(664)大夕張の思い出@ 投稿者:山中 佐喜男 投稿日:12月31日(金)13時12分15秒
99年の印象的な出来事の一つに飯田さんのHPとの出会いが あげられます。飯田さんありがとうございました。 昭和46年から48年の3年間、私は新卒教諭として鹿島東小に 赴任しました。空知教育局に呼び出され、夕張登川小に行くように 言われ、すぐバスに乗り本町にある教育委員会に行きました。 教育長との面接で「君は鹿島東に行ってもらうよ」との一声で 大夕張との運命的な出会いとなったのです。 当時、登川が夕張のどこにあるか、大夕張がどんなところか まったく予備知識はありませんでした。 若菜から乗り換えて大夕張行きの夕鉄バスに・・・・・ 清水沢を通り過ぎるとだんだん車窓から見える景色は さびしくなります。 右手にシュ−パロダムが見えるころにはその不安は極致に 達したことを今でも思い出します。 こんなところに学校なんかあるのだろうか、人は住んでいる のだろうか・・・・・ いまから26年前の雪解けの3月末のできごとでした!
(663)教会のクリスマス 投稿者:古山 園美 投稿日:12月29日(水)01時16分59秒
大夕張のクリスマスと言えば,やっぱり教会です。 私は,教会の日曜学校に通っていたのですが, クリスマスの1ヶ月くらい前になると,教会の前に, イエス様がお生まれになった馬小屋が再現されます。 そして,横にわらの束が置いてあって,いい事を一つ するたびに,わらを1本入れ物の中に入れる事ができ るのです。 いい事というのは,家の手伝いでも,ごみを拾ったとか なんでもいいのです。 (バチカンに行った時,サンピエトロ寺院前の広場に, やっぱり馬小屋セットがあって,大夕張とおんなじだ〜 と思いました。(笑)逆ですよね) そして,24日は盛大なミサ。いつもは使わない道具 を使って,賛美歌もいっぱい歌った,長めのミサでした。 そのあとは,楽しいパーティー。小学生の劇や,ビンゴ ゲームや,プレゼント交換など一晩中楽しく過ごしました。 小学生は徹夜できないけれど,中学生になると朝までいる ことができたように思います。 私は中2で転校したので,1回しか徹夜できませんでした が・・・ 教会といえば,千歳町にもありました。あそこはたしか, ギリシャ正教の教会だったように思います。 私は週に1回,そこでピアノを習っていました。
(662)駅売店 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月28日(火)21時10分57秒
昭和40年当時、「大夕張駅」「千年町駅」に売店が ありましたよね。 大夕張駅に「卵売り」の人が来ていたというのは 初耳です。白金の農家の方が売りに来ていたのでし ょうか。 大夕張駅はホームにあった小さな庭園が記憶に残っ ています。(池があった記憶があるのですが?)
(661)久しぶりの掲示板を読んで 投稿者:稲村 美奈子 投稿日:12月28日(火)01時55分09秒
しばらくぶりで掲示板を見ました。 皆さんの教会のお話を読んでいるうちにまた記憶が甦り、30年前のクリスマスが 目の前に出現。7歳下の弟は教会の幼稚園に通い、神父様のお名前は確かオニール 神父だったと思います。弟は団体生活に馴染めず、毎日神父様の部屋で2人きりで 遊んでいたようです。母と父の悩みの種でした。 私の家は教会の横だったのであそこは私の毎日の遊び場でしたね。高校の頃は友達 とよく本を持って寝ころがりながら流れる雲を追いかけていました。教会が壊され た時は自分の想い出まで壊されたように怒りが込み上げてきました。 でも、時の流れには逆らえない・・・・。 林さんの書き込みでは河野歯科を思い 出し、毎日千歳町まで通っていた自分が見えてきました。先生も最後の方では手が 震えて、治療が辛そうだったのを覚えています。残念ながらブルドッグの記憶はあ りません。 でもいつも映画音楽が流れていました。静かなクリスマスを迎えただろう大夕張には 皆さん最近足を踏み入れてはいないのでしょうか?最近の大夕張を見たいなと思っ ています。写真をお持ちの方はH.Pに送って下さい。よろしく!
(660)初めまして 投稿者:林 恭子 投稿日:12月27日(月)12時29分33秒
みなさん初めまして。 岳富町の写真とても懐かしく拝見しました。 私は昭和37年に炭坑病院で生まれ45年まで大夕張に住んでいました。 千年町に住んでいたので大夕張駅に卵を買いに行く時、必ずこの前の道路を 通ってました。(あの頃駅の待合室に卵売りのおじさんがいました。) 岳富町の時計屋さん(だったと思います)のショーウィンドに 時々真っ白い猫が座ってました。 片方の目が金色でもう片方が銀色だったか青の左右の目の色の違う猫です。 この猫に会うのがとても楽しみでした。 それからもう少し歩くと今度は千年町の河野歯科。 ここに当時珍しいブルドッグがいました。 顔の表情が面白くて飽きずに何十分も眺めていました。 母は私を家に連れて帰るのに毎回一苦労したようです。 飯田さんのH・Pを見ていると忘れかけていた遠い記憶が蘇ってきます。 わたしは勝手に「大夕張百科事典」と呼んでいます。 これからも頑張って続けて下さいね。
(659)幼稚園及び冬の黒い思い出 投稿者:菅井宏史 投稿日:12月25日(土)07時12分18秒
鹿島小の土手の上の聖心幼稚園には、私は第一期生として通園しており ました。 その幼稚園の一番の思い出は、発表会で私のクラスが行ったイエス誕生劇 のことです。いつ行われたものなのかははっきり覚えていないのですが、 冬であったことは確かです。この発表会が終わった帰りに撮ったスナップ 写真(左側に鹿島小、中央奥に幼稚園という構図で私が兄といとこと共に 写っている写真なのですが)が確か雪景色でしたので。1月か2月?? あるいはっひょっとしてこういう劇が行われるくらいですから12月で あったかもしれません。 私は東方の三賢者の一人を演じたのですが、その劇の中で私が小脇に抱え ていた黄金の箱は実は父親が作ってくれたもので、後に父は私の登場場面 を撮った写真を見る度に、あの劇は素晴らしかったと感心してくれたもの ですが、ひょっとして自分が作った箱のことを思って言っていたのかもし れません・・。 園長さんはスペインかポルトガルの方だったと思います。入園か卒園の時 の集合写真があるので顔もはっきり覚えています。考えてみるとあの方が 私の人生の中で最初に出会った外国人であったと思います。 小学生になったある日、教会の前の土手の上で外国人二人がバーベキュー 台で火を起こし、ホットドックでも作るのでしょう、傍らにパンを準備し てソーセージを焼いているのを目にしたことがあります。その異国情緒溢 れる美味しそうな香りと光景は今でも私の目鼻に焼き付いております。 園長さんにしても、私のクラスを担当した先生にしても顔もよく覚えてい るのですが、名前がどうしても思い出せず残念な限りです。飯田さんの書 き込みにある西牟田神父さん、河村先生という名前も私の記憶を蘇らせる には至りません。 (ところで飯田さんのその書き込みの中で「西牟田神父さん、河村先生が 鹿部にうつられ」と書かれていますが、私が大夕張を後にして移り住んだ 先は、偶然なことに実はその鹿部という所でした。) さてそういう聖心幼稚園の記憶の中で、私にはクリスマスと結びついた ものというのが何故かありません。12月になれば園内はクリスマス飾り で賑やかだったはずですし、お絵書きや工作等の時間でもその種のものは やったはずなのですが・・・。 ところで北海道はホワイトクリスマスですか? 人陰もない大夕張の山中は間違いなく雪に被われていることでしょうね。 煤煙に汚されることもなく・・。 きれいで、静かな、正に♪サ〜イレントナ〜イト♪なのでしょうね。 でも、きれいすぎて、静かすぎて・・泣けちゃうなあ。 真っ黒な川、汽車の煙突から出る真っ黒な煤煙、煙突掃除をした時に出る 真っ黒な煤、その煤で黒く汚れた辺りの雪、雪が融けかかった時はいつも 泥だらけの道。家も黒っぽい長家ばかりで、まるで「まっくろくろすけ」 に支配されたような町でしたが、でも忘れられない我らがよき故郷、です よね。
