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1999年    
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平成11年 5月 先頭にもどる


(378)裸参り・本間商店・池田屋食堂 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:05月31日(月)23時02分15秒

飯田さんの書き込みを読んで,もう一度「裸参り」の写真を見ました。
本間商店には,当時カメラも沢山置いていましたが,おじさんも写真が趣味だったのです
ね。
大晦日の「裸参り」には,何度か父に連れられて行ったことがありました。栄町ブロック
の同級生たちとも神社で会ったことがあります。
子供心にも,気持ちが引き締まったことを覚えています。
そして,家に帰って来ると,母がこしらえてくれた暖かい年越そばを食べたものでした。
池田屋食堂の味にはかないませんが,それでもおいしく食べていました。
本間商店のおじさんは,確か札幌に転居したはずですが,次回の交流会には是非お招きしたい方ですね。
池田屋食堂のおばさんと,本間商店のおじさんが目の前にいらっしゃる中,同席できるな
んて凄いことだと思います。

(377)写真のコメント 投稿者:飯田 雅人  投稿日:05月31日(月)12時02分26秒

春日町の坂の写真の年代のことですが,そういえば,同時期に写したように
思われる『山神社のお祭り』の写真の幟旗を拡大してみると「昭和34年
6月吉日 三菱大夕張礦業所と書いてありますね。その頃でしょうか。
写真へのコメント,春日町の坂へのページのコメントに追加させていただき
ます。写真へのコメント大歓迎です。これからもぜひお願いします。

お気づきかもしれませんが,最近,本間商店の本間正雄さんの御厚意で
写真の提供をいただいています。どれも往時を偲ばせる懐かしい写真です。
そちらの方も随時掲載させていただきます。

(376)幌南小学校資料室の見学について 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月28日(金)19時10分26秒

先に投稿した「シューパロ探偵団」2回目の活動、
「幌南小学校」郷土資料室の見学会を6月5日土曜日
9時から行います。
集合場所は「幌南小学校」駐車場、9時までに集合して下さい。
幌南小学校の場所は「遠幌橋」を渡り、右手にある
新しい学校がそうです。
事前申し込み不要ですので、都合のつく方は、是非ご参加ください。

(375)山史 (26) 投稿者:今井 一郎  投稿日:05月25日(火)23時09分43秒

山史(26)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

昭和29年 1月29日  大夕張駅売店開業
  29年 4月 1日  小口扱一元請負契約改訂 鹿島通運車両料55%で落札
          日本通運辞退
  29年 5月 竜田沢盛土工事着手
  29年 5月27日 旭川電気軌道よりセキ車2両譲渡入線
  29年 7月 2日 夕張南高道立移管
  29年 7月13日 北夕後払運賃買付炭と相殺契約
  29年 8月 客車オハ2入線
  29年11月 北炭遠幌砿送炭終了
       黒江微粉炭送炭開始
  29年11月27日 竜田沢埋立完了新線切換

昭和30年 3月 南部送炭終了
  30年 二股ダム建設に伴う大夕張鉄道移設接渉開始
  30年10月 1日 中島工業後払契約解除
  30年11月 5日 竜田沢、明石町寄山側切土工事完了新線切換
  30年12月29日 北炭遠幌砿ポケット撤去

昭和31年 2月10日 貨物運賃通算制申請提出
  31年 4月 1日 小口扱一元請負契約改訂、作業掛金屯当332円
         北夕後払契約改訂半月払とす
  31年 4月 2日 清水沢駅改築落成
  31年 6月 1日 連絡運輸に於て美唄鉄道と併合
  31年 8月14日 川端・紅葉山間道路開通
  31年 9月16日 美唄バス 明石線及び常盤線18往復運行開始
  31年 二股ダム水路仮〆切工事終了
         ダム本体下部掘削工事開始
  31年11月15日 大夕張炭山駅待合室増築落成

昭和32年 1月16日 国鉄機構改正、支社制度実施
  32年 2月 1日 農場前臨時乗降場廃止
  32年 2月19日 北菱香取坑送炭開始
  32年 3月 7日 同上ポケット設置
  32年 3月29日 国鉄電話設置
  32年 4月 1日 貨物運賃値上 石炭賃率35粁211円
  32年 4月26日 青葉隧道工事開発局と協定成立
  32年 5月 7日 同上工事着手
  32年 6月 8日 モーターカー入線
  32年 二股ダム工事 コンクリートミキサー及びクレーン
         等機械設置
  32年 7月27日 油戸より緩急車入線
  32年10月18日 雪害により電柱倒壊列車運休
  32年11月 2日 明石町駅スプリングポイント設置
  32年12月10日 青葉隧道工事完成新線切換
  32年12月11日 同上列車運転開始

                  続きます

(374)奥山様 投稿者:横山淳一郎  投稿日:05月25日(火)06時27分07秒

良く分かりました。
ありがとうございました。

(373)春日町の坂の写真を見て 投稿者:小林 光志  投稿日:05月24日(月)23時20分46秒

久しぶりに投稿します。
この写真は、春日町詰め所横の広場においてお盆の御輿が出発する前の様子です。
神主がお祓いする行事は、御輿出発前だけです。
左に見える住宅は、2件長屋で弥生町側は、田辺、川側が私の家です。
昭和40年代とありますがもっと古そうに見えます。
とにかく懐かしく拝見しました。
以上。
私は、スキー(ジャンプ)を続けるため昭和40年に大夕張を出て東京の大学に進学しました。
その当時より古く感じられます。

(372)横山さんへ 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月23日(日)17時04分45秒

鹿島小学校校舎を除き
建物の除却がすすでいます。
南部からは先は昨年末に白金の森本(農家)
が移転して無人となっています。
交通機関は南部まで夕鉄バスの便がありますが、その先はありません。
清水沢からタクシーを利用するなり、
札幌・岩見沢からレンタカーを利用するしかありません。

(371)大夕張の今・・・ 投稿者:横山淳一郎  投稿日:05月23日(日)16時40分26秒

以前から行ってみたいと思っていた大夕張を訪れてみたいと思っていますが、
現在の大夕張地区は、一体どんな状況なのでしょうか。
写真でみた旧大夕張駅近辺や代々木町を歩いてみたいのです。
私は車を持っていませんので、夕張市中心部から大夕張方面の交通機関(バス)
等の情報が分かる方がいらっしゃたら是非教えて下さい。宜しくお願い致します。

(370)その後の「ナハフ1」について 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月22日(土)00時27分13秒

5月15日、夕張へ行ってきた際、南大夕張の客車を見てきました。
ロープが張られ、転倒したままで状況はGW前と何ら変っていません。
市役所の取り組みが少し気になります。
これらの鉄道車両は以下の観点から何とか、後世に残し、また
炭鉱閉山後地盤沈下の進む南部地区の振興に活用したいと思います。
夕張市の人口は現在約1.6万人、内南部地区の住民は1.500人程と聞いてます。
1.「スハニ6」「オハ1」など、「3軸ボギー台車」、床下の「トラス棒」など
明治・大正期の大型客車の特徴を残しており、車両工学的に貴重。「セキ1」も
明治44年製造の「オテセ9500形」であり、後の国産石炭貨車の原形として貴重
であり、石炭と共に歩んだ夕張市のシンボルともなるもの。
2.ダム水没で、大夕張地区の建物、炭鉱施設が失われる中で、
三菱の炭鉱や、大夕張地区の歴史を伝える唯一の大型資料。市内に残る
「鹿の谷倶楽部」や「歴史村模擬坑道」「滝之上発電所」など、北炭の
施設や建物ばかり。
いまでも、この車両を「道標」として大夕張を訪ねる人々は多い。
3.南部地区は明治時代に大夕張炭坑として開発されたが
昭和初期の炭鉱の北部以降後は三菱大夕張鉄道の中継点として
発展してきた。昭和37年までは道路は南部までしかなく、バスも
ここまでで、南大夕張〜大夕張炭山間の列車も運行されていた。
4.北炭系列の夕張鉄道は早くから気動車を導入し「客貨分離」を
図っているが、三菱大夕張鉄道は最後まで客車・貨車を機関車で牽引する
方式。使えるものは最後まで使うという「経済合理性」に徹した
三菱の企業性も覗える。
以上の理由から、先月から何とか残せないかと色々と動いてみました。
4月4日 東京からのお客さんを大夕張まで案内。客車に子供たちが
出入りし危険と判断し、南部在住の正木英造氏(教員OB、夕張市文化財
保護委員)に連絡。一方JTB「鉄道廃線跡を歩く」の取材でお世話になった
歴史村副社長で夕張市観光協会副会長の鎌田一衛氏にも「子供たちが
出入りし危険、もし事故が起きれば大変です。
客車を活用するなりなんとか出来ないでしょうか」と便りを出しました。
4月14日 南大夕張駅跡で教育大学旭川校助教授の今尚之氏(北大鉄研OB
、北海道産業考古学会会員、空知支庁「炭鉱の遺産」調査委員)、正木氏と
落ち合う。その場で以前これらの車両に係わったという夕張市土木課の
畠中課長を紹介される。夕方、地元のダム対策協議会の中田さんに会い、
「車両」を何とかしましょうと提案。地元でも何とかしたいが、
行政などへの対応方法がわからないとの事。
「住民組織」の立ち上げを今氏と提案。29日に「ビデオ上映会」を開催
することに決定。
4月24日 再度、夕張鉄道OBの柴原新平氏、苗穂工場勤務の河合氏と南大夕張
駅跡に。鉄道関係者の意見ではクレーンで吊るより、ジャッキアップの方が
客車にダメージを与えず復旧出来るとの事で、正木氏より夕張市畠中課長に
連絡してもらう事になる。役所でも復旧方法を検討しているようであり、
「三菱鉱業セメントから夕張市へ鉄道車両を寄贈する」という書類も見つ
かったとの情報を得る。
4月29日 南部コミュニティセンターで「炭鉱と町と鉄道を語る会」開催
三菱大夕張鉄道のOBも交え20名ほどが参加。「シューパロ探偵団」として
今後も地域の学習を通し、魅力を再発見し街づくりに役立てようとの事に。
この時点で事故防止のためロープが夕張市によって張られていた。
5月9日 鎌田氏より返答あり。それによると
「市長選や、歴史村のオープン準備などで忙しく7日に市役所へ行き
数年前に、客車に携わったという畠中課長に状況を聞いてきた。
数年前に南部地区の連合町内会より三菱大夕張鉄道の車両を利用した
鉄道公園設置の要望があり、車両整備に2.500万円、緑地造成に300万円の
見積もりで公園計画を策定。ところが土地、車両の所有関係を調査したところ
土地は三菱マテリアルが国から借地したままで返還されておらず、車両に
ついても特定の個人が譲渡を受け、市に寄贈したいとの情報もあり
、その時点で計画は宙に浮いたままとなっていた。昨年末に地元住民より
危険との情報があり、ロープを張った。再度、過去の経緯を踏まえ
前向きに取り組みなさいとの中田市長の指示を受けている。
結論が出たら改めて連絡します」との事でした。
ロープの張られた時期が異なりますし、車両の所有権に関しても、
正木氏から得た情報と異なっており、このまま夕張市の出方を静観した
方が良いのか判断に迷います。行政不信でも無いのですが
いま、放送されたニュースステーションでも
夕張の高松・社光地区の炭住移転が報道されていました。
ここでも「住民」の市に対する不満・不信が伝えられてます。
夕張市長は「古いもの」は嫌いという話も聞きます。
これから
1.車両の価値を市民に伝え、署名活動などで夕張市に働きかける。
2.日本ナショナルトラスト、日本保存鉄道協会、産業考古学会など
で車両の価値を鑑定してもらい、マスコミを通じ行政・市民に伝える。
3.マスコミを利用する。車両の所有権が三菱から夕張市に寄贈になって
いるなら、その時点で車両は夕張市民の財産となったものです。
認めたくはないでしょうが、あのように放置し、荒廃させた責任は
問えるのではないでしょうか。(あまりやりたくはありませんが)
11月から12月、今年雪が降るまでに、あの車両の転覆を復旧し最低限
シート掛けくらいしないと、あれらの車両は残せないでしょう。
後6か月ほどで、どういう動きが出来るかわかりませんが
今氏と、なんとか動いてみましょうと相談しています。
みなさんの、「知恵」と「お力」を拝借出来ればと思います。

