独語・空笑 〜日記風に〜


とある病院に勤務していた(現在は某国に逃亡中)精神科医の日常の雑感です。




平成14年10月13日 星条旗と反戦ビラ

書きかけの論文と統計処理中のデータの山に埋もれているといつの間にか10月も中旬になっていてビックラこいてしまった。明日の朝の気温は2℃とか。10月中旬のカナダは紅葉よりももう冬支度の季節になっている。
あわてて独語しる。間違えた。独語する。

先週末,学会でワシントンDCに行ってきた。学会の方は,ま,とりあえずそこそこにして,街をあちこちうろついてみる。さすがにこれからまた戦争を始めようかという国の首都だけあってなかなか物々しい雰囲気だ。ホワイトハウス近辺の道路は封鎖されていて,写真1枚とるだけでも横でお巡りさんが目を光らせてるし,FBIのビルなんてどこから入るのか分らないくらいほとんど全ての入口を封鎖してあった(平時は"FBIツアー"と称して一般人でも中に入れてくれるのだが)。いたるところに星条旗が掲げてあるし,家のどこかに星条旗を出していないと「お前は非国民だ」と近所から非難されることもあるらしい。戦前の日本の全体主義を思わせるような怖い話だ。

テロリズムというのは常に破壊的で何も生みはしない。だが「報復」を旗印にした戦争もまた同じくらい破壊的で非生産的だと思う。報復は報復を呼び,憎悪は憎悪を煽り,殺戮には終わりがない。もちろん侵略目的の戦争だってサイテーなことには変わりないが,まだそこには終わりを予想させるものがある。

一つだけ救いがあったのは,あちこちで反戦デモや反戦集会が開かれていること。決して戦争賛成一色ではないのだ。一生懸命反戦ビラをまいている人たちもいた。がんばってね,と言ってあげたかったがどうせ私の英語じゃ通じないので,せいいっぱい笑顔でビラをもらってあげた。「ヘンな東洋人。」と思われただろうが。

横でお巡りさんがにらんでいたため遠〜くからしか撮れなかったホワイトハウス。

そうそう,ご報告が遅れましたが,YASU-Qは来年3月に日本へ戻ります。4月からはまたどこかの病院で働くことになるでしょう。どこかでお会いすることがあったらどうぞよろしく。

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平成14年9月30日 子供のオモチャとニッポンの将来

メイド・イン・ジャパンが世界的に幅をきかせている分野はいくつかある。

一つはクルマ。北米では大量の日本車がごくごく当り前に街中を走り回っている。パーキングにクルマを停めたり,ハイウェイを走っていて,ふと気が付くと周り全部が日本車なんてことも全然珍しくない。今カナダ国内で最も売れているクルマは日本車だと聞いたことがあるし,私の周りにも日本車に乗っているカナダ人が多い。
日本車は壊れにくく優秀という評判もやはりよく聞くし,私が20年ぐらい前に乗っていた初代インテグラが今だに結構な値段でやりとりされているのを見ると(日本では絶対に考えられない),本当に日本のクルマは高く評価されているのだなあと,ちょっとニヤけてみたりする。

電化製品や食べ物の評価も高い。日本製のAV製品(アダルトではないぞ)や電子楽器なんかは高級ブランドで,結構強気な値段をつけててもどんどん売れてるみたいだし,どこの"Sushi"屋も日本食好きのカナダ人でいっぱいだ。

そしてもう一つメイド・イン・ジャパンが強い分野が,子供向けのアニメとオモチャだ。実は北米の子供向けチャンネルでゴールデンタイムに流れるアニメのほとんどが日本製だ。「デジモン」に「ドラゴンボールZ」,「ポケモン」,「セーラームーン」,「ハム太郎」...もちろん全部英語に吹き替えされているが,一瞬どこの国の放送か分らなくなる。これには驚いた

"HOT WIRED"によると,1960年代にはすでに日本製のアニメが米国で放送されており,80年代に「宇宙戦艦ヤマト」が米国でヒットしたのをきっかけに次々に日本製アニメが輸入されるようになったらしい。そして90年代に入って「ポケットモンスター」や「セーラームーン」「ドラゴンボール」がブレイクして現在のジャパニーズアニメブームに至ったみたいだ。アジア諸国で「ドラえもん」などの日本アニメが人気があるとは聞いていたが,北米にもこんなに進出してたなんて。

そしてアニメに関連したオモチャも実によく見かける。トイザラスのアニメキャラコーナーなんてはっきり言って日本のモノばかりだ。
最近の当地の流行は「ベイブレード」だ。入荷すればすぐになくなってしまうほどの売れ行き。クラスメートが学校に持って来て見せびらかすため,多くの親が子供にせがまれてトイザラスに走るが,どこも完璧に売切れだ。ウチもかなり探したがどこにもないため,日本の実家から"個人輸入"せざるを得なかった。

それはそれで結構なことなのだが,気になることが一つ。
子供を送って行った時,小学校の校庭のすみで何人かの子供達が輪になってベイブレードをやっていたので,「これはもともと日本のオモチャなんだよ,知ってるかい?」と訊いてみた。突然得体の知れない東洋人が下手くそな英語で話しかけてきたもんだから,みんないっせいに怪訝な顔をしてこちらを振り返ったが,中の一人の子が「知らねえよ」と言い放つやいなや,みんなまた顔を伏せてバトルに戻ってしまった。そう,日本製だということはあまり知られていないみたいなのだ。

以前,ウチの子の同級生の親と話をした時も,「ウチの子は日本でもポケモンが大好きで...」と話したら,「へえ,日本でもポケモンの放送やってたのか」と言われ絶句したことがあった。ポケモンはもともと日本のアニメだよ,だいたいお前,主人公は"サトシ"だろうが! と言おうとしたが,そうだ,こっちでは主人公は"Ash"という名前になってるんだ。確かに最近の日本製アニメの画像をよく見てみると,背景とか結構,無国籍風で,登場人物の髪や目の色もいろいろだし,「日本」を感じさせる部分はあまりない。もともと海外でも放送されるのを前提にして作ってるんじゃないかと疑いたくなる。これじゃ日本製だって分らなくてもしょうがない。

日本と日本人の産み出した様々なモノは,世界中に進出していて概して評判も高い。実際にそのクオリティーはこちら製の製品と比べて段違いにイイ!ことが多い。それなのになぜか日本という国自体や日本人の評価はあまり高い感じがしない。その乖離が端的に現われているのが子供のアニメとオモチャなんじゃないかと思う。世界中の子供達をこんなに楽しませているのに,それが日本製だということはあまり知られていない。と言うか,知らせると売れなくなるからワザとそうしているのかもしれない。こうなると奥ゆかしいのか商魂たくましいのかどっちだか分らないが,いずれにせよもうちょっと自分の存在というものをアピールしてもいいのではないか>ニッポン。どこかの国みたいに何かというと他の国巻き込んで戦争始めようとするのもイヤだが。

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平成14年9月21日 たまには音楽の話でも

先週から大学の新学期が始まっっている。これまでガラーンとしていた大学の構内も図書館も売店も人・人・人。特に私のオフィスは人通りの多い廊下に面しているので,扉を閉めてても(こっちでは中に人がいる場合オフィスの扉は開けておくことが多い)外を通る学生さんの話し声でうるさくて仕方ない。おまけに駐車場も毎日朝からいっぱいでなかなか入れないし。10月にある学会発表用のポスターを仕上げなきゃいけないのに,なんだか朝からイライラしてなかなか進まない。

