(1860)海が好き 投稿者:飯田雅人 投稿日:04月30日(火)18時15分12秒
住民登録された『海好』さんの名前からの連想です。 自分は海が好きです。泳げません。海を見て,潮風にあたり,そこにいるだけです。 でも大夕張という山の中の町に住んでいたせいか,海には『あこがれ』を感じています。 結婚してすぐの旅行も,「青い海」を求めて何回かでかけました。今でも春になると, つい近くの海を見に車を出します。 子供の頃,学校の見学旅行などで大夕張を出て,バスの窓から海が遠くに見えてくると それだけで,窓から身を乗り出して騒いでいたものです。 子供の頃聞いた,「海は広いな大きいな」「真っ青な空と海」そんな海は大夕張にいて は決してみることのできないものでした。 今でも時々,海を見たくなることがあるのは,そのせいでしょうか。
(1859)お久振りに投稿させて頂きます 投稿者:miyabi 投稿日:04月29日(月)23時53分37秒
お久振りに投稿させて頂きます。 去年 大夕張訪問記を投稿させて頂いたmiyabiです。 覚えていて下さっていますでしょうか? この度 僕のHP上で大夕張の写真(H10年春撮影)を2枚程公開しまして、 少しでも興味が有る方にご紹介したいと思い こちらのアドレスのリンクを設定させて頂きました。 事後承諾で申し訳有りませんが どうぞお許しください。 追記 問題がおありならすぐにリンクの設定を解除させて頂きます。
(1858)「闇を掘る」夕張で・3 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月29日(月)20時27分37秒
昨日、夕張で「闇を掘る」を見てきました。 ホールに入ると上映に先立ち夕張映画鑑賞会の鎌田一衛氏を司会に藤本監督、 出演者を交えた座談会が開催されていました。映画は「炭鉱事故」「閉山」 「じん肺」とテーマは暗く、深刻な内容のものでしたが、上映後の印象は 「故郷」「隣人愛」「親子関係」等何故か暖かく、希望を持たせるものでした。 もしかしたら、男たちは暗い坑内で「希望」を掘り出していたのかも知れません。 大夕張・南部の光景も多く登場します。夕張での上映は明日で終わりですが、 今後も道内各地で上映するとの事です。 客車内のノート、拝見しました。一日違いでしたが、皆さんありがとうございま した。 今井さん、主夕張森林鉄道の学習会日時などが決定しましたら報告いたします。 是非、ご参加下さい。
(1857)こんばんは 投稿者:今井 亮 投稿日:04月27日(土)01時15分19秒
以前から「鉄道廃線跡を歩く」という本を購入し、 愛読していましたが、奥山さんの記事が結構ある ことに今ごろ気づきました。 北炭真谷地炭鉱鉄道の記事とか、ためになるもの ばかりで、すごいなぁと感心しております。 そのうち大夕張の森林鉄道の探索などありました ら是非参加してみたいと思っております。 休みの都合が合うことを願いつつ…… それでは(^^)☆
(1856)「闇を掘る」夕張で・2 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月26日(金)23時52分04秒
報告が遅れて申し訳ありません。 20日のシューパロ塾総会で直接、藤本監督より映画上映の案内がありました。 配られたパンフには「夕張南部・鹿島地区での長期ロケを経たドキュメンタリー 映画」とあり4月27(土)〜30日(火)まで市民会館・シネサロンで12時 、午後3時、午後6時と3回の上映です。 藤本監督と大夕張との縁はパルコの「Pu」制作以来との事で、その夜は「張張」 で地元住民と酒を酌み交わし、そのうち撮影で世話になった南部の地でも映写機 を持ちこみ映画を上映したいと語っていました。
(1855)「闇を掘る」夕張で 投稿者:高橋歌子 投稿日:04月26日(金)18時36分40秒
本日発売の「北海道ウォーカー」を見ていたら、夕張市民会館シネサロンで 「闇を掘る」が上映中とあったのです。 多分もっと前から上映していたのでしょう。 27,28,29日の三日しか残っていません。 上映時間は、12時、3時、6時となっていましたが、遠くからいらっしゃる 場合は時間は確認した方がよいと思います。 夕張市民会館シネサロン、電話01235-2-2742 ゴールデンウイークに夕張で映画なんていうのもなかなか良いですね。
(1854)カシミール3Dで作る夕張岳 投稿者:飯田雅人 投稿日:04月25日(木)00時04分27秒
歌子さんのお話にあったカシミール3Dで作った夕張岳。↓こんな感じに なります。これが動けばすごいですね。 歌子さん,大夕張上空を鳥になってのアニメーション,がんばってくださ 〜い。 PC,復帰しました。ご心配おかけしました。
(1853)思いで帖 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月24日(水)21時00分09秒
泊川さん、客車内には自由に出入り出来ます。扉は建て付けが悪い様ですが 内側へ押していただければ入れます。実は絵葉書を置いていただいている高 橋商店さんにもノートが置かれていますが、残念ながら日曜は休業しています。 客車へのノートの設置は悪戯も心配しましたが、やはりこれは皆さんの良心に 頼るしかありません。GWの記帳なども期待しています。 久々湊様、保存会謹呈ブギウギ拝聴しました。遅れましたが御礼申し上げます。 今井様、本の購入ありがとうございました。森林鉄道跡に入るには、RV車を 利用し複数人で入るのをお勧めします。シューパロ塾では今年の予定として、 主夕張森林鉄道の探訪・調査を予定しています。 蛇足ですが、「廃線跡懐想」掲載の下夕張山中の森林鉄道の台車は捜しても ありません。昨年末に里(南部)へ引き下げました。
(1852)過去に戻る方法 投稿者:久々湊 眞一 投稿日:04月24日(水)14時14分02秒
「お気に入りのホームページが無くなってしまいがっかりした」経験は、皆様持っ ていると思います。ところが、消えてしまったHPの復活方法があったのです。 そのものずばり、Way Back(過去に戻る方法)というサイトを利用します。 http://www.waybackmachine.org/ ここの四角い箱に、消えたHPのURLを入力し「Take me back」を押すだけ(驚)。 ちなみに、弟を紹介していたホームページ及び弟のページも見れました。 http://web.archive.org/web/20000520014027/http://www.photoserve.com/jp/photoservejp.html http://web.archive.org/web/20001017172048/www.photoserve.com/jp/kukuminato/ykpics.html 米国は、WEBの観測と統計のために、膨大なデータベースにHP情報を登録しているそ うですが、これを利用したサイトとのこと。 米国って凄いことをやる国なんだなーと感心しています。 大夕張 -- Take me Back -- は無理だけど、飯田さんのHPがこの役割を果たして くれていますね。感謝!!
