる。殺人という重大犯罪を犯すにはそれ相当の「理由」が必要,というわけだろうか。周囲から「理由」の理解できない事件は「精神病的な」事件ということなのか。...しかしここには2つ論理の飛躍がある。

----------------------------------------------------------------------

我々の行動というのは決して常に前もって「理由づけられた」行動ではない。
あなたの日常の行動をじっくり振り返ってみて欲しい。いかに我々は無意味な理由のない行動をしているか。本来「理由」というのは「行動」に先立つべきものなのだが,よく考えれば,我々が「行動の理由」だと思っているものは,行動の後から理由づけられたものであることに気付くはずだ。我々は行為の主体である時に同時に理由や行為そのものを意識することはできない。我々が「理由」を意識する時は常に行動が終わった後で「振り返って」反省的態度でなされる。行動が終わった後でそれ以前の場の「流れ」にそって理由付けが無意識に行われる。なかなか理由付けができない場合には「行動」が意識される。そして意識的に理由付けがなされる。それ以外には我々に行動の「理由」が意識されることはない。

言葉(理性,言語的認識)の世界でしか生きられない「人間」は,何にでも「理由」を求める。何でも「理解」しようとする。自分の行為に関しても,他人の行為に関しても...時には自然現象や全くの偶然にでも「理由」を求める。しかしいずれも「理由付け」という行為は対象となる行為や現象が終わった後でそれを言葉でとらえたものである。「言葉」が人間の「現実」の中で存在するとすると,言葉は自らの存立基盤である「現実」については決して語り尽くすことはできない。人間がいくら自らの行為や他者の行為に「理由」の網を投げかけても,現実の行為は常に先へ先へと逃げていってしまう。我々がある「行為」の「理由」をとらえたと思っているのは,実は「現実のその行為」の抜け殻をつかんだに過ぎないのである。

もっと現実的なレベルの話であっても,我々はどうして他者の行為の真の理由を知り得ようか。我々はどうして他者の心を理解する,あるいは理解していると思っているのであろうか。
我々が体験できるのは自分の心だけである。他人の心を直接体験することはできない。我々が他人の心と思っているのは自分の心を他者に投影したものに過ぎない。あなたは思春期の頃,自分の見ている世界が他人の見ている世界と本当に同じようなものなのかどうか悩んだことがないだろうか? 我々が共有する世界とは実にあいまいな「共同主観性」に裏打ちされているだけのものである。我々は一体何を本当に共有していると言えるだろう。それは「言葉」やそれに裏打ちされた体験,あるいはそれ以前のものだろうか...

我々が犯罪者の心理を想う時,我々は自分の心を投影して,つまり自分自身の中にある彼と共有する素材,例えば殺意や破壊性を手がかりに「理解」しようとする。しかしそれはあくまで投影であり追体験であって,本当に犯罪遂行時の彼になりきることではもちろんない。勝手に彼の心理を想像しているだけである。彼を「異常」と見たい人は「異常」と理解するし,「正常」と理解したい人は「正常」と理解するだろう。
あなたが彼の行為の理由を「理解しがたい」と思うのは自分自身の心を「投影しがたい」からであり,彼とあなたとの間に共有する手持ちの素材が少ないことに他ならない。ただ,それはあなただけの問題であって,他の人はそうでないかもしれない。現に,今回の神戸の事件について行われた全国の中学生の調査では,容疑者の少年にある程度共感する者はかなり多かったともいう。私も彼を(その行為の道義性とは別にして)「全く理解できない」とは思わないし,私の周囲の精神科医や患者さんも「ある程度わかる」というひとは少なくない。しかしそれも勝手な「投影」に過ぎないことは言うまでもない。

結局,我々が彼の行動を理解するの理解しないの言っても,それは彼の行動そのものとは全く違う次元のものであって,それは他の「ありふれた」殺人事件の容疑者に関しても同じことなのである。その犯罪を「ありふれた」ものと考えるか「異常な」ものと考えるかはその人の勝手であるが,それはあくまで極めてあいまいな基盤の上に成り立っている判断であることを忘れてはいけない。

----------------------------------------------------------------------

我々は「理解できない」ものを恐れる。我々は本当は自分自身すら「理解」することはできないのに,そのことをひたすら否定し,「理解」しようとし「意味」や「理由」を求める。無意味なものには「無意味」という意味を与えてすら理解したことにしようとする。しかし究極の無意味である我々自身の存在,それを先行的に規定している「死」についてはどうしても理解しきれないようである。そのために古今の様々な宗教や哲学,精神医学などというものも成立してきたのかもしれない。
理解や意味を形成する「言葉」には大きな限界がある。言葉は一つの論理体系である以上,言葉それ自身に言及する命題に答えることはできない。つまり言葉それ自身が成立する基盤については語り得ないのである。我々の認識・理性は言葉によって成立している。つまり我々の理性や認識はそれ自身の成立する基盤についてはとらえ得ない。
現象学の言葉を借りれば,死は我々の存在に先行し我々の存在の基盤をなしている。つまり我々は「死」を理解し意味づけることは決してできない。死は我々人間の基本的な気分,つまり「不安」としてしか我々には経験され得ない。我々にとって理解できないもの,それは言葉を越えたものであり「不安」として体験される。それは「死」と同位置に置かれるものなのかもしれない。