(658)クリスマスイブに 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月24日(金)20時32分54秒
去年の乗田さんのクリスマスの書きこみを読んでいたら,マリア様の置き物の話 が出ていました。 この時期の大夕張の話題で思い出すのはやっぱり私にとっても鹿島小土手の上にあっ たカトリック教会です。 教会の玄関を出ると積もった白い雪と白いマリア様(?)の像が夜の闇を背景にとて もきれいだったことを覚えています。 私も日曜学校だったか,塾だったか,小学校5・6年の時に教会に通っていまし た。 先日,中学生の頃の写真を見るとマリア様の置き物を部屋の柱に飾ってあるのを 見つけました。今はもう手元にありませんが,その置き物のことを思い出している と,教会で,クリスマスの,何かの行事の時(バザー?)に,全員にもらえたクリ スマスプレゼントだったような気がしてきました。 白い箱に細かく切った紙がいっぱい詰まっていて,家に帰ってから大切に大切に取 り出したことを思い出します。確か,番号を書いた紙で抽選をして,どれをもらう か決めていたような気もしてきました。 塾もそうですが,幼稚園もあった大夕張カトリック教会。あの当時大夕張で通った みなさんも多いと思います。 河村先生と西牟田神父は5,6年前まで石狩の花川の幼稚園におられたそうですが, 鹿部にうつられ,3年前に東京の病院で河村先生が亡くなられたということを聞き ました。西牟田神父様もアメリカに帰られると聞いています。 人も建物もなくなった大夕張。多くの人々の物語の残る大地を,今は真っ白い雪が おおい,静かに包み込んでいるのでしょうね。
(657)クリスマスツリー 投稿者:斎藤 敏幸 投稿日:12月24日(金)17時31分51秒
我家では,例年より早く11月7日の日曜日に,クリスマスツリーを出しました。子供た ちも大喜びで,飾り付けを手伝いました。小さなツリーですが,子供たちと一緒に見てい るだけで,心が満たされてきます。 大夕張にいたころは,僕らの年代の子供たちの家には,クリスマスツリーはありませんで した。鹿島小学校にもありませんでした。大夕張商店街では,本間商店には,小さなクリ スマスツリーが飾られていたような気がします。本格的なクリスマスツリーをはじめて見 たのは,大夕張カトリック教会でのことでした。当時,教会で運営していた「塾」に通っ ていたおかげで,見ることができました。きらびやかな飾りに,友達と一緒に見とれてい たことを覚えています。 原野になってしまった大夕張は,白い雪に包まれながら,クリスマスイブを誰と祝ってい るのでしょうか。今夜夢の中で,みんなで鹿島小学校前に集まり,イタヤカエデの木の下 で一緒に祝えたらと思います。 大夕張と関わりのある全ての人たちが,家族・友人と幸せなクリスマスイブを過ごせます ように。 〜Merry Chrismas〜
(656)三菱グループCM 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月24日(金)12時45分10秒
「この木、何の木、気になる気になる木ですから〜」♪♪ は日立グループのCMですが、「三菱グループ」のCMがあり しかも、グループ内の三菱大夕張鉄道で撮影されていたとは、 驚きです。 「大夕張」、まだまだ未知の世界があるのではないでしょうか?
(655)食憶番外編・「CM」 投稿者:長谷川潤一 投稿日:12月23日(木)18時40分17秒
CMといえば大夕張鉄道の車内でロケをした、三菱グループのCMを思い出しま す。HBCでやっていた朝のワイド番組でながしていたもので、外人さんが客車 に乗ってきて他のお客さんと何か話しをしようとしたところ、みんな驚きとまど って顔をそむけるように避けてしまう。外人さんは気持ちも言葉も通じずに寂し く困り果てている。そこに、「ひとりとひとりの やさしいきもち どうして ひとつに つながらないの・・」というような歌詞が流れてきて、中高校生?が 辞書片手に何とか話し始めようとしだす。どこかの青年が、身振り手振りのアク ションで何とか意志を通じようとする。ストーブのそばで、どっかの親父さんが 笑顔を見せる。行商?らしきおばちゃんが、包みを開けて大きな「おにぎり」を さしだす。外人さん大喜び!みんな笑顔で和気あいあい、「・・にんげんがだい すきさ にんげんがだいすきさ みんなーがだいすきさーー」良かった良かった ねー、というような?歌で盛り上がって終わるというCMでした。画面に笑顔が 出たしたころあいから、グループ会社や系列会社名が次から次とロールアップし て流れ出し、1分ぐらいあったような長いCMだったと憶えています。いやしい 私目はやはり、「大きなおにぎり」で食憶に引っかかっているんでしょうね・・
(654)Re・『終着駅』 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月23日(木)17時36分21秒
「終着駅」、ヒットしましたね。たしか中学校時代だと思いますが 詩番組で夕張市内の駅から生中継(当時はNTTの回線を利用して) したという話を聞きましたが、その時は「登川駅」からと聞いていま した。 「大夕張炭山」と「登川」、どちらも終着駅の寂しさが漂う駅ですが グリコのコマーシャルの撮影と共に、またひとつ謎が出来ました。
(653)『終着駅』と奥村チヨ 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月23日(木)10時01分15秒
雪深い大夕張。雪の降る日,駅に清酒を抱えた男が降りる・・・。 この情景に似合う男は渡哲也くらいしかいませんね。それを迎える女は 大原麗子・・,勝手に物語が始まりそうなのでやめます。 雪降る大夕張といえば,先日の交流会でも確か奥村チヨが『落ち葉の舞散る 停車場に〜〜」で始まる『終着駅』の歌のロケで来ていたというような お話を聞いたのですが,どうだったでしょう。 全国的にSLブームになっていた昭和46,7年頃のことでしょうけれど。
(652)駅 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月22日(水)21時52分03秒
三菱大夕張鉄道は映画と共に、幾つかのCMの撮影に使われて ますよね? たしか、清酒のコマーシャルだったと思うのですが雪の降る ホームにSLの引く列車から清酒を抱えた男が降りるというの があったと思います。 これは「大夕張」か「千年町」の駅だと思うのですが如何で しょうか。 旭川駅発売のオレンジカード(思い出の社線シリーズ)で 「大夕張鉄道bU」のカードが発行されてます。
(651)鉄道員(ぽっぽや)と大夕張への思い 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月22日(水)17時40分36秒
雪の中のホーム。行き先表示板,信号機,木の柵などの目にする風景の 一つ一つに昭和30年代のふるさとのかおりがして,懐かしさを感じました。 また,高倉健扮する乙松のせりふにダムに沈む炭鉱街大夕張への思い・ 時代への郷愁が重なり,とても感動しました。 この12月にビデオでも発売されたということですよね。 映画も見ましたが,ビデオでもぜひ見たいものだと思っています。
(650)映画・鉄道員 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月22日(水)09時07分33秒
私は、まだ映画を見ていないので何とも言えませんが 浅田次郎サンの原作に登場する車両は「キハ12」 北海道の炭鉱線では函館本線の上砂川支線等に入線し ていました。 浅田サンはおそらく上砂川辺りをイメージして書いて いるのではないでしょうか。
(649)ぽっぽやと大夕張 投稿者:山口 投稿日:12月22日(水)00時49分04秒
いつも、楽しみにHPを拝見させてもらっています さて、先日私は映画ぽっぽやを見たのですが 皆さんの掲示板をみていると映画と重なります 一昔前の大夕張はあのような感じだったのでしょうか? また、物語のモデルは大夕張なのでしょうか?