(1851)(無題) 投稿者:泊川俊徳 投稿日:04月24日(水)13時57分07秒
シュ−パロ塾 南大夕張前 ラッセル 客車内に思い出ノートを設置されたよう ですね 21日に行った時は客車内には入らなかったので気が付きませんでした 平日 客車内に入れるのですか 何時も戸締りしてるようですが 原付思い出 ノートの強敵ですね 悪戯されないと良いですが 自分が思い付きで始めた 思い出ノートは 最近マンネリのようです 連休は どうでしょうね 今年一杯 が限界かな 面白い話も無いしね 書いて繰れる人も めっきり少なく成り残念 です ラッセル車は 道を通る人にも目を引くので書いてくれる人も多いかも 知れません 鹿島小学校も無いので 来てくれる人の懐かしい目的 目標が無く 成ってしまったので 中々ね 今度行った時は 何か一言 書きたいです
(1850)鹿島東小学校の校長先生 投稿者:高橋歌子 投稿日:04月23日(火)19時42分00秒
私が在校していた当時は、木○○郎先生(名前を出していいものかちょっと迷い ましたので伏せました)でした。 なぜかその姿が忘れられません。 五〜六年の担任だった吉田先生は声も覚えていて、我ながら驚きました。 もう三十年近く前のことなのに・・・
(1849)(無題) 投稿者:泊川俊徳 投稿日:04月23日(火)13時04分39秒
4月21日 天気も良く快晴 今年始めて原付で大夕張へ行って来ました 原付では 昨年の11月11日以来です 今年は雪解けも早く 校庭や神社へ行く道にも殆ど雪は 無く 所々山に見られる位でした 神社には登らなかったのですが 旗は無事風に 靡いてました スキーの人に今年もロープを切られてると思い 長靴を用意して 行ったのですが 一安心 新しい旗は用意して無かったのて 次回 敗れた旗を 一枚位取替えようと思います 駅前の建物も 高橋電気店を残すのみと成りましたね 寂しく成るばかりですね 犬小屋は壊れてました 犬はどうしたの でしょう ね 元気で冬を越したのてしょうか 心無い飼い主が置いて行ったのでしょう 子犬の時は 可愛い 可愛いで飼うのでしょうがね 人の身勝手ですね 校庭にはタイヤも捨ててありました 結構ゴミを捨てる人も多い感じです そのうち 死体も捨てる人も居るかも 交通量も多いようでしたが 校庭に来る人は少ないようでした 連休は来る人も 多いかも知れませんね 今年も 天気の良い日曜には行きたいと思います 帰りにはユーパロの湯え入りました 天気も良く 気分の良いドライブでした 夕張岳も 久し振りにハッキリ見ました 満足 満足でした
(1848)ありがとうございます 投稿者:今井 亮 投稿日:04月23日(火)01時09分24秒
高橋さん、情報ありがとうございました。 今度休みの日にでも調査に行ってみます。 ちなみに僕の叔父は鹿島東小学校閉校時の 校長先生でした。 奥山さん、「廃線跡懐想」早速購入し拝見 しました。全てとても良い内容で満足して おります。 森林鉄道の跡もまだまだ残っているんです ね。でもなんだか熊に会いそう…… ダムに沈んでしまう前に僕も写真におさめ ておこうと思います。 それでは(^^)
(1847)36年ぶり再会 投稿者:石原 賢治 投稿日:04月21日(日)22時20分40秒
3月に住民登録された、只野昌之さんとは鹿島小学校の頃はすぐ近くに住んで まして、3歳上のお兄さんでしたが良く遊んでいただきました。 ご本人からも直接メールまでいただき、ひょっとしてあの、石原君か?と問合せ でありました。 ご本人は、北海道とははるか離れた南の沖縄県に在住で、琉球大学の医学部で ウィルス学の研究をされています。 たまさか、私も沖縄で生活しております関係で4月19日の金曜日に満を持して ご挨拶に参りました。何ですか、照れくさいような恥ずかしいような気持ちで した。 お会いして、ずーっと大夕張話題といいますか、子供の頃の話になりますと 途切れも無くいろんなことが浮かび上がってくるんですね。相乗効果でしょうか 忘れていたことを思い出したり、知らなかったことでもああそんな裏話が有った んだなんて、独り感心して悦にいってます。 くしくも、只野様の親爺様も我が親爺殿も同じく福岡県在で同日19日に博多の 街で、久方の再会をしたようです。他に千葉様もご一緒だったようで、ずいぶん 昔話で盛り上がったようです。千葉様はかつてスキーのアルペンで国体などで 活躍された方で同じく福岡県に在住です。 親子で場所は違うものの、久方の再会が出来るなんてとても奇遇な気がしました。 只野さん有り難うございます。厚かましく、またおしかけます。
(1846)春 投稿者:飯田雅人 投稿日:04月21日(日)18時23分48秒
夕張もすっかり雪がとけていますね。昨日,三菱大夕張鉄道保存会と シューパロ塾の総会に出席しましたが,どちらも地域に根付きながら 一歩一歩着実に発展しているのを感じました。 今年もよろしくお願いします。 今日,大夕張を訪れた方,いかがでしたか。 よろしければお知らせください。
(1845)三菱大夕張鉄道思い出帖 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月20日(土)23時19分07秒
今日は午前10時より、旧南大夕張駅ホーム周辺の清掃。午後より客車のシート を外しと車内の整備を実施しました。総会も無事終了し、飯田様、参加の皆様ご 苦労様でした。 今年度より客車内に「思い出ノート」を設置しました。既に3名ほどの記帳があ りましたがこれから連休に向け、故郷・大夕張訪問や廃線跡探訪の方も増えるも のと思います。客車内のノートへ一筆記帳願えれば幸いです。 (絵はがきの販売をしている高橋商店さんにもノートがありますので、こちらも よろしくお願いします)
(1844)(無題) 投稿者:泊川俊徳 投稿日:04月19日(金)11時23分53秒
14日に 大夕張へ行こうと思ったのですが 札幌付近午前 天気が曇りで 気乗りせず 行きませんでした 21日天気が良ければ行こうと思います 今年は 例年より 雪解けが早く いよいよ原付の出番が来ました 多分校庭には まだ 雪も残ってると思いますが楽しみです 昨年は 4月29日が始めでしたので いままでで 一番早い年明けに行けます 夕張岳は クッキリ見えると嬉しい のですが 今シーズンの冬は 札幌から夕張岳の見える日が 極端に少ない年 だったように思います 神社の旗は 多分スキーを滑りに来る人がロープを切った ままに成ってると思います 毎年悪戯して往くうです 気に要らないようてす 出来れば直したいのですが 新しい旗は まだ用意してないので 取り合えず ロープの確認だけしたいです 天気がよければ 来る人も居ると思います 是非 声を掛けてさい 21日 大夕張で逢いましょう
(1843)記念碑残っています 投稿者:高橋歌子 投稿日:04月19日(金)06時23分29秒
昨年、11月23日の時点では残っていました。 東高の跡は現在ダム関係と思われる土砂を置く現場と化していました。 積み上げられた土砂は記念碑の数メートル先まで迫っていました。 道路に関しては、ダンプなどどんどん入っているので、割とわかりやすい と思います。確か明石町駅跡より少し大夕張側にあったはずです。 記念碑、土砂につぶされていないといいのですが・・・・ ちなみに奥鹿島分校の記念碑は草に覆われて探すのがかなり困難に なっていました。今の時期が一番見つけやすいと思われます。 我が母校・鹿島東小学校は記念碑も何もないのがちょっとさみしいです。
(1842)夕張東高校 投稿者:まこっちこと今井 亮 投稿日:04月18日(木)22時03分20秒
こんばんは。 昨年から夕張東高校跡を訪問しようと考えているのですが、 どうもイマイチわかりません。 確か明石町駅近くの道を入っていくと聞きましたが…… 今でも記念碑は残っているのでしょうか?
