(昭和4年 / 鹿島小『開校40周年 記念誌』より) @@@画像をクリックすると拡大表示されます@@@
昭和4年。増築工事中の主夕張尋常小学校校舎。
昭和3年9月15日 三菱大夕張礦業所が主夕張尋常小学校校舎を新築完成させ,夕張町に寄付。(教室8その他 352.75坪〜1160.77平方平方メートル)
昭和3年10月1日,公立主夕張尋常小学校開校(初代校長佐藤勇蔵,教諭小林清次) 2学級 児童数123。
昭和4年9月20日,校舎増築(教室7,職員室,応接室等409坪 児童数428。)
昭和5年11月26日,主夕張尋常高等小学校から大夕張尋常高等小学校へ校名変更。礦業所の北部移転により児童数が急増しました。13学級児童数818。この時,南部にあった大夕張尋常小学校は南大夕張尋常小学校に改称されました。
昭和28年発行の開校25周年記念の学校概要に,開校当時をふりかえって小林清次先生(執筆時は鹿島東小に在籍)が次のような文章を書いています。
長いようで短く,短いようで長い25年間。
その始,学校長と二人きりで建築列車に便乗「バラス」の上に乗せられた梱包にしがみつき「がたん」「がたん」と揺られ,発破作業中の「函岩」近付で若しやと思うくらい肝を冷やしながら北部大夕張に運ばれた。
何の因果でこの山奥と思いしこの地に今も尚朝夕,夕張岳を眺めている。今更「人事憂楽あり,山光古今なし」の感にうたれる。
大夕張駅も当時鋸目のある坂で仮に造られたレール終点兼糧秣倉庫の地点に山の親父がまかり出て「がりがり」と板壁をひっかく音に二名(和井田,土田)の係員を振いあがらせた翌日着任 本校も河原の様な校庭にポツンと人待ち顔に立っていた。
開校準備の手休めにと,校庭をそぞろ歩きしている自分の姿を見つけ,「学校の先生がいる」と数ヶ月間学校に飢えた子等数人駆け寄り日焼けした面に瞳をかがやかせそれでも遠慮勝ちに「何時から学校が始まるの」といった頭の大きい年嵩の子供。 その子は戦死したとか。
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故郷としたうは誰もが味わう感慨 それはその地に自己の生命が 幼き友達に,住家に,山川草木に放たれ植えつけられているからであり,その帰らぬ生命の執着がそうさせるのであらう。で,やがて故郷となるべき現在の郷土に執着を持つことができると,それは自己の命生を見いだすことになりそのあらわれが郷土愛,隣人愛というすがたになる。
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本校開校25周年,幾多の生命が此所に潜んでいると思うと何かしら絶ちがたいものがある。
そして 人生は短き日なり,されど働く日なり」とたれかの言葉が自分に言い聞かせているような気がする。
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