(369)シューパロ探偵団・第2回目集会について 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月18日(火)19時12分03秒

4月29日のビデオ鑑賞に続き
シューパロ探偵団2回目の活動は6月5日に
幌南小学校資料室の見学を予定しています。
地元の正木先生が現在調整中ですが
資料室には旧「鹿島小学校郷土資料室」の資料のほか
閉校となった「南部小学校」「遠幌小学校」の資料が
展示されており、鹿島・南部地区の郷土史の学習に最適です。
正式決定しましたら、再度集合時間・場所等を
お知らせします。

(368)ありがとうございます。 投稿者:ゆかり ジャーモン  投稿日:05月12日(水)00時20分10秒

奥山さんありがとうございます。
奥山さんの記事を読んでもう忘れていた遠幌小学への道を思い出すことが
できました。特に奥山さんが述べられていた所は忘れていたので
また懐かしく思い出すことが出来て感謝いたします。
私が遠幌小学校に行っていた頃、その頃は一年から私が転校する
5年生まで松組1クラスでした。その後私は千葉県松戸市の小学校の
6年生に転入しましたが、10クラスもあり1組、2組となっていて
すっごいカルチャーショックを受けました。今でも友達にその話を
すると珍しがられて笑われますが、そんな小さな山の中の学校へ
5年間行けたことをとても嬉しく思います。子供の頃夕張に居たことが一番
私にとって楽しく幸せな時だった様に思います。
これからも少しでもこのページを通して夕張の忘れていたことを思い出すことが
出来る様楽しみに呼んでいきたいと思います。

(367)遠幌小学校について 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月09日(日)15時10分32秒

ゆかりジャーモンさんか゜「遠幌小学校」へ通学していたとのこと。
私は通学の経験はありませんが、父が勤めていた関係で
学校の近くに2年ほど住んだことがあります。
遠幌加別川の橋をわたり、左に曲がり大夕張鉄道の踏み切りを
わたるとお地蔵さんがありました。
農地の間の坂道を上ると小学校でした。
南部小学校と遠幌小学校が統合され「幌南小学校」となっていますが
校舎は、まだ解体されずに残されてます。
来日の機会がありましたら、再訪してみて下さい。

(366)映画『鉄道員(ぽっぽや)』完成披露特別試写会 投稿者:飯田 雅人  投稿日:05月08日(土)00時38分25秒

ゆかりジャーモンさんありがとうございます。テキサスにも故郷を思う心でつな
がっている方がいることを知り大変嬉しく,心強く思います。これからもよろし
くお願いしますね。代々木町の地図もなるべく早く上げたいと思います。

そんな話の後に,日本映画の話で恐縮ですが,お許し下さい。
東京の方では,一昨日小渕首相も出席して完成試写会が行なわれたとのことでしたが,
札幌でも昨日7日の夜,試写会が行なわれ,見てきました。

内容は,原作同様,感動的なものでしたが,私は映画では,スクリーンに出てくる
風景,情景に,心の中に懐かしい思いを甦らせながら見ていました。
白い山並みを遠くに雪煙を上げて走る列車,木製の電柱や窓枠,有刺鉄線の張られた木の
柵,ストーブの上の金だらいに牛乳を入れて温める習慣・・・そんな画面の一こま一こまに
郷愁をいっぱいに感じさせました。
また,原作にはない言葉ですが,広末涼子が演ずる雪子が,乙松に「駅がなくなったらど
うなるの?」と聞いた時,「原野だ。線路がなくなったら人がいなくなり,原野に戻るん
だ・・・」と高倉健扮するところの乙松がつぶやいていた場面が印象的でした。
やっぱり涙してしまいました。「おっかないわけないでないの。どこの世の中に自分の娘を・
・・・・」ここから先は,なんども読んでいる場面ですが,ここにくるといつも泣かされます。
やっぱり映画でもそうでした。

6月公開だそうです。ぜひご覧になってはいかがでしょうか。


http://www.toei-group.co.jp/movie/new_mov/poppoya/index.htm

(365)最近改めて知ったこと 投稿者:ゆかり ジャーモン  投稿日:05月07日(金)23時48分38秒

このホームページを知ってから「お気に入り」の一つに記録し毎回機会ある毎に
懐かしく読ませて頂いております。このページのことを母に話した所、私の祖父
藤井要次郎は、春日町の風呂屋の釜炊きをしていたそうです。
母と話しているうちに色々と知らなかった大夕張のことを知ることが出来て、私の
心の中の夕張への思いがキューンとしました。私が覚えていることの一つは、
私は南部遠幌小学校に通っていました。その小学校は山のてっぺんにある感じで、
”心臓破りの坂”を上っていった事を覚えてます。また、冬に体育館で行われた朝礼が
とても寒く床がスケートリンクの様に凍っていたのを覚えてます。
皆さんの記事を読む度に皆さんがいかに夕張を愛しているかとても良く分かります。
私の夕張に対する思いも同じで皆さんと一緒に夕張のために活動できたらいいなぁ〜
と思いますが、そう簡単に出来ないのがとても残念です。
私は以前にも書いたように小学校六年に成る時夕張を離れました。
私が移り住んだ町の人たちは私が知っている夕張のことを知りません。
そういう知らない人達のためにも引き続き活動頑張って下さい。

テキサス州ダラスより

(364)私の祖父 投稿者:飯田 雅人  投稿日:05月05日(水)12時41分01秒

しばらくご無沙汰しました。
この間,私の祖父,長谷川安造が4月28日亡くなりました。
4月19日に脳梗塞で倒れ,あっという間に逝ってしまいました。
享年96。

昭和13年3月25日大夕張尋常小学校の訓導として赴任し,
昭和32年3月教頭として務めた鹿島小学校を去るまでの19年間,
大夕張で暮らしました。その間私の父と母が出会い,大夕張で私が
生をうけました。

祖父が大夕張を出てずいぶんと年月がたっていますが,鹿島小の卒業生
の方々の同窓会,大夕張会など,交流は絶えることなく続いていました。

昔の大夕張を記憶している大黒柱が,遠く思い出の中に消えていきました。
ダムに沈もうとしている現実の大夕張と重なり,さびしい限りです。

掲示板の方では最近また新しい方々のお名前も見られます。炭砿遺跡保存の
記事も活発です。心の片隅に残る大夕張の思い出やふるさとへの思いを語り,
大夕張を記憶し伝えながら,未来へ向けてより多くの方々との交流を進めて
いきたいというのが,今の私の心境です。

