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1998年    
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(212)山史 (3) 投稿者:今井 一郎  投稿日:11月30日(月)20時26分45秒

山史(3)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道
自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

 3、  専用鉄道

 明治39年8月2日、鉄第884号をもって清水沢・二股間専用鉄道の
敷設免許を受けてより鉄道工事は着々と進められ、明治43年10月
道床基礎工事、葡萄山隧道工事及び遠幌加別橋梁工事が完了。
翌明治44年春、融雪を待って軌条を施設5月に至り完成。
6月1日から鉄道院運転管理の下に専用鉄道として運転を開始せり。
 専用鉄道は清水沢・二股間5哩40鎖、軌条は60封度、軌間3呎6吋、
機関車は鉄道院追分機関庫の7214号、石炭車はト号10屯車の
外後に至り大型鉄製車(オテセ)が入線した。

(葡萄山隧道)
 延長6鎖81節(137m)
 煉瓦積
 曲線とすべく東西両面より掘進せしも、測量の缺陥から中央結合部に於て
中心線と一致せず、無理に施工のためS曲線とせり。

(遠幌加別橋梁)
遠幌加別橋梁の架設については、馬鉄に使用せし吊橋を人道として
存置する目的をもって、吊橋の上流に併行して架設のため橋梁の前後を
曲線として軌条を布設せしが、橋梁工事中に吊橋は老朽のため落下破損せり。
 現在の遠幌加別川橋梁は昭和10年再度架替せしもので馬鉄用吊橋と同位置にて、
上流に今なお旧橋梁の橋脚が残墟せり。
 明治45年6月、三菱合資会社が大夕張炭砿に資本投入共同経営となり、
増資後は資本金150万円となり組織も一新され、明治45年7月には若菜抗を開坑、
これを主力として愈々発展せり。
 大正5年1月26日、三菱合資会社は大夕張炭砿株式会社を吸収すべく
譲渡申請を提出、大正5年2月17日監第309号をもって認可を受け
権利一切を譲り受け、三菱合資会社に移管後は炭坑部の美唄砿業所の管理下に
大夕張砿と称した。
 大正7年4月10日、三菱合資会社は炭坑部を分離独立させ三菱鉱業株式会社
(受権資本金2億円)を設立。6月14日これの譲渡を監第1051号で認可された。
 当時大夕張砿の職制は運転管理を鉄道院に委託していた関係上鉄道は
係部門を置かず、軌道保守は工作係、乗降客の取扱いは労務係で行い、
労務係詰所を大夕張駅とし、小型客車2両を連結運転せり。
 もともと石炭輸送のための専用鉄道であったが、他の地区とを結ぶ道路が
ないため鉄道の旅客便乗が許されていた。但し当時は施設も悪く
危険が多かったので乗車券(乗車勘合証と称す)の裏面には人命を保証しない旨
注記され、表面様式は白色無地に横線が1本。行先により赤色・青色に
区別されていた。

                         続きます。

 追伸
  長谷川様、懐かしきを思い出させていただきましてありがとうございます。
  飯田様 、CPの調子が悪く、HPの隅々まで拝見していませんが、
      素晴らしいHPで感動しております。

(211)山史 (2) 投稿者:今井 一郎  投稿日:11月30日(月)13時18分00秒

「山史」 三菱大夕張鉄道

第2章 南部時代

  1、開闢

 明治21年夕張炭田の大露頭発見以来、附近炭砿の開発が盛となり、
二股(現南大夕張)夕張川岸15尺露頭が発見されたが、地形峻険
にして輸送困難のため開発は進まなかった。
 明治31年頃、福山某がこれの試掘権を得てより福山抗と称されたが、
その後数名の手を経て川崎茂実の名義となり、これが開発の目的を
もって明治39年1月18日、逓信省鉄道局に対し清水沢・二股間5哩40鎖の
専用鉄同敷設免許の申請を提出せり
 明治39年6月 坂本則義を社長とする京都合資会社が組織され、
権利一切を譲り受け炭砿事業に着手。同時に専用鉄道の前段としての
馬鉄工事施工中、明治39年8月2日、鉄第884号をもって
専用鉄道敷設免許権を得た。
 明治39年10月 京都合資会社が夕張川岸15尺露頭を目標に
福山抗を開坑、更に同坑の北方10数町、滝ノ沢上流に滝ノ沢抗を開坑、
二股に事務所と貯炭場を設ける等内外の設備を整えたが、
 明治40年7月 京都合資会社は炭坑部門(含鉄道)を分離独立させ
株式組織とし、夕張炭砿株式会社と命名。権利一切を譲渡。
更に福山抗の附近に錦抗を穿ち馬鉄工事も着々と進められた。

2、 馬鉄
 
 明治39年6月以来、夕張炭砿株式会社により施工中の馬鉄工事は、
明治40年8月完成、石炭の搬出が開始された。
 その後、明治42年9月、大夕張炭砿株式会社と社名を改称し、
 明治44年6月1日、専用鉄道が敷設される迄4ヶ年に亘り
馬鉄をもって、二股在住請負人、佐藤庄太郎をして石炭の
搬出を行わしめた。
 当時の運炭方法は、輓馬又は自転車道(エンドレス)により
抗口から選炭場へ運び、バースクリンにて塊、粉に別ち、
馬鉄をもって省線清水沢駅に輸送し鉄道の貨車に積替え市場に搬出した。
 馬鉄は5哩40鎖、軌条は45封度、軌間2呎6吋の単線であるが、
二股の選炭場、清水沢の石炭積込場及び中小屋(現遠幌駅構内附近)
には行違線を設け、遠幌加別川には吊り橋が架けられ、葡萄山の
断崖は難所であった。
 その昔、山道を徒歩で葡萄山を登り、葡萄蔓を伝って断崖を
下り川岸を迂廻して中小屋に達したが、この断崖を人呼んで
葡萄蔦と称し、これが葡萄山の語源である。
 当時の馬は俗に道産子馬と呼ばれる和種で、1頭20円乃至50円。
4歩積又は5歩積トロリー5両を連結して牽引。下り勾配で加速、
惰力をもって上り勾配を上る波状の連続とし、制動装置としては
鋼棒を車輪に差込み、更に馬夫が挺子を引く木製の棒であり、
これは数日にして更換しなければならなかった。
 5両のトロリーに2屯の石炭を積込み「送り」という送状を携行
5哩の道程を運搬して70銭、1日2往復で1日1円40銭。
40数頭の隊列をもって清水沢迄山中を運搬する様は当時としては
見事なものであった。
 後に至り輓馬の疲労を考慮し、輸送区間を中小屋で2分し
中継のことゝした。
 当時の労賃は1日30銭。馬糧の燕麦が1俵80円という。
 冬季降雪期には2屯積の馬艝をもって運搬したが、
大雪に見舞われ数日間、又10数日間も輸送中止すること屡々であった。
 清水沢の貯炭場は盛土とし、積込場(現清水沢駅構内日通営業所附近)
に炭台を設け貨車積を行った。

                             つづきます。

(210)サッカーボールの思いで 投稿者:成松 泰彦  投稿日:11月29日(日)11時04分24秒

中学3年の修学旅行が終わってすぐに転校する事を知っていたが、
友人には知らせていなかった。6月の事だった。
そんな当の本人も、転校の事を知らされたのは、わずか2週間ほど前の事で心の
準備がいた。
何か自分の思い出を残していきたかった。
休み時間になると中庭で男子も女子も輪になってバレーボールを落とさずに何回、
トス回しができるかに興じた。
そして放課後、グラウンドが空いていれば決まって、サッカーボールを借りてき
ては皆で走り回った。
ボールがない時をのぞいては・・・
だからサッカーボールとバレーボールを贈った。
皆はすぐにボールに『3−B』と記してくれて、僕の名前も入れてくれた。

昨日、Jリーグのチャンピオンシップで鹿島アントラーズが王者に輝いた。
Jリーグ発足当時から『鹿島』という名前の響きにひかれて応援してきた。
こんな鹿島馬鹿がいてもいいかなと、思う。
そして、中学校のあのときのボールの事が蘇ってきたのです。

(209)『山史』の連載楽しみにしています。 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月27日(金)00時15分31秒

三菱大夕張鉄道の歴史を記した『山史』なるものの存在を以前,耳にしたことがあり
ます。一度見てみたいと思っていても,なかなかその機会に恵まれませんでした。
そんな貴重な資料が,今井さんのお力で,この掲示板で読むことができるなんて本当に
感激です。ありがとうございます。
小説も書かれているとのこと,完成したらぜひ,読ませてくださいね。
私も『大夕張の記憶』をいつまでも残せるようなHPをみなさんと共につくっていけ
たらと思っています。きっと今井さんと思いは同じですね。
こちらこそ,よろしくお願いします。

(208)はじめまして 投稿者:今井 一郎  投稿日:11月26日(木)23時21分46秒

 はじめまして。
 私は、昭和59年〜62年まで三菱石炭鉱業鉄道課(三菱石炭鉱業鉄道)
の南大夕張駅で勤務をしていました。
 合理化で鉄道が廃線なり、ほぼ同時に希望退職し(間に他職あり)現在は
江別市で損害保険の代理店で生計を立てています。
 私は今、コンピューターでふたつの作業を職以外に行っています。
 ひとつは、南部に住んでいた頃より書いてきた小説を完了すること。
 これには、私と夕張の思い出のつもりで書いています。
 ふたつは、鉄道在職中、南大夕張駅にあったゼロックス刷りの「山史」
なる、三菱鉱業大夕張鉄道の明治39年〜昭和38年史を活字化して、鉄道だけではなく、
大夕張の歴史を後世に残すことです。
 「山史」は、当時、出始めの単漢字変換16ドットのワープロで打っていましたが
能率が非常に悪く、そのうち廃線となり、私物化してしまいました。
 それ故、これが消滅してしまったら私の責任と、使命感をもって打ち直しをしています。
 30年の歳月を経たゼロックス故、文字が消えかかっている個所も多く苦労していますが、
少しづつ大夕張掲示板に載せさせていただきたいと思いますので宜しく
お願いいたします。