(648)ロータリー車とそり 投稿者:泉 俊弘 投稿日:12月21日(火)09時53分35秒
ロータリー車の話で思い出したことを、一寸。 芦別の三井専用鉄道(昔、旅客営業した頃の三井芦別鉄道)へお邪魔したとき のこと。機関庫で伺った話では、当時の国鉄は、石炭が大事な大事な貨物であった ので、ロータリーを貸して欲しいというと、機関車(国鉄の9600型)ごと入線して きて、すぐさま処理してくれた由。 借入れ代金の授受などどうなっていたのかは知る由もありませんが、ともあれ、 おおらかな時代であったように思われます。(もし、ラッセルで掻いた雪が壁にな ってしまったら、掻き寄せ式のマックレー車も要りますね。これも借りたのでしょ うか、聞き漏らしました。) ついでに、そりの思い出もひとつ。 往年の清水沢駅、大夕張鉄道が発着する1番ホームの詰め所の横に、木製の そり(ミカン箱転用品ではありません)−複数−を見かけました。保育社の「日本 の私鉄T」の巻頭に、厳寒の清水沢でスハ二にこのそりで荷物を積み込んでいる (または運び出している)景が載っています。鉄道輸送に欠かせぬ脇役として、 もし残っておれば保存してやって欲しい一品です。
(647)ミカン箱のそり 投稿者:内川准一 投稿日:12月20日(月)18時36分28秒
「食憶」とは、長谷川さん、よくぞ名付けたものですね。 食い物に関する長谷川さんの記憶は、まず、天才です。 (はいはい、「他の記憶」だってなかなかです。) みかんの箱のふたを取ると、下から現れる絵柄のセロファン。 思い出しましたよ。 産地によって、いろいろと趣向を凝らしたみかんの絵だったり、 凝った模様がセロファンの縁を飾っていたりしたものでした。 きれいなものは、南国に思いをはせながら、集めましたよね。 そして、箱の方は、最後には手作り「そり」になったものです。 私のバヤイ、スキーじゃなく、 雪スケートかなんかを打付けて作っていたような。 こんなもんで、道路と言わず、崖と言わず、滑っていたのだから、 毎日のように壊れてたのも当たり前。それでも、 釘が尻に刺さったこともなく、怪我もしなかったのです! 本格的なそりと違って、たぶんスピードも出なかったのでしょう。 つまり、身の丈に合った道具で遊んでいたことになります。 これって、素晴らしいことだったのではないだろうか? かかとの上あたりにできるあかぎれと靴下に滲む血のこと。 セーターにくっつく雪玉のぼんぼりもありありと思い出しました。 あかぎれが痛かった記憶は皆さんありませんか? (すいません。食べ物の話から遠ざかってしまった。)
(646)ナハフ1冬眠 投稿者:奥山@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:12月19日(日)17時01分23秒
昨日、13日の復旧作業で9ヶ月ぶりに線路の上に戻った「ナハフ1」 に冬ごもりのシートを被せてきました。 「だるまストーブ」も購入しましたので来年、客車の一部でも整備出来 れば「だるまストーブ」を客車内に設置し、実際に火を入れて、するめ でも焼きながら「大夕張談義」が出来ればと思います。 ローターリは大雪の時に、国鉄からでも借り入れたのでしょうか。 雪と闘う勇壮な姿を見てみたかったものです。
(645)ラッセルの出動した日 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月19日(日)11時42分52秒
三菱大夕張鉄道の思い出です。 雪の多い日,朝早くから除雪にラッセルが走っていました。 通学の時には,横から吹きつける雪に頭からフードをすっぽ りとかぶり,息で熱くなったフードの中で冷たい頬だけが凍 りついたように固くなっていました。 鹿島小学校の東側の門の踏切りの辺りでは,大夕張駅構内か からやってくるラッセルをよく見ました。南部に今もある, 型(キ1ですか…このHPにも写真が載っています)と当時, ロータリーと呼んでいた2種類がありました。 キ1は正面から見ると,円形の窓がロボットの目玉のように見 え,その当時放送していた鉄人28号のマスクを連想させました。 ロータリーと呼んでいた方は,大きな回転する板が正面につ いていて,それが回転しながら雪を跳ね上げていきました。 キ1の方が来た時には,雪を跳ね飛ばすといった感じで後ろ を向いたりしてかわすのに対し,ロータリーが来た時には, 跳ね飛ばした雪が上からまとめて降ってくるといった感じで, あえて頭から雪をかぶって喜んでいたように思います。 ヤッケの中でバタバタと音を立てて雪がぶつかってくるのが とっても気持ち良かった・・・。
(644)食憶5・木箱の中身 投稿者:長谷川潤一 投稿日:12月17日(金)22時48分19秒
大夕張の暮れは、すっぽりと雪の冬でした。この時期ならではな物をちょっこと いきたいと思います。まず「リンゴ」、幌掛けのチェーンを撒いた小型トラック に拡声器がちょこんと載っかっていて、青森から来たさという眼鏡のおじさんが お国訛りで売って歩いてました。あの長方形の板作りのリンゴ箱は、まだ産地で は見ますね。昔はどこの家にも一つや二つは物置にあり何か入れて使ってません でした?横面の正方形の板面のとこには、おおざっぱな型塗りでリンゴの種類が プリントされていて「国光」「紅玉」「印度」「ゴールデン」「スターキング」 などがありました。籾殻の中にリンゴが埋まっていて、まるで宝探しの気分で赤 いリンゴを掘り当てました。玉数が少なくなるとチクチクするばっかりの籾殻の 中を、手探りでリンゴを掘り出すのは、ちょっと大変でした。そして「みかん」、 木箱にキッチリと詰め込んで入っていて、釘抜きなどで板をめっくて開けました。 油紙やセロハン紙を捲ると、「特選○○高級ミカン」とかなんとか書いた産地を 誇る金ピカの短冊紙などが入っていました。何個か見事に黴が生えていて緑の粉 吹き状態だったりしてましたね。そこから傷を付けずに強引に出したミカンは、 なんと美しい四角形のミカン!珍味?でしたねー。そのあと、リンゴやミカンの 空き箱は子供たちのパッチの台、冬休みの工作用、古いスキー板を付けて橇遊び などなどにと使われました。大夕張からの引っ越しの時に使って、実家の物置で ひょっとしたらまだ、「国光」の箱使っていませんか?