(363)シューパロ探偵団について 投稿者:奥山道紀  投稿日:05月03日(月)17時35分42秒

探偵団は地域の魅力を再発見し、今後の町づくりを考えようという
住民の集まりです。
炭鉱閉山後地域の地盤沈下が進み、地域活性化の頼みと思っていた
ダムも一向に事業が進んでおらず、地域の人々も危機感を感じています。
北海道では、空知支庁(道の出先機関)が平成10年度に
そらち「炭鉱の遺跡」発掘事業を展開しており、炭鉱の遺跡を
地域の再生に活用しようという機運が伺えます。
実際には地元の市町村が主体になるのでしょうが
意識は赤平市など積極的に活用しよう市がある一方
夕張市のように無関心のところもあります。
住民にも「事故」「閉山」と暗いイメージがあり
早く過去から脱却したいと言う意見もあります。
実際、先日の集会でも、転覆し危機的状況にある
三菱の炭鉱の歴史を伝える「客車」「石炭貨車」などの保存に
「興味はないよ」という人もいました。
連休中に大夕張を訪れ、あの客車の前で写真を撮っていた人も大勢いました。
「風土」という言葉があるように、夕張特有の風景があるはずです。
それは決して、古いものを潰し、札幌や他の都市にあるものを
創る事ではないでしょう。探偵団で町の魅力を「再発見」し行政に
提言出来るようになればと思います。

(362)炭鉱のイメージは暗い??? 投稿者:まえかわ  投稿日:05月02日(日)23時20分01秒

シューパロ探偵団発足の記事、読みました。その中で、炭鉱跡を観光
資源に活用しようということが書いてありましたが、素晴らしい考え
だと感心しています。この探偵団は個人的な集まりなのでしょうか。
これが行政にも響いていけばいいですね。
 ところでこちら九州の福岡では、三池炭鉱のことについて、
「暗いイメージを強調されてしまう炭坑関係の遺跡は大牟田の未来
には不必要でありすべて破壊すべきだ」という投書が地元新聞の有明
新報に載っていたそうです。このように炭鉱に対する地元の考えは
決して好意的ではありません。元炭鉱夫の子供として、さみしいこと
です・・・。

(361)タンポポの海 投稿者:斎藤 敏幸  投稿日:05月02日(日)22時53分22秒

北の国にも,やっと春が訪れてきました。ここ札幌でも,中の島周辺の公園でも
桜の花が開きはじめました。
毎年,この季節になると「タンポポの海」を思い出します。
当時,僕の住んでいた栄町ブロックの周辺には,木造長屋を取壊した跡地が幾つ
もありました。特に栄町の詰所の辺りは,沢山の空き地がありました。
それらの空地には,春になると,確か5月1日のメーデーの頃には,タンポポが
一斉に黄色い花をつけるのです。辺り一面タンポポ達の見事な群生落なのです。
そこに風が吹くと,黄色い花達は,まるで海原で波を打つかのように揺れ出すの
です。
いつしか僕の周りでは,この光景を「タンポポの海」と呼ぶようになりました。
学校への行き帰り僕達の春は,「タンポポの海」に包み込まれていました。

今では,当たり前のように自家用車を持ち,断熱材の住宅で冬の寒さを感じるこ
ともなくなり,いつでも好きな時間に風呂につかることもでき,当時の生活に比
べ,はるかに快適な日常を手にいれることができました。
でもいつのまにか,季節の移ろいにも気づかず,時間に追われいつも足早に歩い
ている自分が見えてくることがあります。
大夕張を出てからこの間失ったものは,故郷の原風景ばかりではないのかもしれ
ません。
休日の日,大夕張のことを思い出しながら,もう一度自分の心の中に「タンポポ
の海」を蘇らせてみたいと思ったりしています。

(360)5月の大夕張 投稿者:乗田 功一  投稿日:05月02日(日)22時51分01秒

夕張からです。
今日(5月2日)大夕張へ行ってきました。
ゴールデンウィーク中という事で、想像以上に
ここを訪れる人が多く、何台もの車が大夕張中
を行き来していました。
郵便局やイサオ製作所もすでに無く、主な建物
といえば鹿島小学校くらいでしょうか。
雪解け直後で草木が生えていないため、私が
生まれた代々木町の長屋跡も歩くことができて
はっきり確認できる下水の溝などを見ると当時
の様子が思い出されます。

南大夕張の客車は、既報の通り周りにロープが
張られ、立ち入り禁止となっています。
なんとか保存を実現させたいものです。

奥山さん、昨日は一日中案内していただき本当
にありがとう御座いました。感謝いたします。

(359)山史(25) 投稿者:今井 一郎  投稿日:05月02日(日)16時29分24秒

山史(25)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

昭和25年 1月 1日 貨物運賃改正、特定社線通算制採用
取引高税廃止に伴い大貨物粁程廃止、実粁となる
石炭賃率18粁81円
  25年 3月30日 夕張乗合自動車株式会社設立(4月1日夕張〜若菜開通)
  25年 4月 1日 北炭遠幌砿後払契約改定 旬概算払月末精算
  25年 5月12日 社線旅客運賃改正
              旅客賃率2円 大夕張・清水沢間30円
  25年 6月 9605号機関車入線
  25年11月 1日 明石町、千年町駅開業
              第2農場前臨時乗降場を農場前臨時乗降場と改称
  25年12月 大夕張駅改築落成

昭和26年 2月10日 鹿島東小学校落成
  26年 6月 客車ホハ1、2入線
  26年 清水沢・南部間道路完成
  26年11月 1日 国鉄旅客運賃改正 粁当賃率1円85銭
              社線旅客運賃端数処理改正
              貨物運賃改正 石炭賃率18粁106円
  26年12月25日 夕張南高落成

昭和27年 3月 1日 社線旅客運賃改正
               旅客賃率2円50銭 大夕張・清水沢間40円
               大貨物賃率35粁157円
               札幌鉱山株式会社北夕鉱業所、
               夕張炭砿株式会社北夕鉱業所と改称
  27年 3月15日 千年町駅連絡乗車券発売
  27年 4月 1日 小口貨物日本通運に一元請負 車両料10万円
  27年 5月 1日 大夕張炭山駅小口扱貨物取扱廃止
  27年 6月 1日 営林署料金改定 岐線料60円 運転料370円
  27年 7月 1日 夕鉄バス開通(夕張〜栗山間)
  27年 7月 二股ダム測量開始
  27年 7月11日 北菱鹿島炭砿岐線設置
  27年 7月29日 南部120屯ポケット設置
  27年 8月13日 第3列車1粁付近於て客車車軸折損
  27年 8月13日〜12月17日 炭労63日ストライキ
  27年11月 1日 小口扱一元請負契約改定 車両料38%
  27年11月25日 第3代鉄道課長 松谷 逸郎
  27年12月12日 北菱鹿島炭砿ポケット新築

昭和28年 1月15日 国鉄旅客運賃改正 粁当賃率2円10銭
  28年 2月 1日 貨物運賃値上 石炭賃率35粁182円
  28年 2月22日 遠幌小学校落成
  28年 3月     客車オハ1入線
              北菱鹿島炭砿送炭開始
  28年 3月15日 普通定期乗車券制度制定
  28年 4月 1日 北菱産業後払契約締結 月払とす
小口扱一元請負契約改定 車両料37%
  28年 5月11日 明石町駅一般連絡運輸開始
  28年 6月 1日 大夕張産業株式会社後払契約締結
  28年 6月 8日 夕張バス 清水沢・南部間6往復運行開始
  28年 7月20日 中島工業株式会社後払契約締結
  28年 8月 8日 竜田沢橋梁橋脚亀裂発見
  28年 9月28日 機関車石油併燃装置炎上(清水沢駅構内)
  28年10月26日 鉄道課事務所及び大夕張炭山駅、旧営繕課跡に仮転居
  28年11月 鹿島通運株式会社設立 後払契約締結
  28年12月 1日 北夕後払契約改訂 月払とす
  28年12月16日 鉄道課事務所及び大夕張炭山駅現在地に移転
  28年12月25日 大夕張炭山駅 旅客荷物社線内取扱開始
  28年12月 竜田沢盛土工事 中島工業請負決定

                                   続きます

平成11年 4月 先頭にもどる


(358)南部での集会について 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月29日(木)22時00分41秒

今井さん・蛯子さん・坂井さん・石垣さん本日の集会ご苦労様でしてた。
まだ、本日の集会の感じでは地元住民の皆さんに
「鉄道車両」や「三弦橋」を「文化財」「観光資源」と認識して
いだけるようには至りませんでしたが、それはこれからの
「シューパロ探偵団」の活動にかかっているものと思います。
それでも鉄道OBの方なり、住民の方々から「鉄道」や「三弦橋」に
関する、思い出を聞かせていただき大きな収穫があったと思います。
今後は、多くの地区住民に参加していただき、子供さんも含め
「幌南小学校資料室」の見学、客車の見学・清掃、かつての「若葉坑」の探検
など地域学習を通して、地区の魅力を再発見し、新たな地域づくりを
行政に働きかけたいものです。「炭鉱」「鉄道」「林業」「砂金」「夕張岳」
これらが南部・鹿島地区の再生のキーワードになるのではないでしょうか?

