革嶋城
 
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革嶋館跡、現地公開資料

■所在地 京都市西京区川島玉頭町
■調査期間 2009年10月5日〜2009年10月30日
■調査面積 約300平方メートル
■調査機関 (財)京都市埋蔵文化財研究所
http://www.kyoto-arc.or.jp/

はじめに
 建築工事に伴う発掘調査を10月5日から実施しています。調査地は2008年に京都文化財保護課の試掘調査によって、南北方向の堀が確認されています。
 当地は、山城国葛野郡革嶋荘を本拠とする領主革嶋氏が住んでいた館跡です。革嶋荘は平安時代末期は公家の近衛家の荘園で、当初は荘園経営にかかわる、事務管理を行う政所屋敷があり、中世には館となり、堀と土塁で防御する平城と考えられています。革嶋家が鎌倉時代から代々残してきた「革嶋家文書」(京都府立総合資料館所蔵)の江戸時代中期の絵図には、革嶋春日神社を含む南の位置に、土塁と堀に囲まれた館跡を示した場所が描かれており、今回の調査地は南側の西堀と土塁が示されている館の西南の一角に当たります。
 館東南部については、9月の発掘調査で明らかにし、絵図を裏付ける調査結果が得られました。今回の調査は館西南部の堀と土塁の状況および、館外西側の様相を確認することを目的に実施しました。

調査の結果
 調査区東側の現地表下約1.3mの面で南北方向の堀1を発見しました。堀の時期は室町時代後期から江戸時代で、規模は幅約5m、深さ約4mで、さらに調査区外の北に延び、試掘調査で確認された南北方向の堀につながります。堀1は館南半部の西の区画と考えられます。また、堀1から約5m西に南北方向の水路2があることもわかりました。水路2は幅2.6m、深さ0.8mで、調査区外北と南に延びています。さらに堀1に西接して室町時代の石組井戸3や土坑がみられます。また中世から近世の耕作に伴う小溝群などもみられ、館外西側の様子を知ることができました。
 遺物は堀や井戸、溝などから出土した室町時代から江戸時代の土器類が中心ですが、古墳時代から平安時代の土器類もあります。

まとめ
 堀1は、江戸時代の絵図に示された革嶋館の西側南半部を区画する堀と考えられます。堀1と前回の調査で見つかった東側の南北堀との内幅は東西約47mです。堀1は絵図から調査区外の南側で東に屈曲するとみられますが、残念ながら今回は確認できず今後の検討課題となりました。堀1西側の室町時代の井戸3や、室町時代から江戸時代の小溝群、そして明治時代の地籍図にも坪境溝として示される水路2などは、館外西側の状況を考えるうえで重要な遺構です。さらに古墳時代から平安時代の遺物は、当地一体の開発状況の変遷を知る上で注目されます。



 当地は、山城国葛野郡革嶋荘を本拠とする領主革嶋氏が住んでいた館跡です。革嶋荘は平安時代末期は公家の近衛家の荘園で、当初は荘園経営にかかわる、事務管理を行う政所屋敷があり、中世には館となり、堀と土塁で防御する平城と考えられています。革嶋家が鎌倉時代から代々残してきた「革嶋家文書」(京都府立総合資料館所蔵)の江戸時代中期の絵図には、革嶋春日神社を含む南の位置に、土塁と堀に囲まれた館跡を示した場所が描かれており、今回の調査地は南側の西堀と土塁が示されている館の西南の一角に当たります。
 館東南部については、9月の発掘調査で明らかにし、絵図を裏付ける調査結果が得られました。今回の調査は館西南部の堀と土塁の状況および、館外西側の様相を確認することを目的に実施しました。

調査位置

革嶋館跡

調査の成果
 調査区東側の現地表した約.3mの面で南北方向の堀1を発見しました。堀の時期は室町時代後期から江戸時代で、規模は幅約5m、深さ約4mで、さらに調査区外の北に延び、試掘調査で確認された南北方向の堀につながります。堀1は館南半部の西の区画と考えられます。また、堀1から約5m西に南北方向の水路2あることもわかりました。水路2は幅2.6m深さ0.8mで、調査区外北と南に延びています。さらに堀1に西接して室町時代の石組井戸3や土坑がみられます。また中世から近世の耕作に伴う小溝群などもみられ、館外西側の様子を知ることができました。
 遺物は堀や井戸、溝などから出土した室町時代から江戸時代の土器類が中心ですが、古墳時代から平安時代の土器類もあります。

調査区平面図
調査区平面図02