(643)大夕張の雪 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月17日(金)17時53分16秒
11月に入ってすぐにストーブがつけられたんですね。 思えば,30年も前,地球の温暖化が進んだ今よりずっと寒く雪が多かった ような気がします。頭からかぶったヤッケのフードの口元は,吐く息で湿り 氷つきました。 屋根から落ちた雪で窓が埋まり除雪は大変でしたが,屋根とつながった軒下 は格好の遊び場となりました。 大人達にとっての生活の場としては大変だったでしょうが,子供だった自分 にとってはこの季節雪にまみれて遊びまわっていたことが懐かしく思い出さ れます。
(642)だるまストーブ 投稿者:奥山@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:12月17日(金)10時56分48秒
今から37年前の「北海道新聞」夕張版の記事です。 【昭和37年11月3日】 『名物の《だるまストーブ》・大夕張鉄道の車内につく』 夕張岳が白いベールにおおわれ、ふもとを走る三菱大夕張鉄道には、ことしも だるまストーブがつけられた。 このストーブは直径45センチの円形ストーブで、一車両に二つずつ据えられ る。国鉄のディーゼル化が進んだ現在、あまり見られない風景だが、同鉄道を 利用する客にとっては、なくてはならない存在で、ストーブを囲みながら、話 に花を咲かせ、談笑するのも結構楽しみのひとつになっている。 当会では明日、購入した「だるま=たこ・地球型ストーブ」を 将来綺麗に整備された客車に設置すべく夕張に里帰りさせます。
(641)雪と闘う 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月16日(木)12時36分32秒
大夕張は、夕張市内でも雪が多い地区で、南部の覆道を抜けると 天候がガラッと変わっていることもしばしばありました。 南大夕張に置かれている三菱大夕張鉄道のラッセルも一冬に20 数回出動したと言います。手元の資料に昭和45年2月の雪害の 記述があります。 昭和45年2月2日 雪害のため全列車運休、キ1(ラッセル)+ bRの排雪列車が6時30分頃大夕張炭山発車、直後に大雪でキ1 が脱線、救援機bTを迎えキ1+bR+bTで進むが、キ1は遠幌 まで3回脱線、遠幌で機関車に給水し清水沢に16時25分頃到着、 折返し、18時40分頃発車、朝から清水沢に立往生の混合1列車 bVと客車は回送として19時19分発車、南大夕張19時34分 到着、排雪列車は南大夕張を19時30分頃通過したが、9.2q 地点でキ1全軸脱線、次に機関車が2軸脱線したため前進不能と判 断、21時15分頃南大夕張へ退行、消防の協力を得てbR、bT 、bVに給水して駐泊。 昭和45年2月3日 全列車運休、11時に南大夕張を発車した排 雪列車は、明石町まで11.2q、12.3q、13.5qでキ1 脱線、その後、食事と給水を受けて大夕張炭山に21時25分到着 、一方、回送列車は18時10分、南大夕張を発車、途中明石町で 4時間程開通待ちの後、21時38分大夕張炭山到着。 機関士の方によると、ラッセルで雪崩に突っ込んだこともあるそう です。ダム工事に伴う鉄道の移設で西側の山は崖のようになったと ころもあります。先人達の苦労が偲ばれます。 STVで「ストーブ列車」も映されましたが、大夕張まであったS L時代の映像も見てみたかったものです。
(640)戦後まもない頃の母の三菱大夕張鉄道の思い出 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月15日(水)20時35分33秒
三菱大夕張鉄道の客車復旧を記念して,三菱大夕張鉄道関係の思い出 ばなしを一つ。私の母から聞いた話です。 『山史』の中に「雪害事故」と題して次のような記述があります。 ------------------------------------------------------------ 昭和21年3月14日、融雪期にもかゝわらず夕刻より重量ある湿雪 が降りはじめ、15日に至るも止まず、蒸気機関車3両をもって運転する ラッセル車も及ばず線路両側は数米に達する積雪となり、採炭を中止し 全従業員はもとより一般住民の協力をも得て昼夜兼行の除雪を行い、 18日夕刻の止みし頃漸く全線の開通を見た。この間日数4日に及べり。 ------------------------------------------------------------ この時のことかどうかわかりませんが,その頃,母は夕張高等女学校 に三菱大夕張鉄道で大夕張から通っていました。もちろんその頃は鉄 道が唯一の交通手段で当時鹿の谷にあった夕張中や母と同様,高女に 通う通学客でいっぱいだったそうです。 午前6:00に出た列車が清水沢駅の近くにさしかかると降り積もっ た雪の為脱線し,一番前の蒸気機関車から雪の中に突っ込み,客車ま で斜めに大きく傾いたのです。車内は当時学生でいっぱいで悲鳴もあ がり,騒然となったそうです。その時,窓から外をたまたまみていた 母は,これほど怖い思いをしたことはなかったそうです。 大夕張から通学の学生達は開通までの数日を清水沢駅前の,「長江旅館」 などにみな雑魚寝で宿泊し,そこから通学したそうです。 開通まで食料など三菱大夕張鉄道の職員の手でとどけられていたという ことです。
(639)旧南大夕張駅構内の客車復旧のニュース見ました 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月15日(水)19時49分20秒
昨日は書きこみを読みコンビニに走り,朝日新聞を買ってきました。 今日,道内ニュースで客車復旧工事の様子や,懐かしい三菱大夕張鉄道の映像を みることができました。 なんだか久しぶりに明るい話題がニュースになったようで,見ているとホッとし た気持ちになりました・・・よかったです。
(638)客車復旧作業の写真 投稿者:奥山@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:12月14日(火)22時25分47秒
教育大学の今尚之助教授が撮影した、昨日の客車復旧作業の 様子が下記にUPされてますので、見てみて下さい。
(637)STV・どさんこワイド 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月14日(火)20時35分13秒
13日の客車復旧作業の様子の放送が 15日に変更されました。 18時20分・どさんこワイドのローカ ルニュースで扱われます。
(636)祝・客車復旧 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月14日(火)16時54分13秒