仕方ないのでラジオをつけて地元のFMを聴こうとしたら,いきなりPink Floydの"Hey You"が流れ出してガチョ〜ンとくる。
こっちのFMは結構こういうヘビーな曲を流してくれるのがイイ。Rushの曲なんか地元だけあって毎日何回も耳にするし。

音楽というのは,ツボにはまると人間の心に対して強力な影響を及ぼす。"The Wall"の映像なんか思い出しながら少し気がまぎれたところで...今回は珍しく音楽の話題。ちょうどちょっと前にsin5のサイトでも音楽の話してたし。

上にあげたPink Floydもそうだが,一般に「プログレ」と呼ばれるロック音楽は,一部に熱狂的なファンがいるものの日本ではマイナーである。プログレの特集でもやってない限りラジオでかかるなんて今では滅多にない。でも最近ではポップスや一般のロックの中にかつてのプログレのエッセンスは確実に浸透していて,流行りバンドの曲の中に「これは○○のパクリだな」と思えるような変拍子フレーズが出てきたりするとニヤリとさせられる。インタビューを見るとメンバーの誰かやプロデューサーが隠れプログレ野郎だったりする。

プログレ("Progressive Rock"前衛的・進歩的ロック)というのは,60年代にBeatlesらが時代の風に乗って押し広げたロック音楽の可能性を,芸術性・技巧性などの面でさらに突き進めようとした一大ムーヴメントのことで,60年代末〜70年代に世界的に大流行りしたが,次第に形骸化・マンネリ化してちっとも前衛的ではなくなってしまい,80年代には全く顧みられなくなってしまった悲しい音楽である。
表面上は,変拍子や近現代クラシック音楽風のアレンジを多用した複雑で長い楽曲や,単純なラヴソングなど決して許さない芸術の香り高き抽象的な歌詞,メンバーそれぞれが十分ワンマンバンドを率いて行けるぐらいのキャリアとバカテクの持ち主,ファンでも覚えきれないほど頻回のメンバー離合集散...などなどが特徴的だが,これにあてはまらないバンドも多く,言葉で共通項を語ることはなかなか難しい世界でもある。

多様なロック音楽の生み出した鬼っ子の一つですでに過去の音楽,と見る向きもあるだろうが,80年代や90年代,そして21世紀になってもYesやKing Climsonといったかつての有名プログレバンドは解散・再結成を繰り返しながら生き残っているし,Dream Theaterみたいに有名バンドの中にもどんどんプログレ化していくうれしい奴らがいたりする。先に述べたように,ポップスや普通のロックの中にもプログレの要素はいつの間にか浸透している。「プログレ死して変拍子を残す」という名言があるが,私は「未だプログレ死せず」と思う。

これを読んでちょっと興味を持ったあなたへ送るYASU-Qお勧めプログレアルバム。この頃何か面白い音楽ないのよね〜な人にお勧めです。買え!とは言いませんが,レンタルにあったら聴いてみる価値はあるかも。もちろん,もっともっと「通」なものもありますが,とりあえずプログレ入門という選択で。

アーティスト名タイトルコメンツ
UK"Danger Money"下記の第2期King Climsonに参加していたジョン・ウェットンらが結成した"UK"の第2作(1979)。いかにもプログレな展開の中にもポップなセンスが輝いており,プログレ初心者にもお勧めできる傑作。因みにジョンは東京ライブで「君たちサイコだよ」という名言を残した後UKを解散しASIAを結成する。
Yesロンリー・ハート "90125"第2期Yesの再結成デビューアルバム(1983)。彼らの長いキャリアの中で唯一の全米No.1ヒット「ロンリー・ハート」"Owner of Lonely Heart"を含む大ヒットアルバムでもある。聴きやすいポップな曲が多いが,しっかりプログレしてる曲もある。
King Climson"Red"まさにレッドゾーンまで振り切ってしまった第2期クリムゾンのラストアルバム(1974)。冒頭のタイトル曲を含めヘビーな曲が多いのでメタル系やハードロック系の人には聴きやすいかも。アルバムラストの"Starless"はロック史上に残る名曲。
Emerson, Lake & Palmer (EL&P)展覧会の絵
"Pictures at an Exhibition"
「展覧会の絵」というとムソルグスキーの原曲をラベルがオーケストラ用に編曲したものが有名だが,これをたった3人のバンドで演奏しようという根性がスゴイ(笑)。みごとにプログレ版「展覧会の絵」に仕上がっている(1972)。このキース・エマーソンという人は他にもたくさんのクラシック曲を無理やりロックにして演奏しているだけでなく,自分でピアノ協奏曲も書いている才人。

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平成14年9月11日 地震,雷,火事,人間。

昨夜遅く激しい雷雨があり,一気に涼しくなった。いよいよ秋やなあ...。カナダはここからが早い。あっという間に冬になる。

今日は北米に暮らす者にとっては決して忘れられない日だ。昨年の今日,あの大事件が起こった。今日はどこのTV局も追悼番組中心のプログラムだ。

...朝,子供を幼稚園に送った後,何気に見ていたTVに次々映し出された信じられない映像。リポーターの早口の英語なんてまるで聞き取れない。最初は本当に何が何だか分らなかった。ビルに飛行機が突っ込むシーンやビルが崩壊する映像,タリバンの資料映像などが繰り返し流されるのを見てやっと事態が飲み込めた。全く現実離れした信じられない映像だが...これは本当に起こっていることなのだ。飛行機がビルに突っ込むまさにあの瞬間に,何百人もの命が同時に失われているのだ。
私はその時,なぜか,あの阪神大震災の映像を思い出した。横倒しになった阪神高速道路,傾いたビル群...あの日TVを通じて目にした映像は,私にとっては同じくらい信じられない映像だったのだろう。あの時もわずかな間に大勢の命が失われた。
しかし,この両者の間には決定的な違いがある。テロは人間が人為的に起こしたものだ。

世の中で最も怖いものは,自分も含めた「人間」だと私は思う。

あの時ビルに突っ込んでいった飛行機にはまだ幼い子供達も乗っていたという。朝一番のフライト。きっと出発の時には期待で胸をワクワクさせていただろうに...。自分も子供を持つ親として,あの映像は切な過ぎて正視できない。
しかし,映像にこそならないが,テロに対する報復として行われた攻撃でもたくさんの人が亡くなっている。たとえその人がどんな信条を持っていたとしても人の死には変わりない。そして戦火は今なお,いや,さらに広がろうとしている。「人殺しは死ね」これが本当に正義と呼べるのか...私にはよく分らない。でもこれが正義だと信じている人も多いようだ。殺すのも殺されるのも,報復として殺すのも殺されるのも,みんな人間だ。何だか,悲しい。

しかし,えらそうにこんなこと書いてるお前は何だと言われれば,大それた戦争起こしてたくさんの人を殺し大本営発表にバンザイしてる間に自らも焼け野原にほっぽり出された民族の末えいです,としか言えない。もし生まれた時代が違えば,きっと自分の正義に疑いを持たず銃剣を持って走り回っていただろう。私も,タダの人間だ。

世の人はよく「狂気」を恐れるが,「正気の人間」の方がよっぽど怖い。

人間というのは怖い生き物だ。そして滑稽で悲しい生き物だ。

ショッキングな映像と,報復を正当化する報道を再度見せ付けられて本当にやり切れない気持ちだったが...この追悼は悲しき人類全てに捧げるもんだと思ったら,少しだけ気がラクになった。

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平成14年9月4日 心の闇から何を釣る?