(1841)LINK張らしていただきました 投稿者:谷口浩章 投稿日:04月14日(日)21時40分18秒
こんばんは 「ぐちくん」こと谷口浩章です。 このほど、LINK張らしていただきました。 また大夕張関係で何かありましたら、ご報告いたします。
(1840) 鹿島小学校見学旅行 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月12日(金)22時20分01秒
皆様、こんばんは。鹿島小学校の修学旅行の話につられ、また出てきました。 昭和36年7月13日【北海道新聞・夕張版】 『みんなで旅行うれしいな 鹿島小三年生模擬坑など見学』 今月は市内小、中学校の修学旅行・見学旅行の最盛期。鹿島小学校の三年生も十一 日夕張市内や栗山方面の見学旅行を行った。昨年は小児マヒの流行でどこへも出か けられなかったこどもたちにとって、この日の見学旅行は一年越しの楽しみだった だけに「行ってらっしゃい、先生のおっしゃることをよく聞いてね」というおかあ さんたちも「行ってきーます」と元気に手を振る生徒も、みんな底抜けに明るい表 情。コースは北炭夕張の模擬坑(注・現在の夕張市石炭博物館の見学坑道)や栗山 のきびだんご工場、ヒューム管工場などを見学して午後9時22分帰校したが、 途中二股ダムを車窓から見て歓声をあげたり、仲良く歌を歌ったり、うれしさを包 みきれない表情だった。 当然、この時も大夕張からは「列車」で、写真の説明には「列車内で歌ったり話し たり楽しい見学旅行」とあります。 炭鉱街は、購買会や炭住街の共同浴場と他の街には無い、一種独特の雰囲気があり ます。それは鉄道も同じと思います。大夕張は鉄道が生命線を担った時期もあり、 その傾向は一層強いのではないでしょうか。 手前味噌になりますが、JTBから「廃線跡懐想・北海道」が刊行されました。 http://www.rurubu.com/PubList/Detail.asp?isbn=4-533-04199-X 大夕張も10ページに渡って紹介されています(長谷川様協力ありがとうございま したm(_ _)m)。書店で手にとって頂ければ幸いです。 ※野口様、先日はありがとうございました。感謝しております。
(1839) 850のお話ありがとうございます 投稿者:野口美代子 投稿日:04月12日(金)12時44分48秒
内川様他の皆様 850の写真やお話ありがとうございます。 近頃850を思い出したのですが、山の名前が「はっぴゃくごじゅう???・・」 数字の羅列。記憶違い?「もうろく」しちゃったかな。 と思っていたのですが、はっきりと思い出しました。 自然の美しさ、雄大さは大夕張ならではと写真を見て改めて思いました。 中学生の頃スキーで850へ行ったことがあります。 山頂近くだったかと思うのですが、滑り降りようとしたところに靴跡がぼこぼこ。 これくらいの穴平気と滑ったはいいが、穴ぼこにスキーの先がひっかかりデングリ 返ってしまい皆の笑い物になってしまいました。ってなことがありました。 この年になると、何か聞き違えたり、聞こえなくて返事しないと「野口さん、もう ろくしたの。何回呼べば返事してくれるの」なんて優しいジョーク。 もうろくって大夕張の方言かとずっと思っていたのですか、ちゃんとした日本語 だったんですね。辞書に「耄碌」とありました。余談でした。
(1838) 鹿島小の修学旅行 投稿者:内川准一 投稿日:04月11日(木)22時45分40秒
奥山様、古い皆様お晩でした。 下の書き込みを読みまして、またまた思い出したことがあります。 小学6年の修学旅行のことです。 昭和36年の修学旅行は、汽車で清水沢駅前に集合。集まった生徒 約400人はここでバスに乗り換えて支笏湖経由で苫小牧に向かっ たのです。苫小牧では元町か糸井のあたりでバスを降りました。山 猿のわれわれは、ここで、生まれて初めて(?)海辺の砂遊びを楽 しみました。 当時のそこいらは、国道と海辺の間に広大な砂浜があって、砂丘も 存在していた。砂丘上にはところどころ漁具を納める小屋が点在し ていて、東方海上では浚渫船が港を掘っているのが見えた。波打ち 際には丸みを帯びた握りこぶし大の軽石が波に合わせてざらざらと 動いていた。風呂に使う、と、持ち帰った者もいた。 大人になって2回の室蘭勤務の間、何回かこの浜に立ったけれども、 よしずをめぐらした砂丘風景も軽石も、当時の様子はほとんど見出 せなくなっていました。 さて、下に書かれている「錦岡」は、その場所に近い。当時からそ のあたりは、海辺でも山側でも砂を掘っていたようですが、その砂 が遠く大夕張付近まで運ばれていたと知って、今更ながら、不思議 な縁と感慨を覚えます・・。 鹿島小学校の修学旅行が清水沢駅前からスタートしていたのは、大 夕張が陸の孤島だった時代でもあります。そんな時代は、この年が きっと最後だったのでしょう。
(1837) 北海道新聞夕張版 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月10日(水)23時07分35秒
内川様、皆様こんばんは。 汽車好きといっても、ほとんど地域限定です。 調べものも郷土資料的なものが多く、そこには鉄道以外の情報も豊富にあります。 夕張市史には市内の坑口の位置図が掲載されており、北海道新聞の夕張版等も 貴重な情報源となってます。 ちなみに昭和37年11月8日の北海道新聞・夕張版には下記の記載があります。 「土木建設に投入・連日盛んな砂おろし 遠幌駅」 冬をひかえて市内の各種土建工事は急ピッチ。三菱大夕張鉄道遠幌駅の砂おろし場 には、このところ連日、室蘭本線錦岡方面からの砂積み貨車が到着して、砂おろし 作業が忙しく続けられている。この砂は同駅から十数キロ離れた山奥で行われてい る三菱や北炭などの立て坑開削工事をはじめ、遠幌地区を中心とした各種工事現場 に使われるものだが、この砂積み貨車には石炭専用の30トン積みセキ車を使用し 「行きは砂で、帰りは石炭」というわけ。おかげで砂おろし作業もなかなか能率的 で、貨車のハンドルを回すと貨車の下から砂がはき出され、それを貨車のまわりに 設けた移動コンベヤーで、高さ4メートルから5メートルの砂山に積み上げている 。この砂山の反対側では、各工事現場に運ぶトラックがひっきりなしゆきかい、砂 山はまるで噴火で変わる火山のように、出来ては消え、消えては出来て、近くの子 供らは、毎日姿を変える砂山に目を見はっている。 スクラップアンドビルドの石炭政策が展開された30年代後半、大手炭鉱では坑内 構造の近代化を図り、立て坑開削などが相次いだようです。
