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1998年    
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平成10年6月 先頭にもどる


(155)ルビナスの花 投稿者:まえかわ  投稿日:06月29日(月)22時30分25秒

 おかえりなさい。ご苦労様でした
 飯田さんの無念の想いが切々と伝わってきます。
しかし、私達のようにふるさとを無くして無念に
思う者がいる反面、無くなってスッキリしたと言う
者もいるのは事実で、そこが私の悩むところです。
これを「差別」というのでしょうか。いや、そうと
は思いたくない。また、「開発」「町の発展」とは
なんなんでしょうね。

http://www.biwa.or.jp/~fumiko/

(154)別れを告げる街 投稿者:飯田 雅人 投稿日:06月23日(火)16時42分31秒

大夕張に6月21日,行ってきました。
大夕張神社の丘で乗田さんと嬉しい出会いがありました。

でも大夕張については,悲しい報告です。
どの建物が無くなったという段階ではありませんでした。
大夕張の街そのものが,永遠の眠りにつく準備をしていました。
快い初夏の風にふかれ,ルピナスの咲き乱れる大地に伏し,
この地を無性に抱きしめたくなりました。

(153)『ぼくと相棒』 お礼 投稿者:飯田 雅人  投稿日:06月17日(水)22時46分54秒

奥山さん,ありがとうございました。
おかげさまで,先日もえぎ書店(大通西11)にて『ぼくと相棒』入手しました。
シューパロ湖に注ぐ,いくつもある沢・出没する熊・巨大なアンモナイトなど,
なるほど舞台として全部そろっているなあ,という印象をもちました。
平成10年5月 先頭にもどる

(152)九州の炭坑 投稿者:飯田 雅人  投稿日:05月31日(日)17時17分31秒

松尾さん。そうですよね。わすれていたわけではないのですが,夕張(北海道)だけで
はなく,九州の筑豊炭田,有名でした。実際,私の友達のお父さんも九州の出身で,同
じ三菱(高島だったかな)以前勤務していたという話を聞いたこともありました。
下のアドレスに,九州の炭坑をとりあげたホームページがありました。行ったことはな
いにもかかわらず,なつかしく同じような想いを感じました。

藤田さん。代々木町のアパートがなくなったとのこと。来るべきことは分かっていて
も残念な思いがします。雪どけとともに,建物の解体が一気に進んでいるのでしょう。
写真を今度見せていただけますか。「風間」さんの写真のあるHP,夕張市のリンクか
らいけるようになっていますね。今度,見に行こうかなと思っています。

http://www.biwa.or.jp/~fumiko/index.html

(151)代々木アパートはもうありません投稿者:藤田浩之  投稿日:05月29日(金)00時46分30秒

お初目にかけます。
5月27日からの朝日新聞によると代々木アパートが今月中に取り壊されると言うのであわてて行って来ました。
大夕張は交通の便が悪いので行くのは初めてなのですが、札幌8時のバスで夕張に到着。
サイクリングターミナルにて自転車を借りて2時間ばかり走りました。

すでに代々木アパートは1棟瓦礫の山となっており、2棟目の取り壊し中でした。
その2棟目も私の目の前であっという間になくなっていきました。壊すは易し。

また来週も札幌から自転車で行く予定です。今度は長旅。
白黒写真ですが撮りましたので出来ましたらホームページに載せる上に、提供もします。
もし画像がほしければ遠慮なく使ってもいいです。

また6月から夕張の写真家「風間」さんが主催する写真展が札幌で多数開かれます。
詳しい日程は夕張市のホームページで、また私も出す予定です。
今日、風間さんに会いました。彼も燃えています。

(150)熱い思い出ありがとう! 投稿者:松尾八寿雄  投稿日:05月27日(水)14時12分26秒

私は、福岡県の筑豊炭田で育ちました。私の故郷も福岡市の大発展とは裏腹に、
シーンという音が聞こえる程寂れきっています。
私の出身中学校は廃校になっています。
田川市や直方市には当時の記録を残すために、やはり石炭記念館があります。
小さい頃は炭坑の生活がいやでいやで仕方がありませんでしたが、自分を育んで
くれた炭坑が日本全国から消えた今、また自分が当時の親と同じ世代になった今、
胸の詰まる思いがしています。炭坑の記録をあらゆる形で残す必要も感じています。
夕張には行ったこともないのに、沢山の写真を見て熱いものがこみ上げ、
仕事中にも拘わらず目が潤んでしまいました。
そのうち必ず、夕張に行こうと思います。炭坑の「遺跡」を大事に保存して下さるようお願いします。

(149)大夕張へ行きます 投稿者:乗田 功一  投稿日:05月25日(月)02時23分52秒

来月、大夕張へ行く予定です。
どんな様子なのかとても気になります。あと何度行けるのか分かりませんが
出来る限り足を運びたいと思っています。

noritax@ba.mbn.or.jp
乗田 功一

(148)行きたい 投稿者:飯田 雅人  投稿日:05月23日(土)13時29分12秒

今日はとても良い天気です。
大夕張は今どうなっているのでしょうね。
はやく行きたいです。でも,6月になりそう。

(147)鹿島小運動会の応援歌 投稿者:飯田 雅人  投稿日:05月13日(水)22時05分40秒

『赤(白)の健児の応援を・・・・富士見が丘に鳴り響く・・・・ フレ赤 フレ赤
 フレフレフレー! フレ白 フレ白 フレフレフレー!』

私が今 口づさむことのできる鹿島小の応援歌というのは,この歌のこのフレーズ
くらいです。
以前の池田さんが書かれたものや,内川さんの書き込まれた応援歌と,この歌は同じも
ので,どこかでつながっていたと思うのですが,うまく節が浮かんできません。

当時,富士見が丘とは,どこのこととは意識していませんでしたが,今になってみると
鹿島小グランドのあった場所の名前だったんですね。

昭和35年頃の大夕張は最盛期だったのですよね。たしか,鹿島小の在籍も2000名
を越えていたというのを在学当時年表か何かで見て,とても感心したことを覚えていま
す。
昭和35年の地図については,残念ながら手持ちの資料がないのでわかりませんが,
夕張市の石炭博物館あたりには,あるかもしれません。

(146)小学校の応援歌 投稿者:内川 准一  投稿日:05月13日(水)17時18分31秒

応援歌の歌詞の一部を覚えています。
・・・碩学の峰いや高く、我が心、かくある・・・鋼鉄の、力の限り試さばや、いざ今日の日に・・・。
こんなだったように思います。
当時は私も意味を知らずに歌っていましたが、思い出しながら考えて見るに、こんなところだったでしょうか。
残念なのは、36年を経て歌詞そのものを忘れ始めたことです。

(145)思いつき その2(別人!) 投稿者:内川 准一  投稿日:05月13日(水)14時46分53秒

大夕張の最盛期は、たぶん、昭和35年頃だったように思います。
昭和37年、鹿島小学校卒業と同時に大夕張を離れた私にとって、
昭和54年、17年ぶりの故郷との再会は衝撃的でした。
思えば、町をあげての運動会。メーデーの行進。のど自慢大会。
ヘリコプターの校庭への飛来。闘犬や闘鶏。大相撲の巡業。
家々が協力しての餅つき。裸まいりの勇壮さ。ダニ、ノミ退治の家
の薫蒸。山はね事故での父の入院。バスが来た日のこと。
雪道で転倒したくみ取りの馬そり。大夕張ダムの建設工事が始まった
ことなどなど、思い出はつきません。
地図を作成中とのこと、楽しみにしています。できれば昭和35年頃
のものも作ってほしい。

(144)ありがとうございます 投稿者:片山利明  投稿日:05月12日(火)12時31分52秒

飯田さん、思い付きで書いただけなのに本当に実行してくれるなんて、ありがとうございます。
パソコンのことは全然わかりませんが、きっと大変な作業なのでしょうね。楽しみにしています。
ところで、今年のお盆には帰省するつもりなのですが、
大夕張市内へはいつ頃まで入る事ができるのでしょうか?

(143)掲示板更新しました。 投稿者:飯田 雅人  投稿日:05月11日(月)21時52分11秒

掲示板の雰囲気を少し変えてみました。今まで同様どんなことでも気軽にどうぞ。
以前片山さんの書き込みにありましたが,昭和43年頃の大夕張の戸別地図を町内別に
して載せるよう作業を進めています。もうしばらくお待ち下さい。

平成10年4月 先頭にもどる


(142)大夕張神社境内でのお花見写真をアップします  投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月25日(土)00時33分24秒

札幌では平年以上の暑さで観測史上もっとも早い桜の開花だそうです。この週末が桜の見
頃だそうです。山神社境内の桜(かどうかはっきりしませんが)の写真をアップしました。
写真を見ていたら神社の裏の山にも登って,遊んでいたことをなつかしく思い出しました。

(141)神社と千年町の教会  投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月21日(火)20時48分04秒

高橋さんと,私の場合ちょうど大夕張では入れ違いのような感じですね。
私にとって神社は,大夕張の中でも一番好きな場所でした。手に取るようにわかる大夕張。
町全体を見渡すには最高の場所でしたね。神社への階段でじゃんけんをして遊んだ小学生
の自分。夏の夕方,草の匂いに,甘く切ない気持ちを胸に登った中学生の頃。
東京から来た親戚のお兄さんに,町を説明していた自分。いろんな自分がそこにはいま
した。

市橋さんが書いてくださった,千年町の教会。私は入ったことがありませんが,確かプロ
テスタント系の教会ということで記憶していました。鹿島中への通学の朝いつもその前を
通って行きました。庭の花壇にいつも花がきれいに咲いていたように覚えています。市橋
さんの投稿とともに写真をアップしました。ご覧ください。

(140)なつかしいです  投稿者:高橋博美  投稿日:04月20日(月)19時36分56秒

初めて書きます。
私は昭和30年生まれで高校1年の時、美唄から栄町に越してきました。
夕張工業の機械課を48年に卒業しました。
以前、小林俊二が出てたのでなつかしく思いました。
思い出は神社の上でシンナー吸ったり、もう時効ですので言いますが、
お金なかったんで夜、ガソリンを抜いたりとか、色々バイクでやかましくし
てましたので、ご迷惑をおかけしました。
今はまじめにやってます。
荒川商店の愛子さんとよく遊んでました。
みんな年をとったのでしょうね。
思えばもう25年前の話なんですね。
たいへんなつかしくおもいました。