今井さん、昨日は「ご苦労様」でした。 本日の朝日新聞・朝刊に「明治・大正の車両保存へ」 「旧大夕張鉄道・客車を引き起こし」との見出しで 昨日の作業の様子が紹介されてます。 「ナハフ1」は両端部がロングシートで、幼い頃はよく 靴を脱いで、窓に向かって乗っていた記憶があります。 その「ナハフ1」の転倒を知ったのがこの飯田さんの ホームページの「最近の大夕張」 何とかしなければならないと、奔走してみましたが、 多くの方々の協力でここまでたどり着くことが出来ま した。大夕張の歴史を伝える遺産としても、きれいに 整備して保存したいものです。 本日18時20分、STVの「どさんこワイド」でも、 当日の様子が放映されるそうです。
(635)南部の旧三菱鉄道転倒車両の復旧作業 投稿者:今井一郎@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:12月13日(月)19時41分16秒
本日、南部の旧南大夕張駅構内に保存(もはや放置ではありません)をされて いる鉄道車両のうち、転倒していた「ナハフ」の復旧作業が行われました。 天候は曇りがちで寒かったものの心配していた悪天候とはならず順調に終了 いたしました。 作業は110tトラッククレーン、40tラフタークレーンの2台のクレー ン車により行われ、本体2ヶ所にワイヤーを回され三角吊りで転倒を回復。 その後片吊りで台車を線路上に復線。台車に客車本体を載せ作業終了。 半年以上転倒したままの客車が復旧し旧南大夕張駅構内が華やいだ感じがし ました。 今後の活動予定は12月18日(土曜日)正午頃よりナハフの越冬シートかけ を行う予定です。 本日、復旧作業に携わった方々、またシューパロ塾、三菱大夕張鉄道保存会 の活動に理解を頂き声援を送って下さった方々に深く御礼を申し上げます。
(634)ナハフ1復旧 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月13日(月)13時47分58秒
夕張からの電話連絡で「ナハフ1」が北宝建設の手 で12時半頃無事復旧したとの報告がありました。 作業に当たった方、立ち会われた方、ご苦労様です。 この様子はSTVで14日・明日午後6時20分頃に 放送される予定です。
(633)第3回交流会(忘年会) 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月12日(日)18時19分24秒
あつしちゃん,『鉄人28号の話』遠い昔・・・覚えがあります。1年生の頃けっこう 仲良く遊んでいましたよね。(1年生の頃の記憶は今ではほとんど『夢の世界』です。) 途中で転校していったあつしちゃんとこの場でお話しできるなんて,夢にも思いません でした。これからも思い出や大夕張のことで話していけたらな,と思います。よろしくね。 さて,『ふるさと大夕張』の忘年会に昨日参加された皆様ご苦労さんでした。 昭和32年頃の大夕張の町の航空写真を見ながら,お話の中で 昭和32年頃の岳富町商店街が埋め立てられた宝沢の線路脇にあったこと,それが,いつの ころか,道路を挟んで反対側に商店街ができたこと。 当時のお祭りの時の露店が駅裏の鹿島小学校グランド側に出ていたこと,グランドにやぐら を立ててサーカスが興行され,それは,賑やかなお祭りだったこと。 そんな古くて新しい大夕張の話を聞いたりしながら,新しく参加された方も交え,楽しい時 間を送ることができました。 デジタルな交流は楽しい,アナログな交流も,また楽しい。ですよね。
(632)いいだまさとくんへ 投稿者:佐藤篤史 投稿日:12月11日(土)01時38分36秒
飯田君、憶えていただいてありがとう。 まさしく、僕が「あつしちゃん」です。小学校4年終了後東京に転校 しました。それ以降大夕張のことはひとときも忘れたことはありません。 かすかな記憶では、飯田君は「鉄人28号」の絵が上手で家まで行って 書いてもらったことを憶えています。2年前の夏に大夕張に行きました が、僕のこころのなかの 「ふるさと大夕張」 はもうそこにはなく切ない思いをしました。
(631)ETV特集・岳富町 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月10日(金)22時11分32秒
ETV特集、確かにあの撮影現場に飯田さんも居たのですが テレビの中から探し出す事が出来ませんでした。シートを 留めるため床下に入っていたのでしょうか。 下に「向さん」が客車を放って置くのは、閉山で炭鉱の人達が 受けたのと同じ扱いではないかと書いています。 美唄の炭鉱が閉山して、多くの人が大夕張や南大夕張の炭鉱に 移って来ました。あの客車の中の「スハニ6」も美唄から移って 来た車両で、炭鉱員と同じ運命を歩んでいるのです。 これらの客車に、炭鉱の人々の足となっていた頃の往年の輝きが 戻ればと思っています。 「岳富町」が話題になっていますが、昭和40年前後、「パチンコ屋」 がなかったでしょうか? 父が用事で「営林署」に行ったときにバイクの後ろに乗り同行し 時間つぶしに「パチンコ屋」に入った記憶があるのですが。
(630)「ETV特集」を見て感じたこと 投稿者:向 けい子 投稿日:12月10日(金)16時49分42秒
教育テレビの「ETV特集」拝見いたしました。 特に脱線している台車を見たときは、悲しくなりました。 石炭が必要な時は、散々酷使して、いらなくなったらほうり投げておく現状。 炭鉱で働いていた人達も閉山の時、この台車と同じ扱いを、受けていなかっただ ろうか。ずーと昔に済んでしまったことなのに台車の映像を見てこんなことを思っ ていました。12月13日の客車復旧作業、何事も無く作業が順調に進むことをお 祈りしております。 それから飯田さん、さっそく千年町駅前の写真載せていただいてありがとうござ いました。小学校の時通学していた風景と全く同じで、目がうるうるしてきました。 早速プリントして叔母達に送ってあげようと思っています。 玉手箱のように色々な写真を出してくる飯田さんは、本当にやさしいひとですね。 お仕事も多忙な時期ですのにありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
(629)コークス工場のにわかプール 投稿者:小林光志 投稿日:12月10日(金)15時58分54秒
昭和30年前後、私が小学生の頃、栄町のプールは、自由に使用できませんでした。 解放日には、大夕張中の人が来るので手足を伸ばして泳げませんでした。 なにより期間が短かったのでもっぱら洗炭場の上やいそじろの沢などで泳ぎました。 しかし、秘密の場所がありました。それは、コークス工場の排水場所です。 ここは、1年中コークス洗浄後の温水がありました。プール解放前や後の寒いとき でもよく行って泳ぎました。子供には、ちょうど良い小さな排水プールでした。 足が届かないほど深くてちょっと危険な秘密の遊び場所でした。しかし、結構多く の子供が来ていましたよ。だれか知っている人もいることでしょう。私の父の現場は、 その裏にある機関庫でしたのであのあたりは、遊び場所の一部でした。立入禁止区域 でしたのでスリルを楽しんだ思い出があります。ランドセルを背負ったまま親父の 現場へ良く行きました。 また、あのあたり、工場を一歩出ると、ふき、キノコ、やまぶどう、こくわの実、 おんこの実、熊いちご、川では、うぐい、ドジョウ、やつめうなぎなど自然が豊富 でした。大夕張の周囲の山全てが遊び場所でした。戦後間もないなにもない頃でし たが子供同士の遊びに不自由を感じませんでしたが、今の世の中余りにも便利のも のが出回り一度経験すると生活は後に戻れなくなるものですね。思い出だけが甦ります。