(1836) 碩学の諸先輩へ 投稿者:内川 准一 投稿日:04月08日(月)23時02分40秒
奥山さんありがとう。なんでそんなに詳しいの? いつもながらですが、大夕張への理解が深まります。 ありがとう。 30年代中頃でしたか・・「北炭系の新鉱が遠幌の奥にできる」 と、父親が言っていたことを覚えています。 本間さんの写真、「40年頃の写真」のことですね。 飯田さんがアップしてくれているので、何回も見ました。 「思い出帖」にある鹿島小学校校庭の写真を見てもわかるけど、 当時の大夕張は、山にも町にも、本当に木が少ないのですね。 山が違って見えるのも道理ですネ。 時間は山をも変えてしまう。
(1835) 美鉄バスチョロQ(^ ^) 投稿者:まこっち 投稿日:04月08日(月)21時09分26秒
旧塗装と現塗装の2色セットを手に入れましたが、嬉しいのは旧塗装の方向幕が「大夕張」となっていました。 確かにかつては札幌駅前から直通のバスが走っていたそうですね。 僕の宝物である1982年の道内時刻表にはまだしっかり「美鉄バス」「夕鉄バ ス」共々「大夕張」行きが掲載されています。 この美鉄バスチョロQも大切な宝物として、大夕張の名を残す貴重な宝物として 大事にしていきます。 ちなみにあと3セットありますので欲しい方は連絡ください。(送料込みで15 00でお渡しします。)
(1834) 850について 投稿者:本間 正雄 投稿日:04月08日(月)20時21分00秒
内川さんへ850から鹿島小学校のグランドは見えません 次に850のピークは真ん中です奥が875でそこからは見えるのが夕張の丁未 地区です 私の提供した850から大夕張の一部が見える写真があると思います。
(1833)850と本流越え 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月07日(日)19時47分02秒
850から見えた集落、何処だったのでしょうか…。 山に入ると結構、意外な方向に町が見えたりするものです。 営林署に勤めていた父も、下夕張(シューパロ湖・三弦橋の上流の沢)の山に 入っていたときに町が見え、真谷地だと思い南部(南部から見える鉄塔は真谷 地です)が近いと思い、山を降りようと良く見たら穂別の新登川の集落(現 在の石勝線東オサワ信号場付近にあった炭鉱集落)で危うく山に迷うところだ ったそうです。 内川さんも書かれていますが、当時大夕張と夕張の間には三菱大夕張炭鉱の 奥部第一縦坑・風道、奥部第二縦坑、北炭夕張の中央縦坑等がありました。 また、遠幌加別川の上流には北菱宇遠幌炭鉱なども開坑されました。40年 代に入ると雁皮原での露天掘りも行われていたようです。人の住んでいない 山の中でも結構、人工の構造物があったようです。 また、冬にはこの間の行き来もよく行われたようです。 「夕張風物抄」(1979年・夕張市)には本流越えとして下記の通り書か れています。 【本流越】 小松の西方4q。夕張と大夕張炭鉱の中間に、夕張岳連峰の次に位する、海 抜875メートルの山がある。頂上の三角点の名称をとって、ふつう本流越 と呼んでいるが、地質学の研究者仲間では丸山デッケと説明している。北海 道の背骨である日高山脈が隆起したとき、付近の地層が飴のように、もみく ちゃにされ、本来なら下方にあるべき、一億年を越える古い地層が、夕張炭 を含む数千万年前の新しい地層の上にのしあがって、このデッケ(独立した 衝上地塊)を作りあげた。戦後に外国の地質学者が多数来夕した際に、この デッケ構造を説明したが、あり得べからざることとして、なかなか納得して もらえなかったという。ヨーロッパのアルプスは、世界でも複雑な地質構造 で知られているが、夕張付近のこの場所も、複雑な造山運動の跡が見られる 所として、全国的に有名である。冬にはこの山を越えて、大夕張越えがたの しみである。(昭和36年1月15日、広報・夕張掲載) この本流越えは石炭の歴史村アドベンチャー・ファミリー(遊園地)の沢奥 に見えます。
(1832)素晴らしい、ふるさと。 投稿者:ziny 投稿日:04月07日(日)10時41分38秒
いやぁー、・・・という言葉の外に言いようがないですね。 久々に神社からの絶景を見させていただきました。 准ぺいさんありがとう。北岳並ですね。 これは最高です。 ヒロさんも言っているとおり、汗を流して登った人へのご褒美ですね。 八百五十からは益々アルプス並です。私もここに別荘が欲しいです。 日高まで見えそうですね。 でも、一戸だけでいい。
(1831)ありますよ 投稿者:高橋歌子 投稿日:04月06日(土)22時50分57秒
カンジキやスノーシュー貸してくれるところ。 札幌市中央区南16西10の「遊山」というアウトドアショップです。 プラスチックの簡単なもので800円くらいでした。 スノーシューは山スキーより軽くて、しまった雪なら登りは楽ですよね。
(1830) zinyさんへ 投稿者:内川 准一 投稿日:04月06日(土)22時14分38秒
大夕張は、ほんと、故郷であることを除いても、本当にかけがいの無い美 しいところですね。意を深くしました。佐藤さんが先に書いていたように お隣の南部と比べてはるかに雪も深く、まるで別の土地のようです。 850の価値も良くわかりました。手ごろで絶好の冬(春)山です。私の フィールドに(勝手に)決めました。来年の好日は、好き者みんなで行き ましょう。最近はやりのカンジキを「貸してくれる」とこは無いかな? 貴君が見た「眼下の集落」のことですが、ずっと気になっていた「大夕張 のたこ部屋跡」の可能性や「坑道の通気関係構造物」である可能性は考え られないだろうか。これもまた、大夕張への想いを託せるテーマですね。 850登山には、ほかにもいろいろ空想を掻き立てるものがありましたが そのことはまた別の機会にでも・・。 (エンディングテーマは・はい、ご一緒に「フニクリ・フニクラ・・・」) 悪乗り?