(139)千年町の教会  投稿者:市橋 勝  投稿日:04月19日(日)12時28分11秒

 飯田さんのホームページの「ふるさと大夕張」を見ていて思い出しましたが、千
年町にも確かに教会がありました。所商店の斜め向かい側の東小学校寄りの所だっ
たと思います。カトリックの教会だったと思いますが、定かではありません。
 すっかり忘れていたのですが、私は小学校の時に青葉荘(だったかな?)の友人
に連れられて、日曜日毎にその教会に行ったことを思い出しました。私はクリスチャ
ンでもなんでもなかったのですが、牧師さんが行う説教の後に出てくるお菓子が楽
しみだったんですよね。ビスケットや飴やら、「お菓子がただで食べられる」とい
うので、近所の子供達で徒党を組んで行ってました(ごめんなさい、牧師さん)。
 クリスマスの時はやはり一番盛大なパーティが催されました。参加した子供達全
員にプレゼントが与えられるんですよね。それが結構豪華なものだったように記憶
しているのですが、具体的にどんなものだったかは忘れてしまいました。でも、「
キリスト教ってすごいんだな」などと、プレゼントを貰えたことだけで判断してい
ました。(要するに、ただの貧乏少年だったということなのですが。)
 そんな不純な(?)動機で教会に行ってましから、当然のことながら長続きする
わけもなく、日曜日毎に通うのが面倒になって、何時しか教会の存在さえも忘れて
しまっていたのでした。
 閉山後、私がまだ大夕張にいた頃に、「あの教会ももう閉鎖するらしい」と聞い
たように思いますが、もう今となっては知る由もありません。

(138)大夕張への思い  投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月18日(土)21時20分32秒

石川さんが書かれているのを読んで,あの土地に対する思いはみんな同じなんだなあ,
と感じます。自分だけではなかったんだ,となんだか温かい思いがわいてきます。
自分はたまたま札幌にすんでいて,大夕張を訪ねることのできる環境にありました。
でも大夕張を訪ねるときはいつも孤独でした。妻や子供をつれていくものの,妻や子供
にとっては単なる田舎の一光景にしかすぎませんでした。
今は自分と同じ思いであの土地を訪れ,同じことを感じていた方々がいらしたんだとい
うことを感じ,孤独が癒されるような思いです。

話は変わりますが,今日の新聞にかつて三菱大夕張の所長をしていた,小泉 勤さんが
72歳で亡くなったと忌引き欄に出ていました。たまたま,亡くなった父と同じ年齢で
あること,父が独身のとき,啓心寮で一緒だったという母の話,娘さんの小泉智子さん
は鹿島中学校の同級生で3年F組にいたことなど思い出していました。

(137)懐かしい、大夕張の事。  投稿者:石川 修  投稿日:04月17日(金)14時45分38秒

初めて、投稿します。

昭和25年3月に、緑町で生まれ、昭和28年〜昭和36年4月まで明石町ですご
しました。

飯田様は、昭和31年生まれとありますので、私より6歳お若いわけですが、投稿
された内容とほとんど共通の思い出があります。
懐かしい思いで、いっぱいです。
小学校をふくむすべての学校を東京にきてから、卒業してしまっているのですが、
私にとっての大夕張は心から「ふるさと」です。
たしか、「ふるさと」が残念な事にダムに沈むという事も7年前に大夕張に行っ際、
聞き驚いた事を思い出しました。
このような計画は、できたらずっと、ずっと後にしてもらいたかったですね。



高校の修学旅行、会社の社員旅行などで北海道を訪れるたび、コースに入っていない
「大夕張」が気になって仕方がなく、小さかった頃の夢をよく見ておりました。
そこで、元の(離大夕張時の)家族5人で30年ぶりに、7年前の1991年に大夕張
を訪問した次第です。
千歳でレンタカーを借り、大夕張を訪問したのですがもうイメージとは大違いに近くなって
いたのには、驚きました。

「白金の沢」、「明石町」、「千年町」、恩師の渡辺先生がいらした「ブロック教員住
宅」、「東小学校跡」、「富士見町」、「緑町」、「会館」、「会館」のとなりの鉄
筋アパート、「炭山」、「三菱鉱業事務所跡」、「大夕張幼稚園」、「鹿島小学校」な
ど、さまざまな所を写真とホームビデオに収録してきました。

懐かしいけれど、時間とともに空間までなくなろうとしている「ふるさと」が今、
投稿されている皆様方の懐かしいお話でよみがえり、夢中になりました。
旧知の仲間が増えていくようです。

飯田様のご努力のおかげで、このようなすばらしいホームページに出会えました事に感
謝申し上げます。

(136)栄町浴場付近  投稿者:乗田 功一  投稿日:04月14日(火)01時30分10秒

栄町浴場は、私の家からすぐの所でしたのでとても馴染みがあります。
むかし、栄町には写真のコンクリート建築以外にもう一つ浴場がありました。『リハツとパーマ』
の看板が目立つ菊池床屋(元千葉理容店)の並びだったと思います。
子供の頃、私の家は代々木町だったのですが、近くに浴場が無かったのでこの木造の少々陰気な浴
場へ通っていました。洗い場がザラザラのコンクリートで、滑って転ぶ心配はなかったのですが、
座るとお尻が痛かった思い出があります。
いつのまにかこの浴場も無くなってしまい、私も栄町のブロックに引っ越したので、写真のコンク
リート浴場へ通うことになりました。

また夏休み中は、この浴場の横の広場(写真の左側車のあたり)でラジオ体操をやっていました。
毎朝、ハンコを押してもらうのが楽しみで通ったものです。
広場と道路の境に大きなポプラの木があったのですが、切り倒されたあとの写真のようですね。

右側に見えるブロック(2丁目12番か)の向こう側に、富士見町から春日町に流れる下水があり、
それを越えると栄町の詰め所と集会場。いろいろ思い出されます。
下水沿いにも道があったのですが、現在では下水もろとも草に隠れてしまいました。

今この場所に立ってみても、とてもこの写真と同じ場所とは思えないほど変わってしまいましたが、
左端の住宅だけは今も残っているようですね。

(135)栄町浴場付近の写真アップしました  投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月11日(土)21時41分42秒

栄町の浴場から栄町児童公園前の通りの写真をアップしました。当時大夕張の道路は,
メインストリートを除いて砂利道でした。雨が降るといたるところに水溜りができて,そ
の跡が溝になっていました。そこを自転車で通ると砂利道が敷いてある上に,深い溝がで
きていたりして,よく転んだものです。

陽が西の山にかたむき,街全体があっという間にに影におおわれ,ほこりっぽい風が冷た
く感じる夕方。
周りの家々から漂う晩ご飯の支度の香りにおなかをすかせながら,自転車に乗って家への
道をいそぎました。浴場に続くパイプから出る蒸気の音も大夕張の街にかかせない音の一
つでした。

(134)清水沢駅前  投稿者:市橋 勝  投稿日:04月09日(木)10時04分35秒

 大夕張の話からちょっと離れますが、清水沢駅前は確かにバスの乗り換え地点で
した。
 飯田さんが触れていたように、札幌から帰るときのバスが混んでいるときは、清
水沢駅前行きのバスに乗って、清水沢で乗り換えたものです。記憶が定かではあり
ませんが、確か、清水沢駅のちょっと広くなった駐車場か、清水沢駅前食堂の向か
い側のバス停で乗り換えたと思います(ベージュ色をした診療所か何かの建物の前
にバス停が立っていました)。
 バスの乗り換え時間に、ちょっと空きがあるときは、駅前食堂でよくラーメンを
食べました。当時は、学生ラーメンとかいうのがあって、確か70円だったんですよ
ね。なるととモヤシぐらいしか入っていない質素なものでしたが、つゆがとても美
味しかったような気がします。6年ほど前に夕張に行ったときに、清水沢のほうに
行ってみたら、駅前食堂はまだ健在でした。懐かしかったので、思わずそこでみそ
ラーメンを食べました。学生ラーメンはさすがにもうやっていませんでした。厨房
に入っている人は、見覚えのある感じの顔だったので、当時と同じ人だったように
思います。
 ところで、当時、大夕張に住んでいた者にとっては、清水沢まで出ることも割と
小旅行でした。交通手段としては、もちろんバスもありましたが、その他に夕張線
のSLもありましたよね。D51だとかC62とかではなくて、「NO.6」などのプレートを
付けた珍しい機関車で、SLブームの時には結構SLマニアなどが写真を取りに来てい
たと思います。
 私も中学校に入る前後、従兄弟と二人でSLを写しに行きました。清水沢駅という
のは、夕張方面へ向かう列車と、追分方面へ向かう列車の連結点だったので、私達
のようなちびっ子SL写真愛好家にとっては、清水沢駅は「重要な駅」でした。
 追分け方面へ向かう列車には、D51やC62などの、全国的に名の知れた機関車があ
りました。私達にとっては、夕張線の機関車などちっとも珍しくなかったので、そ
れらの有名なほうの機関車を見に行くのがとても楽しみでした。

(133)車庫から乗った三菱バス  投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月08日(水)01時10分17秒

前に私が書いた、「三菱=スピードを出す」・「夕鉄=安全運転」というのは、乗田さん
が書かれているようにサスペンション(かな?)の違いだったのですね。確かに三菱のゴ
ツゴツした感じに比べて、夕鉄はフワフワした感じだったと思います。そして、おまけに
三菱バスの停留所にとまる回数も、夕鉄バスに比べると少なかったですし、そんな印象を
もったのですね。
市橋さんの書き込みを読んで思い出しましたが、日曜日などの夕鉄バスはほんとに込んで
いましたよね。うまく席がとれればいいのですが、取れないときは2.3台出るバスの中
の清水沢行きのバスに乗って、終点の清水沢でおり、前を走る大夕張行きに乗り換えると
いうこともありましたっけ。
中学生になった頃からは、そんな混雑を避けようと、夕鉄バスに比べたら比較的すいてい
た三菱バスをよく利用しました。当時、札幌駅から2丁ほど西側にあった三菱車庫から乗
ると確実にすわっていけたのです。バスが数台入るような大きな、そして日中にもかかわ
らず、いつも暗い車庫でした。
車庫から出た三菱バスは、夕鉄が大通りー北一条と札幌のメインストリートを走るのに対
して、北3条のあたりをまっすぐ苗穂の方に抜けて、東橋を渡るという地味なコース(?)
を走っていました。
かつて三菱の車庫があった場所も今はビルが立ち、かつての車庫の痕跡はまったくありま
せん。また、安田信託銀行の前のあのような混雑は今はもう見ることはありません。