     山史

 自、明治39年
 至、昭和38年 58年史

第1編 沿革

第1章 概論
  明治39年1月18日 二股(現南大夕張)福山抗の試掘権を有する
 川崎茂実が逓信省鉄道局に対し、清水沢・二股間5哩40鎖の専用鉄道 
 敷設免許を申請するに始まり
  明治39年6月 京都合資会社が組織され権利一切を譲り受け
  明治39年8月2日 鉄第884号をもって専用鉄道敷設免許を受け
  明治40年7月 京都合資会社、炭坑部門を分離独立させ、夕張炭砿
 株式会社と改称
  明治44年6月1日 鉄道院運転管理の下に専用鉄道として運転を開
 始せり 

   明治46年6月 三菱合資会社が大夕張炭砿に資本投入、共同経営と
  なり
   大正5年2月17日 三菱合資会社、大夕張炭砿株式会社を吸収合併
  し、炭坑部の美唄砿業所の管理下に大夕張坑と称し
   大正7年4月10日 三菱合資会社は炭坑部を分離独立させ三菱鉱業
  株式会社設立す

   大正15年8月 北部開発の議起こり
   大正15年11月 南大夕張・通洞(現大夕張炭山)間6哩10鎖専用
  鉄道延長工事着手
   昭和2年6月10日   大夕張砿業所独立
   昭和3年11月27日  北部延長工事完了
   昭和4年5月15日   北部延長線の運転認可を受け
   昭和4年6月1日   清水沢・通洞間10哩65鎖専用鉄道として
  自営運転を開始す
   昭和14年4月20日  地方鉄道、三菱会社線として営業開始。車扱
  貨物の連絡運輸を実施
   昭和20年9月1日   鉄道課設置し
   昭和22年1月16日  国鉄清水沢駅に乗入れ、新清水沢駅を廃止し
  て清水沢駅を共同使用駅とす
   昭和32年5月より昭和37年10月に至り、二股ダム建設に伴う鉄道
  移設工事を完了。道立公園シューパロ湖を具え南大夕張・明石町駅間6
  粁の様相を一変せり

                    続きます。

(207)住民登録『南部』追加しました 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月25日(水)21時08分48秒

今日,住人登録してくださった今井さん,ありがとうございます。
ご指摘のように確かに南部と鹿島は切り離せない土地ですよね。
昭和45年頃から南部の新鉱開発のため,当時の親友も親の移動
に伴い転校していってしまい,さびしい思いもしました。
親友を訪ねて,幌南町の社宅に何度か遊びに行った記憶もあります。
その時,山が間近までせまる大夕張に比べて,ずいぶんと広く,開
放的な印象をもちました。

さっそく,『大夕張のご縁』の所に,『南部』を追加しておきました。

今井さんは,元三菱の鉄道マンでいらしたということですが,今後,
よろしければ三菱大夕張鉄道についてのお話などうかがうことができたら
と,思っています。
よろしくお願いいたします。

(206)大夕張神社の丘の黄色いハンカチ 投稿者:飯田 雅人  投稿日:11月24日(火)19時49分47秒

 以前,鹿中26期の大きな黄色いハンカチのことが話題になっていました。
私が6月に大夕張の神社の丘に立った時,数枚のハンカチが色あせながらも,しっかり
風になびいていました。字は風雨に打たれ薄くなっていました。でも,読んでいくと,
短い一言一言にそれぞれの方の胸の内が,伝わってくるような気がしました。
-------------------------------------------------------------------------------

  この丘は わが人生の牧場なり
                       斉藤勝男
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  今日には 大夕張へみんなできました
                       石名坂 久雄
                         1997.11.24
-------------------------------------------------------------------------------

  こんにちは 大夕張 そして さようなら大夕張
                           小谷 政行 吉田 康子
-------------------------------------------------------------------------------

  大夕張がダムに沈んでも 鹿島中学校 三五会の 
                 仲間の心は ここに残っています
-------------------------------------------------------------------------------

  故郷は 遠くにありて 思うもの

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 ちぎれんばかりの強い風を受けているすっかり色褪せた何本もの黄色いハンカチを見
ていると,一つ一つの旗を故郷の丘につなぎとめた方々の思いがそこに重なりました。

(205)こんにちは 投稿者:ムンク白井  投稿日:11月21日(土)12時00分10秒

こんにちは、米子のムンクです。ここのかき込みを見ただけで、
なんだかとても暖かいものが伝わってきますね。
わたしも池田食堂のラーメン食べてみたかったです。
またおじゃまします。

http://www.apionet.or.jp/~shirai/

(204)お化け神社の思いで 投稿者:成松 泰彦  投稿日:11月17日(火)23時20分10秒

神社にテニスコート横から登って行く・・・
坂道の最初の踊場、「く」の字の曲がり角から真上に、知る人ぞ知る抜け
道があった。
草薮を押し分けて入ると、そこには小さいがクラスメートが集まれる広場
があった。
そこが僕らの小学校時代の思い出の溜まり場で「お化け神社」と呼ばれて
いた。
放課後、そこにクラスメートが集まってくる。男の子も女の子も・・・ 
そしてドロボーと警察に分かれて、かくれんぼが始まる。
きゃぁ〜。きゃぁ〜。言いながら、850の方角に太陽がゆっくり沈んでい
くまで・・・  遊んだよなぁ〜。
確かあそこに立派なオンコの木があったと記憶している。
ところでなんで『お化け神社』って言ったんだろう???。

(203)池田屋食堂のおばさんも参加します 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:11月12日(木)21時37分15秒

以前にお知らせした12月5日の交流会の件ですが,現在人気投票第3位に輝く池田
屋食堂のおばさんが,特別参加してくださいます。
大夕張に住んでいた方は,皆さん池田屋食堂のラーメンを食べたことがあると思いま
す。
おばさんはご健在で,今でも週末は近くの食堂で働いているとのことです。当日は僕
と同級生の娘さんと一緒に千歳市から来ていただける事になりました。
もう大夕張には当時を物語る建物はなくなりましたが,池田屋食堂のおばさんは,衰
退期にあった私達のふるさとをぎりぎりまで守ってくださった方です。
ぜひおばさんを囲んでふるさとの味を思い出してみませんか。
もちろん,おばさんはこのHPのことはご存知です。
そろそろ人員集約をしたいと思いますので,皆さんの参加をよろしくお願いします。

【開催日時】12月5日(土)18:00
【開催場所】札幌市内(参加申込み者に直接連絡します)
【申込み先】斎藤 敏幸:toshi31.saito@nifty.ne.jp
        佐藤 次男:t-sato@north-wind.ne.jp

(202)26期卒業生からのお願いです 投稿者:中島 早苗  投稿日:11月11日(水)13時27分09秒

 鹿島中第26期卒業生の同期会(関東版)は、東京渋谷の
「銀杏荘」という鹿島旅館を想像させるような、小さな旅館で開催
されました。
(残念ながら、鹿島旅館に入ったことのある同級生は一人もいま
せんでしたが・・・)
またもや、徹夜の大宴会でした。
現在、千葉市に住んで居られる山村金太郎先生をはじめ、北海
道から九州まで全国に散らばる友人達が集まりました。
中には32〜3年ぶりという人もいました。
というのも、私達26期生の同期会は
S32.4.2〜33.4.1までに生まれていて、一日でも鹿島小、
東小、鹿島中のいづれかに居た人ならば、途中で転校されて行
った方達でも、第26期卒業生なのです。
もし、これを読んでいて「私も?」と思われた方がいらっしゃった
ならば、ぜひ!ご連絡下さい。
この場を借りてお願いいたします。
次回から必ず、お知らせをお送りいたします。

「楽しかった同期会」の報告はまた次の機会に投稿させて頂き
ますネ。

(201)坂本弁護士の奥様について 投稿者:乗田 功一  投稿日:11月05日(木)00時18分36秒

オウム事件で坂本弁護士一家が犠牲となるという忌まわしい事件からち
ょうど9年ということですが、弁護士の瀧澤秀俊さんがこの事件をテー
マにしたHPを立ちあげています。
(http://www.dtinet.or.jp/~takizawa/)

その中で「都子さんへの追悼文集」というページに、18年前、坂本弁
護士の奥様である都子さんが立教大学在学中にボランティアで大夕張で
活動されたことが書かれています。
(http://www.dtinet.or.jp/~takizawa/satokotuiou.html)

立教大学生が大夕張でボランティア活動を行ったということは、以前こ
の掲示板でKAZさんが詳しく書いて下さったので知っておりましたが、
あの坂本弁護士の奥様がそのメンバーだったということにとても驚きま
した。

スキー場の草刈りや廃線後の駅舎のペンキ塗りなど、都子さんが過疎の
地域活性のために真剣に、そして精力的に取り組まれていたことが語ら
れており、都子さんのすばらしい人柄が伝わってきます。

ぜひ、ご覧になってください。

亡くなられた坂本弁護士ご一家のご冥福をあらためてお祈りいたします。

(200)同期会に行きました 投稿者:池田 憲治  投稿日:11月04日(水)15時52分32秒

10月3日から5日まで中学第7期卒業生の同期会がありました。
北海道から40名。その他50名。男女半々です。
横浜プリンスホテル、熱海シーサイドリゾートで行い、その後急に仲の良いのと
四国に渡り琴平参りまでやりました。北海道の人間がまだ数人いたので、東海地区
の者がまた名古屋で集まり丑三つ時も忘れて話をしました。大体が、ガムのかわり
にコールタールをかじったなあという他愛も無い昔話です。自分は今
怪我をして休んでおり、退屈で飯田さんのHPで中学校の平面図をみていると
いろんな事が思い出されてきました。
調理場の位置が自分の記憶と、ずいぶん違っていたり、先生と宿直室で遅くまで
話をしたり、玄関の横の池で解剖用のカエルを取ったことや、ついでに
小使いさんの飼っていた猫を解剖した者まで思い出したりと結構楽しませて
もらいました。以前千歳町の住宅地図があったのは、何処へいったでしょうか。

(199)ざりがにの思いで 投稿者:成松 泰彦  投稿日:11月03日(火)23時15分41秒

岡本さんの書き込みで思い出しました。
弥生町からべんじょば球場への近道があった、あった。
そう言えばありましたよね。風化された岩肌の直線に近い葛折りの道が…
その下に小さな涌き水が湧いていて、そしてそこにはたくさんの生き物がいた。
僕らのねらいは真っ赤なザリガニでした。
あの涌き水も、中学の頃の記憶にはないんですよね。
でも、いま岡本さんのおかげで心の奥からふつふつと、あのきれいな冷たい清水が
湧きあがってきています。ありがとうございました。