(1829)八百五十お疲れ。 投稿者:ziny 投稿日:04月06日(土)00時40分30秒
内川さん八百五十から無事生還?ごくろうさまでした。 素晴らしい天気のようでしたね。zinyも行きたかったです。 冬の終わりの芦別岳、前岳、夕張岳のくっきりした眺めが、花粉症の目にも浮か びます。『今頃の季節はそちらにいたい。!!』 やっぱ、仲間がいた方が楽しいけど、・・・単独行も捨てがたいでしょう。 第1、第2の壁あたりのなだれが気になっていましたが、・・・ひさびさ?の ラッセルお疲れです。 ところで、准ぺいさんの疑問ですが、私はこう思います。 @鹿島小学校の校庭からは八百五十のピークは見えなかった。! A地勢的にみますと、鹿島小学校は標高318メートル(7だったかも?)と 校舎の玄関前の白い杭に書いてあった記憶があります。少し先には百葉箱もあった。 B教会の横道から登っても、野球のバックネット裏からジグザグに登っても、 富士見のスキー場からジャンプ台の右手、昔の小学校時代の回転コース沿いに 登っても同じだけど。 大夕張神社(山神社)は標高約360メートルといわれていました。 Cこれがかなり急登ですし、おまけにその左崖横をトラバースして、標高差 500メートルを2時間前後かけて富士見スキー場鴉山の裏を稼いでいく のです。幾何学的には見えないよね。 Dまあー、あまり関係ないけど、礼文岳も標高490メートルだけど、内路の 登山口(0メートル)からは山頂は見えなかった。やっぱ、2時間前後ですね。 E八百五十のピークは『主夕張』という名前がついています。 峰は2つ、3つあるでしょうが黄色い旗がないと分らない。?・・・ F私の記憶では第2の壁を登ってちょっと林の中の馬の背的な崖のところで木々 の間から裏を眺めたような記憶です。地図的にはすぐ下が、遠幌加別川の上流で しょうか?丁未、夕張本町はもっと先でしょうね。でも、目の下に集落の屋根が 見えた記憶があります。 G34〜5年代は人口もピークで12万台に迫る勢いでしたから沢沿いの上流に も屋根があったかも。?・・ Hその山の右下の鞍部にヒュッテ(山小屋)があったと思います。今回の内川さん の言っているとおりでしょうね。 I汗をかいて登ってきた後、周りを眺めてからヒュッテ(山小屋)めがけて滑り 降りていきました。 Jむかしの志賀高原の山スキーの寺子屋あたりの感じ(雪の深さと雪質が)ですね。 Kそして、降りてきた斜面に向かって右90度くらいの角度で、斜面をスキーで ならし、(結構大変で汗をかきました。)上に登り、粉雪の中を滑り降りて楽し んだ時代でした。と、記憶してますが、思い込みすぎでしたらゴメンナサイ。 L『タイムトンネル』でもくぐっていかないと分らないですね。0011とこれは よく見ました。 M私は磯次郎の沢の斜面でも粉雪をこいでならして、滑って遊んだ記憶もあり ますよ。 Nやっぱ、ふるさとの岳(やま)、川はいつもある。明日もふるさとの岳に 陽は昇る。
(1828)ももママさんへ(2) 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月05日(金)20時49分28秒
私も詳しい事はわかりませんが、結構ペットを夕張に捨てていく人がいる様です。 南部菊水町にもそう云うベット達の面倒を見ている人がいる様です。 炭鉱閉山で人口が減った芦別の頼城地区も捨て猫で話題となりましたが、最後まで 面倒を見るのが飼い主の責任ではないでしょうか。
(1827)ももママさんへ 投稿者:内川 准一 投稿日:04月04日(木)12時59分09秒
大夕張の番犬くんは、がんばりやなのです。出ていった飼い主に捨てられたの か、戻ってきたのか、あるいはよそから来て住み着いたのか分かりませんが、 大夕張が無人の町になるのと前後してここに住み着いたのです。 だけど彼(彼女?)にはファンが大勢いるのです。小屋を用意してくれた人も いれば、市内に転居した人の中には、時々様子見に来ている人もいるようです。 ほれ、我々にもあるじゃないですか。困っている人(犬)をほっとけない性質。 廃屋に住み着いて、彼は零下30度に達した昨年の冬さえ乗り越えたのです。 しかし、孤高の彼も昨年くらいからは少しづつ気を許す様子が見えてきて10 月のNHKドラマの収録前のときなどには、集まったおじさんおばさん達のち ょっとしたアイドルで、みんなの心配をよそに、元気一杯はしゃいでいました。 それで、この度の850からの下山後にも探してみたのですけれども、このと きは駅前付近には見あたりませんでした。 シューパロ塾の地元のメンバーなら、彼の生活を知っているかもしれませんね。 どなたかフォローをお願いします。
(1826)さよなら美鉄バスツアー(2) 投稿者:奥山道紀 投稿日:04月03日(水)19時49分47秒
美鉄バス(旧三菱バス)最終日の様子が下記にアップされました。 大夕張の写真は旧三菱車庫前でのものです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~daibus/soumu/kanren/hna/bitetsu331-6.htm
(1825)(無題) 投稿者:ももママ 投稿日:04月01日(月)23時03分11秒
大夕張の番犬君・・・ 一人で冬を越したとか? 食事はどうしているのですか。 私もワンちゃんと暮らしているのでとても気になります。・・・
(1824)TO小林様 投稿者:工藤雅之 投稿日:04月01日(月)22時50分39秒
やはりおじさんとお間違えでしたか あれからうちの父が伯父に連絡して確認したところ しっかり覚えていたようです。すもうを教えた事なども言っていたようです。 もう押尾川部屋は、2,3年前に引退しましたがまだまだ元気にしています。 そしてあそこの姉妹は4人いますのでよくわかりませんがきっとけいこちゃんくらいが 同じ年くらいではないかと思います。
(1823)850(続き) 投稿者:内川 准一 投稿日:04月01日(月)20時08分58秒
下の投稿、長文のくせに1、2書き漏らしてしまいました。 敏さんも気にかけていた「山小屋が残っているかどうか」の件ですが、 見当たりませんでした。当時どこにあったのか知らないため、場所がわ かりませんが、見落としたとは思えず、残念ながらもう無いようです。 頂上直下から2段程度下ったあたり、標高730あたりの平らな土地に でも建っていたのでしょうか? あと、850のピークですが、地図で見ると3つのピークがあります。 まとめて850なのですね。真ん中が一番高いのですが、このピークは 小学校付近からは蔭になって見えないようです。 下の文章、読み直してみると意味不明なとこがありますね。すみません。
(1822)850に行ってきました 投稿者:内川准一 投稿日:04月01日(月)00時41分29秒
予定通り、今朝40年ぶりに850の山頂に立つことができました。 2,3日前から好天の予報が出ていたけど、予定に無いほどの好天! 青い空に白く切り取ってはめ込んだように見える夕張から芦別に連 なる山々が、神々しいほどで、かつて登ったどの山よりも美しく見 えたことでした。都合が許せば、仲間と誘い合ってくるべきでした。 この日は、山に向かう途中、芦別山中で野ウサギが目前を横断した。 久々に見たウサギですがやはり真っ白。なんかいいことありそうな。 8時前に大夕張到着。横断歩道と目印の商店がなくなっていたため、 行き過ぎて、千歳町から戻った。だんだんわからなくなってくる。 暖かい日だけど、850の山頂付近は霧氷をまとった木々が白く青 空に映えていて、まだまだ寒そう。 ということは、雪が締まっていてアイゼンでも歩けるということか。 大夕張の番犬くんも、この冬を無事に乗り越えてまだまだ元気で良 かった。呼ぶと嬉しそうに寄ってくるようになったところが以前と 違っているところで、パンや牛乳を半分やって、犬と一緒に朝食。 えらいやつです!なんたって3回目の冬を一人(匹)で乗り切った! 山850へは神社の裏から稜線を忠実にトレースしました。 当時と同じコースをたどったのです。少しの誤算は、思った以上に 雪が軟らかく、足が埋まったこと。中間点くらいまでは時間がかか かったこと。だけど、標高が上がるに従い雪が締まってきて、大夕 張越しに見える芦別、夕張の神々しいほどの眺めとあいまってペー スがどんどん上がる。 びっくりしたのは、一人で登ったらしい山スキーヤーの跡があった ことで、この跡は、途中から合流してきて、危険な部分や雪崩を避 けながら頂上に向かっていて、山を良く知っている人だと思えた。 山頂直下はさすがに急で、スキーヤーも、つぼ足で登っている。 山頂には彼の食べ残しの明治製菓「フラン」が落ちていて可笑しい。 この人は、さて、いったいどんな人だったのだろう。 きっと大夕張人なのだろう。「フラン」さん!。これを見たら出て きませんか? 山の所要時間は、登り2時間30分。下りが1時間20分でした。 午後の下山になったため、途中からは、カンジキに履き替えたけれ ど、それでも雪にもぐって歩きづらかった。 ベストな時期は、半月くらい前だと思う。今年が異常なのかもしれ ないが。 山はいたるところ雪崩の跡が一杯あって、特に850の山頂直下が 一番ひどく、大夕張からも、白い山肌の一部が黒々むきしになって いるのが望まれる。 デブリも多く、体重をかけるとミシを音が出る箇所もあったりして、 たいしたことは無いのかもしれないが、少し怖い。 山頂からの眺めは、もはや40年前と同じではないのでしょう。 それ以上に、自分の気落ちのありようが異なっているのでしょう。 大夕張に建物がほとんど無い。山の木々も道路も変わっている。 だけど、あいかわず他の町も家も見えない。 先にzinyさんが書いたような町は、私の視力では見えない。 そして、野原になってしまった大夕張を見ても、人が植えた木が雪 原に並んでいて、「見捨てられたような山奥」との感慨は今はもう 感じることは無かった。ただ、ひたすら、美しい景色に驚きながら 1時間以上を山頂で費やした。(写真はそのうちアップさせてもら いたいと思っています。) ところで、zinyさんの意見のこともあって、850と思しき山 〜見ると西隣のピークの方が高そうに見えたので、そちらからはま た違うものが見えるかとも考えて、そちらにも登ってみたが、特に 変わったものは見えなかった。 ここで、恥ずかしながら、告白します。850とはどのピークをさ すのか、実は、私はよく知らないのです。山頂からは3つのピーク があるように見えますが、一番高そうな真ん中のピークからは小学 校は見えません。 850は、鹿島小学校の校庭から見えていたのかいないのか? 恥ずかしいけど、誰か教えて。