(357)シューパロ探偵団発足 投稿者:今井 一郎  投稿日:04月29日(木)20時13分55秒

 本日、南部コミュニティーセンターにて集いがありました。地元南部の
住民の方々、私の様な過去に南部、鹿島に住んでいた方々、鉄道ファン、
三菱バス保存会の方々が、何か目標を持って何かをしたいと行動するための
有意義な集いでした。三菱鉄道に関するビデオ上映や住民の方々の過去の
記憶の語りが中心でしたが、旭川教育大学の先生や地元先生、奥山さんの
行政対策的なアドバイスもあり、三菱鉄道の車両や三弦橋、或いは過去の
遺物の宝さがしをして総合な保存に向けての布石となるべきものです。
 次回は未定ですが、幌南小学校に移展された大夕張の資料の見学や
大夕張地区の発展の礎となった南部の炭砿跡の散策を予定しています。
私の投稿の後、非常にまめな奥山さんが補足の書き込みをしてくれると
思いますが、大夕張を愛する方はぜひ参加して頂きたいと思います。

(356)南大夕張の客車について 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月28日(水)21時22分14秒

泉さん、今井さん、蛯子さんありがとうございます。
南大夕張の客車の件、「解体」か「保存」かどちらに転ぶかわかりませんが、
とにかく出来る事から行動しようと思います。
4月4日以来、毎週夕張に通っていますが、客車に関して
以下の事が判明しました。
1.客車などの車両は「三菱」から夕張市に寄贈されたもの。
2.土地は国有地であるが、三菱マテリアル(三菱鉱業の後身)が借地した
ままになっている。
3.「鉄道公園」の計画があったが、その後閉校となった南部小学校を含んだ
公園計画に拡大。ダム建設に伴う国道の用地が現在客車の置かれている土地に
かかることもあり、「公園計画」は保留状態。
危険物として解体するにしても、お金はかかるはずです。そのお金を前向きに
保存・活用に使って欲しいものです。
明日の集会にはかつての鉄道関係者の方も参加予定です。
時間の許す方は是非ご参加ください。

(355)胸がいっぱいです。 投稿者:向 啓子  投稿日:04月28日(水)16時40分07秒

最近パソコンを買いまして、懐かしい大夕張の情報を見つけました。
早速メールを送っています。
私は昭和28年生まれで昭和40年まで大夕張や明石町、
緑町と住んでいました。
歳と共にふるさとが恋しくて恋しくて。
でもなかなか帰ることができなくて
このホームページを見て感激しています。札幌にて

(354)しばらくご無沙汰のうちに… 投稿者:泉 俊弘  投稿日:04月28日(水)11時38分17秒

 「山史」の進捗に一驚−今井様、ありがとうございます。飯田先生、HTML化
ほんとうにご苦労様です。とくに沿線の中小炭鉱の資料は研究上も貴重です。
完結を待ち望んでおります。
 ところで、……
 南部の客車群の保存は、一刻の猶予も赦されないような状況とみました。(以
前は、中田市長宛てに建造物等と一緒に保存してはと手紙を出したこともあるの
ですが、ダムの竣工を待たずに応急策を講じるべきでしょう。市がやらなければ
私達が手弁当でもと思います。)
 奥山さんのように勤労奉仕は無理でも、金銭面で幾許か貢献できれば嬉しく
存じます。ご連絡をお待ち申し上げます。

(353)春の想い 投稿者:今井 一郎  投稿日:04月27日(火)22時36分52秒

 本日、奥山さんと電話でお話しいたしまして、29日13時からの
南部コミュニティセンターでの集まりに参加させていただくことを
約束いたしました。蛯子さんからは、まさに春のたより。更にジャーモンさん、
渡辺さん、小林さんの書き込みを読ませて頂いて春の広がりを感じます。
 私事、山史の投稿も半年を経て、間もなく終わるというのになかなか
進まず春を迎えました。春を信じれば雪深くても我慢できますよ。うん。
(奥山さんと蛯子さんには意味がわかって頂けると思いますが、意味不明の
方にはおかしな書き込みですいません)

(352)期限近づく 投稿者:蛯子 隆一  投稿日:04月27日(火)16時18分48秒

皆様お久しぶりです。本日、三菱→美鉄→鹿島のイサオ製作所へと移転したバスを
永久的に保存する「三菱バス保存会」として、現在保管している製作所前の場所が
何時まで使用できるのか夕張市へ問い合わせをしました。シューパロダムに関する
部署からのお答えが「6月半ばに会計検査院が入るからそれまでに移動願います」
とありました。それから推測するに現在残っている近辺の建物もそれまでに残念な
がら解体されるものと思われます。

さて、私も仲間とバスの雪かきに月1の割合で足を運びましたが、回を重ねる毎に
建物が減ってゆき寂しい思いにかられました。また残ると思っていた鹿島小学校も
解体のようですし、人が暮らしていた証が消えて行くのは本当につらいことだと思
います。私が行く度に迎えてくれたキリ助もどうなるのでしょうか・・・

3月末に南部の客車を見て驚きました。ナハフ1が傾いておりますし(結果的には
既報の通り転覆)、もう一両も屋根が剥がれており無残な状態ですが、奥山さんな
どが保存などの動きを行っていることを知り少しはホッとしております。是非頑
張ってくださいませ。

#飯田さん、今井さん、個人的な都合で連絡出来ず申し訳ありませんでした。

(351)小学校を見てきました。 投稿者:小林 秀範  投稿日:04月27日(火)01時30分17秒

私は、33年6月生まれで、栄町1-15のブロックで
健保会館(柔道を習っていました)の前当たり
にすんでいました、鹿島小学校、中学校、東高校
と進みました。
このHPは楽しく拝見いたしております。

今日4月26日大夕張へ行きました、(由仁に仕事があって)
シュウパロ湖は雪解けの水でパンパンになっていました。
千年町の交番がなくなり、大夕張の駅前の郵便局から
ほとんどの建物がなくなっていました。
ほんのわずかしか、建物らしきものは残っていません、
駅前から春日町に向かう道路には、雪が残っていて
車では進めないほど山になっていました。
郵便局のあった場所に小さなポストがひとつ
ぽつんとあり寂しげでした。 
小学校は変わらない姿で静かにたたずんで、
私を迎えてくれました。
この時期の大夕張にはあちらこちらに雪が
残っていました。
川は、力強く流れていました。

飯田さんへ
 故郷のHP本当にありがとうございます、
先日、このHPを父親にも見せたところ大変懐かしいがっており
突然「今度パソコンでもやるかな」と言って周りを驚かしていました、 非常に興味を持つたようです。
ありがとうございます。
tigermask@pep.ne.jp

(350)南大夕張のナハフ1について 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月25日(日)20時36分24秒

24日に再度、南部に行って客車の現状を鉄道OBや苗穂工場に
勤める友人と確認してきました。
危険回避のため、客車の周囲には管理者の夕張市土木課により
立ち入り禁止のロープが張られています。
地元の文化財保護委員の正木正造氏が夕張市との窓口に
なっていただいているのですが、鉄道関係者の意見により
建設業者に依頼し、復旧するより、札幌交通機械等の専門業者に
依頼した方が確実でしょうとの事で、その旨、正木氏より
市へ連絡して頂くことになっています。
この様なことになり、夕張市でも客車の扱いに困惑していますが、
なんとか、三菱の炭鉱の歴史、大夕張の歴史を伝える遺産として
地元で活用する方向に向かって頂ければと思ってます。

(349)大夕張の客車について 投稿者:渡辺芳夫  投稿日:04月24日(土)00時53分28秒

初めて大夕張掲示板に参加させていただきます。
私は生まれも育ちも東京なのですが、北海道が好きで、高校生のころ 初めて北海道を訪れました。昭和43年の8月のことです。 そのとき、夕張鉄道鹿ノ谷機関区と真谷地を訪れたのですが、残念ながら、 大夕張だけは訪れることができず、そのことがいつも心残りで仕方があり ませんでした。 昨年ようやく30年来の望みがかない、大夕張を訪れることができました。 南部で3両の客車が放置されているのを見て、なんとかならないものかと 思っていました。その客車が転倒してしまったことを知り、大変ショックを 受けました。私も、あの客車たちが何とかならないものかと、いつも考えて おりました。 5月の連休に再び南部を訪れる計画を立てているため、今からあの客車たち のことが心配でなりません。
部外者の私ができることは限られていると思いますが、もう少し本州の人たち にも現状を知ってもらう必要があるのではないでしょうか。 5月2日に南部を訪れる予定でいます。
それでは、また東京に戻りましたら、ご連絡いたします。
fwht2258@mb.infoweb.ne.jp


(348)私の故郷 投稿者:ゆかり ジャーモン  投稿日:04月21日(水)01時33分54秒

私は今アメリカのテキサス州ダラス市の会社からこの手紙を書いてます。
私の旧姓は藤井ゆかりです。私は昭和36年に夕張市で生まれました。
私が物心ついた頃は夕張市花園町(その後遠幌町に変わったかもしれない)
に住んでいました。私の叔母や叔父や祖父母は大夕張に住んでいて
そのうちの猪野 泰次、操は叔父と叔母で代々木町に住んでいたと思います。
私が10歳の頃に私の家族は千葉県松戸市へ引っ越しました。私の叔母や
叔父たちもみな内地に引っ越しました。
私が松戸に引っ越した時、夕張のような自然が全く無く、何をして外で遊べば
良いのか全く分からず、とてもつまらなかったです。
夕張は私の心の故郷でとても懐かしく、恋しい所です。
私は松戸に引っ越して以来まだ一度も夕張に戻ってません。戻りたい気持ちは
とてもあるのですが、母からの話では、私たちが住んでいた所は跡形も無くすさん
でいて、行ってもさびしい思いをするとのことでした。
今回このページを見つけて、昔の大夕張の写真を見たりして本当に懐かしく涙が
出てきそうです。このページを作くって下さった方に心から感謝致します。
今回は代々木町の地図が工事中とのことで残念ながら見れませんでしたが
そのうち見れるのではと期待して待ってます。本当に有り難う。