三角山って言ったんでしたね。その思いではまたの機会に…
《チャットの皆さん…昨夜、いや今朝はほんとに重たかったですね〜》

10月 先頭にもどる


(198)思い出のバス 投稿者:坂井郁夫  投稿日:10月31日(土)22時24分55秒

お久しぶりです。初めての皆様こんにちは。大夕張ファンの坂井といいます。
今日、友人と共に大夕張の地を訪れました。
半年ぶりの訪問ですが、永い眠りにつこうとする時の流れに、唖然としています。
寂しげな目をしていた野良猫はどうなったのだろうか・・・・

後日改めて報告させていただきますが、最盛期を走っていた美鉄バス(S42製)
が、深い眠りについてから10年、今日目が覚めました。友人の努力のおかげで、
場所は変わりますがその姿をとどめることが出来そうです。私達夫婦が、永遠の
誓いをした大夕張の地を、いつまでも私達なりにとどめることが出来そうです。

(197)こんばんわ 投稿者:くりりん  投稿日:10月30日(金)21時32分12秒

ページは以前からおじゃましてましたが、はじめて(たぶん)書き込みます。
北海道とは正反対の九州は三池炭鉱のお膝元の大牟田市からです。
どうも場違いのようですが、ときどきまいりますので、、、

http://www.ariake.net

(196)便所場球場 投稿者:岡本雅志  投稿日:10月30日(金)20時33分18秒

皆さんこんにちわ。久しぶりに投稿します。
成松さんの投稿で話題に出た便所場球場の由来は次の通りです。
春日町側の吊り橋の先、弥生町の崖下の近辺に「大久保組」がありました。
その昔、回収後の処理を夕張川を使って行っていたようです。ここまでお話をすればピンとくるでしょう。
私も便所場球場でよく野球の試合を行いました。私は代々木町に住んでいたので
春日町の人々と試合をするときこの球場を使わせてもらいました。
たしか「大久保組」の近辺に湧き水があり、弥生町へ続く崖道を気合を入れて登った記憶があります。
便所場球場の東の山側の斜面を登って行くと三角山につながっていたと記憶しています。
いづれにしても懐かしい思い出がいっぱいです。
飯田さんのふるさと大夕張の写真で児童公園がありましたが、天理教の建物が見えています。
子供のころは狭い大夕張が広く感じられ、山の中腹に遠くから見える天理教の建物が幻想的に見えました。
今見ることのできない当時の現風景は「空気」や「におい」までよみがえらせてくれます。

(195)生の飯田さんにお会いできます 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:10月24日(土)22時39分27秒

このHPへのアクセス件数も14000を超えています。S38年当時の大夕張の
人口が14026人ですから,いつのまにかこの数字も追い越しています。
このままの勢いであれば,最盛期(S35年)の人口である18659の数字到達も
数ヶ月の内だと思います。
空間としての大夕張は静かに眠りにつこうとしていますが,その流れを止めるかのよ
うにこのHPは成長しつづけています。

この当りで,ここまでHPを手がけてくださった飯田さんの慰労と,いつもアクセス
している仲間の皆さんとで交流会を持ちたいと考え,佐藤次男さんと一緒に企画させ
ていただきたいと思います。飯田さんには昨夜佐藤さんと一緒にお会いし,承諾を得
ています。
沢山の方の参加をよろしくお願いいたします。

【開催日時】  12月5日(土)18:00〜
【開催場所】  札幌市内(会場等は後日申込み者に直接連絡します)
【申込み先】  斎藤 敏幸:toshi31.saito@nifty.ne.jp
         佐藤 次男:t-sato@north-wind.ne.jp

*申込みの際には,住所,電話番号も明記下さい。

(194)べんじょば球場の思いで 投稿者:成松 泰彦  投稿日:10月24日(土)00時14分33秒

 緑町と弥生町との境界の道路を春日町の方に降りていくと、つり橋が
あったのを覚えていらっしゃいますか?
そのつり橋を渡ったところの球場がなぜかしら《べんじょば球場》と、
呼ばれていました。
どうして、そう呼ばれていたのかはわかりませんが…
 投票所に思いでの場所として推薦さていただきました。
 
 私の父はハンターでもありまして、熊が出没したという連絡が入れば
熊退治に出かけて、よく射止めてきたものです。
当時の《MG-5》という整髪料のコマーシャルに草刈正雄さんと一緒に
ブルーチックハウンドという大型犬が登場していたのを覚えておられませんか?
101匹ワンちゃんのダルメシアンに毛を長くしたような猟犬なのですが…
その犬が私の家に猟犬として飼われており、父と毎日のように訓練をしに
そのべんじょば球場に出かけていったものです。

 七夕祭りには、使用した短冊がぶら下がったままの柳の樹を兄と隣の吉田の
たかちゃんとべんじょば球場まで持って行き、つり橋の上から川に流したのを覚えています。

 また、当時はU−コンが流行っていましたよね。
友人たちと自慢の飛行機を飛ばしに行ったのもべんじょば球場でした。

 冬はその球場の山側の沢にダンボールを抱えて登り、真っ暗になるまで
尻すべりをしてしもやけだらけになったものです。
思いでいっぱいのべんじょば球場にもつり橋がはやくに取り壊されて
行く術がなくなりましたよね。

(193)教会の塾 投稿者:飯田 雅人  投稿日:10月22日(木)22時56分45秒

成松さんの書き込みを見て,神父さんの名前を懐かしく思い出すことができました。
私も,小学校高学年の頃,教会の塾に通っていました。成松さんと同時期です。何十人
もいましたから,その中にお互いきっといたのかもしれませんね。私もあの教会で塾に
通ったことは強く印象に残っています。
西牟田神父と河村先生。私の頭の中にお二人の顔や姿はあっても,名前は思い出せずに
いました。西牟田神父は,眉毛が濃く,体の大きい,体格ががっしりした方でしたね。
河村先生はやせてほっそりした小柄な先生という印象があります。私が教会の塾に通い
始めてからしばらくして,西牟田神父さんは,どこかにうつられて,背の高い白人の神
父さんがこられたように記憶しています。
当時,秋頃,ちょうど今頃の季節だったでしょうか,教会のお祈りをを終え,帰宅する
頃にはあたりはすでに真っ暗になっていました。鹿島小のグラウンドの土手を歩きなが
ら,ふと立ち止まり,空を見上げると,夜空一面に無数の星が瞬いていました。しばし
時間を忘れ,空を仰ぎ見ながら,教会で聞いた聖書の話を思い出だし,様々な空想を思
いめぐらせていたことがあります。
また,教会から帰った日に,好きだったTV番組『サンダーバード』を,見ていたという
ような記憶が残っているので,教会に通っていたのは日曜日だったような気もします。
HPのどこかに書いたかもしれませんが,クリスマスになると,クリスマスカードと十
字架のロザリオが売られていました。特にキリストの絵の描かれたきれいなクリスマス
カードが何種類かあって,その中からお気に入りを見つけるのも楽しみでした。

話は変わりますが,投票所に『べんじょば球場』が追加されていました。
そう言えば,あった,あった!と思わず声を上げてしまいました。
確かに,こう呼んでいた空き地(だったかな?)があった。でも,あぁどこだったんだ
ろう。場所が思い出せません。どなたか,ご存知ありませんか。

(192)教会の思いで 投稿者:成松 泰彦  投稿日:10月20日(火)21時33分29秒

 ご無沙汰いたしておりました。
いつも楽しく拝見させていただいております。
カトリック教会の事が出てきて、記憶がよみがえって来ました。
懐かしくなり、書き込みいたします。

 小学校4.5年生の頃しばらく、教会の 「日曜学校」 に、通っていました。
教会では塾もやっていて、週に2回ほど算数と英語を教わっていた記憶があります。
3時間目は、御堂に移りひざまづきミサを行い、讃美歌も歌っていました。

 当時の先生は、河村先生というやさしい女の先生で、神父さんは
「ジェームス・西牟田」さんといい、父の友人でもありました。

 7.8年前でしょうか、石狩で偶然その河村先生らしき方を見かけ(なにせ、20年振り
の事でもあり…私は小5以来1度もお会いしていない)声をかけましたところ
私の事を一目見るなり「やすひこちゃん!」と、覚えてくださっていて感激しました。
神父さんも元気にしておられました。石狩の幼稚園に今も居られると思います。

 以前、「大夕張の教会に青い目の外国人」というタイトルの記事を読んだ事があります。
きっとそれが、国際ボランティアの事だと思います。
 その頃前後してその教会に、同級生のお姉さんご夫妻が住んでいたはずです。
今調べていますのでお待ちください。
 先日、同期会の幹事を一緒にやった長谷川君から10月10日,大夕張に行ってきた旨
のメールと一緒に懐かしい夕張岳や中学校跡地の紅葉の様子が送られて来ました
友達って本当にありがたいですね。
 以前、お馴染みの早苗さんからも情報があったと思いますが、今年7月に我々が神社に
なびかせてきた、「鹿中第26期卒業生」の黄色いハンカチ(旗)はまだ元気に風にはためい
ていた様です。

 11月7日(土) 東京で我々の関東組み同期会が開催され、出席してきます。
もちろん、早苗さんも出席するでしょう。
関東組みメンバーとはなかなか会う機会もなく、当時早くに転校していった仲間とは30年
振りの再開になります。
今からワクワク楽しみです。

 飯田さんのホームページの事も皆に紹介して来ようと思っています。
あっ、それと彩木杏樹さんは僕らの同級生ですよね。きっと…調べてみますね。

(191)『湖風葬』  彩木杏樹  投稿者:飯田 雅人  投稿日:10月14日(水)21時10分37秒

これは,北海道地方だけの話題で申し訳ありませんが,道民雑誌
月刊『クォリティ』というのがあります。道内では結構有名な雑
誌です。
この雑誌の9月号から,『湖風葬』という題の小説が連載されて
います。朝日新聞社北海道支社主催の第18回らいらっく文学賞
最終候補作品だそうです。
題から想像される通り,作者の彩木杏樹(さいきあんじゅ…ペン
ネーム?)さんは,1957年9月,大夕張生まれ。
藤女子中〜藤女子大を経て現在,札幌在住の方だそうです。
この掲示板を読んでいる方の中にも同級生の方がいるかもしれま
せんね。
現在,11月号迄出ていて,千年町の三吉神社あたりの話が出て
きているそうです。
----------------------------------------------------------
奥山道紀さんから情報をいただき,さっそく掲示板に書き込みま
した。奥山さん,ありがとうございました。