(1821)さよなら美鉄バスツアー 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月31日(日)19時18分58秒
本日、美鉄バス最終ツアーに参加し大夕張へ行って来ました。 札幌からは特急大夕張線の路線をたどり途中、清水沢、南部などでかつての 停留所を再現、記念写真を撮り大夕張へ入りました。 大夕張はまだ雪の中で、夕張岳も真っ白です。 炭鉱が消え、鉄道が消え、街も消えそこを走っていたバスも消えると云う事で 、何か寂しさを感じますがバスの運転手さんも、同様に大夕張勤務が長かった 様で何もかも無くなってしまった大夕張の変容に驚いていました。
(1820)そろそろアイヌねぎ&山わさび 投稿者:ziny 投稿日:03月31日(日)01時48分03秒
野口さまへ 多分、小、中、高どこかの階段ですれ違っていたでしょう。 袖触れ合うも、他生の縁ですね。 でも、新宿界隈の電車の中ではわからない。 加川写真館では、我々東高第5期バスケの男子、女子あわせて7人で記念写真を 撮ってもらいました。 文句言うやつもいないと思いますが、今回はもったいつけて名前は遠慮しますが。 白黒ですが、素晴らしい記念になっています。 隻腕の加川さんは「闇を掘る」でも変わらず元気で出ておりましたね。 このドキュメントで私は熊笹の高さに原始の鹿島の森を感じました。 私も母親の手伝いをして、堀田牛乳をカチャカチャと配りました。 朝早く、購買会に近い栄町まで連れて行かれましたね。 30年後半ですね。 冬は凄く寒かったのを体が覚えています。
(1819)思い出します加川写真館 投稿者:野口 美代子 投稿日:03月30日(土)19時14分21秒
飯田さんの29日の「北のアルバム」の投稿を読んで加川さんの事を思い出しま した。私も子供の頃写真を撮って貰ったことがありました。 にこやかに、左をかばうように顎と肩を使ってカメラの一端を押さえたりしてバ シャっとフラッシュをたいて。写真を映す瞬間に目をつぶってしまったかなと思 ったのですが、出来上がった写真を見るとちゃんと目を開いていました。 子共の頃は不思議でした。映した後に目をつぶったんですね。 韓半島から強制連行(このような言葉を使うことはためらうのですが)されて 働かされた人達の事も書かれて有りましたが、別のところでそれを聞いた事があ りました。国へ帰る事も出来きず炭坑で亡くなった人達が沢山居たそうです。 そして戦後炭坑の入り口横にひっそりと慰霊碑が建てられたそうです。 その写真も見たこともありますが、あまり知られていないようです。 加川さんの記録に残されているのを読みまさに歴史の生き証人がここにいらっ しゃるんですね。大夕張の歴史の中に暗く悲しい事実が有ったことは確かです。 戦争あったが故のこと。大夕張に生まれて良かった事も悲しい事もみんな受け 止めて望郷の中です。 飯田さんへ 先日NHK「私のふるさと物語」のビデオを借りて見ました。 飯田さんのお顔とデブマンさんのお顔を拝見させていただきました。感謝です。 お顔がわかると投稿を読むのがなおいっそう楽しいです。 千古のみどりさんへ 貴女の事分かりました。本当に御無沙汰です。 昔美少女のみどりさんも順子さんも今は素敵なお母さんですね。 Zinyちゃんへ 本名突き止めました。年下の男の子ですね。 個人的には思い出はないんですが、学校に行ってた頃は顔見てたんですね。 私はてっきり女の子と思ってしまいました。 古い投稿は削除されると思ったのですが、ずっと記録されていると伺いました。 休日の楽しみに読ませていただきます。
(1818)上川美一様 投稿者:千古のみどり 投稿日:03月30日(土)17時33分38秒
昭和25年4月から26年3月生まれで、大夕張にかかわりのあった同級生で 『ふるさと鹿島25年会』という会を発足しております。 管理人の飯田さんの方へ、御連絡先をお教え戴ければ何かお役に立てるかも しれません。
(1817)鹿島小の思い出 投稿者:上川美一 投稿日:03月30日(土)00時45分30秒
代々木町で、昭和25年4月に生まれたものです、 鹿島小に通っていました その当時の同級生の皆さんに連絡が出来ればと、 思って投稿しました。
(1816)期間限定「ありがとう美鉄バス』掲示板 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月29日(金)20時52分38秒
だそうです↓
(1815)北のアルバム―大夕張のワンハンド・フォトグラファー 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月29日(金)18時51分33秒
日本聞き書き学会という人や地域の歴史を「聞き書き」という手法によって, 後世に伝えていこうという学会があります。 そのための様々な事業を行っているようですが,平成13年度,第2回 「松浦武四郎賞」聞き書き応募作品のノミネート作品の中に,大夕張の 写真家加川三郎さんを取材した 「北のアルバム―大夕張のワンハンド・フォトグラファー」 という作品があります。加川さんのお話を聞き書きされた 田森睦夫さん も大夕張出身で大夕張幼稚園の頃から加川さんに写真を写してもらってい たというようなことが書かれています。昭和45年に鹿島小を卒業されて いる方のようです。 大夕張の歴史を聞き書きによって後世に残すには,加川さんのような方は 本当にうってつけだと思います。 鹿島小の米沢先生の話,日本画家の蔦武士さんの話,終戦直後の混乱期の 話,加川さんの話は様々な大夕張を物語っていきます。 このような聞き書きによって大夕張の記憶が残されていくのはたいへん嬉 しいですね。 この作品が集録されている「北海道聞き書き隊選集」(3月15日発行 日本聞き書き学会)は,日本聞き書き学会事務局にメールで申し込むと 1冊1500円(送料込み)で送ってもらうことができます。 メールアドレスはinfo@kikigaki.gr.jpです。 日本聞き学会のHPもあり,下のあらすじは,そこに出ていたものです。 HPへのリンクをはっておきます。 ------------------------------------------------------------------------- 加川三郎 語り 「北のアルバム―大夕張のワンハンド・フォトグラファー」 聞き書き 田森睦夫 〔あらすじ〕 一九九八年、空知地方の一つの〈まち〉がなくなった。―「大夕張」。 三菱炭鉱の町として栄え、全盛期には三万人の人がいた夕張鹿島地区の山間の町である。 大夕張で生まれ育った「聞き手」には、夕張岳や森林の豊かな自然の風景とともに、 忘れることのできない人物がいた。「聞き手」の幼稚園時代から青年期までマグネシュ ウムを炊いて写真を撮り続けてくれた片腕のカメラマン・加川三郎さん(八〇歳)である。 昭和四年(一九二九年)、親に連れられて道北の美深から南大夕張へやって来た加川さん は、長じて独立し大夕張へ移って三菱炭鉱の下請会社の「ずり場」で選炭の仕事に就く。 しかし、始めて六か月目に機械に巻き込まれ、左腕をなくす。一八歳の時だった。 入院した病院の看護婦さんの「手なくたって何ぼでも世の中渡れるから」という言葉に 加川さんは励まされる。そして事故の時、機械から手をはずしてくれた同僚は仙台の写真 学校を出て副業で写真屋をやっていた。「加川さん、写真屋だったら片手でもできるから、 やんなさい」。写真屋になることを決心した加川さんは、昭和一四年上京。写真学校に入 り、二一歳まで三年間修行した後、昭和一七年、大夕張でたった一人の写真館を開業する。 戦時下、多くの朝鮮人・中国人労働者が大夕張にも連れられてきていた。ある時加川さん は、中国人労働者四〇〇人全員の顔写真の撮影を頼まれる。中国人労働者が収容所から逃げ 出した時の指名手配用の写真だという。隊長が副隊長を殺した殺人事件もあった。その現場 写真も加川さんは撮った。 「夜ね、寝てても思い出すんだ。現像する時嫌だったねえ」……。 炭鉱マンが多い中で唯一、一般人で大夕張に最初に住居を構えた「片腕のカメラマン」と して、戦前戦後を通じた五〇年間、大夕張の「ひと」と「出来事」を撮り続けてきた加川さ ん。その語りは、まさに大夕張の歴史そのものである。おそらくは断片的であろう加川さん の〈記憶〉を「聞き手」は粘り強く掘り起こし、一つの町の歴史の再現に成功した貴重な 「聞き書き」が本作品である。 (日本聞き書き学会HPより) -----------------------------------------------------------------------------