(132)三菱バスと夕鉄バス  投稿者:市橋 勝  投稿日:04月05日(日)11時31分27秒

 祖父母が札幌に居たため、私も小さい頃からよく三菱バスなどを利用して、両親
と札幌に行ったものです。
 当時、三菱バスと夕鉄バスの路線は、大夕張から清水沢を経て、千代田の隧道を
下り、継立、由仁町を経由して、長沼町でトイレ休憩を取っていたと思います。
長沼町からは広島町(現在は北広島市ですかね?)を通過して札幌に入りました。
 確か、当時中央バスもあったと思いますが、あれは若菜のバスターミナルかどこ
かで乗り換えが必要だった上に、恵庭経由で札幌に入ったと記憶しております。恵
庭のほうを迂回する分だけ、中央バスのほうが時間がかかったのですよね。
 札幌からの帰りは、大通公園に面した安田信託銀行(だったかな?)の前にバス
停がありましたね。夏休みや冬休みには、夕張方面に向かう人達でバス停がごった
返していたことをはっきり覚えてます。夕張方面、若菜・清水沢方面、大夕張方面
など、何種類かに行き先の別れたバスが発車時刻前に停車していました。これが結
構混んでいるんですよね。皆札幌からのお土産をいっぱい抱えて、荷台も溢れんば
かりだったように思います。
 バスの補助席じゃ疲れるからというんで、よく乗客が車掌や運転手にかけ合って
臨時増発便を出させていたように思います。「三菱バスと夕鉄バスのどっちが増発
便を用意するのが速いか」などと、興味本位に眺めていたように思います。
 当時、時間が速かったからか、増発便をうまく用意していたからかはっきりしま
せんが、私は三菱バスのほうを主によく利用していました(本数が多かったのかな?)。
 大夕張−札幌間の平均所要時間は約2時間だったと思いますが、小学生の私には
大変な長旅で、車中鼻歌を歌ったり、流れる景色をボーっと眺めたりしながら、時
間を潰すのが大変だったことを覚えています。長沼町の休憩の時間だけが、唯一解
放感に浸れる時間でした。
 南部を過ぎて、大夕張ダムを右手に見ながらシューパロ湖に沿って進むと、しば
らくして白金の橋が見えて来ました。明石町を過ぎて、常磐町を眺めながら、千年
町の夕張市役所の支所を見ると、「あぁ、やっと帰ってきた。」と安心したもので
す。
 タバコと排気ガスの匂いに満ちた車中、眺めていたあの懐かしい風景は、やはり
忘れることができませんね。

(131)夕鉄バスの記憶  投稿者:乗田 功一  投稿日:04月05日(日)01時44分59秒

夕鉄バスで思い出しましたが、子供の頃、冒険心を起こし親に内緒で一人で夕張へ
行ったことがあります。

当然お金もないので、清水沢までは汽車で(当時、回数券が会社より支給されていた
のでタダで乗車できました)行き、そこからバスに乗り換え夕張へ。
適当に町をブラついたあと、帰りは逆のコースをとるべくバスへ乗車しました。
ところが、車内はたいへんな混み様で、汽車に乗り換えるはずの清水沢で下車でき
ません。当時、ワンマンではなく車掌さんがいましたが、大きな声で「降りま〜す」と言
えば降りられたのでしょうが、内気な私はそれもできず、バスは清水沢を発車してしま
いました。
そのバスは大夕張行きだったのですが、清水沢までのお金しか持っていなかった私は
満員の乗客をかきわけ車掌さんの所へ行き、正直に説明しました。
車掌さんは「ダメじゃないの!」と私を叱りましたが「いいから乗ってなさい」と、大夕張
まで乗せてくれました。

その時の少し恐い車掌さんと、今では考えられないあの満員の乗客を乗せたバス。
それが私の記憶にある「夕鉄バス」です。

また、三菱バスと違い、夕鉄バスは空気バネを使っているので妙にフワフワした乗り
心地であると言われていて、車酔いしやすかったように思います。

(130)夕鉄バス 投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月04日(土)14時02分40秒

あの赤いラインの入った夕鉄バスも大夕張からお別れなのですね。
三菱バスと夕鉄バス。大夕張から出かける時はよく利用しました。
当時の印象では,夕鉄の方が時間がかかるけどゆっくり安全運転,
三菱バスは,所用時間が短く,結構スピードを出して走る,というように
思っていました。もちろん根拠のある話ではありませんが・・・・。

平成10年3月 先頭にもどる


(129)31日の大夕張  投稿者:坂井郁夫  投稿日:03月31日(火)19時49分52秒

急遽、休暇を取り、大夕張を訪ねました。

まず、夕鉄バスの夕張行き、大夕張最終便に乗車しました。
見送る人もなく、南部に住む方がただ一人お別れ乗車に
来ていました。自家用車で引き返しまちを眺めました。
訪ねる度に家が少なくなっていました。
児童館の前庭には、残雪の中から顔を出している遊具が寂しそうです。
銭湯の入り口は閉鎖され、雪が積もっていました。
まちのごみステ−ションには、生活の証が沢山積まれていました。
郵便局はすでに営業をやめていました。
診療所、連絡所の前には沢山の車が止まっていて、去る準備なのか
聞くのが怖くそのまま帰ってきました。

『雪が解けると春になる』のは雪国の考え方だと思いますが、
ここでは永遠の眠りにつく合図でしかありません。

(128)一昨日の放送  投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月28日(土)19時51分01秒

NHKの放送,とりあえず報告します。
ご覧になられた方も多いでしょうから,もしつけたしあればよろしくお願いします。

先日の放送は北海道地方で放送されたものとNHKの11(イレブン)特集で放送された
ものは同じ内容でした。
深い雪の中の大夕張,かつての駅前通りと浄水場からの大夕張の姿が映し出されました。
大夕張の現在の世帯数は12だそうです。
24日に行われた鹿島小での卒業式,3人の児童の終業式だったそうです。式で歌われた
校歌は,昨年の6月閉校式で聞いた歌とは違い周囲の大人たちの声ばかり強く響いていま
した。「さようなら・・・みんなにまた会いたいです」と涙をこらえて作文を読み上げる
児童の姿になんともいえない気持ちがしました。最後に残ったこの子達が新しい学校で,
元気に過ごして行くことを願わずにはいられませんでした。
放送はその鹿島小学校に最後の牛乳を届けてきた堀田牛乳店のご主人と奥さんを取り上げ
ていました。堀田さんは栄町商店街の一角にあった牛乳屋さんでした。テレビの中で,
「40年間大夕張で牛乳配達をして,いい人たちにたくさんめぐり合っうことができま
した。財産です。たくさんの思い出をこれから楽しく語れます」と淡々と語る堀田さん夫
妻の姿が印象的でした。さすがに年はとられていましたが,元気そうでした。
炭坑全盛の頃には4000本の牛乳配達をしていたそうです。現在は6軒に配達している
そうです。現在夕張市内に引越し先を探しているとのことでした。

(127)見逃してしまいました  投稿者:市橋 勝  投稿日:03月27日(金)11時25分33秒

 広島でも夜の11:00頃に放送があったようですが、私はすっかり見逃してしまいま
した。
 番組の感想など、また聞かせて下さい。
 ところで、堀田さんというのは、栄町(かな?)辺りにあった堀田商店のことで
すか?

(126)TV放送  投稿者:乗田 功一  投稿日:03月26日(木)12時28分35秒

飯田さんの情報にありましたTV放送ですが、こちら関東地方では夜11:00からの
NHKテレビのニュース内で、「夕張 最後の終業式」という特集コーナーになってい
ます。
同じ内容でしょうか。これは要チェックです。

                     noritax@ba.mbn.or.jp  乗田 功一

(125)北海道地方でTV放送あります  投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月26日(木)10時08分39秒

今朝の新聞で気がついたのですが,今日NHKで大夕張のTV放送があります。
6:10『プリズム北海道』「大夕張最後の卒業式 牛乳配達40年の夫婦の決意」とあり
ましたので,鹿島小の卒業式と,堀田さんのことだと思われます。

(124)栄町にあった理容『フレンド』 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月24日(火)20時38分36秒

 市橋さんの投稿にある床屋さんは『千葉理美容院』でしたでしょうか。そこと親戚か
どうかわかりませんが,栄町の住宅の中に,『リハツパーマ』とかかれた高い建物が目
立つ理容室があって,そこも千葉さんではなかったでしょうか。

私が幼い頃から行っていたのは栄町の幼稚園の隣りにあった『フレンド』という床屋さん
でした。そこの床屋に行って,2,3人が座れるほどの堅い椅子にすわり,少年サンデー
や少年マガジンなどの当時の漫画雑誌を読んみながら待ちました。そして,自分の番がき
たら,いつもはにかみながら,「すそがりにしてください」と小さくつぶやいて,髪を切
ってもらうのでした。
おじさんの毛深くたくましい腕,縮れた髪の毛が印象的でした。そして,ゴムでかみそり
を研ぐシュッシュッという音を聞きながら,なんとなく不安な気持ちで待っていたことを
思い出します。
昨年大夕張に行ったとき,まだ『フレンド』の建物は傾きながらも残っていました。でも
もう人は住んでいないようで,街中にもかかわらず廃屋同然の姿でたっていました。

(123)千年町の理容店の思い出 投稿者:市橋 勝  投稿日:03月22日(日)16時08分28秒

 以前、千年町の商店街についての記憶を「クドクド」と書きましたが、確か千年
町の消防署の道を挟んで向かい側、高田商店よりももう少し東小学校側に、理容店
があったことを思い出しました。同じ建物には、入り口が別れて美容院もありまし
た。千年町にはその理容店以外に床屋がなかったと記憶しています(例によって、
記憶違いかも知れませんが)。
 私は、一時間近くも椅子に座ってなければいけないということに耐えられなくて、
とにかく床屋が嫌いだったのですが、髪が伸びるのが速かったのかどうか、よくそ
の理容店を利用しました。
 床屋が嫌いだった理由はもう一つあって、それは床屋の店員が余り好きじゃなかっ
たからではないかと思います。正確に言えば、好感を持てる床屋の店員を余り見た
ことがなかった、ということでしょうか。

 私の髪の毛は大変硬くて、小さい頃から頭を洗った後によく乾かさないで寝ると、
次の日に髪の毛が逆立っているということが珍しくなかったのですが(「髪の毛が
逆立つ」癖は今でもそうですが)、ある日、例によってその理容店に行ったのです。
入り口を入ると、5台ほどの理髪用の椅子が鏡に向かって並んでいるわけですが、
その一台に座らされて髪の毛を切ってもらいました。
 その時、私の髪の毛を切っていた店員が、もうそろそろ切り終わりそうだという
頃に、
「君の髪の毛は硬いなぁ。切っていると、親指が痛くなるよ。」
と、鏡に映る私の顔を見ながら言ったのです。
 私が苦笑いをしていると、
「床屋泣かせの頭だな。」
と言いました。
 でも、髪の毛が硬いのは私のせいではないわけだし、こちらは料金を払って切っ
てもらっているわけだし、何か非常に嫌な気分になって家に帰ったことを覚えてい
ます。
 そういう幼少体験があったからか、やはり私は今でも床屋は嫌いです。
 閉山した後、その理髪店も大夕張を出ていってしまったと思いますが、それがい
つ頃だったのかという記憶は全くありません。もしかしたら、私が大夕張を離れる
まではあったのかも知れません。
 今では「ほろ苦い」遠い思い出となってしまいました。