尚,私は9月号からバックナンバーを注文しました。参考までに,
発行は 株式会社太陽 011-644-0101(代表)です。

(190)昭和50年代の大夕張と大聖寺 投稿者:飯田 雅人  投稿日:10月12日(月)20時15分19秒

KAZさんの投稿を読んで昭和50年代の大夕張の様子を垣間見ることができました。

昭和50年代は,閉山後とはいえ,まだ大夕張にも2000人前後の方々が住んでいた
ころですよね。昭和54年頃だと思いますが,炭鉱病院の建物も残っていました。あれ
だけ大きな病院だと思っていた炭鉱病院がその頃は,木材置き場のようなものになり,
限りなく廃屋に近い元病院の様子になんともいえない思いを持ちました。
喫茶店もありました。栄町商店街の三津野電気の隣の喫茶店『ひまわり』に入っておば
ちゃんがつくってくれたアイスコーヒーを飲んできたのも,その頃です。
当時,大夕張に行った時に見かけたのですが,鹿島小学校近くの通りに,白いペンキを
塗った板に『ICA国際ボランティア』という文字が書かれた細長い看板というか塔の
ようなものが立っていました。
そして,確か『元大夕張カトリック教会』がその本部(?)のようになっていたと思
います。ICAという団体がどのようなものか,今もよく知りませんが,その当時,
なぜこのような団体が大夕張に入ってきているのだろうと感じました。
いまにして思えば,これも過疎化の進む大夕張と積極的に交流をおこなっていこうとす
る動きだったのかもしれませんね。

大聖寺は,千年町にある寺院の中でも周囲を木々に囲まれた大きな寺院でした。
私の父が亡くなった時,法要を営んでくれたのも,札幌に出るに際してこちらのお寺を
紹介してくれたのも,この寺院の住職,萩野さんでした。

今年の7月に大夕張に向かっている時,継立の手前,国道の左側に新築中の寺院があり,
『大聖寺』の看板がかかっていました。おそらくそこに移転するのでしょうか。

KAZさんの解体法要の様子,今度アップする『大聖寺』のページに引用させてくださ
い。よろしくお願いします。

(189)はじめまして! 投稿者:KAZ  投稿日:10月09日(金)05時29分07秒

始めて投稿致します。
札幌市在住の27歳会社員です。
このHPは最近になってから偶然知りました。
私も一時大夕張に住んでいたことがあり、
懐かしさのあまりすべてのページを印刷し、
ファイリングして飾ってあります。
ありがとうございます。

諸々の事情で当時住んでいた札幌の団地から、親元を離れ祖父母の住んでいた大夕張に、
私一人預けられ、そこで幼年時代を過ごしました。昭和51年頃だと思います。
家は千年町にあり、場所はこちらのHPの千年町駅前付近地図の「婦人会館」の右手
側に「旅館」があると思いますが、まさにそこでした。(祖父が炭坑夫として退職したとき、
退職金で旅館跡の建物を買ったと聞かされています。)
当時、大夕張幼稚園に通っていましたが、卒園後札幌の父母のところに戻りました。
札幌で小学校入学しましたが、2年の冬にまた、大夕張の祖父母のもとに預けられ、
このあと高校を卒業するまで、10年間大夕張にいました。
ものごころがつきはじめたのは、この2回目の大夕張に来た時からのことで、これ以前
のことはあまり記憶にありませんが、既に人口は少なく、栄えていた昔の状況を想像す
ることはできませんでした。
私は鹿島小学校に編入しましたが(既に東小学校はありませんでした。幼稚園時代には
あったのに・・・)、人口流出が激しい時期だったらしく、次々と同級生が転校していきました。

当時、鹿島小学校は立教大学の学生と交流があったらしく、たびたび学生達が大夕張を訪れて
いました。私も立教のお兄さんお姉さんたちとの遊び、会話がとても楽しく、帰ってしまったあとも
次回の来訪を心待ちにしていた記憶があります。月に一度送られてくる壁新聞「立教メロン新聞」
も、立教大学の近況がおもしろおかしく描かれており、とても楽しくよんだものです。
・・・・・・・・・・・・・・
先日、千年町大聖寺の解体法要に行ってきました。
自宅が取り壊された今、大夕張とのつながりはこれが最後、と
さびしい気持ちで向かったのですが、現地では今まで経験したことも
ないような人だかりで、本堂には入ることはできませんでした。
本堂と母屋続きの大広間に、本堂の様子をモニターしている大型ディスプレイが
あり、その画面に向かって手を合わせ、「なにかちがうな」と思いながらも焼香しました。
既にその大広間も、人で満杯状態でしたが咳ひとつする者もいませんでした。このお寺の
お子さん達が廊下をはしゃいで走り回っていたのが、ひどく対照的に思いました。
本堂の様子、寺の外観をカメラにおさめ、暫く寺の敷地を歩いた後、ただなんとなく
桂沢経由で帰りました。

あ、5時だ。明日も仕事があるのでこれで失礼致します。
また、機会がありましたら、今度はきちんとした文章を書きますので
今回の乱文はお許しください。

以上

9月 先頭にもどる


(188)鹿島の施設 閉鎖 投稿者:飯田 雅人  投稿日:09月27日(日)12時16分56秒

昨日の北海道新聞夕刊に『鹿島の施設,水没で閉鎖』という見出しで小さな記事が出
ていました。内容は,住民の移転がほぼ終了し,鹿島連絡所が9月29日で閉鎖され,
10月末には,夕張署の鹿島駐在所も閉鎖されるというものでした。
6月に私が大夕張に行った際には,鹿島連絡所は,4月から火曜日のみ開いていると
の札が入り口にかかっており,少ないながら,まだ人は住んでいることをうかがわせま
した。
先日の乗田さんの投稿にもあるように,最後まで残った吉井さんも移られ,いよいよ
公的機関は完全に閉鎖ということになったのでしょう。
この先,大夕張は原野に戻り,そして水没。まるで,早送りの映像を見せつけるように,
時間を急ぎ,私たちの目の前から姿を消していくのです。

(186)昭和37年鹿島小卒 投稿者:小笠原 憲  投稿日:09月21日(月)14時13分42秒

内川さんの鹿島小37年卒という自己紹介を拝見して出て参りました。
わたしも37年梅組の卒業生です。
3階の階段の奥の教室でした。
担任は藤野先生、放課後催眠術をかけたり、猟銃を持ってきたり、と変わった
先生でした。
同級生には平川君、吉井君(薬局の)、原君などなど。
大夕張は小5−6の2年だけですが、立派な?卒業生です。
中学にあがるときに三笠市幾春別に引っ越し、ここの中学を卒業しましたが、こ
の中学校も閉山のため、廃校になってしまいました。
この夏、帰省した際に久しぶりに幾春別を訪れましたが、かつて東洋一を誇った
縦坑も廃墟化していました。
鹿島にせよ幾春別にせよ、20世紀の日本を支えてきた町が消滅してゆくことに
は複雑な感慨があります。

(185)9月の大夕張 投稿者:乗田 功一  投稿日:09月21日(月)00時21分21秒

久々の投稿は夕張からです。
6月以来3ヶ月ぶりに大夕張を見て周りました。
街の様子は3ヶ月前と大きく変わるところはありません。
大夕張駅前の商店街は、すでに6月の時点でほとんどの
建物が取り壊されていましたが、辛うじて残っていた吉
井快生堂さんの店舗がガソリンスタンドと共に取り壊し
の最中でした。
そして大夕張郵便局だけがポツンと取り残されてしまっ
ています。
ここ数年、大夕張を訪れるたびに立ち寄って、長い時間
話し込んでいた本間商店も、ちょっと薄暗い店内だった
大夕張生協も、保育園として使われていた児童会館も、
なにもかも2度と見ることはできません。
それらは最近の記憶ですが、実際には閉山でこの土地を
離れるまでの遠い記憶につながっています。
今こうして人気(ひとけ)の無くなったこの地に立つと
遠い昔の、あの活気に満ちた大夕張の街が、はたして現
実のものだったのか、夢の世界だったのか分からなくな
ります。
          「眠れ、眠れ!・・・・」

栂 苓子さんの『シューパロ川のほとり』の一節を思い
出してしまいました。

飯田さんと初めてお会いした大夕張神社の丘からの眺め
は、ポツンポツンとまばらに見える建物のほかは、勢い
良く走り抜ける車ばかりが目につくだけです。

鹿島小学校は特に変わった様子はありませんが、グラウ
ンドの一部分だけ草が刈られており、なにかの目的で利
用されているのでしょうか。
また、グラウンドの片隅には「鹿島小学校の記念碑」の
隣に「大夕張の碑」が完成しており、おそらくはダム湖
が完成してもこの場所は水没を免れるのでしょう。

日が沈み、辺りが暗くなり始めたころ、大夕張神社の裏
山から、鋭いキツネの泣き声が聞こえました。それを聞
いたとき思わず「ゾッ」としました。
人のいなくなった大夕張。そこは元々自然動物の生活の
場だったはず。住処を追われた動物たちが徐々に戻って
くるのでしょう。
建物が無くなっていまい、寂しさやむなしさを感じる以
上に、このキツネの声に衝撃を覚えた今回の大夕張旅行
でした。

(184)850の唄のことなど 投稿者:早坂治敏  投稿日:09月20日(日)14時54分13秒

3月の投稿から6ヶ月ぶりに投稿します。この間転勤やらで、ご無沙汰しました。
現在は富山に在住です。転勤してから、立山連峰の山々に登っております。
浄土山、雄山、大汝山、真砂岳、別山、剣岳等々です。
夕張岳には昭和37年に登っています。同じく850にも昭和37の冬に登ってい
ます。
ところで、2月27日の小笠原 憲さんの記事に850の唄の話がありましたので、
思い出した歌詞を以下に記述します。
1番)シューパロに風渡り、流れもぬるんで春が来る。幟(のぼり)はためく
山祭り、祈りかしこみ地熱の中に男度胸の花が咲く。
大夕張、よいとこ、炭坑の町ヨー。
2番)八五十の山々越えて夏が来る。待ちに待った盂蘭盆(うらぼん)の
櫓太鼓に心もかよう(ここのところは記憶があやしい)手拍子揃えば
気も揃う。大夕張よいとこ炭坑の町ヨー。