(347)客車保存の実現を 投稿者:乗田 功一  投稿日:04月18日(日)20時17分21秒

奥山さん、パソコン導入おめでとうございます(^^)/
電話でもお話をうかがいましたが、南部の客車保存の件、
本当にご苦労様です。
今回、車両が転倒してしまった事がきっかけとなり、保存
に向けてよい方向へ進展することを祈るのみです。
4月29日の地元南部での会合、成功を願っています。

この掲示板をご覧になっている方も、今では数少ない大夕
張の貴重な遺産である大夕張鉄道の客車について興味を持
って頂ければと思います。
もし失ってしまえば、二度と取り戻すことはできません。
そして、保存か解体撤去か、どちらにしても今が一番大事
な時です。できるなら整備保存を実現させたいものです。
これは決して鉄道マニアの趣味レベルの話ではありません。
ふるさと大夕張に住んだ人にとって、生活の一部としてご
く身近な存在だったはずのものです。
ぜひ興味を持って頂ければ幸いです。

(346)飯田・今井・乗田さんへ 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月17日(土)18時20分04秒

我が家にも、やっとパソコンが入りました。よろしくお願いします。
南大夕張の客車の1両(ナハフ1)は完全に転倒してます。
車両は夕張市の所有物と判明しましたので、来週にも鉄道OBの方と
復元方法を検討に出かけます。
29日1時から南部コミニティーセンターで過去の「大夕張・南大夕張地区の映像」
を見ながら地区の将来を語る会を開催します。皆さんの参加も大歓迎です。

(345)大夕張産業遺産の保存にむけて 投稿者:今井 一郎  投稿日:04月13日(火)08時06分27秒

 先日、奥山さんとお話させて頂きまして、そのお話を参考に北海道開発庁の
「どさん子メールに」元三菱鉄道車両と三弦橋保存のためと思い、ダム建設に
伴う南大夕張地区公園設置計画(根據のない私案)を相手にされないのを承知で
投稿致しました。

   1、ダム建設に伴う国道452号線の連絡高低差の登坂角度の低減は
     ループ橋で行い、国道452号線は従来通り南部市街地を通過する。
   2、現在冬季間通行止めの国道452号線を通年通行とし、頻繁に事故
     通行止めになる道央自動車道及び主に市街地を通行する国道234号線、
     国道12号線のバイパス的な位置付けをし、苫小牧・千歳地区より
     芦別・富良野地区への運輸使用の喚起を行う。
   3、旧三菱石炭鉱業南大夕張砿跡に「道の駅」を設置し、
   4、旧大夕張鉄道明石町駅の移設及び日本の中で現存する唯一の非常に
     奇希な車両構造を持つ旧三菱鉄道車両の補修移設展示
   5、世界的文化遺産の位置付けを持つ奇希なトラス構造の旧大夕張営林署
     森林鉄道下夕張線の通称「三弦橋」をダム下流に移設し散策路の一部
     とし、周辺に桜を植樹し巨大ダム、ループ橋を望む憩いの景観空間を
     設置する。
   6、旧三菱南大夕張砿の第1、第2斜坑の密閉を解き、本片坑道1卸付近を
     密閉メタンガス対策のうえ本片坑道を炭砿資料館とし閉校した鹿島小学校
     より幌南小学校へ移展された大夕張の地域資料を移展一般公開し炭砿
     資料と併展する。斜坑にはホイストを設置し人車を運行する。
   7、シューパロダム記念館の設置。

 万が一何らかのアクションがあれば「瓢箪からコマ」ですが、やはり、
奥山さんの言われるように、大夕張の遺産は大夕張に関わってきた方々の想いや
知恵や行動がなければ保存にむけて一歩も進まないと思います。

(344)山史 (24) 投稿者:今井 一郎  投稿日:04月09日(金)20時53分00秒

山史(24)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

  22年 9月16日  10粁850、暗渠流失、列車顛覆事故
   22年 9月18日  同上復旧工事完了
   22年12月    南部錦抗開坑着手、9604号蒸気機関車入線
   22年12月15日  鉄道課事務所及び大夕張炭山駅々舎新築
昭和23年 1月    遠幌駅構内北炭岐線完成、北炭遠幌砿送炭開始
   23年 3月 7日  大夕張駅構内に於て下り列車側線進入脱線事故
   23年 4月 1日  営林署駅別契約統合岐線料16円、運転料42円
従業員待遇乗車券制度制定
北炭遠幌砿協定締結、料金後佛契約
   23年 5月19日  社線旅客運賃改正
旅客賃率94銭5厘 大夕張・清水沢間15円

   23年 5月23日  大夕張鉄道交通従業員労働組合、大夕張炭鉱労働組合に合併
   23年 5月24日  北炭と遠幌駅舎及び社宅等の協定締結
   23年 6月18日  同上の提供を受け当所の所有とす
   23年 6月26日  遠幌駅一般連絡運輸申請
   23年 7月10日  車扱貨物へ遺産制度復帰
石炭賃率35粁66円
   23年 7月18日  省線旅客運賃改正 粁当賃率90銭
社線   〃   旅客賃率1円90銭 大夕張・清水沢間30円
   23年 8月 5日  北炭遠幌砿通洞坑完成
   23年 9月 1日  取引高税実施に伴い大貨物営業粁程11割増
石炭賃率36粁66円据置
   23年 9月    客車ナハ2入線
   23年12月    南部送炭開始

昭和24年 1月11日  遠幌駅一般連絡運輸開始
   24年 1月20日  三井芦別鉄道と連絡運輸取扱開始
   24年 1月25日  遠幌小学校開校
   24年 5月 1日  省線旅客運賃改正 粁当賃率1円45銭
   24年 6月 1日  運輸省より現業部門分離日本国有鉄道となる
   24年 9月16日  北夕岐線完成 送炭開始
北炭遠幌砿後佛契約締結旬佛とす
   24年10月 7日  大夕張炭山駅構内流雪溝設置
   24年10月26日  北夕作業協定及後佛契約締結旬佛とす
   24年12月22日  鹿島中学校落成

                  続きます

(343)ナハフ1について 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月09日(金)09時17分35秒

鹿島小学校校舎解体の件、大変残念に思います。
現位置は水没地区からは外れており、「鹿島資料館」として
残せたらと思っていまいした。
先日、行った際には、まだ数棟の建物がありましたが
雪溶けと共に消える、ものも多いでしょう。
南大夕張の客車も気になります。
大夕張へ出かけた方がいましたら
状況をお聞かせ下さい。

(342)朝登のこと 投稿者:丸山直記  投稿日:04月07日(水)17時19分22秒

先日飯田さんの投稿で「朝登」の話題がでていましたね。
彼は霜降君といって私と同じ学年でした。私は覚えていないのですが
私も彼も昭和23年の6月生まれで家が一軒先だったそうです。
我々が生まれた頃霜降君のお父さんが居なかったのでお母さんが
働きに出かけなければならず母が私と一緒に時々面倒を見ていたそうです。
彼が母のおっぱいを飲んだので私の分が減り私は相撲取りに
ならなかったと母が言っていた。彼が相撲界に入った時、
母は霜降君は気が優しいからと心配していました。
でもあの小さな身体で前頭筆頭まで出世しコマーシャルにまで
出ており母は喜んでいました。柏戸を破って引退に追い込んだことが
もっともよく知られていますね。その後は彼についてのうわさを風の
たよりで聞くのみですが元気で過ごしていてくれればと思っています。
時々私の家のあたりに遊びに来て「丸山く〜ん」と手を振っていた
光景を懐かしく思い出します。

(341)小学校の校舎 投稿者:小林 秀範  投稿日:04月07日(水)00時41分08秒

飯田さんのHPは時々拝見させていただいてました。
本当に懐かしく思っています、ありがとうございます。

小学校の校舎がなくなるのですか?
本当ですか。
今でもあの校舎は、心の支えになっています。
仕事でつらいことがあると何度か大夕張へいき小学校を、
眺めていました。
大夕張の町並みが消えて、プールも消えて
辛かったけど  だけどまだ校舎があれば・・・・・・・・
と思いがありました。
なんとか残すことは、できないのでしょうか?

tigermask@pep.ne.jp

(340)心の小学校 投稿者:内川准一  投稿日:04月06日(火)21時05分38秒

びっくりしました。
鹿島小学校が無くなるって、本当ですか。
存続させる方向で考えてくれているとばかり思っていました。
本当ですか!行くとこがなくなっちゃうよ。
ダムに沈む街を見届けた、1万人の小学生の心の故郷なのですよ!
RC部分は、確か当時の金で3千万円の、それはまばゆいばかりの新校舎でした。
早く入りたくて、5年生になるのが待ち遠しかったものでした。
朝は時計を見ながら校庭を走り、夕方、チャイムの音で山から家に戻る毎日を過ごしました。
今や、大勢の人間の生活がここにあったことを物語る唯一の存在です。
夕張市さん、存続策も利用策も本当に無いものでしょうか。

(339)引き続き客車について 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月06日(火)16時07分35秒

幌南小学校に移された資料は「鹿島小学校資料室」
の3分の2程で、化石等の大型資料は
校舎の解体に合わせ移転との事です。
校舎と言い、大夕張鉄道の客車と言い
三菱地区(鹿島・南部)の資料がどんどんと失われます。
客車も倒壊し危険と判断されれば除却されるでしょう。
高い鉄橋、煙に蒸せたトンネル、車窓からの「夕張岳」や
「シューパロ湖」の眺め、冬季のダルマストーブ。
私たちを町や、海へといろんなところへ運んでくれた、
客車も永遠に消え、記憶の中だけに残るのでしょうか。
飯田さんのホームページに夕張市もリンクしています。
手遅れにならないよう、要望して頂ければと思います。

