おまけ:私の統合失調症との出会い


今から十数年前,私が研修医になって初めて担当した患者さんが統合失調症の患者さんでした。彼女は当時40代,20歳で発症して以来それまでに何回も入院歴がありました。

彼女は,デイルームのTVに向かって大きな声で独語しけたたましく笑う,とてもにぎやかなタイプの患者さんでした。入院した当時は怒りっぽく,診察がTVとの会話に触れると「あれは秘密です!」とすぐに機嫌が悪くなってしまいました。また,母親に連れられてきて医療保護入院(一種の強制入院です)になったことについても不満をもっていて,始終「早く帰らせろ」「退院させろ」と要求されました。

私は指導医の先生と話し合いながら,定石通りのおクスリを使い,あまりうるさがられない程度に彼女のもとを訪れ,少しずつ彼女との距離を測りました。入院して2〜3週間した頃から彼女はあまり怒らなくなり,これまでの経過や,TVとの会話についても少しずつ話してくれるようになりました。彼女はよくTVに出る芸能人と結婚の約束をしていて,いつもTVを通していろんな話をしていたそうです。時にその人が女性の共演者と仲良くしているととても腹が立ち,TVを通じてケンカをすることもあったようです。

どうも彼女は複数の芸能人と婚約していたようなのですが,そうこうするうちに,主治医である私とも婚約してしまいました。私が詰所にいると,彼女は必ず窓のところに来て,私があれこれ仕事をしているのをニコニコ眺めながら大声で独語します。たいていは私のことを誉めてくれているようなのですが,時に私が若い看護婦さんと話していたりすると,当然,烈火の如く怒ります。それでもその後私が診察に行くと,何事もなかったかのように上機嫌で話に応じてくれます。

彼女の精神症状にいちいち名前をつけると,対話性幻聴,対話性独語,空笑,恋愛性妄想,妄想知覚,考想伝播,軽い連合弛緩,人物誤認(主治医と芸能人を同一視),感情易変などいっぱいあり,これらはいずれも様々な薬物療法でも効果が見られませんでした。ただ,ご本人はたいていは幸せそうで,完全にできあがった病気の世界と現実のこちらの世界を実に身軽にヒラヒラと行ったり来たりしている様子でした。

最初私は,彼女の幻覚や妄想は病気の症状であり,治療すべきもの,あってはいけないものと考えていました。そのため症状が消えることを目標に様々な薬物治療を試みていました。しかし彼女の住んでいる世界をよく知るにつれ,これらはむしろ「手をつけてはいけないもの」「彼女に残しておいてあげるべきもの」という気がして来ました。彼女にとって病気の世界は現実と同じであり,長年の苦しい闘病生活の末やっと手に入れた心の支えであり,これを無くして生きていくことはできないほど重要なものなのです。入院当初,症状に触れられる度に彼女が怒っていたのは,この世界を汚され,取り上げられることへの抵抗だったのに違いありません。幸い私がヤブ医者で,彼女の世界に踏み入ることができなかったために,彼女も警戒心を解いてその世界の中に私を取り入れてくれたのだろうと思います。

私は指導医の先生と話し合って治療方針を変え,最小限度のおクスリを間違いなくのんでくれることだけを目標にすることにしました。とにかく,怒りっぽくなることだけを少量のおクスリで抑えることができれば,彼女は十分家で暮らしていける人でした。処方を単純化し,一日の服用回数を減らしました。彼女は外泊を繰り返し,約半年後,退院を渋るお母さんの元へ無事退院して行きました。

今でも目を閉じると彼女の笑顔と大声の独語が頭にありありと浮かびます。あれからたくさんの患者さんと出会いましたが,彼女との出会いが私の精神科医としての姿勢を決めたように思います。

注:このお話のモデルになった患者さんはいますが,プライバシー保護のためあえて事実とは変えて記載しています

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