(122)習い事  投稿者:片山利明  投稿日:03月20日(金)22時10分55秒

私も富士見町の集会所で習字を習っていました。
そこでは、鹿島小学校と東小学校の子供の交流の場となっていてよく学校対抗で、
裏にあった小さな公園のブランコで、どちらが遠くまで飛べるか競い合ったものでした。
PS:結城さんへ、のりこちゃんとは30年近く音信不通で現住所
はわかりません(東京近郊にいるのは確かです)。叔母に確認をとっています。
本人の了解が得られれば、連絡いたします。
叔母も結城さんのお父上のことを良く覚えていました。
今度、昔話を聞いてみようと思います。
また、のりこちゃんの運動会(鹿島小)の運動会と邦夫おじさん
のお葬式の8ミリフィルムが残っていました。
たくさんの子供たちが道の両脇で叔父を見送っているシーン
がありました。その中に結城さんも写っているかもしれませんね。

(121)小学校の卒業式は確かに制服でした  投稿者:市橋 勝  投稿日:03月18日(水)23時06分26秒

 現在私が住んでいる広島県では、もう桜がちらほら咲き出していますが、夕張は
まだまだ雪の中なのでしょうね。大夕張にいた頃も、5月まで雪が残ってましたか
らね。

 ところで、私達の時も、小学校の卒業式は中学校の制服を着て出席したことを覚
えています。東小学校でも、全校生徒が体育館に集まり、確か用意しておいた椅子
に全員着席して、下級生が「送辞」を起立して「分担し合いながら」読み上げ、そ
の後に卒業生が「答辞」を行う、という段取りだったと思います。
 教室に帰ると、担任の水間テル先生が最後の挨拶をされ、普段は「鬼のように」
怒っていたはずの先生も、さすがにその時は笑顔が涙に変わり、教室の隅々で鼻水
をすする音が聞こえました。
 最後に校舎を出ると、東小学校の正門への道を、在校生がアーチを作って、紙吹
雪で見送ってくれました。

 飯田さんが掲載して下さっている東小学校の写真を見て大変懐かしく思い出しま
した。東小学校の校舎自体は、私が高校生の頃ぐらいに既に取り壊されたのではな
いかと記憶していますが、もう実物がないことをいいことに(?)、私の中で東小
学校の思い出がとても「美化されて」、いつまでの心の中に残っていることと思い
ます。
 大夕張の町が無くなってしまうことは、大変悲しい、つらいことですが、その分
自分の中だけの思い出として「美しく」記憶しておこうと思ってます。
 客観的な「思い出」よりも、主観的な思い出でいいのだと思ってます。

(120)卒業式 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月17日(火)19時52分57秒

今日3月17日は札幌市内の小学校の卒業式でした。
私が鹿島小を卒業したのはもう30年近く前のことになります。
その頃は,体育館のステージを使わなかったと思います。みんな南向きに整列して壁に
向かって座っていました。フロアーで一人一人名前を呼ばれて賞状を受け取り校長先
生の前で右手に持った賞状を高く掲げて席にもどっていたように思います。
普段着でと言われていたにもかかわらず,中学校に進学する学生服姿でほとんどの子供
たちが式にのぞんでいました。
卒業の時期,6年竹組の佐々木マサノ先生のクラスでのお別れ会,新校舎の3階の中央
から2番目の教室でクイズを出し合ったり,当時はやっていたモンキーズのテーマにあ
わせてみんなで楽しく踊りました。帰り道,栄町商店街を歩きながら,いよいよ卒業なん
だ,中学生になるんだという思いを強くしながら下校しました。

これから鹿島小学校は最後の卒業式,そして最後の終業式を迎えるのですね。
あともう僅か・・・。

(119)ならいもの  投稿者:飯田 雅人 投稿日:03月16日(月)20時34分02秒

千年町にあった江端さんの学習塾,そういえば思い出しました。その頃,学習塾に通うと
いえば,みんな『エバタさん』のところではなかったでしょうか。私の同級生だった弥生
町の羽生君や,富士見町の北村君なども通っていたはずです。そのくらい大夕張では『エ
バタさん』といえば,学習塾として有名でした。市橋さんが書かれていたように,なかな
かきびしいという評判だったと思います。『恐怖の50書き』の話を聞いて,なるほどと
思いました。
習いもので思い出したのですが,小学校低学年の頃,そろばんと習字を習いました。両方
とも富士見町の集会所でやっていたと思います。そろばんでは『ねがいましてえわあ・・
・・なり・・・なり』という言葉に,指がぜんぜん動かず,頭が混乱して熱くなっていた
苦い思いや,雪の降るある晩の帰り道,おしっこをしたくてたまらず,雪におしっこで黄
色い字を書いて喜んでいたこと,かばんを剣に見たてて雪の山にきりつけて遊んでいたこ
と,そのような思い出ばかりで,そろばんや習字のなかみについてはほとんど印象がのこ
っていません。月謝を払って習わせてくれた親には申し訳ない話です。
当然,長続きせずそのうちやめてしまいました。
小学校の高学年では,鹿島小学校の横の土手の上にあったカトリック教会に,英語と数学
を習いにいきました。
ここでは,勉強そのものよりも,初めて接する白人の牧師さん,キリスト教のお祈りの時
間,聖書の話など,それらのことが珍しく,印象的なものでした。

千年町の「石井のタカちゃん」は,私の従兄弟でした。昭和40年頃に石井さん一家が札
幌に引っ越すまで,お互いに年齢の近い従兄弟としてよく遊びました。私にも彼にも2才
年下の弟がいて,従兄弟同士4人で千年町の教員住宅付近でよく遊んでいたものです。
結城さんのことを母に話したところお父様のことや院長先生のこと,門脇さんのこと覚え
ていて懐かしそうに話していました。

(118)飯田様の従兄弟は「タカちゃん」?  投稿者:結城雅司  投稿日:03月16日(月)00時03分46秒

飯田様の、メールを見て、千年町時代のことを母に尋ねたところ、飯田様の従兄弟さんは、
ひょっとして「石井のタカちゃん」ではないでしょうか?
残念ながら、タカちゃんの写真はありませんでしたが、おぼろげながらいっしょに遊んだ記憶があります。
昭和34〜36年当時、千年町の教員住宅いた同年代の友人の記憶は、現在、写真からしか
たどるより手だてがありません。大泉ひとしさん・湯浅すみとさん・大滝かおるちゃん・河井ゆうこちゃん。
心あたりのある方がいらっしゃいましたら、ご連絡してください。
 片山利明様、片山のりこさんの消息をご存知であれば、ご一報お願いいたします。
 また、昭和34年前後、鹿島東小学校にて教員をしていました、私の父「結城淳二」をご存知の方は、
ご連絡ください。よろしくお願いします。
 母に、飯田様のHPの話をしたところ、飯田様のお父上のことをよく存じていたとのことです。

(117)山内さんは、確か左官屋さんでした 投稿者:市橋 勝  投稿日:03月15日(日)12時31分33秒

 片山さんが紹介されていた山内さんは、確かに斎藤商店の隣にありましたね(斎
藤商店に向かって右隣)。確か左官屋さんだったと思います。私よりも少し年下の
男の子がいた記憶がありますが、確かにとても裕福そうでした(流行のおもちゃな
んかは、すぐ持っていたようなイメージが残ってます)。
 その山内さんと親戚関係にある方で、江端美智子さんという人が同じ千年町(斎
藤商店の向かい側の、千歳湯寄りの民家)で「個人学習塾」を経営されてました。
中学1年生から2年生のはじめにかけて、織田商店(前述した酒屋)の長男の和伸
君や教員宿舎の山崎君なんかと一緒に、英語や数学を学びに行ってました。
 とても厳しい先生で、毎回行われる英単語テストで合格点が取れないと、できな
かった単語一つにつき、50回ずつノートに書いてくるという宿題を課されました。
つまり、5つも書けない単語があると、各50回ずつ合計250回も単語を書かされる
ことになるのです。しかも、その宿題をサボると、確か次回までにその分が加算さ
れて「倍増」(つまり100回)されるわけです(要するに、「英語版ねずみ講」と
いう感じです)。私達はそれを「恐怖の50書き!」などと呼んで「恐れて」いたも
のです。この「50書き」に「陥る」と、友達同士でよく冷やかし合ってました。
 私もこの「50書き」のために、たちまちノート一冊を使い果たしましたから、塾
に行くようになってから急にノートを何冊も買うようになったことを覚えてます。
 私達は陰で江端先生のことを、「エバタ」に引っかけて「エババ」などと呼んで
茶化してました(失礼ながら、当時江端先生は既に若くはなかった)。でも、私達
のことをとても可愛がってくれましたので、中学校を卒業してからも何回か江端先
生の所を訪ねました。その度事に、千年町が少しずつ寂れている感じがしたもので
す。現在、彼女は札幌に住んでいて、今でも年賀状のやり取りは続けています。
 思い起こせば、当時その塾には栄町や春日町方面からも生徒が来ていて、もちろ
ん勉強も「させられ」ましたが、その塾は学校以外での重要な情報交換の場になっ
ていました。クラブ活動の話や宿題の話、それに、○○さんが××君のことを好き
なようだという類の恋愛話など、今考えるととても微笑ましく思います。
 当時、大夕張駅前の日本通運の内藤君や、化粧品店か何かの浅野商店(だったか
な?)の浅野さんという方々も、その塾に通ってました。