(628)小原楽器店 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月10日(金)00時22分49秒
当時の小原さんの家,思い出しました。そう言えば,炭砿病院からちょっと栄町よりにあった 一軒家ですよね。建物自体はつい最近までありましたね。私も小原さんの娘さんと同級生でし た。きっと妹さんの方ですね。 岳富町の小原楽器店は,一階が楽器屋で,2階が家具屋さんだったでしょうか。その頃,鹿島 中の通学の途中にあり,新譜情報は,店先の硝子戸に張られたチラシで仕入れたものでした。 特に,昭和45年頃,第一回東京音楽祭優勝曲の『ナオミの夢』のレコードや,ジェリーウォ レスが歌ってヒットしていた『男の世界』のチャールズブロンソンのポスターなど,買いはし ませんでしたが,ここの店頭で見て,いいなあ,と思っていたことを覚えています。 小原楽器店の話題が出たついでに今回も岳富町のその辺りの風景の写真をアップしました。 鹿島小の鼓笛隊を映した写真の一こまです。 -------------------- 佐々木さんと,菅井さんの投稿,HPのページに転載させてもらいました。この場を借りて お礼申し上げます。ありがとうございまいた。
(627)岳富町のレコード店 投稿者:佐々木広行 投稿日:12月09日(木)18時19分10秒
先日菅井さんの投稿の中に出てきておりました岳富町のレコード店の名は 小原楽器店では有りませんか?多分あの当時レコードを扱っていたお店は 小原さんしか無かった様に記憶しておりますが。もし、そうだとしたら小原楽器店 のお嬢さんは私の鹿島小学校時代の同級生でした。当時殆どの学友達は炭住に住ん でいましたが小原家は町名は忘れましたが(確か炭坑病院の近く)かなり大きな 家に住まわれていました。1度だけ遊びに行かせて頂いて大変感動を覚えた記憶が 残っております。又、小学校の修学旅行で行った登別温泉、宿泊先は第一滝本館 だったと思いますが、そこの通りに有ったみやげ物店(大黒屋さんだったと思い ますが)が小原さんの親戚だと言うことでお土産を割引して頂いた記憶が御座いま す。
(626)「ETV特集」 投稿者:奥山@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:12月09日(木)12時28分35秒
昨日の「ETV特集」、当会の今井事務局長のインタビューが出ていました。 「かつて、ここに多くの人々が住んだ街があった。その人達が故郷を訪ねた際 に何も無くなっていては可哀想、その証として何かを残したい」といってまし た。 客車保存の「電子署名」にも、「お願いです、故郷から全てを無くさない で下さい」とありましが、その想いは全国の視聴者に伝わったでしょうか。 美唄の人が「ある日、突然街が消えた」と言っていましたが、炭鉱閉山・ダ ム水没で消え去る「大夕張」の事についても触れて欲しかったものです。 空知管内に炭鉱遺産の継承に取り組むグループは幾つかあるようですが、 シューパロ塾・三菱大夕張鉄道保存会の取り組みが紹介されたのは大きな 励みになるのではないでしょうか。
(625)ETV特集、見ました 投稿者:泉 俊弘 投稿日:12月09日(木)10時41分03秒
昨晩のETV特集、興味深く拝見しました。 「上々颱風」の歌作りを追うという仕掛けを使って、ヤマの遺産(生活・労働 などを含む)の保存と伝承に取り組む地域住民の姿を浮き彫りにするという手 法は目のつけ所としては面白いのですが、地域における保存・継承への取り組 みの紹介が断片的になってしまい、少し食い足りなさが残りました。 とはいえ、地味なテーマを全国放送で流してくれたことは、NHKならでは のことと思います。 いまひとつ感じましたのは、全国的レベルでみれば、何と言っても「大 夕張」地域の認知度が低いこと。制作側に十分な予備知識がなかったから でしょうが、おそらくあの番組を見た多くの人たちは、美唄も芦別も夕張 も上砂川もごっちゃになって記憶にとどめてくれるのでしょう。まして、 夕張の中の南部の客車においてをや。 あの傾いた客車が放置されていたのは、どこだっけ?(奥山さんの報告 によれば、やっと修復作業が決まった由、おめでとうございます)という ことで、NHKに照会がいくかもしれません。 そこで、取り急ぎ、番組で紹介されたヤマの遺産を示す地図、特に我等 が「大夕張」を特筆大書したものをHP上にでも用意して、このさい「大 夕張」のたしかな存在感を示せれば、と感じた次第です。 所詮、このページにおいでになる皆様方とは体験の共有をしようにも できようのない部外者(それでも、南部の谷には4度、うち1度は大夕張 まで行きました)のたわ言。お聞き流しくだされば幸いです。
(624)そういえば・・・・ 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月08日(水)21時15分07秒
『花の首飾り』といえば,当時鹿島中の私のクラスの女子(一部男子も巻き込ん で?)の間で大人気で,教室の後ろの方で誰かが持ってきたEP盤(死語?)を 囲んでワイワイ賑やかに騒いでいたことを思い出します。それに自転車・・・ あの頃,僕らは自転車に乗ってあの街をすみからすみまでがたぼこ道を走りま わっていましたね。僕らの足でした。 今日,奥山さんからも書きこみがあったNHK教育TVの『ETV特集』が10時 からありますね。 忘年会の11日は土曜日でした。日曜日ではありませんので・・・お気をつけ下 さい。案内間違えてましたね。すみません。訂正しておきました。 都合つく方はどうぞ。大夕張のお話で楽しみましょう。
(623)南大夕張の客車復旧作業・続報 投稿者:奥山道紀@三菱大夕張鉄道保存会 投稿日:12月08日(水)21時08分53秒
「北宝建設」さんによる客車・ナハフ1の復旧作業日が決まりました。 12月13日・月曜日午前8時30分より作業を開始、9時30分頃にはクレー ン車で車体の吊り上げが行われます。その後・脱線している台車を線 路上に戻し、車体を台車上に乗せ、午後4時30分頃には作業が完了する 予定です。 積雪で作業環境も悪く、北宝建設の方々には苦労をお掛けしますが、 無事作業が終了する事を祈っています。 新聞社・放送局にも、この情報は夕張市の広報公聴係を通じて広報され ていますので、新聞・テレビ等で紹介されるものと思います。 本日も、午後10時からの教育テレビ・ETV特集で11月7日の客車のシ ート掛け作業が紹介される予定ですが、飯田さんは客車の床下に隠れて いたので写っているでしょうか?、楽しみです。