(338)ああ鹿島小校舎 投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月06日(火)15時53分38秒

大変残念なことをお知らせしなければなりません。

先日,北海道新聞で鹿島小学校の資料の一部が幌南小へ 
移転されたとの記事を読み,鹿島小の建物自体がどうなる
のか気になり,夕張市の方に尋ねてみました。
次のような答えがありました。

>鹿島小学校の資料の一部は、幌南小へ移され展示されています。(見学可能)
>また、校舎については残念ながら近々(時期は未定)取り壊しになるそうです。

私にとって閉校式で最後の思い出を刻んだ鹿島小学校。
水没する故郷の痕跡はグラウンドに立つ碑だけになってしまうのでしょうか。
とても悲しく残念です。

(337)ナハフ1について 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月06日(火)12時55分39秒 4日

 鹿島まで行って来ました。 
 同行した自治省の山下氏も大変ショックを受けていました。
 南大夕張の客車も雪解けと共に転倒するものと思います。
 客車側の連結器が利いておりオハ1、スハニ6も共に転倒する恐れがあります。
 当日も破れた窓から子供が出入りしており事故の発生が心配されました。
 建設会社の重機で牽引し起こすなり、何らかの対応が必要でしょう。
 夕張市のホームページへ、皆さんから「要望」して頂ければと思います。

(336)私の叔父 投稿者:菅井宏史  投稿日:04月05日(月)08時34分16秒

 大夕張出身のスポーツ選手ということで、ぜひ私の叔父(母の弟)のことを
 書かせて下さい。
 名前は出雲道男というのですが、その昔(もう40年以上も前の話ですが)
 日大在学時代やその後の社会人時代に何度かスキーアルペンの全日本選手権
 で優勝したということを母親などから聞いています(水泳の田中選手の様に
 世界一になったわけではありません)。
 特に滑降や大回転のスピード系が得意だったそうです。私は直接叔父の優勝
 場面を見たことはないのですが、一度だけ幼稚園か小学校の低学年の頃に
 選手としての叔父をテレビで見た記憶があります。その時は選手としては
 すでに晩年であった様ですが、滑降で確か2位に入賞しておりました。
 その後テレビ中継で解説者として登場したり、札幌オリンピックの時は役員
 などもしていたようです。
 一度、スイスかオーストリアのどこかのスキー場で、あのトニー・ザイラーと
 いっしょに写っている叔父のスナップ写真を見せてもらったことがありました。
 その写真にはなぜか加山雄三もいっしょでした・・。 

(335)大夕張のスポーツ選手 投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月04日(日)22時12分54秒

昨日の新聞で,水泳の田中雅美選手が世界短水路200m平泳ぎにおいて世界新記録で 
優勝したとの記事が一面を飾りました。 
以前,この掲示板で早苗さんが書かれていましたが,田中選手は鹿島中に 勤務され
ていた田中憲夫先生のお嬢様です。
田中先生は,私が中学2年の時に 大学を出てすぐに保健体育の先生として赴任して
こられました。長身で髪を短く刈った 姿と,野球部の顧問をしておられたためか,
オレンジ色のウインドブレーカーを身につけて保健の授業をされていた姿がいまでも
印象に残っています。 
田中先生は,今道内で教頭先生として活躍されているそうです。 

大夕張出身のスポーツ選手といえば,私には昭和44、5年頃,横綱の柏戸を破って
引退に 追い込んだ『朝登』という力士が印象に残っています。スキー選手にも
多くの名選手が いたと聞いています。 

4月に入り,桜の開花の話題がちらほら聞こえてくるようになりました。
札幌は一月も先の話 ですが,みなさんのお住まいのところはいかがでしょうか。 

(334)大夕張鉄道の記憶の断片 投稿者:飯田 雅人  投稿日:04月03日(土)00時40分19秒

 鉄橋を渡ると,底の見えない深い谷。
 扉の横の壁に掛かっていた北海道の鉄道路線図。
 小さく丸いだるまストーブと煙突。そして鉄製の柵。
 ちり紙を互い違いに切り,長くしたものを窓から吹流しにした遊び。
 トンネルに入る合図の汽笛で急いで閉めた重い二重の窓。
 すれ違う為に止まった明石町駅(?)での退屈な停車時間。
 長いこと当たり前だと思っていたト・ト・トンとなる線路の音。 

(333)奥山さんへ 投稿者:今井 一郎  投稿日:04月02日(金)22時32分55秒

奥山さんの産業遺産保存に対する情熱に敬意を表します。  
お会いできる日を楽しみにしております。 

(332)今井さんへ 投稿者:奥山道紀  投稿日:04月02日(金)18時08分50秒

客車ひどい状態になりましたね。
何とか地元の人と行動を起こしたいと思います。
田代さんは、まだ夕張に残っているのでしょうか。 

(331)山史 (23) 投稿者:今井 一郎  投稿日:04月01日(木)19時22分05秒

山史(23)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

昭和19年 3月 1日  社線旅客運賃改正 旅客賃率1銭6厘、大夕張・清水沢間26銭
   19年 3月     大夕張砿業所大採炭、出炭記録5618函
   19年 4月 1日  省線旅客運賃改正 粁当賃率2銭5厘
              社線   〃   旅客賃率2銭5厘
大夕張・清水沢間40銭
   19年 8月25日  省線と清水沢駅乗入協定締結、工事着手
  19年 9月30日  宝沢盛土完成、新線切換運転開始
   19年11月     日本通運と運賃後佛契約締結
尺別よりC1101蒸気機関車転属入線 昭和20年
4月 1日  省線運賃改正 粁当賃率3銭 社線   〃 旅客賃率3銭 大夕張・清水沢間50銭   20年 5月 6日 農場前臨時乗降場設置
   20年 5月18日  運輸通信省、運輸省となる
   20年 8月15日  終戦   20年 9月 1日  鉄道課設置、資材倉庫に事務所を置く
初代鉄道課長 宇賀村進   20年11月 大夕張炭砿労働組合発足
   20年12月20日 大夕張鉄道交通従業員労働組合発足
昭和21年 2月 1日 第2農場前臨時乗降場設置
農場前臨時乗降場を第1農場前臨時乗降場と改称
   21年 3月 1日 省線旅客運賃改正 粁当賃率7銭5厘
貨物運賃改正 石炭賃率18粁1円60銭   21年3月14〜18日 雪害のため運休   21年 4月 1日 社線旅客運賃改正 旅客賃率9銭 
1大夕張・清水沢間1円50銭   21年 6月20日 2代鉄道課長 本間昌吉   21年 7月 1日 大貨物営業粁程10割増設定
石炭賃率35粁2円50銭   21年 7月16日 北炭と遠幌駅構内拡張工事協定締結
昭和21年 8月 渡島海岸鉄道より客車ハ1譲受入線
昭和22年 1月 清水沢駅乗入工事完了   22年1月16日 清水沢駅乗入、清水沢駅を共同使用駅とし新清水沢駅を廃止
   22年 3月 1日 省線旅客運賃改正 粁当賃率9銭5厘
石炭特定賃率設定 35粁2円80銭 乗入により社線内営業粁程及び旅客運賃改正
   22年 4月 1日 社線旅客運賃改正 旅客賃率12銭 大夕張・清水沢駅間2円
   22年 4月21日 同上連絡運輸に適用   22年 4月 栄町岐線延長120米敷設   22年 5月 1日 新制中学校設置   22年 7月 6日 石炭特定賃率廃止
貨物運賃改正 石炭賃率35粁18円50銭   22年 7月 7日 省線旅客運賃改正 粁当賃率35銭 社線  〃    旅客賃率54銭 大夕張・清水沢間8円50銭
   22年 8月 南部開発踏査開始                   続きます

平成11年 3月 先頭にもどる


(330)ふたりだけの大夕張撮影会 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月29日(月)22時46分03秒

 3月20日に大夕張の写真を撮りたいという少年と、かっての面影のない
大夕張に出かけました。僅かに残った廃屋や鹿島小学校、渡る者もない
雪が積もった歩道橋で彼が何を感じたかはわかりませんが、私が見たり
聞いたりした事の思い浮かぶ事全てを彼に話しました。
 奥山さんが書き込みした通り、南大夕張駅跡地の鉄道の廃車体は
まさに見るも無残。あの車両たちを扱う事で給料をもらっていた私は
もう、何も語りたくはありません。
 大夕張を撮りたいと言った彼に、確かにここに人々の生活があったことを
感じて欲しかった。「ズリ山はヤマの墓標」と言ってしまった私は、彼に
陰のイメージを与えすぎたと少々後悔しています。
 雪深くても4月までにはちゃんと春が来る。夏は濃い緑の山に囲まれ空も
濃い青の中ポッカリと真っ白な雲が浮かびセミがうるさいほど鳴く中で職場の
仲間と熱い線路に腰掛けて食べたアイスキャンディーの事などキラキラ輝く
ヤマ元の明るい思い出も忘れません。

(329)大夕張炭鉱の昔のこと 投稿者:まえかわ  投稿日:03月29日(月)21時42分54秒

 昭和30年6月4日
 3日午後4時頃、夕張市鹿島町三菱大夕張鉱業所北卸十片払跡(廃鉱)の
坑口から約3千メートル奥の炭坑内で突然ガスが爆発。
 岩石が吹っ飛び死者2、行方不明3、重傷12、軽傷27人を出した。
                  (朝日新聞より)
http://www.biwa.ne.jp/~fumiko/