ところで、まったく話は変わりますが、最近投稿なさっている内川准一さんは恵美子
さんのお兄さんでは?
確か、弥生町1丁目13番地8舎に在住していたのではないかと記憶しております。

私は弥生町1丁目12番地6舎にいましたので、たぶん小学生の頃徒党を組ん
で遊んだ仲間だと推察します。因みに恵美子さんとは鹿島小学校で同学年でした
が・・・。

(183)もう一度・大夕張の元に 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:09月17日(木)22時57分28秒

今年の11月ごろに、1953年(昭和28年)生まれの同期生で会を持つ計画を
企画しています。
ところが、あまりにも長い時間が過ぎてしまったため、住所録の作成に苦慮してい
ます。
このHPをご覧になっている方で、同期の方がいらしたら、ぜひ連絡をください。
どんな形になるかわかりませんが、仲間たちと、とにかく継続的な歩みを作ってい
きたいと考えています。
どうぞもう一度、大夕張の名の元に、集まってみませんか。
連絡お待ちしております。

(182)思い出の啓心寮 投稿者:鈴木 美保子  投稿日:09月14日(月)16時03分43秒

 栃木県北部の那須町、黒磯市をおそった集中豪雨から二週間が過ぎましたが、
いまだに二名の行方不明者が発見されておりません。
私の住む、真岡市は被害はありませんでしたが、川はかなり増水し天災の恐ろ
しさを改めて感じさせられました。
那須にはスキーやキャンプなどで毎年行っています。
つい、数週間前にも家族で行って来たばかりでしたので、住民の方達のことが
気の毒で、とても心配です。

 飯田君(ごめんなさいね。同級生なので「君」で呼ばせて下さい)のお話で
『啓心寮』のことが出ていましたが、私達が高校三年生の初夏に、閉山が決定
し、親と離れて大夕張に残ることになった高校生のために用意された寄宿舎が
その『啓心寮』だったのです。
夕張東高、夕張南高、夕張工業高の1〜3年生、男女約70名が入寮しました。
私は8月から卒業までの7ヶ月位でしたが、「仲間」が沢山居たから、とても
楽しい寮生活でした。
唯一嫌なことと言えば、女子トイレが暗い廊下の奥の方にあって、毎晩怖い思
いをしながら行ったこと位です。
その当時、舎監として寮生達と共に生活して下さっていたのが、体育の田中憲
夫先生でした。
そちら、北海道では有名なお話かも知れませんが、その田中先生の娘さんが、
アトランタオリンピックの水泳で大活躍していた『田中雅美』選手だったん
ですよね。
そのことを、オリンピック直前に知りましたので、関東に居る同級生に電話
をかけまくり、応援していました。
次のシドニーオリンピックでも、是非頑張って欲しいです。
そして、ここで初めて知った方達も次は大きな応援をお願いします。

 大夕張には誰も居なくなってしまいますが、清水沢駅前商店街には心強い
同級生が数人住んでいます。
いつでも会えると思いますので、立ち寄ってみて下さい。

ダムに沈んでしまう前に、私達も家族でもう一度大夕張へ行ってみたいです。

(181)一年ぶりの投稿 投稿者:小林光志  投稿日:09月09日(水)23時11分48秒

みなさんこんにちは。久しぶりに投稿します。
飯田さんのHPは、1年前から比べると大夕張ゆかりの人達が活気よく
投稿しているのを懐かしく拝見しました。
22年生まれの私も51歳を越えました。
私の父も80歳をとうに越えました。(母も健在です)
しかし、大夕張の炭坑で本当に苦労した先輩達が一人一人欠けて行くのを
寂しく思います。
いまに本当に大夕張は、歴史にしか残らない故郷になるのでしょうか?
私の年代以上の人達がこのHPを見たら涙を流すでしょう。
なぜか、時間がたっても大夕張は、私の心の中では風化していません。
昭和40年夕張工業を出て東京の大学に来ましたが、今の生活基盤の文化は、
大夕張にあると信じています。
育ち盛りの20年代、30年代を鮮明に覚えています。
また、その時代の日本が一番激動の成長時代でした。
だからがんばってこられました。
こんな便利な世の中になって、みなさんの話を今すぐそばで聞いているようで
懐かしささえ感じています。
まだ若い者には負けないぞ、との気持ちで今も年相応にスキーを楽しんでいます。
死ぬ思いでのスキーの練習や貧しい時代を考えると、今は、本当に幸せです。
娘も26になり結婚しました。
坊主は、大学生で家には不在です。少し寂しいです。
大夕張がダムに沈んでも私のふるさとは、鹿島一番地です。
これからもみなさんの活気ある頼りを拝見させていただきます。

以上。

(180)三菱鉱業は大企業 投稿者:内川 准一  投稿日:09月09日(水)19時05分59秒

鹿島小学校を37年に卒業した者です。この掲示板をいつも楽しく
見させてもらっています。どうも有り難う。
たった12年住んだだけの大夕張が残り37年に住んだどの土地よりも
かけがえのないものになっているこの気持ちは、どなたにもきっと
分かってもらえることと思います。
で、一冊の本をご紹介します。大夕張について書かれたものではありませんが、
「会社の寿命」という、昭和60年のベストセラーです。
なにやらタイトルが今ふうですね。日本経済新聞社から出ていたものですが、
この本の巻末資料に三菱鉱業の名が出ているのです。
まず、明治44年の全国ランクの70番目に大夕張炭礦という名が出てきます。
時代は下って昭和8年には、なんと、8番目に三菱鉱業の名が出てきます。
18年にはそれが7番になり、私の生まれた翌年の25年でも8番と、
この頃は日本を代表する大企業だったことが分かります。それが昭和35年には
さすがに54番に後退し、以後ランキング表からも姿を消して行くのです。
日本経済が離陸した60年代の流れからはずれたのです。
しかしそれまでは羨望される一流企業だったはずです。
私も当時、大夕張から姿を消した一人ですが、ランク表を見ていてもいろいろ
なことが思い出されます。

「富士見町の社宅は広かったし、レンガづくりの2階建てアパートにはペチカがあった?彼らは勉強も良くできた」
「しかし弥生町の我が家には風呂も流しもトイレも無かった」
「官行の一角には営林署の官舎があったが、同じくらいひどい住いだった」
「風の又三郎の父親はそういえば鉱山技師だった」

後からできた明石町の社宅は広く、そこに子沢山の親戚が住んでいたことも思い出しました。

「過疎の正反対とも言えるあんな狭いところに、何という巨大な生産力が潜んでいたことか・・・・」
「そして何というエネルギッシュな中で育ってきたことか・・・・」

以前、こちらで紹介されていた本、「シューパロ川のほとり」を手に入れて
私の知らないいろんな大夕張を知ることができました。
私も誰かが昔をしのぶためのヒントにでもと思って投書(って言わない?)しました。
いつも楽しませてもらって有り難う。

(179)伊藤茂樹ちゃんのお母様へ 投稿者:飯田 彌惠子  投稿日:09月07日(月)22時19分46秒

先日はお電話ありがとうございました。その節は家にちょうどお客様がきていたので,
ゆっくりとお話できずに,大変失礼致しましたこと,お詫び致します。

受話器を置いてから,当時6丁目の家の隣りに住んでいらしたこと,はっきりと思い出
しました。
茂樹ちゃんと私の息子の直人は同級生でしたから,あれは,昭和35年のことと思いま
す。茂樹ちゃんが生まれた冬のある日,聞こえてきた奥さんの声にあわてて,縁側から
飛び出し,雪をかきわけ,かけつけたこと。
近所に住んでいた病院の岡田先生を呼んできて,無事,茂樹ちゃんが生まれたこと。
とても懐かしく思い出しました。

先日は,電話番号さえ伺うことさえ,失礼してしまいました。もう一度ゆっくりお話し
したいです。
もし,この掲示板を目にすることがありましたら,お手数をかけますが,メールを下さ
るか,もう一度お電話下さるようお願い致します。

息子に頼んで,この掲示板に載せてもらいました。よろしくお願い致します。

8月 先頭にもどる


(178)30年ぶりの再会 投稿者:佐藤 次男  投稿日:08月30日(日)18時39分12秒

 先日 この掲示板のおかげで連絡がとれた斉藤敏幸さんとすすきので
 会うことが出来ました。
 約30年ぶりの再会となり、私の兄のことや、大夕張のことなどで
 昔話にはながさき、話しても話しても話がつきない感じでした。

 こうして斉藤さんと再会できたのもひとえに飯田さんのおかげと
 感謝しております。また飯田さんさへよろしければ一度お会いしたいと
 思っております。本当にありがとう御座いました。
 (私のいとこ(佐藤孝志といい代々木町にいました)も2つ上なので
  飯田さんの同級生だと思います)

 また近いうちに今年7月に行った同窓会の報告もかねて投稿させて
 もらいたいと思っております。

(177)夢の中から突然に 投稿者:飯田 雅人  投稿日:08月16日(日)01時23分37秒

鈴木美保子さんのお名前を見て,びっくりしました。
遠い夢の中から,突然「ミホちゃん」があらわれて,
なつかしいやら,うれしいやら,なんだか不思議な気持ちです。
中島さんの旧姓鈴木という書き込みを見て,もしかしたらとは,
思ってはいたのですが・・・・・。

昨年,鹿島小に行った時,3階のもと6年竹組の教室に行って見ま
した。確か,中央の階段から2番目の教室でしたよね。
窓からは,まったくあの時と同じように夕張岳が見えていました。
あの教室の後ろにけんかをして何人かの仲間と立たされたことや,
家庭科の調理実習で野菜サラダをみんなでつくったこと。
4年生の時,産休で佐々木先生が休暇をとり,小林先生というやさ
しい先生が代わりにきたこと。
千年町の佐々木マサノ先生の家にみんなで遊びに行ったこと・・・。
一つ一つの光景がなつかしく思い出されます。
岩佐校長の理科の授業は,理科嫌いだった私にとってはとてもありがたい
ものでした。テストの時も丁寧に一問一問読みながら考えさせていって
くれたので,とてもわかりやすかったことを覚えています。
佐々木マサノ先生は,現在,退職されて札幌にお住まいになっています。
住所を見ると,私の家の近くのようです。今度一度,訪ねてみたいと思っ
ています。