(622)千年町の思い出 投稿者:菅井宏史 投稿日:12月08日(水)06時52分13秒
私にとって千年町は長らく住んでいた富士見町に次いで思い出深い町です。 といいますのも、実はわずか数カ月の短い間でしたが、何を隠そう千年町 の住人であったからです。今回アップして下さった界隈をよく自転車で走 り回ったものです。(ああ、なんて懐かしい写真!) HPの千年町マップでパチンコ店と消防署の間が空き地になっていますが、 昭和42年頃そこに郵政の官舎として(と思うのですが)平屋一戸建ての ブロック住宅が四棟新築されました。恐らくこの地図で空白になっている のは建築中であったためと思われます。父は大夕張郵便局員で、同じく富 士見町にいた職場仲間の家族と共に我が家もそこに引っ越すことになりま した。それまでの富士見町の煤汚い二軒続きの木造の古い家から、新築さ れたばかりの真っ白なブロックの一戸建てですから、それはもう嬉しかっ たの何のって、正に夢のようでした。 私の家は一番北側でバス通りに面していました。子供部屋としていた部屋 はそのバス通り側にあり、停留所も確かすぐそこであったと思います。 今思うとその窓からの眺めは千年町の中で一番賑やかな風景でした。 しかし、その嬉しさもつかの間、それから数カ月後には急に決まった父の 転勤のため大夕張を離れることとなってしまいました。 確か4年生の夏前に千年町に移り(昭和42年)、秋頃にはそこを離れた と記憶してます。そのまま大夕張に居続ければ、翌年の新学期から東小に 移るはずでしたが・・千年町から鹿島小にその間通うことになりました。 富士見町時代は通学路には住宅しかありませんでしたが、鹿島小から千年 町の通学路(校区が違うので通学路と言うべきではないですが)は何と刺 激に満ちていたことでしょう。 下校時に、武富町のレコード店で見かけた当時ヒット中のタイガースの A面「花の首飾り」とB面「銀河のロマンス」のレコードが欲しくて欲しく てたまらず、親にねだってついに買ってもらい、それを家のちゃちなプレー ヤーで何度も何度も部屋で聞いたものです。部屋の窓から見える千年町の 賑やかな通りの様子を眺めながら・・。 そういえば銀河のロマンスの中の「アイ・ラブ・ユー、燃える頬に美しい 愛のくちづけ」というフレーズが4年生の私にはちょっと恥ずかしかった ですね(笑)。 その後もタイガースのこの二つの曲を耳にすると、窓から見える千年町の その賑やかな様子が浮かんで来たものです。 千年町時代が余りにも短かったもので、もはやその時のことはほとんど記 憶の表面には現れないのですが、今日、駅前通りの写真を見て、急に懐かし くなり、思い出すまま書いてみました。
(621)千年町駅前界隈 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月07日(火)20時53分25秒
向さんの書きこみの中にポーラ美容院が出てきたので,千年町駅前の辺りの 写真を載せました。ページの方にも書きましたが,この辺りはバス通りとは 違って,人々の生活臭を感じさせる通りでした。 この辺りに思い出をお持ちの方も大勢いらっしゃると思います。 いろいろな方々の思い出やエピソードをお聞かせ願えればと思います。
(620)小林光志さんへ 投稿者:向 けい子 投稿日:12月07日(火)15時30分47秒
小林さんの問いに、このHPをお借りして返答させていただきます。 残念ながらうちの父ではないと思います。 若い頃父は、南大夕張駅に、30代は千年駅そして炭山駅にといました。 叔父は、機関士でしたので、お父様とは顔みしりかもしれませんね。 大夕張のHPは、もしかしたら、昔の友達に会えるかもしれない、 ご近所さんの情報がわかるかもしれないと思うと、どきどきしてきます。 もっと、いろいろな人に、メールを送ってほしいと思います. ちなみに、わたしの叔母たちは、春日町に30年代住んでいました。 女7人姉妹で(姓は海谷)千年町で美容院(ポーラ美容院)をしていました。 記憶ありませんか。(美人姉妹でした。)
(619)南大夕張客車復旧工事発注 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月07日(火)09時25分44秒
転倒した「ナハフ1」の脱線復旧工事が、見積合わせの結果 夕張市の「北宝建設」さんに昨日発注されました。 工期は天候の関係もあり、12月6日から20日までと余裕 を持ってますが、正味の作業日程は2〜3日程と思います。 北宝建設さんでは今週中に作業を終えたいようですが、昨日 来の暴風雪で作業を見合わせています。 詳細、情報がありましたら報告します。 夕張市が、いよいよ本格的に復旧に乗り出しました これも、署名など皆さんの協力のお陰です。 「三菱大夕張鉄道保存会」「夕張・偉大なる産業遺産」のペ ージにも同一内容で報告しています。
(618)12月11日の忘年会について 投稿者:佐藤 次男 投稿日:12月06日(月)21時40分15秒
お店に人数の連絡をしなければならないので 12月8日で参加の締め切りをさせてもらいます。 まだ参加の申し込みをされてない方はお早めにお願いいたします。 どうぞ皆さんお気軽にご参加を。 【申込み先】 飯 田 雅 人 〜iida@mta.biglobe.ne.jp 佐 藤 次 男 〜t-sato@north-wind.ne.jp
(617)NHK教育・ETV特集 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月06日(月)16時15分42秒
12月8日NHK教育「ETV」の番組案内です。 ◆教育・後10・00〜10・45 ETV特集 「よみがえる炭鉱の記憶」(仮) 夕張、三笠、美唄など最盛期100を超える炭鉱があった北海道空知地区で 今、20世紀の歴史的遺産として炭鉱の記憶を残そうと様々な活動が行われて いる。 ライブ・バンド「上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)」は、人々の活動を 知り、炭鉱の記憶を歌にして残そうと考え、リーダーの紅龍とボーカル、白崎 映美は空知の産炭地を訪れる。 4歳の時に友子(ともこ)制度(炭鉱にあった親方制度)の杯を交わし、命 がけで働き抜いたと言う元炭鉱夫や、解体が決まっている炭鉱住宅に暮らす人 々、炭鉱の街で、1日に4〜5人の子どもを取り上げた元助産婦、友達を炭鉱 事故で亡くしている音楽仲間に話を聞いてまわり、炭鉱の記憶の真実に迫る。 また、過疎や財政難など問題を抱えながらも、先人達の遺産として炭鉱関連 施設や記憶を守ろうとする市民グループや、行政の取組を紹介する。 また、空知でのコンサートでは、空知の人々の出会いから生まれた新しい歌 を「上々颱風」が披露する。そこにはかつて栄えた炭鉱の賑わいがよみがえっ ていた。 11月7日、南大夕張で客車の保存活動の取材を受けました。 飯田さんも、登場するかも知れませんね。