(328)南大夕張の客車について 投稿者:奥山道紀  投稿日:03月29日(月)17時57分12秒

 昨日、三弦橋を見てきました。
南大夕張の客車は長谷川さんの写真の様に
ナハフ1は雪の重さで転倒しかかっています。
大夕張の残り少ない遺産であり、
何とか保存のため手を差し伸べることができないでしょうか。

(327)根ワサビ 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月28日(日)08時29分03秒

  ここのところ暖かい日が続き、どんどん雪のかさが低くなってきました。
 まだ鉄道に在職中は、剣先スコップをで南大夕張駅の土手の内緒の場所を
雪割りすると、茶色い枯れ草の中に青々したワサビの葉が出てきまして、
食べる根っこを切り、葉っぱは来年のために同じ場所に埋め、割った雪を
戻します。この行動は人に知られないようにしなければならない。ワサビは
いつも奇麗な水で湿っていて小石混じりの場所だとおいしそうに太くなる。
 もちろん、大夕張にも私の内緒のワサビ畑がありました。今はどうなって
いるのかな?
 5月の連休の前には明石町の白銀橋を渡りカネオペツ川の内緒の場所で
アメマスを釣る。アメマスは釣り損ねて落としてもまた針にかかるお馬鹿さんな
魚で、誰かが先に入って釣られるとそこにはいなくなるので、内緒の場所は
数ヶ所ありました。
 鉄道の同僚で、元すし職人というのがいましたので、彼にアメマスをさばいて
もらい、小さく薄い刺し身を根ワサビと醤油で「頂きます」ってなると感涙ものですよ。
そうそう、機関庫で1斗缶をもらって、穴をあけ、スミをおこしてアミで 焼いてもおいしかった。
 夕張でのおいしい思い出でした。

(326)資料室ついて 投稿者:奥山道紀  投稿日:03月26日(金)17時52分59秒

資料室の開設は「幌南小学校」なのですね。
「鹿島小学校」の建物を何かに活用できない
ものかと思います。

(325)山史 (22) 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月23日(火)07時29分09秒

山史(22)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

昭和 4年 1月22日  大夕張駅を南大夕張、北部を大夕張駅と改称新たに
               通洞駅を設定
    4年 2月 4日  客車2両連結運転
   4年 5月 7日  9237蒸気機関車及び貨車2両到着
    4年 5月 8日  北部送炭開始
    4年 5月11〜12日 専用鉄道延長工事監査
    4年 5月15日  運転開始認可
    4年 5月30日  清水沢・南大夕張間鉄道院運転管理解除
    4年 6月 1日  清水沢・通洞間専用鉄道として自営運転開始
    4年 8月    清水沢及び通洞駅構内に転車台設置
    4年10月    北部事務所落成、鉄道係事務所移転

昭和 5年 7月中旬  青葉峠落石覆工事着工
   5年 8月26日  鉄道係沢田主任本店技術部に転任
   5年 9月 5日  鉄道係廃止、工作係に合併
   5年11月下旬  青葉峠落石覆完工
昭和 6年 8月    鉄道用地52余町歩借地

昭和 7年 4月 1日  石炭トン数英トンを佛トンに改正
   7年      夕張鉄道栗山・野幌間開通
   7年 7月 7日  南大夕張駅構内入換線完成
   7年 9月    宝沢道路工事着工
   7年10月20日  清水沢出張所を移築、駅業務を兼ね執務取扱開始
昭和 8年 1月21日  宝沢道路工事完了
   8年 4月下旬  北部選炭場工事着工
   8年 8月 8日  香椎沢橋梁橋脚流出
   8年 8月30日  同上復旧工事完了
   8年 8月31日  同上列車運転開始
   8年10月16日  葡萄山隧道付近線路改良工事着手
   8年11月26日  北部選炭場工事落成
昭和 9年 4月 7日  葡萄山隧道崩落
   9年 4月17日  同上仮工事完成、列車運転
   9年 5月    北部コークス炉造営開始
   9年 7月上旬  御料森林軌道工事着工
   9年 7月30日  通洞駅構内御料岐線工事着手
    9年 9月    北部コークス炉40基完成
   9年 9月15日  葡萄山付近外線工事完了
   9年10月 1日  哩程を粁程に改正
   9年10月    遠幌加別川橋梁橋脚亀裂発見架替工事着工
昭和10年 1月18日  遠幌加別川橋梁架替工事完成
   10年1月22〜24日 吹雪のため運休
   10年 4月25日  遠幌加別川橋梁残工事着手
   10年 5月19日  同上落成、列車運転開始
   10年 6月30日  通洞駅構内御料岐線落成
   10年 7月 2日  同上使用開始
           青葉峠落石覆増設工事着手
   10年 8月    北部コークス炉製造開始
   10年 9月24日  青葉峠落石覆増設工事完工
   10年10月23日  葡萄山外線付近外線改良工事完了
昭和11年 7月    木製ラッセル車(キ28)入線
昭和12年 7月21日  専用鉄道を地方鉄道に改組申請
   12年 8月12日  9603蒸気機関車入線
   12年10月     客車ナハ1入線
昭和13年10月20日  地方鉄道認可 監第7802号
           通洞駅を大夕張炭山と改称
昭和17年 6月 1日  遠幌加別駅 駅舎新設
   17年 8月 1日  遠幌加別駅を遠幌駅と改称、社線内乗降客を取扱うも
               乗車券を発売せず
昭和18年 4月 1日  夕張市、市制施行
  18年10月 1日  遠幌駅車取扱貨物連絡運輸実施
社線内乗車券の発売開始
   18年11月 1日  鉄道省、運輸通信省となる
              続きます。

(324)山史 (21) 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月21日(日)17時31分30秒

山史(21)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)
第8編 三菱大夕張鉄道年表
明治31        福山某、二股の試掘権を得、福山坑と称す
明治39年 1月18日  川崎繁実、清水沢〜二股間専用鉄道敷設免許申請提出
   39年 6月    京都合資会社設立、権利を譲り受け同時に馬鉄工事着手
   39年 8月 2日  専用鉄道敷設免許認可 鉄第884号
   39年10月    京都合資会社福山坑及び滝ノ沢坑開坑
鉄道国有法により北海道炭砿鉄道の清水沢駅等鉄道部門、
逓信省鉄道作業局に買収される
明治40年 4月 1日  逓信省鉄道作業局、逓信大臣管理下に帝国鉄道庁に昇格
   40年 7月    京都合資会社炭坑部門を分離独立させ夕張炭砿株式会社
         と称し錦坑を開坑
   40年 8月    馬鉄工事完成、石炭の積出開始
明治41年12月 5日  帝国鉄道庁、内閣総理大臣管理下に鉄道院と称す
明治42年 9月    夕張炭砿株式会社と社名改称
明治43年10月    専用鉄道道床工事、葡萄山隧道及び遠幌加別川橋梁工事完成
明治44年 5月    専用鉄道軌条敷設工事完成
   44年 6月 1日  鉄道院運転管理下に専用鉄道運転開始,二股駅と称するも
駅舎なし
明治45年 6月    三菱合資会社、大夕張炭砿に資本投入共同経営となる
若葉坑開坑
          若葉・滝ノ沢・二股間1.5哩エンドレス設置
   45年 7月    錦抗を廃止、滝ノ沢坑を縮小、主力を若葉坑に注ぐ
大正 5年 1月26日  三菱合資会社、大夕張炭砿を吸収すべく申請
   5年 2月17日  同上合併認可、監第309号
           炭坑部の美唄砿業所の大夕張炭砿となる
大正 7年 4月10日  三菱合資会社、炭坑部を分離独立させ三菱鉱業株式会社設立
   7年 6月14日  同上認可、監第1051号
労務係詰所を大夕張駅と称し、勘合証発行
   7年 7月    北部開発を計画、第1次案として北部・万字間鉄道調査
   7年 7月11日  南部コークス炉工事着手
大正 8年 8月    南部コークス炉完成
   8年      北部開発第2次案として通洞案立案
大正 9年 5月15日  鉄道院、鉄道省に昇格
大正10年      北部開発第3次案として遠幌・北部間測量開始
大正12年      北部開発第2次案を最良として測量開始せるも
         震災のため中止
大正15年      夕張鉄道、栗山・新夕張間開通
   15年 8月    北部開発の議再起、第2次案の通洞決定
   15年11月上旬  専用鉄道北部延長工事着手(第1期道床工事着工)  
昭和 2年 3月17日  専用鉄道北部延長工事申請
   2年 4月 8日  本店技術部沢田技師、はじめて工事予定線踏査
    2年 4月10日  大夕張砿直轄鉄道係設置、用度係事務所内に置く
   2年 5月上旬  専用鉄道延長工事担当者として沢田技師発令
   2年 5月22日  沢田技師着任
   2年 6月10日  大夕張砿業所独立、初代所長勝呉英氏
   2年 6月15日  専用鉄道北部延長工事認可、監第1494号
   2年 7月11日  北部開発鉄道係設置、鉄道係主任沢田技師発令
   2年 7月22日  帝室林野庁より工事承認を受く
   2年 8月12日  馬鉄工事予算7万余円にて大井、梅原組に決定
   2年 8月18日  鶯沢橋梁基礎工事着工
   2年 8月22日  吉野沢   〃
   2年 8月25日  香椎沢   〃
   2年 8月28日  旭沢    〃
   2年 8月31日  第1期道床工事完工
   2年 9月 1日  第2期道床工事及び馬鉄工事着工
   2年 9月 8日  竜田沢付近にて熊射殺
   2年 9月13日  五十鈴沢橋梁基礎工事着工
   2年 9月28日  竜田沢橋梁基礎工事着工
   2年10月 6日  通洞完通
   2年10月11日  五十鈴沢橋梁基礎工事完工
    2年10月12日  馬鉄工事完成
    2年10月14日  鶯沢橋梁基礎工事完工
    2年10月29日  吉野沢   〃
    2年10月30日  竜田沢   〃
  2年11月 2日  明石沢橋梁基礎工事着工
   2年11月 4日  第3期道床工事着工、沿線渓沢の名称を付す
   2年11月上旬  橋梁橋桁入荷始む
   2年11月22日  香椎沢橋梁基礎工事完工
   2年11月26日  明石沢   〃
   2年11月27日  旭沢    〃   
昭和 3年 2月初旬  橋梁橋桁到着完了し佐藤庄太郎により運搬開始
   3年 3月初旬  橋桁運搬完了
   3年 4月 1日  鶯沢、吉野沢橋梁架橋工事着工
    3年 4月 6日  五十鈴沢      〃
    3年 4月15日  香椎沢       〃
   3年 4月30日  鶯沢橋梁架橋工事完了
   3年 5月 1日  宝沢橋梁基礎工事着工
   3年 5月 3日  軌条敷設工事開始
   3年 5月 8日  旭沢橋梁架橋工事着工
   3年 5月     鉄道係事務所明石沢に移転
   3年 5月25日  明石沢橋梁架橋工事着工
   3年 6月 1日  軌条敷設工事6哩70鎖に到着し中継所設置
3080蒸気機関車運転開始し物資運搬
    3年 6月15日  第2期道床工事完工
    3年 6月21日  竜田沢、宝沢橋梁架橋工事着工
    3年 6月25日  宝沢橋梁基礎工事完了
    3年 6月26日  吉野沢橋梁架橋工事完了
    3年 7月 8日  明石沢   〃
    3年 7月23日  第4期道床工事着工
   五十鈴沢橋梁架橋工事完了
    3年 7月26日  旭沢    〃
    3年 7月27日  香椎沢   〃
    3年 8月 2日  6哩70鎖より軌条敷設開始
    3年 8月13日  竜田沢、宝沢橋梁架橋工事完了
    3年 8月20日  香椎沢橋梁付近にて山火発生
    3年 8月下旬  軌条敷設9哩10鎖に到着、中継所移転
    3年 9月21日  第3期道床工事完工
    3年 9月下旬  軌条敷設大夕張駅付近に到着構内配線完了
    3年10月24日  9201蒸気機関車及び客車3両到着
    3年10月25日  第4期道床工事完工
    3年10月31日  9201蒸気機関車運転開始
    3年11月27日  軌条敷設通洞終点到着
               専用鉄道北部延長工事完工
    3年12月12日  客車1両連結運転
                         続きます