最近,隣のラボの友人の影響で10年以上やってなかった「釣り」に再びハマっている(ちゃんと仕事もやってますって)。こちらではルアーによるバスやトラウト釣りが盛んで,日本でもおなじみのバス用のルアーやタックルがいろんなところで売っている。適当な安物をゲットし,近所の渓流に2〜3日通って初めて小バスが1匹釣れた時には子供の時のように歓声をあげてしまった。

ところで,私はよく釣りの夢を見る。

父方・母方双方の叔父が釣り好きで,子供の頃はしばしば海や川に連れて行ってもらった。中学生になってからは友人と自転車に乗ってしょっちゅう近所の川や池に通った。イナカでは当り前のことだがちょっとした「釣りキチ少年」だったのだ。夢に出てくるのも無理はない。

当時はまだバス釣りがメジャーになる前だったから,主流はエサ釣りだ。赤虫だの練り餌だのを釣針の先にひっかけて投げ込み,後は息をひそめてじっとウキを見つめる。水面より上からは決して見えない流れの中に想いを寄せひたすらじっと待つ。ウキにツンツンとかモゾモゾした妙な動きが出たらすかさず竿をあおってアワセ,魚の動きを感じながら竿を上げる。どんなヤツが釣れたのか...最も緊張する瞬間だ。たいていは小ブナだが,時にはなかなか竿を立てられないような鯉やナマズの大物がかかっている時もある。そんな時の魚の暴れ方は尋常ではなく,不安と緊張とそして何故か少し恐怖を感じながら魚と格闘するような感じになる。

これはとてもエモーショナルな体験だ。まだ少年だった私の心の中には魚を釣り上げる時のこの不安と緊張が何度も何度もページを改めて書き込まれ,深層に深く刻み込まれたのだろう。

私が見る釣りの夢のパターンは決まっている。

深さもよく判らないドヨ〜ンと濁った水面の上にかかる小さな桟橋。
池なのか川なのか海なのかもよく判らない。
垂れる釣り糸。
起きてるのか寝てるのかすら忘れてしまいそうな長い長い時間...
すると,突然大きなアタリ。重い重い,身体ごと引きずり込まれそうな引き...例の不安と緊張,恐怖。
そして,格闘の末やっと水面に姿を現した物体は,魚とも鯨ともつかない巨大な怪物だ。しかも怪物はこちらに向ってすざましい勢いで突進してくる。こんなちゃちな桟橋なんてひとたまりもない。怖い。逃げなければ。
でも私の手には小さな釣竿がありこれがあの化け物とつながっている。私が逃げても逃げても化け物はそっちについて来るのだ...

...そして汗をびっしょりかきながら目が覚める。目が覚めてもしばらくは心臓がドキドキしている。

だいたいこんな感じだ。
化け物は姿を見せず何も釣れない,釣り糸を垂れているだけの夢のこともある。でも何ともいえない不安な感じはたいてい共通している。空や周囲の状況もドヨ〜ンとしたムンクの絵にでも出てきそうな感じだ。
そしてこのパターン化した夢,思春期以降,人生の上で重大な決断を迫られたり,特に精神療法家として患者さんの治療上の難しい局面にある時,そういう時に決まってたびたび現われる。

ずっとこの夢のことは気になっていたが,ある時,精神分析関係の本で「夢に現われる水・水面は無意識を象徴している」という一節を読んで謎が解けた気がした。私は壁に突き当たり,自分の無意識の闇の中から何かの答を引き出そうとあがきながら,その出てくるモノを恐れていたのかもしれない。
精神分析は夢占いではないので(似たようなもんだ,という声も多いが ^^;)いかなる夢素材も分析セッションの外に出して独立に論じることはできないし,夢に意味を求めること自体が無意味な行動かもしれない。また自分で勝手に自己分析したところで,自分に都合のいい解釈しか出て来ないことが多いので,精神分析学的に言ってもあまり有益な行動ではない。
しかし私のこの釣りの夢の解釈は,夢から来るえも言えぬ不安感や不快感をいくぶんは和らげてくれる。私が本格的に教育分析(精神分析家になるための修行みたいなモノ。自分が一定期間分析を受けること)を受けることにでもなればこの解釈は捨てなければならないかもしれないが,それまではこの解釈は私にとっては有効だ。

自分の心の中に自分では見えない闇の部分が広がっていて,その闇こそが自分を動かしているのかもしれない...この事実に直面した時,ヒトは不安や恐怖から逃れることができない。しかし,不透明な水面の下でうごめく得体の知れないもの,それこそがあなたの本当の正体かもしれない。
普通はそんなことは知らないフリをして平和に生きていればいい。しかし精神療法家やカウンセラーとして生きていく場合は,こういった自らの心の闇に直面しなければならないことがきっと出てくる。それは常にとても怖い経験だ。

それでもあなたは釣り糸を垂れますか?

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平成14年8月12〜27日 カナダ東部縦断旅行 〜プリンスエドワード島への苦難の道のり〜

こちらをどうぞ)

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平成14年7月31日 子供達に愛を,オッサンにはしばしのお休みを

先日やっと日本から持って来た論文を一つ投稿でき,ホッと一息。

カナダの大学は9月始まりで,4月には後期試験が終り,5月になるともうキャンパスは閑散としている。もちろん夏の間も教員はみんな仕事があるが,それでも学期中と比べるとのんびりしたものである。そしてみんな結構長期の休暇をとる。1〜2週間の休みを2〜3回はとるから,1ヶ月近く休んでいることになるか。院生や研究生はさすがにそこまでは休まないが,それでも1週間くらいの夏休みはちゃんととる。

日本の大学にいた時にゃ1週間の休みすら連続ではとれず,3日・2日・2日とかに分けて休んでたもんなあ。当然,旅行なんて行けやしないし,一般企業の人たちがうらやましかった。まあこれは医者として働いてたわけで,現在私が所属している学部(心理学部)とは違うけど。

まあいいや。とりあえずYASU-Qも1週間ほど夏休みをとって遠くへ行きます。
どこへ行くかというと...とっても東の方です。自分のオンボロ車で行きます。往復約3600km(日本列島縦断してもおつりがタップリくる距離),もちろん家族連れで。はっきり言ってバカです。

無事に生きて帰ってきたらみやげ話でも書きますので楽しみにしてて下さい。ゲストブックへのレスなどもお休みになりますので御了承を。

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平成14年7月24日 続・カナダの子供達

嫁さんが友達と二人でトロントまでミュージカルを見に行ってしまったので(優雅でええのう),オッサンは学校をさぼって家で子守りじゃ。トホホ...

カナダでは,というか北米では,子供だけでお使いをさせたり留守番をさせたりするのはご法度である。もちろん車の中に放置してたりしたら通報されること間違いなし。日本でも子供の誘拐や連れ去りは最近増えてはいるが,それでもそう多くはない。ところがこちらは誘拐 "kid-nap" (abduction) の本場である。街のあちこちに行方不明の子供の顔写真が貼ってあるのを見ると,思わず我が子とつないでいる手に力が入る。
ここのサイト("Child Find Ontario")によるとカナダ全土で1年に6万人の子供が消えているらしい。もっともこれにはティーンエイジャーの家出や,離婚後に親権のない側の親が親権のある側から子供を無理に連れて行く("parental abduction")ケースなども含まれており,90%は早期に解決する(発見される)そうだが,それでも10%,6000人の子供は見つからないままだ。

子供の虐待も決して少なくない。日本でも増えているが,親の虐待によって子供が死に至るケースも珍しくない。当然ながら子供への暴力には社会全体が過敏で,公衆の面前で子供に手を上げたりすると(日本では珍しい光景ではないが)通報されることもある。学校でお尻の青アザ(蒙古斑)を暴力によるアザと勘違いされて警察やら保健所やら色々な所に呼び出されて大変なことになったケースなども聞く。