(616)大夕張を訪ねて 投稿者:森 雄司 投稿日:12月05日(日)21時59分41秒
三重県生まれで三重県育ちの僕が大夕張を訪ねたのは9月中旬で偶然の出来事 でした。僕と妻は「幸せの黄色いハンカチ」のファンでそのロケ地を訪ねた後、 富良野に向かい国道452号線を走っていました。除雪車のような機関車が置い てある所を少し走ると人気の無い町があり、カーナビはそこが鹿島であると教えて くれました。ナビの画面上には郵便局や、交番のマークが出ていたが、そこに建物 は既に無く、何軒か残っている建物もひどく痛んでました。車を止め、学校や、 商店、スキーのリフトの施設と思われる残骸を見ていると、この北の大地に帰り つつある町に畏敬の念すら覚えました。 今日、このホームページを見つけ自分が見た町が賑わっていた時の写真があり とても興味深く拝見しました。そしてこの町がダムに沈むことを知りました。 僕が生まれる何年も前から日本のエネルギーを支えてきたこの町がこのような かたちで無くなるのを非常に残念に思います。僕らの世代では夕張が炭坑の町 と連想する人は少ない(メロンと答える)のですが、僕は偶然訪ね、強く印象に 残ったこの町をずっと覚えていたいと思います。
(615)12月4日、「師走」に入った大夕張(鹿島) 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月04日(土)19時45分36秒
今日、夕張に行く用事があったので大夕張まで行って来ました。 積雪は30〜40センチ程、転倒した南大夕張の客車の側面にも 軽く雪が積もっています。なんとか早く復旧して欲しいものと思 い大夕張に向かいます。 シューパロ湖畔では、ガードロープの補修でしょうか、やけに 「道路工事」が多いのが気にかかります。 対向車は鹿島小学校の廃材を運搬する、大型トレーラーと、今年か ら通年運行になったためか芦別・三笠方面からの乗用車が4〜5台。 冬の早い夕暮れのためか、午後2時頃でも、夕張岳はその白い頂を 黄金色に染めています。 鹿島小学校の敷地内は解体工事のため「立入禁止」、でも校舎は既 になく、重機が廃材の整理をしているだけです。 かつての、大夕張炭山駅近くまで行きましたが、旧メタノール工場 への雪道に自動車の轍が残っています。アセチレンを製造している 「日北酸素」はまだ操業しているようです。 夜には無人地区となりますが、1999年「師走」の大夕張に、まだ 人々の営みが残っているようです。
(614)あつしちゃん? 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月04日(土)17時23分24秒
住民登録をされた佐藤篤史さんは,昭和30年生まれの1,2年生沖先生の担任・・。 私と同学年,しかも同じクラスです。お名前を拝見して,しばらく目をつぶって遠い 記憶を呼び寄せていました。 しばらく考えていると,一人の男の子の顔が浮かんできました。確か『あつしちゃん』 と呼ばれていた子がいたはずです。その子は目がくりくりっとした小柄なかわいらし い男の子でした。 古い写真を引っ張りだして見てみると・・・。いました!思い出したその子の顔が写っ ていました。 そして,あつしちゃんと思われる彼の左後ろに私も・・・。 『あつしちゃん』は小学校の途中で転校していってしまったように記憶しています。 はたして佐藤さんは私が知る『あつしちゃん』なのでしょうか?
(613)向さんのお父さん 投稿者:小林光志 投稿日:12月03日(金)16時43分13秒
向さんのお父さんは、鉄道に努めていらっしゃったとのことですが。 機関庫にいましたか? お父さんは、陸上をやっていませんでしたか? 私の父の機関庫にいたような気がしました。 私が鹿島中学入学したときに革製のスパイクをもらった思い出があります。 おかげで中体連では、良く勝たせてもらいました。 間違っていたらごめんなさい。
(612)シューパロ in Asahikwa 投稿者:ヒロ 三浦 投稿日:12月02日(木)19時41分42秒
今日の夕方、先日京極さんから投稿がありました 旭川市内東光の居酒屋シューパロへ伺って参りました。 私達よりも10年先輩になられる方で、鹿中11期生とのお話を承りました、 その中でも数名の聞き覚えのあるお名前を耳に致しました。 来年には又旭川市で同期会が開催される予定があるそうです、道北方面 の同年代のお知り合いがいらっしゃれば連絡を取られると良い思いますが 詳しい連絡先は伺っていないので申し訳ありません、各自でお調べ下さい。
(611)「第二農場前臨時乗降場」 投稿者:奥山 道紀 投稿日:12月01日(水)21時41分32秒
小林さんの書き込み 「千歳町と南部の間に無人駅もありました。」の駅は「第二農場前」でしょう。 今井一郎さんが書き込んだ「山史・鉄道編」には 更に昭和21年2月1日、現シュ−パロ湖駅附近(10粁050米)に第2農場 を経営のためこれを第2農場前臨時乗降場と称し、前記農場前臨時乗降場を第1 農場臨時乗降場と改称せり。 戦後「桜ヶ丘」や「下夕張」に開拓に入った人々は大夕張ダムの建設により「白 金」に再入植しましたが、そこも「シューパロダム」建設により放棄しなければ なりませんでした。
(610)ダムによって水没した大夕張にあったもう一つの小学校 投稿者:飯田 雅人 投稿日:12月01日(水)20時13分01秒
小林さんの書き込みにあった小学校は桜ヶ丘小学校でしょうか。 大夕張の年表を見ると 昭和23年7月20日に南部の分教室として設置 昭和23年11月には桜ヶ丘小学校として独立 昭和24年5月に校舎新築で移転(教員住宅附設で60坪) 昭和31年には,大夕張ダム建設による水没予定地となり,閉校 存在したのが7年という短い歴史をたどりました。 設置された当時,今は大夕張ダムにより水没している『湖畔亭 の対岸附近』にあったそうです。 先日の会で南大夕張在住の山影さんや鈴木さんが,桜ヶ丘とよばれた このあたりに開拓農家として入ったこと,『湖畔亭の対岸附近』には, 公園などもあったことを話されていました。以前内川さんも話されて いたと思いますが,この辺りは魚がよく釣れる場所だったのでしょうね。 そして現在の白銀橋より300m程下流のあたりには共栄橋というつり 橋がかかっていて,対岸との行き来に利用されていたそうです。 夕張市史の桜ヶ丘小学校の沿革に,設立当時のことを次のように伝えて います。 ※この地(湖畔亭対岸附近)は桜ヶ丘開拓農地であって,南部小学校に 通学するには遠く,且つ道路もなく営林署の木材搬出用鉄道線路を歩か ねばならない状態であった。入植者32戸・住民の要望で15坪の平屋 掘立て小屋の離農民家を教室として使用した。児童数11人。