 習い事と言えば、小学生の頃書道やそろばんなんかも習ってました。なんか結構
習い事をしてたんだなぁ、とつくづく思いますが、どれ一つ長続きはしませんでし
た。書道は、確か宝町の公民館かどこかで書道教室をやっていたと思います(先生
の名前はもうすっかり忘れましたけど)。お手本を見ながら書いて持っていくと、
先生が朱色の墨汁で訂正してくれるんですが、これがとても上手に「見える」です
よね、小学生の私には(もちろん、実際上手だったのだと思います)。それで、「
もしかしたら、朱色の墨汁で書くとうまく書けるのかも知れない」などと考えて、
母に買ってくれるようねだって、叱られた記憶があります。結局、「安い筆じゃい
くら練習してもうまくならない」などと道具のせいにして、止めてしまいました。
 そろばん塾は、確か錦町(?)のお寺で開かれてました。先生がお坊さんだった
んですよね。宗派は浄土宗か浄土真宗だったのでしょうか?それはともかく、お経
を読むように「ねがいましてぇ〜はぁ〜」とやるんですが、これが不思議と聞きや
すい声なんですよね。あのお坊さん独特のつぶれた声が。
 計算テストか何かの時に、静まり返った教室でパチパチとそろばんの珠をはじく
音が響いているところに、そのお坊さんの娘さんなのだと思いますが(いや、でも
息子さんだったのかも知れない、女性であることを確かめたわけじゃないですから)、
彼女が練習しているピアノの音が、夏に開け放した窓から流れてきたことが妙に頭
に残ってます。要するに、私は集中してそろばんをやっていなかったんですよね。
「この曲を弾いている人はどんな人なんだろう。」などと考えていたのでしょうね、
きっと。それで、結局これも長続きしませんでした。
 また、千年町の営林署官舎では、確かピアノ教室なんかもあったと思います。小
学生に上がる前だったと思うのですが、これは一回行って辞めてしまいました。練
習時間の最中に小便がしたくなり、ピアノどころじゃなくなってしまったのです。
先生に言えばいいんですよね。でも、何を恥ずかしがったのか、言えなくて我慢し
たまま練習を終え、母に「もう絶対に行きたくない」とわがままを言って辞めたん
たと思います。ピアノの練習をしに行っているんだか、我慢大会をしに行っている
んだか分からなくなるのが、嫌だったんでしょうね。

 ごめんなさい。また調子に乗ってつまらない話を長く書き過ぎました。

(116)営林署官舎 投稿者:片山利明  投稿日:03月14日(土)14時55分16秒

大沢さんの住んでいた官舎と同じところに私も住んでいました
たしか、斎藤商店と官舎の間に山内さんという家があったと思います。とてもお金もちで、
最新のおもちゃ『光線銃SP』やスパイ手帳などを誰よりも早く持っていてとてもうらやましかったです。
私はS38年生まれで、幼稚園から小3まで大夕張に
住んでいましたのでもしかしたら大沢さんともいっしょに遊んでいたかもしれませんね。
営林署官舎は、営林署の近くと、東小学校側の2個所にわかれていました。
私はその両方ともすんでいましたが、小学校に近い方の官舎には、古タイヤをならべた小さい公園が
あって、児童公園にいやな上級生や恐いおじさんたちが野球をしているときは、そこで官舎の
友達と遊んでいました。
みなさんのメールを読んでいると、当時の記憶が鮮やかによみがえったり、全然記憶違いだったり
することに気づきます。
もしも大夕張の地図があれば、自分の家や思い出の場所をプロットして、情報交換ができるかも
しれないですね。
(飯田さんが大変な苦労をされると思いますので、これはやめ
にしましょう)

PS:飯田さんへ、何度かこのHPに参加させていただいているのに、まだ挨拶をしていませ
んでした。すいません・・・・・・
飯田さんのHPを、仕事につかれた時など、会社のPCで3日に1度は開いています。
すばらしいHPをありがとうございます。

(115)笠原さんの隣人でした 投稿者:市橋 勝  投稿日:03月10日(火)12時18分24秒

 大沢さんのご指摘の通り、私は笠原さんの隣人でした。
 笠原さんの家には、確か佳美さんという長女(私と同級生でした)がおり、そ
の弟に、圭史君(漢字はこうだったかな?)がいました。私は一人っ子だったの
で、よく圭史君を弟分のように連れ回し、悪戯をしては近所に迷惑をかけていた
と思います。
 「女はお喋りだから、駄目なんだ」などと言いながら、彼を「味方」につけて
悪いことばかりしていましたから、笠原さんのお母さんや佳美さんにはあまりよ
く思われていなかったのではないかと思います。
 私は中学校2年の時に鹿島を離れましたので、もう彼とも20年ほど会っていな
いことになります。私の従兄弟(当時、岳富町の自転車屋の息子 武田昌哉)が
高校生の時に、笠原圭史君とは友達だったようですから、元気にしていることを
噂では伺ってました。
 
 営林署の官舎には、阿部智哉君という友人がいました。小学校の時には彼の家
などにも行きよく遊んでいましたが、中学校以降はそれほど親しくはなりません
でした。でも、今から思えば、高校生の時まで一緒だったんですよね。彼は大変
野球の上手な子でしたが、高校に入ってからは野球はしてなかったと思います。

 それから、千年町の「少年消防」は、私も参加してました。「火の用心、カチ
カチ、マッチ一本火事のもと、カチカチ」と、拍子木を鳴らしながら練り歩くん
ですよね。確か、小林さんというオジサンが住み込みの消防隊員でした。
 息子さん(名前は失念しました)もいましたが、彼は私よりも確か一つ年上の
先輩で、バレーボールをずっとやっていたと思います。とても上手だったと思い
ますが、高校生の時(彼も同じ北高でした)、何かのことで因縁を付けられた記
憶があり、彼にはあまりいい印象を持っていないことを思い出しました。

 それはともかく、児童公園での野球は確かに「やわ球」(なんて懐かしい響き!)
でやってましたね。でも、近くの民家の窓ガラスを割ったこともありましたから、
いつも「やわ球」ばかりでやっていたわけではないのだろうと思います。

(114)子供の頃の想い出  投稿者:大沢直之 投稿日:03月10日(火)01時27分51秒

久しぶりにHP見ました。私は昭和40年生まれですが、皆さんの
投稿を読んで大夕張の街並みが、頭に浮かびます。
話は変わりますが、市橋さんは確か笠原君の家の隣ではなかったでしょうか?
私の家は、斉藤商店の隣の営林署官舎だったので笠原君の家には、よく遊びに行きました。
それと、高田商店の隣の呉服屋 兼 文房具屋は、確か「菅原商店」じゃなかったでしょうか?
(これはあまり自信がありませんが)
三吉神社の横の遊園地(僕らは「新しい遊園地」と言っていましたが)では、
毎日のように野球(やわ球を使って)をやった想い出があります。ホームランの
柵まで、その当時は随分遠く感じましたが今思うと30メートルもなかったんでしょうねきっと。
それと、千年町には「少年消防」というものがあって毎日夕方 鐘を鳴らしながら
町中をみんなで練り歩きました。
栄町の伊藤おもちゃ屋の息子が私の友達なのですが、年明けの一月にやっと札幌
に引っ越してきました。もう大夕張に住んでる人はほとんどいないんでしょうね。

(113)「ばくだん」食べました。  投稿者:市橋 勝  投稿日:03月08日(日)20時15分14秒

 飯田さんがおっしゃられていた「ばくだん」は、私も食べました。要するに、お
米のポップコーンなんですよね。
 私の記憶では、もう斎藤商店ではばくだんを作ってなかったと思いますが、袋入
りのお菓子として売っていたと思います(今でも、スーパーなんかにありますよね。)
お米を破裂させただけなのに、「何で甘くて美味しいんだろう」って不思議に思っ
ていたものです。
 
 あの銭湯は、「千歳湯」でおそらくいいのだろうと思います。あの辺りに銭湯は
一軒しかありませんでしたから。タイル貼りの銭湯は、私にとってとても美しく思
えました。炭坑の大衆浴場は、コンクリートでできていて、お湯も真っ黒で汚かっ
たですから。
 それから児童公園は、確かに三吉神社(その名前さえ忘れていましたが)の隣り
に位置してました。近道としても「利用」されていたんですよね、あの公園は。斜
めに通り過ぎて、宝町を抜けて、岳富町の道に出るのにはちょうど良かったんです
よね。
 三吉神社では、盆踊りの時に櫓を建てて、太鼓を叩いて、地元の人達が大勢踊り
に来ました。所商店の長男が、とても上手で、私も教えてもらいました。それで、
櫓の上で太鼓を叩かせてもらいました。調子に乗って叩いていると、だんだんテン
ポが速くなってしまって、「こらぁ、はやいぞぉ!」と踊っている人達からよく注
意されたものです。

 それから、千年町の教員住宅は私の家の近くで、友達の山崎君(御両親とも先生
でした)の家によく遊びに行きました。榊原さんというちょっと年上の先輩の家も
あり、その先輩が理科の実験工作が得意で、当時自転車にウィンカー付きのものが
流行る前に、自分で電池とランプを取り付けてチカチカ光らせていたと思います。
「凄い人だなぁ」と妙に感心していた記憶がありますから。

 懐かしくて、思わずまた長々と書いてしまいました。

(112)投稿を読んで 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月08日(日)17時54分03秒

私は札幌に住んでいたため大人になってからしばしば大夕張に行っていました。結城さ
んが書いていたように,記憶と現実を結び付けるものがあまりにも失われていてしまっ
ていて,どこで時を過ごせばよいのかいつも落ち着きませんでした。行く前はとても行
きたい気持ちが強かったにもかかわらず,いつも早々と大夕張を後にしていました。
記憶の中の大夕張はあるはずないことはわかっているのに,それでも2.3年に一回は
必ず大夕張に足が向いてしまいました。
いつも美しい夕張岳,鹿島小と細々と残る栄町商店街,周囲の山とシューパロ川。
それらがあることを確かめては,それに満足して帰ってきていたように思います。
早坂さんが訪ねられたという昭和49年当時は閉山直後とはいえ,きっとまだにぎわいを
残していたのでしょうね。住宅なんかも・・・。

富士見町にあったクラブ,芝生の中に確か池があって,浮き草がいっぱいありました。
とても美しく整備されていた庭で,夏,シオカラトンボがよく飛んできたことを覚えて
います。また,クラブの門の前に公園があって,夏休みにはそこでラジオ体操を行って
いました。その公園の南側に門脇さんの家があったと思います。
私が小学56年の頃でしょうか,火災がおこり,親とかけつけました。
真っ暗な夜空に大きく燃え盛る真っ赤な炎を親と共に不安な気持ちで見上げていた記憶
がはっきり残っています。

千年町の教員住宅も私の親戚の石井さんが住んでいて2才違いのいとことよく遊びまし
た。周囲には花壇や畑があって狭いながらも土地が有効に利用されていたと思います。
父の入院中ここで過ごしていたこともあるので,このあたりは私にとっても印象深いで
す。

市橋さんの書かれた千年町の商店街や朝日荘のあたり,今後HPの方に載せるとき商店
街の地図も入れていきたいと思っています。
銭湯の名前ですが,手元の地図では千歳湯というのがありました。そこでないでしょうか。
児童公園は,三吉神社の隣の公園ですよね。よく中学の頃友達と下校途中に立ち寄り遊
んでいました。夏は遊具,冬はプロレスの真似をして格闘して遊びながらぶらぶらと帰
っていました。
これは斉藤商店だったかわからないのですが,教員住宅の親戚の家では,店屋さんに米
を持っていって「ばくだん」というお菓子を作ってもらっていました。遊びに行った時
それを食べるのがとても楽しみでした。