つまり我々人間は「無意味」で「理解できない」ことを恐れる存在なのである。

最近,世間では精神病者に対する興味が高まり,様々なメディアで精神病者を扱っている。中には好奇心や刺激欲を満たすだけの内容のものもあるが,私個人はこういう風潮自体はむしろ歓迎すべきことだと思う(どことなく彼らを見下すところがあるのが腑に落ちないが)。しかしまだまだ一般の人にとって精神病者は「怖い」存在なのではないか。
精神病患者になじみのない人達が彼らを恐れるのは,基本的には「理解できない」からで,ここから「何されるか分からない」「話しかけられたらどうしよう」などの恐怖や不安が生じてくるように思われる。私も子供のころは近所に住む精神病者に対してそういう感情を持った(単なる恐怖・不安だけでなく強い好奇心の入り交じった複雑な感情だったが)。
しかし精神科医となった今,彼らに対して恐れる気持ちはない(あったら商売にならないし)。それは何故だろうか。精神科医は精神病の症状についてある程度の知識を持っている。統合失調症の患者の幻覚・妄想はどのようなパターンを持っているのか,躁病やうつ病ならどうか...など。私もそれなりの知識は持っている。しかしそれだけではないような気がする。高校生の時から精神医学に興味はあったので,5回生の学生実習の時には既に相当な知識がある自信があったが,それでも患者さんに対して若干の不安感や恐怖感がなかったと言えば嘘になるだろう。しかし,今でも知識面ではそのころとあまり変わらないが,患者さんに対する感情は当然全く別物である。

私が彼らを恐れなくなったのは彼らと過ごした時間のせい,つまりともに多くの体験を共有したからであろうと思う。精神科医になって以来,私はずっと彼らとどっぷりつきあっている(当たり前だが)。 このことが「知識による理解」を越えた理解を与えてくれたのではないかと思う。私たち精神科医は彼らと多くの共有する素材を持っている。この素材が少なくとも私たちに彼らに対して「自分を投影」することを可能にしてくれている。そのために私たち精神科医は彼らをいくぶんは「理解できる」ような気がするのである。

いつからか私たちの社会では「精神病者は精神病院に閉じこめておくもの」という構図ができていて,一般の人と彼らとの距離は絶望的に遠くなってしまった。一般の人が精神病者に触れることは滅多にない。ともに何らかの体験を共有するなんてことは絶対ないと言っていい。このような状態は一般の人の精神病者への理解をさらに困難にするし,そのことに由来する精神病者への恐怖や不安はさらに両者の距離を遠くする。まさに悪循環である(戦前の精神病者の扱いはもっとひどかったという声もあるかもしれないが,それでも両者の距離はこんなに遠くなかったのではないか。今さら「患者を地域に帰そう」などと言ってもそんなにうまくいくはずがない)。結局,一般の人にとっては精神病者はますます「怖くて」「不気味で」「何するか分からない」存在になっていってしまう。ここに,動機の理解できない凶悪事件は「精神病的である」という大きな誤解が生じてくるのである。

----------------------------------------------------------------------

神戸のあの事件において,容疑者の少年が実際に精神病を患っているかどうかは別問題である。これはじっくりと鑑定すべき問題である。彼自身のためにも決していい加減な審理は許されまい。しかし彼のような犯罪者(まだ容疑者だが)と精神病者を安易に同一視し,いずれも隔離して我々の社会から遠ざけるべきという考え方は大きな間違いであると思う。彼が精神病なら治療をするべきだし,そうでないなら彼の犯した罪に応じて刑罰を与えるべきである,という主張ならば法治国家なら当たり前のものであろう。しかし昨今の少年法の改正論議は,あくまで今回の事件の容疑者,彼個人を隔離するため,「異常者を社会から隔離するため」というニュアンスが強いのではないかと思う。これは彼の行為を理解するしない以前の問題であることは言うまでもない。

彼を隔離してしまう前に我々が考えるべき問題はもっともっと腐るほどあるのではないかと思うのだが...。

----------------------------------------------------------------------

(あー幼稚な内容。恥ずかしい...。)


ホームページへ

Copyright (C) by YASU-Q