しかし実際には親が子供に手を上げている場面には何度もお目にかかった。スーパーの陳列棚の陰とかそういうところで,言うことを聞かない子供をバッシーンとやっていたり。こちらが見ていることに気が付くとそそくさと逃げて行ってしまうので,やはりかなりヤバイことなのだろう。それでも外でアレだから,家ではさぞかしハデにやっていることだろう。もちろんこういう人は一部だろうが,自分達に思い当たるフシがあるからよけいに過敏になるのだろうか。

「イジメ」も別に日本だけの現象ではないらしい。こちらではイジメやイジメっ子を"bully (ブリと発音)"と呼ぶが(だから「ブリッコ」というのは「イジメっ子」ということになる),イジメを苦にしての自殺や,イジメられていた子が逆襲してイジメていた子を殺してしまったケースも存在する。人種による差別意識もやはり根強く,日本人の子供がイジメにあうことも珍しくないようだ。
日本でのイジメは「集団 対 個人」の構図が目立つが,こちらではどちらかというと「個人 対 個人」のニュアンスがあるようだ。この辺は国民性の違いかもしれない。しかしイジメが万国共通の現象であり,サル山の猿にすら露骨なイジメがあることを考えると,イジメという行動は人間の心のかなり根底の部分,生物学的に既定されたところに根を持つのかもしれない。
21世紀,人類が克服していかなければならない問題は,我々の外にではなく,内面にこそ存在する,と思ったりする。

カナダの人口は3000万人。出生率も人口増加率も今一つで,高齢化はこの国でも深刻な問題だ。この国の子供達の未来も決してイージーなものではない。いつの時代,どこの国でも子供は受難の存在だ。どうか,世界の全ての子供達に幸多かれ。

ああ,そろそろウチのガキ供にも昼メシ食わさないと。腹減ったって叫んでるよ。...何か貧窮問答歌みたいだな。

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平成14年7月18日 天才か,狂気か

カナダに来て以来ずっと取り組んでいた最初の研究のデータの解析が細部まで全て終了。途中で解析プログラムのトラブルがあってずいぶんと時間がかかったけど,やっと一息。もうとっくに論文は書き始めているけど,ほとんど最初の仮説どおりの結果で,書き換えもほとんど不要そう。まあとにかく良かった良かった。でも,日本から持ってきた別の論文は結局まだ投稿できてないし,現在首を突っ込んでいるプロジェクトは4つ...一息入れてる場合じゃないな,まだ。

ところで...

日本で少し前に話題になっていた映画"A Beautiful Mind"のビデオをやっと手に入れた。精神科医たるものやっぱり見とかなきゃ,でしょ。しかし悲しいかな英語版なのでどれほど理解できるかどうか...(泣。リモコンと辞書を両手に持ったまま見ようっと。

精神医学の一分野に病跡学(Pathographie パソグラフィ)というのがある。これは古今の有名な学者・作家・芸術家などの作品や伝記・資料をもとに,彼らの精神病理について好き勝手語ろうという「学問」だ。

天才と呼ばれる人たちと言うのは,生前には全く認められず悲惨な人生を送った人が多い。彼らは世間並みの幸せを得ることを犠牲にして,未来の人類全体に貢献したと言えるだろう。私たち凡庸な人間は天才にあこがれるけれど,とても真似のできたものではないし,もし仮に真似ができてしまったらその途端にすごい不幸になってしまう。
確かに彼らの人生に狂気の証を見つけることはたやすい。実際に発病して精神科のお世話になっていた人もいるし,自殺者は一般人口と比べて明らかに多い。例えば日本の文学者では芥川龍之介,太宰治,川端康成みんな自殺してるし,夏目漱石が非定型精神病だったなんて話は有名。海外ではゲーテ,ニーチェ,モーパッサン,ドストエフスキー,文学以外では画家のゴッホ,ムンク,音楽家のシューマン,スメタナ,思想家のルソー,ショーペンハウエル,キルケゴール,ウィトゲンシュタインなど何らかの精神障害の存在を疑われている(あるいは証明されている)天才は数限りない。彼らは狂気ゆえに天才になったのか,天才だったから狂気とならざるを得なかったのか。それとも天才と狂気はたまたま一人の中に同居しただけなのか。

映画"A Beautiful Mind"のモデルになったジョン・F・ナッシュもまた天才と呼ぶにふさわしい人だろう。詳しくはこの映画の公式サイトに書いてあるが,彼は天才数学者として若くして業績を上げるが冷戦時代のこと故ヘンな筋から目をつけられ(暗号解読などとも関係のある研究だったらしい),ストレスからやがて統合失調症の発症に至る。そして結局は病を乗り越え,研究を続け,ノーベル経済学賞を受けることになる(あ,ネタばれになってしまったかな)。でも,思うに彼などは生前に業績が評価され,こうやって映画にまでなっているぐらいだから,天才の中では幸せな方だろう。また,主たる仕事は発病の前に為されており,仕事の独創性や先進性はあまり病気とは関係ないような気もする。映画にせよサイトにせよちょっと病気と結び付け過ぎかなと思わせるところがある。
因みにこのサイトのIQテストは米国人でないと歯が立たない。私,意地で辞書片手にがんばりましたが結果は...以下略。

病跡学もまた然り。非常に苦難の一生を送った人の人生の中には精神障害を疑わせるようなエピソードは必ず一つや二つは,いやもっともっと存在すると思う。別に苦難の一生ではない我々凡人の人生ですら,そういうエピソードには事欠かないぐらいだ。大半の一般市民が一生のうち何らかの精神障害を経験するという話もあるではないか。仕事や芸に一生を捧げ,それでも誰にも理解されず,生きるか死ぬかの生活を送った人なら,抑うつ的になったり妄想的になったりアルコールや薬物に走ったりするのが当り前だろう。それでも毎日ニコニコ笑って暮らしましたというなら,その方が異常だ。病跡学の文章の中には,精神障害的なエピソードを伝記の中から無理矢理ほじくりかえしてきて作品の解釈に強引に結び付けているとしか思えないものもある(読み物としては面白いんだけどね...)。

確かに天才は「異常」である。ただ,それは仕事や作品の素晴らしさ,超人的な努力,世間並みの幸せを犠牲にして人類に貢献するその生き様がそうなのであって,その異常さが直接「精神の異常」と結び付けられることにはちょっと違和感を感じる。精神病を嫌悪・恐怖したり差別・排除することはもちろん問題だが,ヘンに礼賛したり,お涙ちょうだい的にドラマや映画のネタにしてしまうことも考えものだ。狂気は誰の心の中にも潜在している。私にも,あなたにも。たまたまそれが病気になって顕在化するかどうかだ。
「天才は『なる』ものではなく『被る』ものだ」という言葉がある。一人の人間が「天才」という生き方を天から押し付けられ,天才として生活することを強いられた時に,ある人は防衛として狂気に至り,またある人は生きることを自ら止める選択をするのではないだろうか。もちろんそうして生じた狂気が作品に影響することもあるだろう。でもそれを後世の精神科医どもに寄ってたかってあれこれ評されるんじゃ悲しすぎる。狂気はその人のあり方の一つであって,良いとか悪いとかはないし,まして他人から美しいとか穢れているとか言われるものでもない。

我々凡人は天才の偉大な業績や作品を目の前にするとついベタベタと素手で触って手アカをつけたくなるものだし,精神科医というのはすぐに何でも病理とか力動とか考えたがる人種だけど,それがかえって精神障害を特別視することにつながってるのかもしれない。くり返すが,天才の「異常さ」と「精神の異常」とは本来全く別のものだ。病跡学というのも,かえって精神の異常に対する誤解をまねく可能性を考えると良し悪しだな。