みなさんの投稿を読んでいるといろんなことが頭の中に浮かんできました。

(111)千年町の商店街  投稿者:市橋 勝  投稿日:03月08日(日)15時59分40秒

 私が住んでいた千年町は、東西に伸びたバス通りに沿って結構多くの店があった
ように思います。
 まず、千年町郵便局の近くにあった織田商店は酒屋さんでしたが、その長男が私
の親友だったのでよく遊びに行きました。大きな家だったんですよね、私から見れ
ば。当時、二階にいくつもの部屋のある家なんて、とても裕福だったと思います。
 道を東小学校のほうに下っていくと、双葉食堂とか言う小さな食堂が左手にあり、
宝町のほうに行く道の角には文房具屋兼呉服屋(なんていう名前だったか忘れまし
た)がありました。三菱のユニボールとかいうオマケのまん丸消しゴムがほしくて、
鉛筆を一ダース母に買ってもらった記憶があります。
 また、右手の千年町消防署の道を挟んで向かい側辺りには高田商店という駄菓子
屋がありました。そこのお爺さんがとっても優しい人で、あんまり「商売気」のな
い人だったんですよね。そこのプラモデルが結構充実していて、正月や誕生日の時
など、よく利用しました。
 更に下ると、確か喜多野屋とかいう食堂が左手にあり、何軒か食堂が並んでいた
ように思います。喜多野屋の醤油ラーメンが美味しかったんですよね。海苔、卵焼
き、焼豚、なるとなんかが入っていて、盛りだくさんでした。あんなラーメン、今
時見かけません。
 もう少し下ると、以前話題になった所商店があり、道を挟んで左の道の向こうに
は児童公園があり、所商店の近くを右に折れると銭湯がありました。(なんていう
名前だったかなぁ?)
 児童公園では、殆ど毎日のようにミニ野球を友人達としてました。確か、「三角
ベース」とかって言って、セカンド抜きのダイヤモンドなんですよね。公園も狭い
から、すぐフェンス越えのホームランが出るんです。そのため、よく近くの民家の
窓ガラスを割っては怒られていました。でも、東小学校のグランドまで行ってしな
いんですよね、あんまり。おそらく、その児童公園のロケーションが良かったから
だろうと思います。千年町だけでなく、宝町や錦町の子供達が集まるのにちょうど
いい場所にあったんです。
 それから、銭湯もよく利用しました。冬なんて、頭を洗って帰るときにしっかり
とバスタオルで巻いて帰らないと、髪の毛がカチンカチンになり、レゲエの歌手の
ようになるんですよね。バスタオルで頬っかむりをして帰る姿は、今考えるととて
も怪しいものがありますね。
 所商店からまっすぐ東小学校のほうに進むと、長屋などの民家が暫く続き、左手
に斎藤商店という八百屋がありました。そこから先は食料品を売っている店がもう
なかったので(常磐町まで行くしかなかったので)、私を含めた東小学校付近の住
人はよく利用させてもらった店のはずです。
 牛乳や食パン、豆腐や魚、それにお菓子だけでなく、ノートをはじめとした文房
具なんかも置いていて、文字通り八百屋さんでしたね。小さい頃、欲しい物を買い
掛け(ツケ)で買って、後からひどく両親に怒られた記憶があります。

 なんだか長々と書いてしまいましたが、これらの商店は子供の私にとっては大変
バラエティに富んだものとして映っており、それほど大きな町ではなかったと思う
のですが、歩いて行くととても距離が遠かったように感じたものです。
歩いていて楽しくなる、とまでは行きませんでしたが、私達の身の丈に合ったとて
も身近な感じがする町として、今でも活き活きとその思い出が蘇ってきます。

(110)「大夕張」懐かしい。  投稿者:結城雅司  投稿日:03月07日(土)00時07分01秒

はじめまして。
神奈川県川崎市に在住しています。
昭和34年1月大夕張千年にて生を受け3歳まで居住しておりました。
その後、夕張市旭町、札幌市、東京都をへて、現在に至っております。
たまたま、道内のHPを見ていましたら、飯田様の「大夕張」HPを見つけ、
拝見したところです。
数々の写真・メール等を拝見し、懐かしさと感激、それと故郷の未来に対する
悲しみがこみあげているところです。
さて、私の父 (結城淳二)は、私が生まれた昭和34年当時、鹿島東小学校の
教員をしておりました。
父は、掲示板に掲載されておりました片山先生とは大変親交が深かった様で、
公私共に親しい関係であったと記憶しております。
片山先生の事故直後、父と共に夕張市立病院にお見舞いに行き、不幸にも
お命の終焉に居合わせてしまったこと、父の涙を初めて見たことをはっきりと記憶しております。
片山先生のお嬢様の「のりこ」さんとは、夕張私立第一小学校時代同級生でした。
飯田様のお父上が、炭坑病院に勤務されていたそうですが、私の祖父は当時、
病院長をしていたときいています。(杉本敞一)
また、母方の親戚では富士見町に居住していた叔父家族がいました。(門脇宗男)
叔父の家は、「クラブ」と呼ばれていた施設の前の住宅で、しょっちゅう遊びに行っておりました。
従兄弟といっしょに禁断の地であった「クラブ」の芝生に入り込み子供ながらにひとときの
スリルを体験した記憶があります。
その叔父の家も火事に遭遇し焼失してしまいました。
その他親戚は皆、三菱関係でしたので多数大夕張での生活をおくっていたようです。
数年まえ、父母、東京生まれの妻、それと長男を連れ、私の故郷「大夕張」を見に行ってきました。
鹿島東小学校の向かいにあった私の生家である「教員ブロック住宅」は、ぼろぼろの
廃屋となってその姿をとどめておりました。
幼い時の記憶と現実とのギャップは、表現しきれない感情となり、内部にまで入り様子を
確認したいという思いを萎えさせてしまいました。
カラオケで「少年時代」を歌うたび、頭に大夕張を描いていましたが、まさか「大夕張」が
ダムの底に沈むとは考えられませんでした。
今でも夢に出てくる「大夕張」は、夢のまま湖底に沈んだほうがいいのかもしれません。
都会生まれの妻を連れていった時、「こんな田舎は、テレビの中だけかと思ってた。」と、
のたまいました。ムカッときましたが、でも本心なんだと思います。
悲しいさみしい未来の「大夕張」ですが、故郷をもっている私は幸せですね。
都会暮らしをしている現在、しみじみ感じる今日このごろです。
「地図に載る仕事」によって、「地図から消える街」がある皮肉は、やるせないおもいです。
このHP、「大夕張」が地図から消えても、「ずーと」続けてください。
お願いします。
明日、子供に「航空写真」を見せようと思います。「ここが、パパの生まれた家だよ。」て。

(109)化石クラブ 投稿者:市橋 勝  投稿日:03月06日(金)09時46分26秒

 今思えば、鹿島東小学校には「化石クラブ」という文化系のクラブがありました。
私は加入していませんでしたが、日頃から友人達と自転車で白金の沢まで行き、アン
モナイトなどの化石をよく拾ってきていたので、割と化石蒐集というのは当時の小学
生の「流行」だったのだと思います。
 あの頃、化石などはその辺にごろごろしていたので、ちっとも珍しいものだなんて
思ってませんでしたが、今から考えると、夕張はやはり化石の宝庫だったのだなぁと
思います。
 アンモナイトやトンボ、竹の化石なども持ってましたから、実にもったいない気が
しています。

(108)大夕張の想い出 投稿者:早坂治敏  投稿日:03月05日(木)12時46分01秒

初めて投稿させていただきます。
自己紹介:昭和26年に生まれて、ずーっと弥生町に住んでました。
鹿島小学校に昭和33年度入学。昭和38年度卒業。
鹿島中学校に昭和39年度入学。父の転居で昭和39年10月17日
に大夕張を離れる。
以上が、私が生まれて13年余過ごした大夕張時代です。
小学校時代の恩師の名前は今も記憶しています。
昭和33年度1年桜組:担任 相沢千賀子先生
昭和34年度2年桜組:担任 相沢千賀子先生
昭和35年度3年梅組:担任 太田美子先生
昭和36年度4年桜組:担任 丸山浩二先生
昭和37年度5年桜組:担任 伊藤義雄先生
昭和38年度6年桜組:担任 堀田 正 先生
以上のとおりですが、昭和33年度は新校舎の建築のため、授業
は、午前と午後のいわゆる2部授業でした。私自身は午後の授業
のほうが、早起きしなくてすむことと、朝から遊べるので良かった
想い出があります。
昨年来、飯田さんのホームページにアクセスさせていただき、皆さん
の投稿記事を拝見させていただいてきましたが、懐かしい名称が出て
おり、子供の頃の記憶が鮮明に蘇えってきました。夕張岳は高山植物
で有名ですね。私は小学校時代に2回登りました。
官行という名称も懐かしく、官行に住んでいた同級生でジャンプ
の得意な夏見君の名前も思い出しました。
ところで、大夕張を離れてから、1度だけ故郷大夕張に戻ったことがあります。
昭和49年に小学校時代の同級生だった小山修司君と一緒に大夕張を訪れました。
従いまして、爾来24年間、故郷に戻っていないことになります。
私の両親は現在も北海道に在住しており、大夕張がダムの底に沈むという
情報(読売新聞の道内版の記事)を送ってくれました。
久しぶりに大夕張の想い出に浸ってみました。又、機会を見て投稿させて頂きたい
と思います。今回はこれにて失礼します。

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(107)850の思い出 投稿者:斎藤敏幸  投稿日:02月27日(金)17時58分42秒

850へは、冬スキーを履きながら父によく連れられて行きました。

富士見町のスキー場から、大夕張神社まで登り切り、浄水場の
横を通り抜け、沢伝いに少し下り、後は平坦な道をスキーで滑り
ます。その後は、だんだん急な上りになります。
登り切ったあたりから、遠くに3本の大きな杉の木が見えてきます。
その木の向こうに、850があったと思います。

そこには、山小屋があり、一時期冬期間管理人のおじいさんがい
たことを覚えています。
山小屋には、大きな薪ストーブがありました。
一度火事で焼失したことがありましたが、その後また山小屋が建
てられました。多分、三菱の福利厚生施設ではなかったのかと思
います。