(1814)お京さんへ 投稿者:もぐ 投稿日:03月26日(火)23時21分03秒
妻が改めて大夕張への思いを強くしております。思いでは生きていくひとつの勇気にも なるのでしょうね。さりげなく昔の大夕張へタイムスリップしたいものですね。
(1813)消息ご存知ありませんか? 投稿者:ヒロ みうら 投稿日:03月24日(日)22時07分51秒
次男君、大夕張のインフオーメーション有難うございました。 ヤッパ山の街らしいかな、GWにはBBQやりたいねー!! この掲示板を御覧頂いている方々へのお願いが有り書き込みしました。 25年会の「橋本先輩」から先程、電話が有り下記の方に関する消息等の 情報提供をお願い致します。 昭和25年2月10日生まれ、旧姓「伊藤恵子さん」 橋本先輩の同級生で昨日札幌市内で同級生の集まりが有り 席上で皆さんがお探しとの事です。 情報をお持ちの方、或いはごく最近までの消息をご存知の方は プライバシーが絡む事も予想できますので 同サイトの管理者「飯田さん」宛にメールにてお願い申し上げます。
(1812)大夕張まだ春遠し 投稿者:佐藤 次男 投稿日:03月24日(日)20時46分59秒
いつもより雪解けが早い今年、大夕張はどうかなと川さんこと長谷川くんと今日大夕張に行って来ました。 追分の方から行ったのですが、道中ほとんど雪はなく「今年はやっぱり雪が解けるのが早いね」と言いながら だったのですが、清水沢に入ると「まだ少し残ってるね」に変わり、大夕張に着くと「さすが大夕張まだまだ 春遠しだね」になっていました。 幹線道路は除雪されているため、アスファルトが出て雪はないのですがその周りは1m50cmぐらい雪が あり、夕張岳はまだまだ白く雪化粧のまま鹿島小学校のグランドにも入れない状態でした。 大阪人さんの投稿にもありましたが駅前に残っていた廃屋(だるま屋?)も解体されていました。 残っているのは、駅前を下った所にある廃屋(谷野書店?)だけになっていました。 まささんまた4月末または5月始めに大夕張に行きませんか里見公園の跡地とかにも入ってみたいですね。 ヒロさんBBQはまだまだ先ですね。でも自転車にのって来てる人はいましたよ。
(1811)順子さんへ 投稿者:折笠輝雄 投稿日:03月24日(日)17時14分14秒
順子さん 3月1日千年町へ 住民登録された 順子さんへ もし間違っていたら失礼します。 順子さんは旧姓 小暮と言いませんでしょうか?違っていたらごめんなさい 5年前に同期会と書かれていたものですから、 もしかしてと 思いまして投稿させて頂きました。 幌南中学を卒業した 折笠と言います。3年C組でした。
(1810)ReTO小林様 投稿者:小林光志 投稿日:03月24日(日)01時15分50秒
遠い昔の記憶ですみません。 私は、22年生まれで40年夕張工業を卒業し明治大学へ進学しました。 スキー部に所属してた関係で大夕張りに帰る機会が少なくなりました。 記憶の糸を繋ぐのも曖昧になってしまいますね。 多くの名刺を探しましたら、出てきました懐かしい名刺が、 財団法人日本相撲協会 押尾川部屋世話役 工藤善次郎 が出てきました。 叔父さんの善次郎さんは、元気ですか? 子供の頃は、いろいろお世話になりました。 私の記憶では、善次郎さんは相撲取りだったと記憶していますが。
(1809)TO小林様 投稿者:工藤雅之 投稿日:03月23日(土)22時53分59秒
返事遅れてすみません。父の善之助はもう80歳になりますがとても元気です。 また相撲をやっていたのは、父の兄の善次郎です。もしかしたらおまちがえでは 私の姉は、S33年生まれS47年夏休みまで鹿島中にいってました。 小林さんは、何年生まれですか
(1808)お願い 投稿者:りんりん 投稿日:03月23日(土)22時46分53秒
17・8年くらい前に、夕張市立遠幌小学校で撮影された「ユーパロ谷のドンベーズ」 のビデオを探しています。当時の遠幌小学校の友人達が出演しているので懐かしく なり探しています。現在福岡に住んでおり当時の友人とは連絡がとれないので、 投稿しました。入手方法をご存知の方、情報よろしくお願いします。
(1807)(無題) 投稿者:大阪人 投稿日:03月23日(土)16時06分33秒
昨日、大夕張へ4年ぶりに行ってきました。 駅前の商店跡の廃屋の解体工事が行われていました。 いよいよ、原野に帰りつつあるのをかんじました。
(1806)八百五十追録 投稿者:ziny 投稿日:03月23日(土)12時28分11秒
ゲレンデの一番上の林の中から、鹿島とは別の町並みが見えました。 夕張本町、栗山方面の屋根屋根だったと思いますが、子供心に 「井戸の中の蛙、大海を知らず」という言葉の中で、ちゃんと隣町が あるんだと感激した記憶もありました。
(1805)zinyも八百五十へ連れてって。 投稿者:ziny 投稿日:03月23日(土)10時50分20秒
春ですね。こちらは、桜が咲いたとたんに、「花に嵐の・・・」状況です。 今日もいつもの今頃は航空公園で花を愛でながら、テニスに汗を流してる時間 ですが、昨夜からの「夜来風雨の声、花落つること知んぬ、多少ぞ・・?」 でクレーコートのコンデションが・・今一で久々に電子のコートに参上です。 内川さんご無沙汰です。マシンも感染症から無事生還のようで、雪解けの鹿島を 楽しむ余裕が出てきたようですね。雪解けのこの頃は解けた様々な形の氷を かんざしや王冠代わりに楽しんでいましたね。 全天候型の運動好きのzinyとしてはほんとうに八百五十へ行きたいんですが・ ・・・年度末は忙しい。 ということで、八百五十の思い出です。 やっぱ、思い出は神社の横道から始まるね。じっくりと夕張岳を眺めてから細道 を滑り降りていった。40年前、小学4〜5年生の頃何度か行ったね。永森恒夫 先生に連れて行ってもらった時もあります。 急斜面を前にしてスキーを担ぎ、第1の壁、第2の壁を汗を流しながら登った。 途中、きつつき(あかげら)の木をつつく音と、がんび(白樺)などの木にいく つも大きな穴があいていたのを思い出す。 ヒュッテのでかい薪ストーブが真っ赤にゴウゴウと燃えていた。吹き抜けの2階の ロフト風の板の間の上でおにぎりを頬張り、泊った。 ゲレンデは自分たちでこいで、踏み固めてならし、滑った。今思うと最高の自然と の共有でしたね。 粉雪を滑り降りてきたとき、ヒュッテの陰から急に人が飛び出てきて激突。 私は無事でしたが、その人は(やっぱ子供だったと思うけど)骨を折るような 怪我をしたと思います。ゴメンなさい。あらためてお詫びを申し上げます。 40年前の痛い思い出です。 准ぺいさん、zinyも八百五十へ連れてって・・・・、アイゼンも持ってるよ。 昔、白馬に登った時のやつを・・・。 と、ほんとうに行きたいところですが、でも、時空を超えるのはなかなか厳しい ですね。そろそろ、山わさびとアイヌねぎの季節ですね。・・・ では、春の八百五十登頂記をお待ちしてます。
(1804)飯田雅人さん有難う。 投稿者:折笠輝雄 投稿日:03月21日(木)12時24分48秒
このホームページの御蔭です。何と36年振りに中学時代の同期生とこの掲示板を 通じて巡り会える事が出来ました。一言飯田様に御礼を述べさせて戴きます。 有難うございました。 又、この掲示板でめぐり会えた阿久津 誠くんにも感謝致します。 今後も出来たら毎日このページを拝見させて戴くつもりです。 まだきっと他にも同期の方が居ると思います。勇気を出して投稿してみては如何 でしょうか? 其れではこの辺で又何時かこの掲示板を御借り致します。
(1803)火の用心 投稿者:内川 准一 投稿日:03月20日(水)21時12分55秒
春ですね。 アパート裏手に広がる北大第二農場の雪融けも近い。 ここの雪原は、毎年、ある日突然、一斉に融ける。 そして、土の原(畑)に変わるまでのわずかに2日ほど 巨大な沼が出現するのです。 そして、瞬く間に消えてしまうのです。 私はこれに名前を付けています”さまよえる湖、幻の北大湖” これを見た者(新聞記者)はいない! で、どうでもいいけど、春ですね。 大夕張も春らしくなっていることでしょう。 あの白犬はどうしているのかな?気になるこの頃。 新年のNHKドラマも楽しんだけれど、あの白犬こそは ”大夕張の化身”だったのではないだろうか。 そいで、題名と何の関係があるかって言うと。 実は、この2,3日、急に耳の奥から聞こえ出した声があるのです。 いえいえ、年とは関係ないと思うんですけど・・。 それは、冬の大夕張で毎晩聞こえていた、あの夜回りの声です。 ひの〜よ〜じん。カチカチ。 ひの〜よ〜じん。カチカチ。 大夕張の冬もそろそろ終わりですョ! 懐かしい大夕張。春の息吹。雪の下から聞こえるせせらぎの歌。 春が呼んでいる。大夕張が呼んでいる。 うん、決めた。40年ぶりに850に行ってみよう! 朝ならアイゼン程度でOK。実行日は31日!片道2時間?