さて。

凡人のYASU-Qは論文やプログラム書きなど放っておいてこれからビデオ鑑賞に勤しみます。
良かった。凡人で。

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平成14年7月10日 才能ないのか,努力が足りんのか

あれ〜,気が付いたらもう7月10日だ。2週間近くも独語してないや。

しばらく書いてなかったので,今日はその後の英語の上達ぶりについて書こう。と言いたいところだが,全く上達してないのが正直なところである。情けない。

思うに,外国語(特に会話)の上達には,環境と才能とモチベーション(やる気)が必要だ。今の私にはこの全てが足りない。

私がいるラボは女系のラボで,特に現在は若い女性しかいない。オッサンにとってはうれしい限りだが,うれしがってばかりもいられない。話のネタに困るのである。しかもたまたま大人しいシャイな娘ばかりなので,下ネタで笑いをとるとかそういうこともできない。また最近はみんな実験とデータ解析が忙しくてしゃべってるヒマがない。必然的にラボの中はいつも静かである(決して居心地が悪いことはないのだが)。隣のラボなどは常にバカ話で盛り上がっており,うらやましい。
また,家に帰ると嫁さんと子供達しかおらず,たまに子供達と(勉強のため)英語で話すことはあるが,それ以外に家で英語を話すことはない。
要するに,こちらで暮らしていても英語に触れている時間は案外少ないのである。

こちらに来て日系移民のお友達が多くできたが,奥様方の中には「私,英語話せません」という人が結構おられる(それでも私よりはずっと上手いが)。こっちへ来て10年以上にもなるのに英語を話せないなんてことがあるのかと思っていたが,日本人同士で結婚して家庭に入ってしまうと日常のお買い物ぐらいしか英語に触れることがなく,独身時代より話せなくなってしまうものらしい。
やはり環境の力は大きい。

才能も大きいと思う。
中には私と同じような環境であっても半年ぐらいでベラベラしゃべれるようになる人もいる。もちろんすごく努力されているのだとは思うが,私だって苦労はずいぶんしている。それなのに差がついてしまうのはやはり才能としか言いようがない。
「才能」という言葉がまずければ「性格」と言ってもいいだろう。どんどんトライ&エラーを繰り返していける性格とでも言うか。また,耳の良さも関係すると思う。人の声の連続から「言葉」を聴き取る能力には個人差があると思う。私は,若い頃大音響のスタジオにこもっていた副作用か,すでにだいぶ耳が怪しい(お爺さんみたいだな)。

ただ,おそらく環境や才能のハンデは努力次第で乗り越えられると思う。
「努力」。これだ。

ところが私の場合,ヘンにカナダ慣れしてしまってこの努力するモチベーションが下がってしまった。
カナダという国は他民族国家で,色々な国からの移民や難民が多い。嫁さんが行っているESL(移民のための英会話学校)などでは色々な国の言葉が飛び交っている。日本人は外国へ行くと青筋立ててその国の言葉を話すべく努力するが,彼ら別の国の人達がそんなに必死になってようには決して見えない。みんな「それのどこが英語やねん」というようなひどい英語で平然としゃべっている。カナダ人の方がそういう英語に慣れているので,そういう英語でも何とか通じてしまうのである。「ちゃんとした英語」をしゃべろうと努力しているのは日本人だけ,と言ってもいいぐらいだ。
そう,言葉として最低限の用を足せば,別にそんなに上手にしゃべれなくてもいいやんか。いくら英語がうまくなったところでしょせん日本人は日本人。たいていのカナダ人やアメリカ人は英語しか話せないわけだから,必死で2ヶ国語しゃべってる俺の方が偉いじゃん。俺なんかドイツ語もちょっとだけ知ってるし...(ホントか?)
そんなイケナイ気分になっちまったのである。これじゃあ,あんまり努力する気が起こらない。というか単に自己愛的に防衛している(分かりやすく言えば「逃げてる」)だけだが...。

才能がないのか,努力が足りんのか,その両方か...とにかくこの調子じゃ,来年になったって今とあんまり変わってなさそうだな。

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平成14年6月27日 私は誰でしょう

先日,ある方から「YASU-Q先生の本名が判ってしまいました」とメールをいただいた。その方には全く悪意はないようなのだが,あらためてネット上の匿名性の限界を思い知らされ密かにショックを受けた。かつて同じようにネット上の情報から私の名前と勤務先をつきとめて外来を受診された方もいたが,私がどこの誰かなんてことは,案外簡単に判るものなのだ。

日本国内の精神科医,心療内科医の個人サイトは運営者の匿名性によって次のように分類されるだろう。

  1. 実名・勤務先とも公表しているもの
  2. 実名のみ公表しているもの
  3. 実名・勤務先とも非公表のもの
1.は匿名度ゼロ。2.3.と匿名度が高くなり,3.が狭義の「匿名」である。病院や大学のサイトでは「勤務先のみ明らかで管理者は非公表」という第4のパターンも多いが,「個人サイト」ではないのでここには含まれない。3.の中でも,サイト内をくまなく見ると個人を特定できる手がかりを含んでいる場合と全く含んでいない場合があり,当然後者の方が匿名度は高い。現在の「精神科医YASU-QのHP」は,一応,かなり匿名度の高いサイトである。

一般に,ある職業人が個人サイトで自分の職業に関する情報を公開している場合,そのサイトの匿名度と提供できる情報の「裏」度数とは正比例してるんじゃないか,と思う。また,管理人の実際の職場の「公」度数と匿名度も正比例しているんじゃないかと思う。これらを仮にここでは個人サイト管理人の匿名性に関する2法則,「裏情報の法則」と「職場の法則」と呼んでおこう。
もちろんこれらには他の要因がたくさんからんでいて,かなり分散の大きい現象なので,統計をとったところで有意にはなりにくいと思うが。そもそも「裏」度数や職場の「公」度数をどうやって数値化するかも問題だし...。

つまり,
第1法則「裏情報の法則」そのサイトが提供する情報が「裏っぽい」ほど管理人の匿名度も高い
第2法則「職場の法則」管理人の所属する職場が「公的」であるほど管理人の匿名度も高い

これらの背景には言うまでもなく「バレたらヤバイ」=「匿名でなら言える」という心理がある。

例えば,お巡りさんや学校の先生が自分の所属する組織の内情や裏話を実名でサイトに公表するだろうか? 表ざたにしても全く問題のないような一般的な情報提供や,訴訟化していて既に公表されている事実に関するサイトならあり得るだろう。しかしこういうおカタイ組織に属していると,実名で個人サイトを運営するだけでも,結構しんどいものがあるのではないだろうか。
自分で小さい会社を経営しているような人なら,個人サイトの中で言いたい放題もできる。ただ,それでも自分の所属する業界の裏話なんかはしにくいケースが多いんじゃないか。

医者の世界も,自由なように見えて実は「医局」とか「医師会」なんていうしっかりした組織があり,案外,個人的な発言はしにくい世界である。「公」度数は勤めている病院にもよるが,もともと医師という職業自体がかなり「公」な職業でもあり,無責任な放言は許されない。人口の少ない狭い世界だからどこで誰と誰がつながっているか分からないし,個人サイトを持って××なことを書くのはかなり勇気が要る行為と言っていいだろう。
精神科医の場合は,これらに加え扱っている情報が極めてデリケートなだけに,その発言に対してはさらに高度の慎重さを求められる。決して個人サイトを運営しやすい職業ではないのである。