小学校時代,鈴木さんをはじめ,いろんな友達と遊んでいました。
鈴木さんのご主人の橋本くんとも,いつか富士見町の啓心寮の空き地で,
何人かでグローブとバットを手に一緒に遊んだことがありました。
私にとって,小学校時代は,純粋で,いろんな友達と遊び,楽しく過ごした
時代だったような気がします。

いつかこの掲示板でかつての同級生と巡り合えたら・・・,そして大夕張の
ことを話せたら・・・初めはそんな夢みたいに思っていたことが,とうとう
現実のものになりました。こんなにうれしいことはありません。
鈴木さん,そして,中島さん本当にありがとうございました。

------------------------------------------------------------------
最近,掲示板の方にも新しく書き込まれる方が増えて,心強いです。
あたらしいお名前が見えるたびに,心の中の大夕張を大切にしようとして
いる仲間がここにもいるんだ,と励まされます。この気持ちはこれを読んで
下さっているみなさん共通のものだと思います。
現実の大夕張は,たとえ地図からなくなっても,私の心の中にある大夕張は
いつまでも大切にしていきたいと思います。そして,この場がそんな皆さん
の交流の場の一つとなれば,私にとっても大きな喜びです。
みなさん,これからもよろしくお願いします。

(176)感激と感謝の気持ちでいっぱいです。 投稿者:佐藤次男  投稿日:08月15日(土)22時20分52秒

飯田さん、初めまして。
私は、鹿島中学校第26期の卒業生です。(昭和32年生まれです。)
大夕張には高校の1年の1学期までいて、閉山の年の8月に神奈川県藤沢市に引っ越しました。
 (今は北海道に戻ってきていて恵庭に住んでいます。)
当時は、栄町2丁目16番地の7に住んでいました。(栄町ブロックです。)

私が、このH・Pをみつけたのが今年の2月頃のことです。
会社でYahooの検索欄に、まさかないよなと思いながら「大夕張」の3文字を打ち込んだあと、
「ふるさと大夕張」が表示されたときは、とても興奮を覚えました。
掲示板に何度か、投稿しようかと思いながら延び延びになってしまい、中島早苗さんや成松泰彦くんに
先を越された形になってしまいました。

実は先日東京に出張に行っていたのですが、私の携帯電話に早苗さんから伝言が入っていて「飯田さんの
H.Pの掲示板を見てください」とあり、出張先の会社のコンピュータから掲示板を覗くと兄のことが
のっているではありませんか。
前々から斉藤敏幸さんて、当時住んでいたブロックの二つ裏の棟にいた兄の同級生の方ではと思っていたのですが
兄が亡くなったのは、私が小学校5年生で兄が中学校3年生の6月のことでした。
あれから30年経とうとしているのに兄のことを忘れずにいて下さったことに、
感激と感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございます。

また飯田さんには、こういう出会いの場を設けて下さったことに感謝しております。
本当にありがとうございます。
これからも継続的に投稿したいと思いますのでよろしくお願いいたします。

(175)私、同級生です。 投稿者:鈴木美保子  投稿日:08月15日(土)02時13分41秒

 飯田君、お久しぶりです。
鹿島小学校四、五、六年生の時、竹組だった「鈴木」です。
覚えていますか?
 妹が同期会で夕張へ行った事から、飯田君のこのHPを
知りました。
『マーちゃん』と呼ばれていましたよね。
担任は佐々木マサノ先生で、とてもまとまりのある、仲の
好いクラスでしたよね。
理科の時間には、岩佐校長先生が特別授業として、色んな
実験をして下さったりして・・・
懐かしいです。

 私達の学年には同級生カップルが多いのですが、私達夫
婦もその中の一組です。
旦那様は橋本君です。スキー部にいた彼です。
菊地君、北構君、馬渕君、斉藤君達と一緒にスキーをやっ
ていました。

 江端塾のお話も出ていましたが、私も通っていました。
暗記や宿題、バツ書きに追われていた毎日でしたよね。
いまだに夢を見て、慌ててしまうことがあります。
『悪夢』です。

 北海道を離れて二十五年にもなるのに、夢に見るのは
『大夕張』の景色ばかりです。
スキー場、栄町のお風呂、そろばんを習った集会所等々。

 閉山によってみんながバラバラになり、その上、故郷
そのものが水没してしまうなんて、あまりにも寂しい話
です。
でも、無くなってしまうからこそ、改めて故郷《大夕張》
が蘇り、こうしてメールの輪が広がって行くのでしょう
ね。とても嬉しく思いました。
マーちゃん、ありがとう!!

(174)母校の廃校 投稿者:阿久津 誠  投稿日:08月14日(金)17時29分59秒

始めての投稿です。
私は大夕張の出身ではありませんが、夕張東高校の卒業生です。
卒業年度は1968年か1969年です。(今私の手元には、資料が
なにもありません。卒業アルバムも・・・)出身中学は幌南中学です。

飯田さんのHPを見つけ懐かしさと寂しさを感じ思い切って投稿しました。
もう、何年も前からですが春、夏の高校野球が始まるころになると南空知地区の
”夕張東”を探しても見当たらなくなりました。
冗談で友人たちに”炭坑の街なんで閉山で高校も廃校かな”そんな事を話していました。
HPで15年も前に廃校になっていたなんて、本当に知りませんでした。
大夕張には住んではいませんでしたが、親類が栄町に居た関係で良く知っています。
北夕と言う所から南大夕張駅より明石町までの汽車通学も今となっては本当
に懐かしい思い出です。
HPを隅から隅まで見させて頂きました。ダムに沈む事も知りませんでしたし
自分がタイムスリップしてしばらく見入っていました。
これからも、機会が有ればHP見させて頂きます。有り難うございます。

(173)思い出を語りたい 投稿者:成松 泰彦  投稿日:08月13日(木)00時04分57秒

 早苗さん、次男君、そして皆さんこんにちは。
私は15歳まで緑町にすんでいました。
地図でいうと弥生町編に私の住まいがありました。
小幡雅之君や松島賢己君、木俊明君など懐かしい同級生の
家の名前も残っていました。
本当に懐かしい限りです。

中学3年の1学期半ばに転校してしまいましたが、
気持ちは鹿島中学校26期卒業生のつもりです。
今回、同期会を開催しましたがその中の住所録にも
3-B卒業生として名前を載せてもらいました。
そして幹事までやらせてもらって・・・。

同期会からひとつきが経とうとしています。
出席できなかった全国の仲間達にも、思い出に浸ってもらおうと思い
幹事の仲間の長谷川君から住所録を送ってもらいました。
写真も出来上がりましたので首を長くして待っている仲間に
送れそうです。

こうやってダムに沈む故郷「大夕張」について
全国の仲間達と語り合えて本当にうれしい限りです。

次男君も出張から帰りましたら幹事仲間が集まって
反省会をするつもりです。

(172)感激です 投稿者:中島 早苗  投稿日:08月12日(水)00時49分14秒

 斉藤さん、ありがとうございます。
私も感激しました。
真面目に、ひたむきに生きた彼、『佐藤秀美さん』は
次男ちゃんのお兄さんです。
次男ちゃんも、幼かった自分と遊んでくれた斉藤さんが
覚えていてくれたことを大変喜んでいました。

 実は、8/10〜14日まで出張で次男ちゃんは東京に来て
いるのです。
8/10は北海道からの移動日で、夜は時間が空いているっ
てことで・・・ 
「次男ちゃんが来るよ〜」のTEL一本で『大夕張』の
仲間たちが「あっ」という間に13人、恵比寿に集合しま
した。
そんなわけで斉藤さんの書き込みも他社のコンピュータ
ーでこっそりと・・・・
 北海道に戻ってからマイコンピューターでメールする
そうです。
楽しみにしていて下さい。

(171)ひたむきに・生きた・君 投稿者:斎藤敏幸  投稿日:08月10日(月)15時53分06秒

私が、栄町APに住んでいた頃、二つ向こうの棟のAPに「佐藤ひ
でみ(秀美)」君という同級生が住んでいました。
彼は、何事にも真面目で、ひたむきさを持った少年でした。
家が近所のこともあり、互いの家に遊びに行ったこともありました。

彼との思い出で、いつも浮かんでくるのは、鹿島中学のマラソン
大会のことです。私が途中で歩き出すと「完走しないのは卑怯だ」
と言い、彼自身はきゃしゃな体で最後まで走り抜きました。

それから数ヶ月して、彼は病気で亡くなりました。確か、中学2年
の秋頃だったと思います。
その頃は、GSの全盛期でテンプターズの「エメラルドの伝説」が
流行っていました。
今でも、「エメラルドの伝説」を聞くと、佐藤秀美君と彼の言葉を思
い出します。

もう30年以上前の話ですが、中島早苗さんの書込みの中に、「
佐藤次男」さんという名前を見つけ、佐藤秀美君のことを思い出し
ました。
彼には4才年下の「次男」君という弟がいました。何回か3人で一
緒に遊んだことがありました。書込みの方が同一人物かわかりま
せんが、多分同世代だと思います。

30年以上も前に亡くなった友人ですが、中島早苗さんのお陰で
「佐藤秀美」君のことを大夕張掲示板に記すことができました。
ありがとうございます。

(170) はじめまして 投稿者:中島 早苗  投稿日:08月09日(日)00時12分05秒

 初めて書き込みをします。(チャットの方には四〜五回お邪魔させていただきましたが・・・)
私は現在、栃木県真岡市に住んでいます。
鹿島中学校第26期卒業生です。
飯田さんの二期年下で栄町に住んでいました。(旧姓鈴木です)
 7/18〜19日に、夕張の『ふれあい』で一晩中掛けての同期会に参加してきました。
更谷正博先生、藤田宗義先生、斉藤宏先生、山村金太郎先生、高田義孝先生方も
お元気な顔でご出席して下さいました。

 以前は学校だった『ふれあい』
同期会にはピッタリでした。だって、二次会はなんと体育館へ移動。
廊下へ聞こえるフォークダンスの曲、そして山村先生のあの声。
「君たち、まじめにやらんとダメじゃないか!!」しかもマイクまで持って・・・
ドッヂボールやバスケットボールに汗を流し、すっかり26年前にワープしてしまった。
まだ四十をすぎて間もない私たち、それでも息が上がってしまったというのに先生たちの
お若いのにはビックリしてしまいました。