(1802)泊川さんへ 投稿者:草野 桂 投稿日:03月19日(火)20時36分37秒
思いっきり筆不精状態になってしまいましてスミマセン。 (お返事を書いたのですが、出さずに気づけば1ヶ月…) お手紙ありがとうございました。 夫婦共々超多忙な生活を送っていますが、 仕事のほうはお互いに慣れてきたみたいです。 こちらはもうすっかり暖かく、 春物の薄手のコートを着て、 仕事の後は夜桜を眺めながら散歩して帰っています。 花粉症の夫は毎日鼻のかみすぎで鼻血を出しています(笑)。 「思い出ノート」2001年版、 穴が開くほど読ませていただきました。 何度読み返してもぐっとくるものがあります。 今年も絶対に、あのノートを読みに、そして書きに行きます。
(1801)大夕張の年表 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月16日(土)16時58分31秒
HPの方の更新が最近,表向きにはあまり進んでいませんが, ちょくちょくいじっているのに年表があります。 煩雑でちょっとみにくいかもしれませんが,できるだけこまか な情報もいていきたいと思っているページです。
(1800)轍楽之路(てつがくのみち) 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月11日(月)19時34分36秒
こちらにも何度か登場している寺田牧夫氏がホームページを開設しました。 湖畔を行くSL列車など三菱大夕張鉄道の写真も数点掲載されています。 http://tadayusaku.2.hotspace.jp/oyubari1.html
(1799)ビデオ見ました 投稿者:池田正史 投稿日:03月10日(日)15時01分30秒
同級の西山氏よりbs−2のビデオをオクツテもらい見ました。 田中先生が白髪の紳士になられ、感慨深いものがあります。 ずいぶん怒られた記憶がありますけどね、 写真と違い映像が動きますので、懐かしさもひとしおでした。 飯田さんの顔も泊川さんも記憶にいれました。 一度帰りたいとは思うのですが、なかなか状況が許しません。でわ
(1798)「美鉄バス」チョロQ 投稿者:奥山道紀 投稿日:03月09日(土)22時04分33秒
大夕張地区住民に馴染みの深かった美鉄バス(←三菱バス)ですが今月末には残念 ながら廃業となります。 これに合わせ下記の通り東急デパート(現在の美鉄は三菱を離れ、東急系列となっ てます)よりチョロQが発売されます。一方の方向幕には「大夕張」との行先名も 入るようです。
(1797)緑の中の大夕張駅 投稿者:野口美代子 投稿日:03月08日(金)00時20分30秒
懐かしの写真の中に大夕張駅を見て本当に帰って来たと思いました。 停車場(昔私が子供の頃、年寄達は駅のことをこうとも呼んでいた 気がします)は人を見送って、見送られ、又会っての繰り返しの場 でした。大夕張駅はただただ別れの駅になってしまいました。 札幌へのバスが通るようになって、バス停が道路を挟んで、駅の向 い側にありました。その横にはアカシアの木立が有ったように記憶 しています。夏には涼やかな白い花を添えていました。 大夕張駅を見るのは28年振りです。小さな駅に降り立つと迎えて くれたパパとママ・・・・いえ とうちゃんとかあちゃん これは、「思いでのグリングラス」の一節でした。 このバアーチャルふるさとで、あちこちで再会の喜が有って嬉しい ですね。 大夕張は山菜が豊富でした。ざっと思い出したもので うど、たらの芽、せり、みつば、ぼりぼり(キノコ)、たけのこ (笹だけ)、ぜんまい、ワラビ、ふき、しいたけ、やまぶどう 赤しそ、はっか、こくわ、蛇苺、野苺、 その辺に生えていたものもあるし、ちょっと山奥へ行くと生えてた ものもありました。 夏は、七輪ですみを興し魚や御飯を炊いていました。 あの頃もうプロパンガスは有ったけど、我が家は入れてなかったで す。 炭火焼きの魚に新鮮な山菜、物置にはアンモナイトの化石(川に行 って拾ってきたものでした)がごろごろしていて、水も空気も綺麗 でした。今の私の暮らしから思うとなんと贅沢な暮らしだったんだ ろうと思います。アンモナイトの化石せめて1つでも手元に置いて 置けなかったことが残念です。どこへ行ってしまったんでしょう。 大夕張の川へ行けば今でもきっとあるでしょう。
(1796)工藤一家 様 投稿者:小林 投稿日:03月06日(水)18時21分24秒
間違いなければ、常磐町の工藤一家様、 お父さんの善之助さんは、お元気ですか? 20年位前、東京の大夕張会以来お会いしていないのですが。 私は、小林竹志の息子で光志と言います。 子供の頃は、お父さんによく相撲の稽古をしてもらいました。 残念ながら父は、2000年8月に他界しましたが 当時、時々工藤さんの話が話題になりました。 私と年の近い娘さんがいたのを覚えています。
(1795)消える街からの伝言2 投稿者:久々湊 眞一 投稿日:03月06日(水)12時54分27秒
拙曲に対する暖かい感想およびアドバイスをありがとうございます。 共通的な質問に関して、飯田さんの掲示板を借りてお答えします。 (1)推奨音源について:アップしているのはMIDI音源ですので、パソコンに よって音が異なります。私が使用している音源はローランドのSC-88であり、 他の音源では正しく再生されない可能性があります(推奨音源はSC-88シリーズ です)。 (2)DTMソフトについて: DTMソフトは「Music Pro Prus for Windows」と「レ コンポーザ」を使用しています。 (3)著作権について:掲載曲は全て私のオリジナルであり、著作権は私にあります が、ダウンロードして自由に楽しんで下さい。別な用途に使われる(例えばホー ムページのBGMとして利用等)場合は、その旨を私宛てにメールご連絡下さい。 今回は、60年代の代表的なポップススタイルを真似て作ってみました。 家族には「偽札シリーズ」と呼んでいますが、女房からは「ちっとも似てないね。 子供のポンチ絵のようなお札もあるね。」と酷評されています(笑)。
(1794)Northern songs 2002年2月26日号 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月03日(日)00時12分40秒
パソコン仕事に疲れた夜中、時々訪ねて行く町がある… そんな言葉で始まる,『ふるさと大夕張』について書かれたページがあります。 作者の新谷さんは,大夕張で暮らしたことはなくとも,今や大夕張の住人のよう に,『ふるさと大夕張』に思いを寄せてくれているのではないでしょうか。 夕輝文敏さんの『海岸列車の女(ひと)』を引用しながら,ご自身が暮らす 小樽のことについても語っています。
(1793)ご協力下さい。 投稿者:風間健介 投稿日:03月02日(土)18時27分18秒
北海道空知地方で炭鉱遺産の活用を提案している「グループ炭坑夫」の風間健介です。 この3月13〜17日に「ヤマは終ってない」という写真展をサッポロファクトリーでします。 炭鉱は過去の物と世間では思われておりますが、現在も電力、鉄鋼等では なくてはならない物です。太平洋炭鉱、池島炭鉱にしろ数年の存続しか 予定されていません。他の先進国のように国策として炭鉱を研修施設としてでも 残すべきと考え、そのきっかけになればと考えています。 そこで「ヤマは終っていない」 この展の出品者を募集いたしております。写真だけでなく文でも構いません。 炭鉱に思いがある人の参加をお願いします。参加費は無料です。 写真の上手下手は関係ありません。炭鉱の風景、人物等場所も釧路、空知、九州 問いません。皆さんのこだわりの作品を待っています。 今回は九州長崎の軍艦チームとの共同作戦でWEB展も同じに開催します。 尚、サッポロファクトリー(年間700万人が来ます)が会場費用を無料にしてくれました。 (本来ですと1日20万円なのです)後援は北海道新聞岩見沢と夕張支局 毎日新聞岩見沢支局です。締めきりは3月11日必着です。 空知だけ、釧路だけ、長崎だけでは駄目だと思います。 北と南が連動しないと。。。。と言うわけでよろしくお願いいたします。 詳しくは http://www2.ocn.ne.jp/~kazama またWEB展にメールで送りたい方は doutoku@galaxy.ocn.ne.jp WEB展はhttp://www.dotoku.comで13〜17日 お知り合いのかたにもお知らせください。 作品の送り先は068−0533「グループ炭坑夫」 夕張市清水沢清湖町番地なし風間健介 T、F01235−9−6969
(1792)消える街からの伝言 2 投稿者:飯田雅人 投稿日:03月01日(金)20時07分47秒
大夕張音楽ファンの皆さんお待たせしました!久々湊眞一さんから 『消える街からの伝言2』が届きました。 大夕張が,街として一番街らしかった1960年代を,音楽で再現してくださいまし た。 初めて聞くにもかかわらず,どれもがどこか懐かしく温かい・・・あの時代を思わ せる素敵な作品です。 前作同様,『夢の街』にアップしました。ぜひお聞きください。 ---------------------------------------------------------------- 消える街からの伝言 作曲 久々湊眞一 大夕張が最盛期だった「1960年」代、 街には、様々な歌が溢れていました。 当時の音楽をイメージしてみましょう。 あなたは、何を思い出すでしょうか。 第一楽章『消える街のテーマ』 フォークソング 大夕張のイメージをフォーク風流行歌で表現。懐かしく、優しく、哀しい。 第二楽章『エレキがやってきた』 ベンチャーズ みんながコピーした、バンドの原点。夕張東高校文化祭の定番でしたね。 第三楽章『雪のシューパロ』 スプート二クス スプート二クスは大夕張の雰囲気とマッチする。ロシア民謡が入っていた。 第四楽章『校内マラソン大会』 ビートルズ オブラディ・オブラダのテンポで走った。爆走した人、完走した人、歩いた人。 第五楽章『大夕張鉄道』 ブギウギ ブギウギのリズムは、SLのドラフト音に似ている。鉄道保存会に謹呈。 (以上,久々湊眞一さんより) ------------------------------------------------------------------ 音楽を堪能したあとは,久々湊さんにぜひファンレターを,どうぞ(^.^)。
(1791)初めての蒸気機関車のコクピット 投稿者:泊川俊徳 投稿日:03月01日(金)13時41分29秒
古い話ですが 小学校二年生 昭和35年頃 まだ代々木町住んで居た頃 裏に住む双子の弟 高塩久義君 と大夕張駅から千歳駅までコクピットに乗せてもらいました 本当なら規則違反でしょうが 40年以上前の話 運転者の名前も顔も 今では思いだせません 多分当時はお互い知った人だったと思います 今では 蒸気機関車にも 中々 気軽に乗れない時代 良い思いで として今でも 時々 思いだします 夏でしたので コクピットの中は 随分熱く感じました 千歳町駅から とぼとぼ歩いて帰えって来たのを覚えてます 随分 昔の話でした