これらのことからは,日本の精神科医の個人サイトは3.の匿名のケースが多いというように予想されるが,意外や,そうではない。1.2.のサイトも結構多いのである。

これは,日本の精神医療の世界では未だ,当り前の情報ですら患者さん本人には伝えられていないことが多く,「表」の情報がまだまだ公開不十分であるからかもしれない。「表」の正当な情報なら匿名でなくても発信できるし,むしろ実名で発信した方が情報の信頼性は高まると言っていいだろう 「信頼性の法則」というのもあって,一般に情報発信元の匿名性と情報の信頼性とは逆相関する。上記の「裏情報の法則」から言っても,提供する情報が裏っぽくなければ,匿名度を高める必要もない。
ただ,それでも「職場の法則」は生きているようで,大学医局の講師クラス以上の先生が実名で個人サイトを開いているというのは聞かない。因みに欧米では,大学のサーバー内に個人サイトを置いていながら結構当局に批判的なことを書いている人もいたりしてビックリさせられる。

では私はどうして匿名でやっているかというと,いくつか理由がある。

まず一つ目に,サイトの中に「裏っぽい」情報を含んでいること。また「裏っぽい」情報の提供も目指していること。
日本の精神科医のサイトも数が増えてきて,一般的な「表」の情報に関しては(まだ公開不十分とはいえ)時には重複することがでてきた。もちろん重要なことについては複数の人間が複数の視点からの情報を提供している方がいいかもしれない。ただ,まだ誰も書いていない「重要な裏情報」というのもあり得るわけで,私としては「表」の情報は別の先生に任せておいて,こういう裏情報を積極的に扱っていきたいと考えている。中には一部の同業者を裏切るような情報もあるかもしれない。こういった情報の発信には匿名性が必要である。

二つ目に,常に「個人サイト」でありたいと願っていること。
個人サイトであるということと匿名であるということはむしろ矛盾していないか,という考え方もあるだろう。私は,匿名であればこそ完全な個人サイトたり得ると考える。
人の名前(実名)はその人一人のものではなく,様々な「しがらみ」がからみついている。家族,友人,職場,患者さん,みな私の名前を知っていて,私をその名前で同定している。私の名前が彼らと私のつながりの一部になっていると言っていいだろう。
だから,私がサイト上で実名を名乗るというのは,サイト上にそれら諸々の社会的しがらみを持ち込むことになる。こうなると私は実社会での人間関係をサイト上でも常に意識して活動しなければならなくなる。これは場合によって私の「個」としての活動を大いに制限することになる。「箱男」ではないが,実名を捨て浮世のしがらみを断って「YASU-Q」という姿になって初めてできることも多いのである。

三つ目に,ネット上の人格というのは常に閲覧者によって作られた仮想のものであり,現実の私と混同してもらいたくないこと。
これは二つ目の理由と似ているが,より深刻な理由である。
私はネット上で誰かの相談にのったり,文を書いたり,オリジナル曲を公表したりしているが,これは私という人間のごくごく一部の面に過ぎず,ここから得られる私のイメージというのは閲覧者の頭の中だけにある仮想のものである。これは時に実際の私とはかけ離れた理想化された姿になっていることがある。

冒頭にあげたケースや,相談メールをやりとりするうち実際に受診に結びついた患者さんの中でも,実際に私の診察を受けると,ネット上の情報から想像していたものと違ったごく当り前の診察でガッカリされる方がいた。

一般にネットから得られるサイト管理人についての情報は極めて不完全で偏ったものである。結構誰でもネット上では"ええ格好しい"で,自分の嫌いな面なんか出さないし,そもそも自分で気付いてない面などは表現しようがない。自分を「露悪的」に表現しているサイト管理人さんもいるかもしれないがそれはあくまで「露悪」であって「露真」ではない。「100の質問」を重ねても,やはり本人が現実に目の前にいない限り,管理人の真の姿は見えてこない。
もちろん閲覧者が"YASU-Q"に対してどのようなイメージを抱こうがそれはその人の自由である。誤解を避けようとしても,文章での自己表現には絶対に限界がある。たとえ書き手がプロであっても。かつて,「檸檬」から想像していたイメージと現実の梶井基次郎が全然違っていて非常にショックを受けたのは他ならぬ私です。
だから"YASU-Q"は"YASU-Q"であり現実の私とは違う,そういうことにしておきたいのである。

私はこれらの理由から"YASU-Q"というHNでサイトを運営しているわけだが,私が依拠している「匿名」性というのは冒頭に述べたようにとても脆弱なものである。そしておそらくたくさんのサイトの管理人さんも分かっていながらこの脆弱な基盤の上に立って裏っぽい情報を発信している。
口の悪い人ならこのような試みを「バカ」と呼ぶかもしれない。私も自分で「バカなことをやってんなあ」と思うことがある。でも世の中には「バカ」が必要とされることもあるのである。分かっていてバカをやるにはある種の勇気が要る。それは「冒険」と言ってもいいかもしれない。世の中を変えるのはお利巧さんではなく一部のバカ者達なのである。

バカ者達の蛮勇を笑うのはあなたの自由。でも,できればバカ者達の唯一の武器兼防具である「匿名性」を脅かすようなことはしないで,そっとしておいて欲しいなあ...。私達にはそれしかないのだから。

長文で失礼。この文章は「駄文集」に転載予定です。

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平成14年6月21日 ありがとう
自分のサイトを持っている,持ったことのある人なら分ると思いますが...ずっとサイトを維持・更新し続けていると,時々,「何でこんなことやってるんだろう」と思う瞬間が必ずあります。
特に,本業が超忙しい時,何かネット上でトラブルがあった時,PCやネット接続の調子が悪い時などは,ちょっとした更新をするのにもひどくおっくうになってしまい,もう更新をやめようか,いっそサイトを閉じてしまおうか,などと考えてしまいがちです。

そんな時に支えになってくれるのが,誰かからのメールであったり,BBSのカキコであったり,カウンターの数字であったりするわけです。「役に立ったよ」とか「勉強になりました」とか「いい曲ですね」とか言われると「よっしゃ〜!まだまだやるで!」となるわけです。要は単純バカですから(笑。おだてられるとCNタワーでも登ります。ムリか。

先日,サイト再開時に設置したカウンターが10000を越えました。有名サイトと比べれば微々たる数字ですが,海外逃亡中で心細い身の上である私には本当にうれしい数字です(そう言えばこの前「精神科医」「海外逃亡中」というキーワードでこのサイトに来て下さったあなた。思い切り笑わせていただきました。当然ながら私のサイトしかヒットしなかったでしょう?)。本当にありがとうございます。これからも精神科医「個人」のサイトとして,インデペンデントな発言を続けて行きたいと思ってますので,どうかご支援よろしくお願いします。
(ペコリ).....YASU-Q,モニターの前で頭を下げております。
あなたの目の前に実際のYASU-Qはいませんが,どうかあなたの中のYASU-Q像にあなたの頭の中で頭を下げさせておいて下さい。「ありがとう」

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平成14年6月13日 精神科医は文系人間か?
カナダの子供達の話を続けようと思ってたら,急に本業が忙しくなり,まとめる時間がなーい。よって,もうちょっと時間ができた時にゆっくり書く予定です。

何がそんなに忙しいかというと,新しい実験用のプログラム書きで忙しいのである。明日までに9種類のプログラムを書き上げて,ラボのPC上でちゃんと走るかどうか確認し,トリガーの波形確認や出力音声のキャリブレーションを済ませなければならない。ここは理工学部ですか?