昨年、大夕張を尋ねた時、スキー場のロープ塔はまだありました
が、850の山小屋は、今も老朽化しながらも、建っているのでしょ
うか。

 この季節、子供とスキー場へ行くと、富士見町のロープ塔と
850の山小屋を思い出します。

(106)八百五十  投稿者:小笠原 憲  投稿日:02月27日(金)16時47分10秒

お久しぶりです。
遠い昔の記憶によると(昭和35,6年)、八百五十は鹿島小の横の沢を
どんどん登っていって、更に山に登って・・というようなところでした。
鹿島小の冬のスキー遠足は一日がかりでこの八百五十に行く、というもの
でした。
勿論、歩くスキー用の板なんかじゃありませんから、結構しんどかったで
すね。でも広いゲレンデらしきところにたどり着いて食べたおにぎりは美
味しかったなあ。
”はあーっぴゃくうごじゅううのお(あとは忘れました)”というような
歌詞の音頭風の歌もあったように覚えています。
もうすぐ3月ですが、人のいない鹿島はまだ雪に埋もれているのでしょう
ね。

(105)850  投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月24日(火)21時49分20秒

岡本さんの投稿にもふれられていますが,850という山がありました。
鹿島小学校の裏の方にあった山だと思います。850という名は当時からいつも耳にし
たり口にしていました。私は大夕張神社のある山だとずっと思っていました。
ところが,最近どうやら違うらしいことに気がついたのです。

そこで遊んだり,あるいは登ったりした方がおられますか。
どんなところだったのでしょうか。沢遊びができたらしいです。確か鹿島小の裏のあた
りからも沢伝いに山に入ることができたようにも思いますが・・・。

(104)懐かしいですね。  投稿者:斎藤敏幸  投稿日:02月23日(月)19時56分55秒

 目黒さんの投稿を読んで、官行の呼び名が初音沢であることを
初めて知りました。大夕張には、18年間住んでいましたが、初音
沢という地区名は知りませんでした。
 初音沢には沢山同級生がいました。白鳥君、峰岸さん、それと多
分目黒さんのお兄さんとも同級生であったと思います。
 こうして、身近で関わりのあった人たちと再会できるのは、とても
うれしいですね。
 これからも、懐かしい色んな人たちと出会うのが楽しみです。
 これからも、飯田さんのH.Pを通じて沢山の懐かしい人たちと再会したいですね。

(103)初音沢地区について  投稿者:目黒則男  投稿日:02月23日(月)00時42分53秒

最初に、2月21日の私の投稿が、手違いによりダブってしまったことを
お詫びします。
飯田さんの指摘があったように、官行=初音沢(はつねざわ)です。
我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていた
ようです。
チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたり
を初音沢(官行)と呼んでいました。
私の父が炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に
住んでいました。通学には大変苦労した記憶があります。
大雪の日には朝早くおきて、腰まで雪につかって歩いていった思い出が今でも
忘れられません。
山や川で遊んだ子供の頃のことが今でもときどき走馬燈のように私の頭の中を
駆けめぐっていきます。
もう二度といけない場所とわっかているだけに、よけい走馬燈の光も強く感じ
ます。

(102)初音沢  投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月22日(日)18時03分03秒

初音沢地区(はつねさわ?)というと,ぼた山や発電所などがあったほうでしょうか。
官行(かんこう)とは違うのでしょうか。どのあたりをいったのでしょう。
確か鹿島小学校の郷土室の写真のキャプションには,チップ工場やその他にも工場が
あったと書かれていました。
私の父は昭和47年1月に46歳で炭坑病院でなくなりました。
私にとって父との別れが大夕張との完全な別れになりました。
その父が,独身の頃写した写真をよく見るのですが炭坑病院の裏手のほうにあった吊
り橋や,吊り橋をわたったところののどかな山の風景が写っています。
いまとなってはどこの場所なのかわからないのですが,病院裏の吊り橋をわたって,
昼休みによく職員で遊びに行ったというのです。
私の記憶の中でも父が若い頃いったというその場所も思いあたりません。

私は生れてから15年大夕張で過ごしたのですが,故郷のことを意外に知らないでいたと
いうことを今になって思い知らされます。

(101)大夕張への想い  投稿者:目黒則男  投稿日:02月21日(土)23時58分12秒

昨年6月、父の病気のお見舞いのため、静岡から札幌の実家を訪れました。
そのおりに母から、「鹿島小学校が廃校になるみたいだよ。」と聞かされた。
続けて、「大きなダムができて大夕張が沈むみたいだよ。」の言葉に一瞬
なんのことか、すぐには理解できませんでした。私が18歳の頃大夕張から
札幌へ引っ越したのですが、望郷の念は40歳を過ぎた現在でも少しも
色あせていません。
若い頃は帰省の度に大夕張へ足を向けていました。
明石駅、千歳駅、岳富町商店街の通り、鹿島小学校、大夕張駅前、購買会など
が並ぶ商店街、炭鉱病院、炭山駅、の順番でとおり、メタノール工場を右手
にみて、さらにシュウパロ川?沿いの山道を2キロほど行くと、生まれ育った
初音沢地区に到着というのが、その頃のお決まりのコースでした。
5年ほど前に家族を連れて訪れたのが最後で、その時はメタノール工場より
先は通行止めでした。
今度は大夕張全部が通行止めになるんですね。
そんな想いをいだきながら、昨年の8月頃「ダメもと」のつもりで検索ソフト
にて『大夕張』を入力してみて飯田さんのホームページが現れた時は
ものすごく感動しました。
父はその後、9月に他界しました。病院のベッドの上でよく、「もう一度
大夕張をみてみたいなあ。」と言っていました。父にとって、大夕張へは25
年間行ってないことになるんだなあと、複雑な想いをいだきました。
飯田さん、これからも大夕張出身者の架け橋となって頑張ってください。

(100)なつかしい名前  投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月21日(土)00時23分53秒

名前を見て,すぐ顔を思い出していました。
のりやす君。しまもり君。・・・言葉の響きだけでなつかしさを感じてしまいます。
打矢君は鹿島中で生徒会の仕事をしていたなぁ。有名な木村俊之(?)君は,中学
で同じクラスで,野球を始め陸上大会やスポーツで大活躍をしていました。
ふるさとへの思いは,暮らした年月の長さではなく,一つ一つの思い出の濃さにあり
ますよね。

「炭坑病院前」の写真ですが,当時,踏み切り近くにブロック住宅があり,その前で
とったものです。そこに若林さんという家族がすんでいて,そこの娘さんにかわいがっ
てもらいました。家の中や外でよく遊んでもらいました。家が近かったこともあり,
しょっちゅう訪ねていきました。10歳近く年も離れていたのですが,とてもやさしい
お姉さんという印象が強く残っています。

鹿島小学校の旧校舎のトイレは学校の東側の坂の下にあって,たしか長い階段をおりて
いかなくてはならなかったと思います。「トイレの下には,骨が埋まっている」などと
いう噂や,「奥から2番目のトイレにおばけがでる」みたいな話をずいぶん気にしていた
と思います。おばけはやっぱり「便器の下から手が出てくる」というものでした。
古くて寒いトイレで,私が卒業する頃にはすでに取り壊されてしまったような気がしま
す。

(99)飯田雅人 様へ  投稿者:岡本雅志  投稿日:02月20日(金)14時19分09秒

飯田さんは私の1学年上ですね。一級上の方たちとも大いに遊びました。
佐々木先生はたしか竹組の担任ではなかったですか。
高橋ノリヤス君やデブの島守君などがいたと思います。
飯田さんと同級の方たちは知っている人は大勢います。
なぜか桜組のひとが多く不思議です。
北構君(ガマさん)、打矢雅則君、スキーのうまかった馬淵君、池本君(チンパン)
梅組(確か掘田先生の担任)の高木公彦君、松組の有名な木村君ナドナドです
私はとにかく小学校6年までしかいませんでしたが大夕張をなめ尽くした
と自負しています(あまり自慢にはなりませんが)
心残りは、850と夕張岳に登らなかったことです
大夕張へは引っ越した2年後の昭和45年(中学2年)と閉山後の昭和
51年に行って以来、訪問していません。
今年の7月に会社の創立記念にて札幌へ行く予定ですので、
時間があれば無人の大夕張へ行ってみたいと思っています
ところで飯田さんの父上はカメラがご趣味と書かれていましたね
写真館の<夕張岳>や山の景色などはすばらしい作品と思います
中でもベストは病院前の母子のショットです
飯田さんご本人の写真でしょうか?
なぜか心に残る一枚です
今日はビジネスでむしゃくしゃしましたのでまたホームページを開いて
心を落ち着かせていただきました
それではまた・・・・失礼します

(98)千年町の火葬場は記憶にありませんでした  投稿者:市橋 勝 投稿日:02月20日(金)13時31分44秒

 千年町の火葬場のことが話題になってましたが、私は殆ど覚えていませんでした。
ただ、藤本医院にはよくお世話になりました。小さい頃は病弱だったので、しょっ
ちゅう風邪をひいては藤本医院に行き、注射をうってもらったことを覚えています。
閉山したあと、藤本医院は大夕張から出ていってしまったので、南部の金子医院(
だったかな?)まで、バスで通いました。
 ところで、鹿島東小学校でも、怖い話が結構多かったです。よく肝試しをしまし
た。小学校の怖い話と言えば、大抵便所に関係する話なのですが、今は大変珍しい
くみ取り式の便所でしたから「便器の下から手が出てきて、お尻を撫でる」という
類の話が定番でしたね。私は怖くて学校で大便ができませんでした(恥ずかしい)。
友達も尿意をこらえて、お腹が痛くなり、我慢しきれずにズボンに漏らしてしまっ
たということもありました。
 汚い話で済みませんでした。

(97)思い出します  投稿者:飯田 雅人  投稿日:02月20日(金)00時09分48秒

こんばんは。
私は昭和31年3月31日生まれなので,小学校では岡本さんの一年上になりますね。
あの鹿島小の校舎の中で,同じ時代に学んでいた方とここでこうしてお会いでき
るのが,とても不思議で楽しいです。
代々木アパートというと,小学生の頃,弥生町に羽生君,阿部君という友達が住
んでいて代々木アパートや弥生町詰め所のあたりの空き地で遊んでいました。
私の担任は,1.2年生は沖喜久恵先生,3年は河井先生,4.5.6年生は,
佐々木マサノ先生(産休 小林美和子先生)でした。
官行には昨夏三笠の方から入ってみました。娘に本当の川の流れ,河原の様子を見
せたくて連れて行きました。蛇行した清流,大きい石がころがる広い河原,河原に
転がる流木,ここだけは昔の大夕張の官行のままでした。
父や弟とともに,うぐいやふなをすくった楽しい思い出が今でも記憶にあります。