 二日目はマイクロバス二台と自家用車数台が連なって、大夕張ツアーです。
鹿島小学校を見学し、校庭でボリューム満点のお弁当をご馳走になり、神社へ上りました。
神社から望む、あの夕張岳は雲に隠れたり顔を出したりしていましたが、変わらない姿で
私たちに語りかけてくれました。
みんなで、心を込めて寄せ書きをした『黄色いハンカチ』(大きなビニール製)。
私たちの小さな抵抗かも知れません。
神社にいつまでも残っていて欲しい。
 マイクロバスの一台目の運転手さんは、伊藤おもちゃ屋の学君でした。
楽しい観光案内をありがとうございました。
そして、『ふれあい』関係者の方、宿泊されていた一般のお客様、一晩中騒いですみませんでした。
この場をお借りしてお詫び致します。

 飯田さんのこのHPは同期会の幹事さんとして頑張ってくれた、佐藤次男君から教えてもらいました。
『大夕張』を知っている皆さんの心は一つに繋がっているような気がします。

(169)はじめまして 投稿者:Pasoko  投稿日:08月02日(日)02時59分07秒

infoseekで「+夕張 | 鹿島」で検索して見つけました。私が
鹿島地区がダムに沈むと知ったのは、97/7/24の朝日新聞夕刊1面の
「ダムに沈む「日本の近代」炭鉱の街 夕張・鹿島」という記事ででした。
そしてことしの北海道旅行で、国道沿いのところだけですが見てきました。
(7/19)
(まったく夕張とは縁がない人間なので、気が引けたのですが……)

http://www.linkclub.or.jp/~seiko/

7月 先頭にもどる


(168)29年ぶりにいった官行のダム 投稿者:飯田 雅人  投稿日:07月30日(木)11時34分26秒

先日,大夕張へ行ったとき,官行へいきました。舗装された道路からシューパロ川の方へ
向かってまがると,とんぼが飛び交う広い原野の中にかつての道路がありました。
道路を歩いていくといくと左手に発電所がありました。右のがけ下に元メタノール工場
だった建物が見えてきました。
道路わきには,赤く錆付いた道路標識がありました。シューパロ川の ザーと流れの音
に,道を歩きながら,かつてこの道を歩いたことがあるという確かな記憶が蘇りました。
右の崖を降りていく細い坂道がありました。木の葉が覆い薄暗い坂をおりていきました。
下に降りると木造のポンプ場の建物があり,今でも使われているようでした。湿地の上に
木道が通されて,歩けるようになっていました。それを伝っていくと,広い川いっぱいに
ひろがっている堰の前まで行くことができました。今から29年前,弟と友達の菊池くん
と3人でここに来て,父に写真をとってもらったことを思い出しました。この辺りの様子
も,ここに来てあらためて思い出しました。目の前の川端ダム,絶え間無く聞こえるザー
という水の流れる音,小鳥の鳴き声。それらの何もかも,あの時と変わっていないように
感じました。ここだけは昔のままでした。

(167)郵便局の思い出 投稿者:小笠原 憲  投稿日:07月28日(火)09時48分30秒

久しぶりで掲示板を覗きました。
昭和36−6年に鹿島に住んでいました。小学校5−6年です。鹿島小学校
の卒業生です。
煉瓦が張られた(記憶では)郵便局は当時の大夕張では一番モダンな感じの
建物でした。
親から貰ったお釣りの1円玉を900個集めて郵便局に持っていき、初めて
貯金通帳というものを手にしました。
電話も当時の大夕張ではダイヤルすらなくて、ハンドルをまわすと交換につ
ながるというものでした。市橋さんのお母さんの声を、わたしも受話器を通
して聞いたことがあるのかも知れません。
この夏は父親の見舞いで北海道に帰ります。時間があったら大夕張にも行っ
てみたいのですが、まだ行けるのでしょうか?

(166)私の両親は大夕張郵便局職員でした 投稿者:市橋 勝  投稿日:07月27日(月)12時09分28秒

 いよいよ、大夕張郵便局も閉鎖なのですね。
 小さい頃(昭和30後半〜40年代)、よく職場に連れられて親の仕事を覗きに行っ
てました。
 当時は、まだ電電公社(今のNTT)と未分離で、電話交換を郵便局でやっていまし
た。私の母は、その交換手でした。父のほうは配達員からその後事務仕事に移り、
郵便業務全般(小包や電報なども)をやっていたはずです。
 局に入ると、確かに薄暗くヒンヤリとした感じがしましたね。左手に確か赤電話
のボックスが設置されていて、郵便窓口と仕切られていたように記憶してます。
 私は、親に連れられて行くことが多かったので、郵便局の正面からではなく、裏
口からよく入ってました。中に入ると局員の方の休憩室などもあるのですが、そこ
に雀卓が置かれてあり、すぐ横の灰皿のタバコと、部屋に漂っていたタバコと汗く
さい匂いの、一種独特な雰囲気を覚えてます。職場という何か「大人の世界」の雰
囲気を感じていました。
 日曜日など、学校が休みの時に遊びに行くと、その休憩室でよく出前をとっても
らい、他の局員の方々と食事をしました。それがとても楽しかったことを覚えてま
す。
 私は、池田屋からラーメンとおにぎりをとってもらうのが定番でした。ラーメン
もおにぎりも残さずにたいらげてましたので、一緒に食べていた局員がよく驚いて
ました。
 醤油ラーメンとおにぎり。この組み合わせがとても美味しいことは、その頃知り
ましたが、この「好み」は今も変わっていません。

(165)大夕張郵便局 投稿者:飯田 雅人  投稿日:07月25日(土)09時32分54秒

私は生まれてから中学卒業までの15年間大夕張の地ですごしました。
(昭和31年〜昭和46年)当時は,炭坑の最盛期で,ほんとににぎやかでした。
大夕張郵便局では,子どもの頃,窓口で,よく手紙を出したり,切手を買ったりし
ました。
夏でもちょっと薄暗くて,ひんやりして落ち着いた感じがしていた郵便局の中を覚
えています。

子供の頃良く利用していた郵便局も,今までの何度かの大夕張の訪問でも訪ねたこ
とはありませんでした。そうするうちに今年の3月で閉鎖になってしまったという
ことをききました。とても残念なことをしたと思っています。

(164)初めまして 投稿者:杉渕 忠勝  投稿日:07月23日(木)14時14分59秒

初めまして、偶然にこのページを見つけました
実は僕は今年の1月12日まで、大夕張郵便局の
外務職員として約3年10ヶ月勤務していました
今は地元の岩見沢に住んでいます
色々な写真を見て懐かしく思います

つい先日車で大夕張を見に行ったら
まだ住民は住んでいるものの
ほとんど何もなく寂しい感じがします

また見に来ますのでよろしくお願いします

(163)すいません 投稿者:森田伸一  投稿日:07月18日(土)23時37分14秒

改行入れ忘れました。すみません
今は山梨県に住んでいます。
7月25〜28日に両親連れて沈む前の大夕張へ
行ってきます。帰ってきましたらレポートします。

(162)大夕張へ行ってきます 投稿者:森田伸一  投稿日:07月18日(土)23時28分30秒

私は昭和37年大夕張の栄町で生まれました。その後春日町に引越し、
小学校3年生まで大夕張に住んでいました。
閉山を前に炭坑夫の父は右目に重傷を負い失明してしまい炭坑夫の生命を
絶たれてしまいました。
鹿島を断腸の思いで離れることになったのです。父の無念な表情は今も忘れません。
汽車に乗って大夕張の駅を発つ時の寂しさ、見送りに来てくれた正木先生、
クラスのみんなの思いは27年の月日がながれた今も鮮明に覚えています。

(161)心の原風景 投稿者:菅井宏史  投稿日:07月12日(日)06時33分44秒

坂道、それも急で長い坂道を登っていると、ふと心が回りの景色から離れ、小
さい頃息を切らせてよく登っていた坂道のことなどが心に浮かんでくることが
以前から度々ありました。大夕張の坂道、「そういえばあの頃の生活にはいつ
も坂道があったなあ」と。
生まれたのが常盤町の一番山手にある住宅でした。山へ(東に)向う緩い坂を
右に行くと中学校、そこを左に行くと生まれた家がありました。そこには5歳
くらいまでしかいませんでしたので、あまりはっきりとした記憶というのはな
いのですが、その家に向かう坂道や家から千歳町方面へ行くときの吊り橋を渡
ってからの急な坂道、母に手を引かれていつも通っていたこれらの道の記憶は
今でも鮮明に残っています。
5歳くらいの頃、富士見町に引っ越しましたが、そこの家は6丁目の上の方で
したので、ここでもまた家に帰るときは(小学校方面からも炭山駅方面からも)
いつも坂道を登ることになりました。ついでに云うと母の実家が錦町の一番上
の方でしたので、そこに行くときも急な坂を登らねばなりませんでした。
何かを思い浮かべるときに、それに関して無意識のうちに浮かぶ情景(原風景
とでも云うのでしょうか?)というのが人それぞれあると思いますが、私の場
合、坂道という言葉を思い浮かべて出てくる情景が常盤町か富士見町のそれな
のです。この原風景は当然幼年期に形成されるのでしょうから、何かにつけて
出てくるこのような情景は当然大夕張のそれということになるのでしょう。だ
からといっていちいちその都度大夕張のことを思い出し、感傷に浸るというこ
とにはつながらないのですが。
例えば、今年の1月か2月頃のことですが(ちなみにまだこのHPを見つける以
前の話です)、4歳になる娘といっしょに「シャボン玉」の歌を歌っている時、
何故か心に浮かんできたのが常盤町時代の家から見える常盤町の町並みの風景
(その頃の私がこの娘と同じくらいの歳であることをその時改めて思いました
が)でした。よく考えてみるとこれは今回だけではなく、以前からこの歌を聞
いたり、歌ったりする度に心に浮かぶ風景であることに気が付きました。多分
当時、家の近くでシャボン玉をしながら見ていた風景なのでしょう。
これらに限らず、大夕張は今でも私に心の原風景なるものを色々と提供してく
れます。その故郷大夕張が消えて無くなってしまうなんて、文字通り「心の故
郷(心の中でのみの故郷)」と呼ぶしかなくなってしまうなんてあまりに寂し
すぎますね。
ただ思うのは、逆説的ですが、大夕張がこのような形で無くなることにならな
かったら、こんなすばらしいホームページも存在しなかったでしょうし、共に
故郷大夕張の思い出など色々と綴り合うということもなかったでしょう。なに
せ小学校4年までという子供の記憶に過ぎない大夕張のこと、このHPが私に知
らなかったことを色々と教えてくれるお陰で、私の心の中では故郷は寂れて無
くなるどころか、逆に大きく発展を遂げているといっても言いかもしれません。