思い返せば,小学校時代から大学時代に至るまで,私の最も苦手な教科は一貫して算数・数学だった。反対に,得意な科目は英・国・日本史...そう,まるっきり文系人間なのである。だから,精神分析や現象学関連の書籍をかじってたりするのは,まあ性に合っていると言えるだろう。それが,よもやプログラムのバグ取りに追われる日々が来ようとは...しかも異国の地で。ハァ...人生,先のことは判らんねえ。

一応,医学部というのは理系で,入試には数学が必修だが,理科は「物理・化学」か「化学・生物」のどちらかの組み合わせを選べるところが多い(最近は物理・化学・生物の3科目を必修化しようという動きがありますが)。「物理・化学」という組み合わせは理系の定番で,たいていの理系学部の入試はこの組み合わせが必須である。「化学・生物」というのは理系としてはちょっと邪道(笑)で,農学部と医・歯学部ぐらいしか選択できない。因みに,数学ができない私は物理も当然できず,必然的に邪道まっしぐら。

これは私の全くの私観だが,医学部の学生の中で,「物理・化学」で入った人と「化学・生物」で入った人とはどことなく雰囲気が違うような気がする。物理・化学で入った人は,現役生に多く,いかにも理系風で,物事を理論的に考えることができどことなくクールでスマートな感じがある。それに比べて化学・生物で入った人は比較的少数派で,中には私のような隠れ文学野郎がいたり,物事を感情的に考えるクールじゃない奴が多いような...(笑。これは全くの偏見ですので,生物・化学選択だったドクター及び医学生の方々,お気になさらないように。

精神医学は文学ではない。
でもかつての精神医学には,文学に近い面があった。

精神科医の中にももちろん「いかにも理系」というスマートな先生もいるが,やはり今でも他の科と比べると文系的な先生が多いような気はする。昔,同人誌に小説書いてたんだよ...みたいな人もいるし,医学部入る前は○○大の文学部にいた,とかそういう人も。患者さんのサマリーとか書いてても,文学的な修辞に凝る先生が多い。どうでもいいんだけどね,そんなこと。

精神医学は,言うまでもなく,医学であり自然科学の一部である。現在,誰にでも理解できる「証拠」に基づいて,全ての医師が一定の治療効果を上げられるような治療や処方のプロトコール・基準を作っていこうとする動きが活発である。精神科疾患に関する遺伝子的な研究や生化学的な研究などは,もともと完全に「理系」の世界だ。情緒的,非論理的な思考が入り込む余地はない。こういった生物学的な精神疾患の研究はますます進んできている。
つまり,現在,精神医学は文系から理系の学問に移行しつつある,と言えるだろう。

で,ここからが,文系人間の反撃なのだが(笑...
でも,きっと精神医学の理系化がどこまで進んで行っても,残る部分はあると思う。

そもそも理屈というものが人間の頭によって捻り出されるものである以上,理屈が人間の頭を説明し切ることは絶対にできないはずだ。と,えらい先生も言っている。 自分の心の中を理屈で割り切ることができないから,苦しみが生じる。自分の行動を理屈で制御することができないから,悩みが生じる。自分の理解を全く超えたことが現実に自分の身に降りかかってくるから,悲しみが生じる。
これらを自然科学の言葉で仕切り,解釈することは可能かもしれないが,それは,科学の言葉によって現実の表面だけをすくい取った,とても味気のない皮相的なものになってしまうに違いない。

これまで精神科医個人々々の「芸」みたいなものであった精神科の医療に科学の光を当て,全ての患者さんがキチンとした治療を受けられるように,治療の基準・処方の基準などの情報が公開され,科学的に検証される...これはとても大事なことだ。また精神科の疾患の発現,発展,そして治癒に関する生物学的な研究も必須のものだ(私自身もこれをやっているわけだし)。
だが,それで全てが割り切れる,全てが科学の言葉で語られる,というのは違うと思う。どこかに文系的な部分は残ると思うし,ひょっとすると,そっちの方が大事な部分なのかもしれない。そして,これは他の診療科の「医学」にもあてはまるのではないか。

以上,理系コンプレックスのある文系医者のつぶやきでした。
あ〜,こんなことしてる場合じゃない。早く次のプログラム書かなきゃ(涙。

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平成14年6月6日 カナダの子供達

日本人というのは研究熱心というか,向上心の強い国民だと思う。

東洋の小さい小さい国の割に,ノーベル賞もいろいろもらってるし,子供達の平均学力も高い。でも,それでももの足りないらしく,教育制度をどんどん改革し,ノーベル賞をもっともらえるような国家プロジェクトを考えようとしたり,「ゆとり」の教育によって子供達の自主性や情操をもガンガン鍛えようとしている。常に自分を他の国と比べ「もっとこうしよう,もっとああしよう」と考えている。

それと比べると,さすがにカナダはのんびりしたものである。いや,カナダも教育水準は高い国で,決して教育に力を入れてないわけではないのだが...どこかが違う。
カリキュラムがそんなにスカスカなわけではない。宿題も出るし,授業もキッチリしている。英語が不自由な日本の子供がついて行くのはかなり大変なぐらいだ。...でも,どこかが違う。

風土というか,国民性の違いなんだろうか。何か日本のような「もっともっと」という感じがない。「いいじゃない,これで」というか。勉強好きな奴は勉強すればいいし(実際,大学生の勉強熱心さは日本の比じゃない),すぐに働きたい奴は働けばいい。でもどっちにしたって,カナダは世界一の国だよ...みたいな。

「自信」なのかな。「カナダは世界一の国だよ」と言い切るカナダ人は多い。それに比べて,「日本は世界一の国です」と胸を張って言える日本人はそういないだろう。私自身も,日本という国をどう思うかと言われると,愛憎入り混じった複雑な感情が湧いてきて,単純に「日本は世界一」なんて言えない。

でもそれが日本人なんだろう。だからこそ,黒船がやってきて長い鎖国の眠りから醒めるやいなや,「これではイカン」と国の体制そのものをひっくり返して新しくし,アッという間に西欧諸国に並ぶ国となり,「もっともっと」と調子に乗って無謀な戦争まで起こし,ケチョンケチョンにやられても,またすぐに「追いつき追い越す」ことができたのだろう。日本人がもっとのんびりした国民性を持っていたら,日本の近現代史は全く異なったものになったに違いない。

こういう国民性とか心的風土みたいなものが,ちょっと教育制度が変わったぐらいで変化するとは思えないけどなあ。子供達の自主性を伸ばす,とか愛国心を育てる,とか言ったって,ねえ。...イヤ,あっしゃあ平民ですから,お上のすることに楯突こうなんざあ,これっぽっちも思ってやいやしませんけどね,ヘイ。

しまった,カナダの子供のことを全然書いてないやんか。じゃ,また次回に続くということで...。

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平成14年5月28日 目覚めよ黒魔人!
家の庭のすみの方,大きなモミの樹の下にその一本足の黒い物体は佇んでいる。

背丈は120cmくらい,一本足に大きな頭。足元には名の知れぬ雑草がびっしり生い茂り,モミの樹の落葉と土埃を全身にかぶっていて,気を付けないとその存在を見落としてしまうくらいひっそりと静まっている。

この家に入居する時に,オーナーからこの物体の正体は聞いていたのだが,冬の間は関係ないもので,すっかりこいつの存在は忘れていた。
しかし気が付けば季節はもう初夏である。夜の9時になっても外はまだ薄明るい。いよいよこいつを呼び起こすべき時が来た。目覚めよ黒魔人!