(96)故郷  投稿者:岡本雅志 投稿日:02月18日(水)09時58分19秒

昭和43年8月9日私の誕生日に大夕張駅前のメインストリートを出て東京へ引っ越しました。
私は小学校6年の夏休みまでしか大夕張にはいませんでしたが、私の兄、姉は皆、
鹿島小学校→鹿島中学校を卒業しています。
当ホームページに寄稿されている小林光志氏の紹介で大夕張のホームページの存在を知りました。
今、最大の関心事は昔朝から晩まで昼食も取らずに一緒に遊んだ皆はどうしているかということです。
このホームページを見てくれた旧友がいれば返事を寄稿してください。
私が住んでいたのは代々木アパートの一号館4Fです。よく三番方の親父さんたちに
眠りをじゃまされたとのことで大いにしかられました。今考えてみると親父さんたちは
命がけの仕事のために大切な睡眠をとっていたのですね。
ちなみに私の生年月日は昭和31年8月9日、小学校1、2年は奥井先生、3年はお寺の浜出先生、
4,5,6年は小山清先生でした。皆よく教育して下さいましてありがとうございました(殴られた記憶しか
残っていませんが、特に浜出先生の怒った顔は怖かった)。
もう一度、かんこうへ行ってジンギスカン鍋を食べたいと思います。
私はとにかく野球ばかりやっていましたので覚えいる人もいるかと思います。
昨年このホームページに寄稿されている西村武広君はたぶん昔野球を一緒に行った仲間だと思いますが如何
それではまた

(95)火葬場  投稿者:飯田 雅人 投稿日:02月17日(火)21時20分57秒

1月末より体調不良とパソコン不調の為,しばらくHPの更新できませんでした。
ほぼ復旧しました。(体もパソコンも)
でも昨年秋から今年の1月末までにいただいた皆さんからのメールの一部が失われてし
まったのが,なにより残念でたまりません・・・・。

千歳町の火葬場,人の顔の噂をはじめ,恐い話はけっこうありましたね。
昭和45年の夏,鹿島中学の級友たちと肝試しにいきました。そこは火の玉が出る場所
であるという話があり,ある日ひょんなことから,「みんなで火の玉を見にいこう」と
いうことになったのです。
当時のクラスの男女大勢で夜待ち合わせをして出かけました。
願正寺の脇から沢伝いに入っていきました。その沢に沿った道の突き当たりに当時すで
に使われていなかった火葬場の建物がありました。そこまで,2人ずつ歩いていくこと
になっていました。
「火の玉が出たぞ!」という級友たちの声にふり返ると,手にした懐中電灯の光がいく
つも揺らめいているのが見えました。
火葬場まで,結局火の玉を見ることなく戻ってきたのですが,みんなで,夏の夜体験し
ちょっとこわくて楽しくて思い出に残る一晩になりました。

この他,鹿島小の旧トイレにまつわるこわい噂もありました。

(94)今月最初の投稿 投稿者:片山利明  投稿日:02月17日(火)12時50分24秒

今月に入ってから、投稿が無いので、退屈です。
テレビ放映を見る事ができませんでした。(残念)
千年町の火葬場は、私の家の近所にありました。
当時は、もうつかわれていませんでしたが、同級生と一緒に
肝試しをするために何度か行ったことがあります。
火葬場の裏手に朽ちた大木があって一面に蝶がとまっており
その羽には、その火葬場で焼かれた人の顔が浮かんでいる
と同級生の久々港(くくみなと)君に教わり、藤本君(彼は、藤本
医院の三男棒)と見に行きましたが、恐ろしくて近くまで行く事も
出来ませんでした。どなたか、こんな噂を聞いた方はいませんか。

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(93)「ダムに沈む街」見ました 投稿者:市橋 勝  投稿日:01月28日(水)10時28分09秒

先日放送のあったテレメンタリー98「ダムに沈む街」を私も見ました。
もうすっかり寂れた町並みになっていて、一体どの辺りを映しているのか、大夕張
駅前と代々木町アパートがかろうじて分かったぐらいで、その他は殆ど場所の認定
ができずにいました。
ヘリコプターから大夕張を鳥瞰するシーンが2カ所ほどありましたが、あれをもう
少し長く映して欲しかったですね。

あの町内会長さんとして映っていた小島さんという方は、中学校の時の同級生の小
島君(確かバスケットボール部だったような気がする)にとてもよく似ている気が
したので、もしかしたら彼のお父さんかも知れない、と思いながら見てました。

炭坑町としての大夕張は、国のエネルギー政策転換の中で翻弄されてきましたが、
大夕張が持っていた共同体的雰囲気(みんながお互いに協力し合って融通し合う)
は、これから先どこの街へ行っても受け継いでいきたいものです。
でも、もうそんな雰囲気は日本の中では絶滅しつつあるのでしょうね。
だから、自分の故郷がダムに沈んでしまうという寂しさ以上に、何か心の奥深くを
締めつけるやるせなさを強く感じてしまうのではないか、なにかそんな気がしまし
た。

(92)テレメンタリー98を見て  投稿者:小林 光志  投稿日:01月26日(月)15時33分06秒

皆さんこんにちは。
昨日、予告があったので夜遅く起きて見てしまいました。

私は、東京の大学進学の為、昭和40年に大夕張をでました。
テレビにでていた多くの老人達を目を凝らして見ていましたが、
皆さんの顔が分かりませんでした。
大夕張で生まれ育った私も、今大夕張を出ていこうとしている人達の思いが同じように伝わりました。
しかし、みんな歳をとったものです。
これからも元気で第二の故郷で暮らせるよう祈っています。
また、大夕張が無くなっても飯田さんのHPだけではなく繋がりが残ることを祈っています。
何かの思いの時に帰ってみたくなるものです。
このビデオを早速、両親兄弟に見せます。

以上。

(91)鹿中第七期卒業生  投稿者:池田 憲治  投稿日:01月24日(土)22時25分54秒

先日投稿した時は初めてだと思って出したのですが、今日はじっくりと
読んでいくと、五番目に名前が見つかりました。もうぼけが来たのですね。
それに改行を入れず失礼しました。私は第七期、310人余の卒業生です。
現在住所が判っているのは230人うち8人が亡くなられております。
今週の20日にも永眠され、寂しいです。
我々の同期会は3年から5年の間に全国持ち回りでやります。今年の10月に
同期会があります。幹事は千葉県ですが、交通の便で会場は横浜です。
いつもオプションに1日観光が入り、2泊でやります。幹事は一年前から
名簿調べなどの準備をやりはじめます。約70人から110人が集まり
わいわい、がやがやと大騒ぎ楽しみです。

(90)関東地方では・・・  投稿者:乗田 功一  投稿日:01月24日(土)03時39分07秒

飯田さんの情報にあります『テレメンタリー98』ですが、こちら関東では
25日深夜1時30分から2時までとなっています。

地方によって多少放送時間が違っているかもしれませんね。

ぜひチェックしたいと思います

(89)テレビ放送ありますね  投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月20日(火)23時44分47秒

ご存知の方も多いと思いかもしれませんが,情報として載せておきます。
これは,全国放送だと思いますがテレビ朝日系列で,25日(日)深夜0時55分から
30分間『ダムに沈むまち』大夕張最後の冬という番組が放送されます。
『テレメンタリー98』という番組です。

どのような取り上げ方になるのかわかりませんが,見てみようと思っています。

(88)初めての投稿  投稿者:池田 憲治  投稿日:01月18日(日)12時49分22秒

飯田さんお返事ありがとうございました。昨年春に、ここを訪れたときは、ホームページとは
大体こんなものだろうと思って見ましたが(失礼)、8ヶ月ぶりに見て、すごいボリュームに
びっくりしました。見応えがありました。インターネットが普及して元大夕張の2万5千人が
アクセスしてくれると良いですね。
この”大夕張の思い出”のなかに東小の校歌の話を見て気が付いたのですが
運動会の応援歌で”紫の朝雲あけて東の、空晴れ渡るー”の歌と”赤(白)の健児の応援はー”の歌は
北海道中の小学校で歌われているものでしょうか、それと、作者は誰なのかと、ふと気になりました。

(87)千年町の私の住んでいた辺り  投稿者:市橋 勝  投稿日:01月12日(月)18時02分29秒

新年おめでとうございます。
皆さん、今年も宜しくお願い致します。

さて、以前千年町の話題を少々書きましたが、千年町というのは確か千年町郵便局
からまっすぐ東に下りていく坂道の地域で、鹿島東小学校の南側にある橋までがそ
のエリアでした。その橋を渡るとそこからは常磐町になってましたよね。
私は、どちらかというと東小学校側に近いところに住んでました。
「朝日荘前」だったかな?そういうバス停が近くにあって、そこでアスファルトの
道路が途切れていました。そこから東小学校に下る道は砂利道だったのですよね。
よく自転車で転けて、膝を擦りむいてました。
私の家の周りは、朝日荘や青葉荘という名前の炭坑長屋がびっしりあって、近くに
は炭坑風呂という無料の大衆浴場があり、炭坑の粉塵によっていつもお湯が真っ黒
で、それでも友達といろんな話をしながらいつまでも湯舟に浸かってました。

(86)冬の春日町 投稿者:高梨 晶一  投稿日:01月01日(木)21時51分26秒

春日町から夕張川の対岸に磯次郎(いそじろ)という沢がそそい
でいたと思います。この磯次郎に向かって、ある冬に木ででき
た橋が作られた記憶があります。小さなころの記憶ですから、
はっきりとは覚えていません。大きな馬が伐採した木を運んで
いたのを思い出します。
磯次郎では、ヤスと木の枠にガラスをはめた水中眼鏡を使い、
魚をとった記憶もあります。
また、親に無断で川を渡り、磯次郎で遊び、上流の上水所のダ
ムが放水し、水量が増え戻るに戻れずひどく怒られた記憶もあ
ります。
夏には、磯次郎で水遊びを楽しんだ記憶もあります。磯次郎も
また、地図から消えていくのでしょうか?

(85)正月の初売り  投稿者:高梨 晶一  投稿日:01月01日(木)09時45分00秒

正月の初売りに毎年出かけていた記憶があります。確か薬屋さんで、
買い物をすると、いろいろな物をもらえた記憶があります。
今と違い、ほとんどのお店が、三が日はお休みで、せっかくもら
ったお年玉を早く使いたかった事を覚えています。

(84)あけましておめでとうございます。  投稿者:飯田 雅人  投稿日:01月01日(木)03時20分46秒

1998年になりました。シューパロダムが完成するのは,2006年といわれています。
あと,8年ということになりますか。
昨年は,このHPを通して,私自身鹿島中の同級生との出会いがあり,また大夕張に縁あ
る方々同士の出会いがあり,多くの方々の思い出や話を伺う機会ができたすばらしい一年
でした。
掲示板に新しいお名前が出たり新たな投稿があるたびに,何か勇気づけられるような気
持ちがしてきました。ふるさとを失うこととひきかえに,自分にとって新しい大夕張を発
見するような・・・うまく言えませんがそんな気持ちもしました。

大夕張の仲間のみなさん,これからもよろしくお願いいたします。

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