(160)悲しいメロンの記憶 投稿者:市橋 勝  投稿日:07月07日(火)16時36分31秒

 久しぶりに投稿します。
 私は既に夕張を離れて18年、大夕張を離れて23年になります。
 でも、今でも夏になると、「あぁ、今年もメロンの時期が来たな。」と思わず思っ
てしまいます。「あぁ、今年もスイカの時期が来たな。」とは思わない。
 大夕張に住んでいたせいか、夏の記憶はやはりスイカではなくメロンなのです。

 先日、テレビで「夕張メロン城」から中継をしていて、メロン栽培の風景を映し
てくれていました。あのメロン城は丁未という地区にありますが、実は私は中学校
2〜3年の時にそこに住んでいたので、とても懐かしく拝見しました。(ただ、も
ちろん住居などは殆どなくなってましたので、すっかり周りの風景は変わってまし
たけど。)

 でも、私達が小学校の時に見学旅行に行ったメロン工場は、確か南清水沢にあっ
て、バスで見に行った記憶があります。メロンだけじゃなく、アスパラガスの缶詰
工場も見学させてもらいました。メロン畑の前で写した記念写真も、アルバムのど
こかに貼ってあったと思います。
 失礼な言い方ですが、当時夕張メロンはまだ「全国メジャー商品」ではなく、せ
いぜい北海道内の一部地域で知られていた程度だったと思います。当時から、赤肉
のとっても甘い味は少しも変わってませんでしたが。

 80年代頃から夕張メロンはだんだん本州地域でも知られるようになり、今や夕張
はメロンで有名になった感がありますよね。サントリーからも夕張メロンをブラン
ド名にした商品も出てますし。
 本州で「夕張って知ってる?」と聞くと、「メロンの街」と答える若者が圧倒
的です。「炭坑町(だった)」と答える人は、殆どいない。
 「夕張メロンは、夕張農協と炭坑マンの奥さん達が地道に栽培していたんだよ。
もともと夕張は炭坑で頑張っていた街なんだ。」などと言っても、「ふーん」と
いう反応。まぁ、無理もありませんが。
 人々の中に、メロンというとてもお洒落で、美味しい果物と結びつけられて夕
張が記憶されていることは、とてもいいことだと思ってます。炭坑町というイメー
ジだと暗くて、危なくて、汗くさいという記憶がどうしても強くなってしまいます
から。
 ただ、そうやって人々の中や、私達の中に、炭坑町の記憶が少しずつ風化してい
くことは、他方で悲しく、残念なことです。
 メロンという上品で、お洒落なものとの連想ではなく、私にとっては暗くて、汗
くさい、ドンヨリとした連想としての大夕張のほうが、ピッタリです。
 夕張メロンの広告を見ると、今でも何か複雑な郷愁の想いが去来します。

(159)鹿島に住んでいた人々 投稿者:飯田 雅人  投稿日:07月06日(月)23時45分43秒

 鹿島に住んでいた方々は,それぞれ移転先を見つけて移られているようです。
聞いた話では,札幌,同じ空知管内,夕張市内,それぞれのようです。(一応,清水沢
に移転先として市営住宅が立てられたそうですが)こちらのテレビ等でみると,年齢の
高い方々も多く,とても大変そうです。私が先月大夕張へ行ったときには,店もなく,
交通機関もなく,ほとんど町としての機能が無くなった中,まだ数戸残っており,その中
で千年町のあるお家の前で,老夫婦がお二人でふきをあらっていたのがなんとも言えない
光景でした。まだ移転先が決まらないのか,去り難いのか・・・・。

私は昨年の10月以来の訪問でしたが,この半年ちょっとで,閉山以来,またふたたび,
大夕張の時計が一気に何年分も進んでしまったように感じました。
しかも最期の時を刻んで・・・・。

(158)何年ぶりかしら 投稿者:高橋真美  投稿日:07月05日(日)19時44分57秒

今現在私は東京にすんでいます。生まれてから16年間過ごしてきた鹿島が
なくなるなんて、やっぱり悲しいですね。
住んでいたころは、札幌までなんでこんなにかかるの?とか、雑誌もなかなかてにはいら
なかったりと、不便な面ばかり見てました。
友達も急激に減っていて、うつりかわりが激しかったですね。
転校生がくると子供心にうれしかった記憶があります。
中学校は小学校と一緒になっていました。いま鹿島にいた人たちはどうしているのかしら?
鹿島にいた頃の思い出で代々木にあった映画館か壊されたところはよく覚えています。
お盆のお祭りも仮装大会はとてもたのしかったです。ダムに沈む前に一度いきたいものです。

(157)私の大夕張 投稿者:菅井宏史  投稿日:07月02日(木)06時25分24秒

先日このHPを見つけ、思わず懐かしさがこみ上げ、ふるさと大夕張を
見ている内に色々と当時の思い出が蘇ってきました。

私は昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に
(昭和37年か38年だと思います)富士見町に引っ越しました。
小学校4年の途中、昭和43年に父親の仕事の関係で(父は郵便局に
勤めておりました)ふるさとを離れるまでの、正味、富士見町での
5、6年が私の大夕張の記憶の全てです(常盤町の記憶はほんの数
えるほどしかありません)。
大夕張を離れ中学1年まで道南渡島支庁の鹿部という町に、更にその後
高校を卒業するまで桧山支庁の北桧山という町におりましたが、
この小学校4年までの記憶の方が、その後の高校卒業までの記憶よりも
生き生きと蘇ってまいります。やはり生まれ故郷だからでしょうね。

今思えば短い間のことでしたが、実に多くの事柄が私の脳裏に鮮明に
焼き付いております。
幼稚園のころのこと、小学校での様々な思い出、友達のこと、先生のこと、
また、皆さん方の思い出に語られているようなこと(冬、お風呂の帰り
髪の毛がかちんかちんに凍ったこと、富士見町の裏の沢で石を研いだり、
トンボを取ったりして遊んだこと、浴衣を着て「ローソクちょーだーい」
といいながら友達と家々を回り歩いたこと等々)がそのまま私自身の懐か
しい思い出の数々です。

私が住んでいたのは富士見町6丁目。番地は失念してしまいましたが、
場所はというと、6丁目の一番山側(西側)から数えて二つ目の道の東に
面する側の家々の一番上、或いは別の説明を試みれば、小学校に向かって
下って行くと、途中で確か長島さんという方が管理されていたと記憶する
浴場の裏側に出るその道を、逆に小学校を背に6丁目の坂を登り切ると
東西に横切る道に突き当たりますが(この道を東側に下って行くと炭山駅
に出る)、この双方の道がぶつかる所の東角とでもいえばいいのでしょうか。
かえってくどい説明になってしまいましたが、富士見町に在住しておられた
方でしたら(飯田さんも富士見町6丁目におられたとのことがあるとのこと
ですね)、おおよそ場所の特定はしていただけるものと思います。

わが家のお隣は父の同じ郵便局仲間の片岡さん、その片岡さんの南側は同じく
郵便局の田中さん、更に南側に同様にいどい(井土井?)さん、とそれぞれの
お宅には私と年齢のにかよった常盤町時代からの幼なじみの面々がおりました。
わが家の南隣はお名前は忘れてしまいましたが、警察の方でした。ご家族
皆さん大変親切で、そこのお兄ちゃんとはいつも遊んでもらったり、家に
おじゃましたりした記憶があります。野球のキャッチボールとかも父親や兄
にではなく、そのお兄ちゃんに教えてもらったものでした。同学年で同じ
6丁目にいる友達といえば、確かおとうさんが高校の先生をしていた永井
あつしちゃんなど友達が近所に数名おりました。6丁目ではありませんで
したが、同じ富士見町には同級生で宇部形かずひでちゃん、高木とおるちゃん
といった大の仲良しもいて、いつも一緒に遊んでいました。聖心幼稚園時代の
(ちなみに我々はこの幼稚園の第一期生でした)ベレー帽を被り、園児服に
身を包んでの通園、小学校の登下校もいつも一緒にしたものです。小学校
1、2年は長谷川先生の桜組、3、4年生は米沢(下の名前は「作郎」だった
と思います)先生の竹組でした。これら懐かしい幼なじみ、友達、級友達は
今どこにいるんだろうか?そんなことをふっと思ってしまいます(私を知る
人で、もしこれを読んだ方がいましたら是非連絡下さい!)。

私が大夕張を離れてしばらくしてから、三菱大夕張炭坑が閉山になり、友達の
多くも大夕張を離れたという事を聞き、そこへ帰っても、もう誰にも会えない、
住んでいたあの富士見町の家もないという事実を知ったときに受けたショック
は相当なものでした。この時点ですでにこれは自分にとっては事実上の故郷の
消失を意味していましたが、今、数年後に大夕張がダムの底に沈むということ
を聞くに及び、もはやそこに行くことすらならぬことになるんのかと思うと、
もう完全に息の根を止められるといった感じですね。

大夕張の様々な思い出(個人的な思い出になってしまいますので、皆さん方と
共有することが或いは出来ない部分も多いと思いますが)、ご迷惑でなければ、
又機会を見つけて書き綴りたいと思います。今日はこの辺で。

追伸、小学校の時、社会の時間だったか道徳の時間だったか定かではありませ
んがに「私の夕張」という夕張市の成り立ちを記した教科書を使っての授業が
あったことを記憶しています。当題名はそれにちなんだものです。

(156)新しいページです。 投稿者:くりりん  投稿日:07月01日(水)12時57分57秒

昭和33年ごろから三池炭鉱の写真を撮り続けてきた元炭鉱マンから
写真を拝借し、新しいページをつくりました。写真以外何もありませんが
ご感想などいただければ幸いです。
「三池炭鉱写真集」↓

立場は違いますが、私もある意味で故郷を失った者の一人なんですけど、

http://www.ariake.net/miike/index.html
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