試しに下のほうにあるツマミをちょっと回すと,かすかにシューっという音がしてガスの臭いがする。うん,間違いない。こいつは確かにまだ生きている。

上に積もったモミの樹の落葉と土埃を払い,ふたを開けてみる。ギギギギギ...おお!中に蜂が巣を作っているらしく1匹慌てて飛び出してきた。よくみるともう使われなくなった小さい蜂の巣がいっぱいふたの裏側にくっついている。他にもクモが巣を架けているし,下のほうにはアリも出入りしている。もうほとんど自然の一部になりかかっているな,こいつ。大丈夫か?やっぱり不安になってきた。

虫達が逃げ出すのを待って,火を点けてみる。が,なかなか点かない。オイオイいきなりドカンといかないだろうな。カナダ製着火マンであちこちつつき回す。あ,やっと点いたよ...しかし情けない火だな。ロウソクだよ,これじゃ。お前,違うだろ...本当はバーベキュー用のガスバーナーだろ...。

しかし,荒れ果てた庭の片隅で黒い燈篭として過ごした永い月日のせいか,自分の中に巣を架ける小さい虫達との静かで楽しい日々の想い出のせいか,彼は本来の自分の姿をなかなか思い出すことができない。元栓が開いているか,火をつける場所が間違ってないかいろいろ確かめたが,どこにも問題はない。やはり彼自身の問題なのだ。全生活史健忘(いわゆる"記憶喪失")だ。アイデンティティーの問題だ。

仕方ない。彼に自分自身の姿を思い出させるためには,本来の用途で使ってやるしかない。まだアルコールランプほどの火力しかないが,一番温まっていそうなところに凍ったままの肉を置いてみる。どうだ,思い出したか?お前はガスバーナーなんだぞ。黒いオブジェじゃないんだぞ。蜂やクモと対話してる場合じゃないんだぞ。火をボーボー噴き出して肉をジュージュー焼くんだぞ。
思い出せ,本当のお前を。
思い出せ,昔のお前を。
思い出せ!

...(しばし待つ)

おお!煙が出てきた。

ジュージュー音もしてきた。

おお!焦げる匂いもしてきたよ。

やっと目覚めたぞ黒魔人が!かつてのガスバーナーとしての華々しい半生をやっと思い出したのか。自分の存在の意義を再確認したのか。

そうだよ。お前はガスバーナーなんだ。置物でも虫かごでもない。火をボーボー噴き出し,肉を,野菜を,ジュージュー焼くんだ...。

永年の眠りから醒め,次第に火力を増していく彼の横で,"大魔人"の復活シーンを思い浮かべ,私は思わず遠い眼になったのだった(年がバレるな)。

・・・・・・・・・・

カナダでは庭のある家はどこもこういうバーベキュー用のガスバーナーを持っていて,夕食に庭でバーベキューをすることも多いんです。
しかしそれにしてもうちの庭のバーナー,いったい何年眠ってたんだろう...。

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平成14年5月21日 花火と鼻水
昨日5月20日は,カナダではビクトリア・デーという祝日。ビクトリア女王の生誕を祝うため,あちこちの家で花火をする。実はカナダの国家元首は今でも英国国王である。うちも,息子の同級生の家が裏庭でプライベート花火大会をするというので,誘われて見物に行って来た。

行ってみると,まあ,お金持ちらしく庭が広い広い。なるほど花火大会ぐらい平気でいくらでもできそうだ。もちろん全面芝生で,ブランコや滑り台などが一緒になった大きな木の遊具がドーンと置いてあり,子供達は大はしゃぎで遊んでいる。こりゃ,ちょっとした児童公園だな。

カナダの花火は,日本式の手に持って楽しむ型のものはなく,全て打ち上げか噴火型のヤツばかりだ。名前がなかなか良い。"Gold Rush","Roman Candle","Volcano!!"...傑作なのが"Oriental Fun"。それらしい浮世絵みたいな絵が書いてある。
ただ,メープルリーフの形が出てくるとか,オーロラみたいな光が見えるとか決してそういうことはなく,花火自体はごくごく当たり前のもので,別にそれほど変わったものではない。これならスイカの形が出たりとか,パラシュートが降ってきたりとか,日本の方がバラエティに富んでいるような気がするな。

ビールやホットチョコレートをごちそうになりながら1時間ほど楽しませてもらったが,とにかく寒かった。何せ5月下旬だというのに外の気温は5℃。本当に今年の気候はどうなってるんだろう,と集まったパパ・ママ達で話していた。

そして私はと言えば...また鼻水が出てきたよ,トホホ。いい加減にしてくれ,このカゼ。

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平成14年5月16日 おお,メジャーリーグ!
前から一度見たいと思っていたメジャーリーグの試合にとうとう行ってまいりました。しかも地元トロント・ブルージェイズとシアトル・マリナーズ戦だ。チケットを下さったHさん,本当にありがとうございました。
実は性質の悪いカゼをひいていて,まだ熱も下がってなかったのだが,そんなことは言ってられない。行くのだ。何があっても。目指せスカイドーム。

この日はアイスホッケーのトロント・メープルリーフスの重要な試合と日程が重なったため場内はガラガラ。1万6千人の入りとのこと。ブルージェイズの成績がよくない(現在リーグ最下位)のも影響しているらしい。

私はバリバリ関西人なので甲子園にはこれまでよく足をはこんできたが,同じ関西の球団に所属していたイチローさんにお目にかかるのは失礼ながらこれが初めてだ。
へ〜,意外と華奢だな。彼はデータでは身長180cm,体重71kgで日本人としてはかなり大きい方だが,さすがに周りにいる奴らがデカイだけに小さく見える。因みに一般のカナダ人は意外に小柄で,イチローより少し小さい私でもこちらでは平均サイズかそれより大きいぐらいである。

球場はドームとはいえかなり大きく,開放的な造りになっているため,屋内という感じがあまりしない。内野席とグランドの間には背の低い仕切りがあるだけでフェンスも何もないので,観客からグランドへの心理的距離がとても近い。ただし,ファールボールはバンバン容赦なく飛んでくるが。

こんな感じ (ちょっとズレとりますが)
因みに打席に立っているのはイチロー,ライトを守っているのもイチロー
前に座っているガキ共は強力なブルージェイズファンで,攻守どちらでもいちいち大騒ぎ。うるさいこと,うるさいこと

試合の方はマリナーズが3点先取したのを,中盤にブルージェイズが追いつき,逆転,突き放すというトロントニアン大喜びの展開で,うちの前列に陣取ったブルージェイズファンのガキ共が騒ぐ騒ぐ。私はと言えば,別にどちらのチームの熱狂的ファンというわけでもないので気楽なもの。大魔人の投げるところは見たかったが,むしろ周囲の連中の大騒ぎぶりの方が面白かった。いわゆる「大リーグ」の雰囲気をたっぷり味あわせてもらった。
この日のイチローは精彩を欠き,タコを重ねてエラーまでついてしまった。さすがの「天才」も人間なんだからたまにはこういう日もあるだろう。これが新庄だったら私ももっと必死に応援しただろうが。

試合が終わって球場の外にでると街が何だか騒がしい。あちこちでクルマがクラクションを鳴らしながら暴走している。旗を持ってハコ乗りしている連中もいる。これは大阪名物○走族のお出ましか,と思ったら,どうやらアイスホッケーの方も大事な試合にキッチリ勝ったらしい。まさにトロント・デー。なるほどみんな大騒ぎするわけだ。

もう夜中だというのに大渋滞の街を抜けて家路に着く。
家に着いたら...また熱が上がってるよ,トホホ。クスリのんで,もう寝よ。

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