(323)山史 (20) 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月20日(土)22時58分13秒

山史(20)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

第7編 参 考 表

1、 年度別出炭

年 度   南部炭     北部炭     合 計
明治40  15,918             15,918
   41  21,249             21,249
   42  21,839             21,839
   43  24,312             24,312
   44  53,658             53,658
   45  55,822             55,822
大正 2  77,363             77,363
    3  95,940             95,940
    4  90,503             90,503
    5  85,371             85,371
    6  99,150             99,150
    7  76,251             76,251
    8  96,094             96,094
    9 109,812            109,812
   10 105,524            105,524
   11  90,932             90,932
   12  85,357             85,357
   13  83,476             83,467
   14  80,878             80,878
   15  83,721             83,721
昭和 2 102,448            104,448
    3 115,321    4,102   119,423
    4 116,006   70,217   186,223
    5  54,251  212.555   266,806
    6          274,112   274,112
    7          317,700   317,700
    8          417,500   417,500
    9          423,350   423,350
   10          536,250   536,250
   11          590,000   590,000
   12          662,500   662,500
   13 724,000  724,000
   14 743,000 743,000
   15 736,000 736,000
   16 762,500 762,500
   17 690,500 690,500
   18 700,000 700,000
   19 738,000 738,000
   20 361,000 361,000
   21 315,700 315,700
   22 426,700 426,700
   23 1,015 382,785 383,800
   24 2,550 390,050 392,600
   25 6,530 419,970 426,500
   26 14,900 407,200 422,100
   27 15,938 363,162 379,100
   28 19,415 432,885 452,300
   29 26,685 480,915 507,600
   30 751 419,849 420,600
   31 552,000 552,000
   32 545,300 545,300
   33 446,700 446,700
   34 590,000 590,000
   35 650,800 650,800
   36 596,900 590,900
   37 544,000 544,000
   合 計 1,930,971 16,928,202 18,859,173
  2、 監督官庁
  明治 3年 3月     民部、大蔵省鉄道掛
     3年 7月17日  民部省鉄道掛
     3年10月20日  工部省鉄道掛
     4年 8月14日  工部省鉄道寮
    10年 1月11日  工部省鉄道局
    18年12月22日  内閣鉄道局
    23年 9月16日  内務省鉄道庁
    25年 7月21日  逓信省鉄道庁
    26年11月10日  逓信省鉄道局
    30年 8月18日  逓信省鉄道局  (内局)私鉄免許
               逓信省鉄道作業局(外局)官設鉄道作業
    40年 4月 1日  帝国鉄道庁(逓信大臣管理下)
    41年12月 5日  鉄道院(内閣総理大臣管理下)
  大正 9年 5月15日  鉄道省
  昭和18年11月 1日  運輸通信省
    20年 5月18日  運輸省
    24年 6月 1日  運輸省   (監督官庁)
               日本国有鉄道(公共企業体)
  6、 英単位換算表
   哩    鎖   碼    呎 粁    米
  マイル   チャイン  ヤード   フート  キロメートル メートル
1 80 1760 5.280 1.60931 1609.31
0.1250 1 22 66 0.02012 20.1164
 0.00057 0.04545 1 3 0.00091 0.91438
 0.00019 0.01515 0.33333 1 0.00030 0.30479
 0.62138 49.7106 1093.63 3280.89 1 1000
 0.00062 0.04971 1.09363 3.28089 0.00100 1   哩 mile ( M )  1哩= 80鎖
   鎖 chain ( C )   1鎖= 100節
節 link( L)    1節=  10分
    分          1分= 1/10節
    听   英トン   米トン  佛トン  キログラム
  ポンド
1 0.00045 0.00050 0.00045 0.45359
2240 1 1.12000  1.01604 1016.04
2000 0.89286 1   0.90718 907.178
2204.62 0.98421 1.10230 1 1000
  2.20462 0.00098 0.00110 0.00100 1
  追伸
  次回からは最終編 第8編三菱大夕張鉄道年表です。

(322)旧鹿島小の郷土資料移管 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月19日(金)20時43分47秒

以前奥山さんより書き込みのあった旧鹿島小の資料のことが
今日の北海道新聞(夕刊)に出ていました。
それによると、郷土資料室の資料の一部が、幌南小(南部)に
設けた展示室に移管されたということです。
移管されたのは、鹿島小の関係資料の他、炭坑全盛期の生活や
文化を伝えるものや写真などで、市民公開も検討されている
そうです。

(321)大夕張鉄道のCD-ROM 投稿者:乗田 功一  投稿日:03月18日(木)01時09分37秒

「大夕張の本棚」のページに、大夕張鉄道関連の書籍やビデオが紹介され
ていますが、CD-ROMにも大夕張鉄道を紹介した物があります。

●タイトル 廃線散歩 〜郷愁の旅、失われた鉄道を訪ねて〜 東日本編
●発  売 シンフォレスト
●価  格 3900円

近頃の鉄道廃線跡めぐりブームは、ついにCD-ROMの世界にも進出
しました。
オープニング後、いきなり最初の写真が南大夕張の廃車体でびっくりです。
東日本の各地の廃線跡を紹介しているので、大夕張鉄道はわずかしかあり
ませんが、それでも清水沢〜遠幌間の道路より一段低い所を走っているD
L55の写真や客車内のストーブの写真など、あまり見かけない写真も含
まれています。

(320)木の実 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月16日(火)21時37分41秒

大夕張は木の実が身近にいっぱいありました。
グスベリ・カリンズ・オンコの実・コクアの実
そして,名前はわかりませんが,甘い白い実も
あったそうです。

私が住んでいた富士見町の3丁目と2丁目の間の
道の脇に小さい松の木が植えてあって,そこには,
小さな赤い実がなっていました。
子供の頃,目ざとくそのような実を見つけて口に
運んだものでした。
赤い小さな実でも,縦にすじの入ったかたい実,
さわると弾力があり,濃密な液が出てくる実・・
など同じ赤い実でも何種類かありました。
前者がカリンズかグズベリで,後者がオンコの実
だったでしょうか。
「これはおいしい」という実にあったことは,あ
りませんでしたが・・・。

(319)泉さんへ 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月16日(火)17時51分42秒

お久しぶりです。
「三弦橋」「客車等」については4月4日
に旭川教育大学、今先生等と夕張に出かけ
地元の郷土史家とお話する予定です。
何か、地元の人々も自分の問題として受け取ってくれれば
良いのですが。

(318)新参者ですが 投稿者:泉 俊弘  投稿日:03月16日(火)14時55分47秒

 奥山さん、ひょんなところでお目にかかります(森川「通信」のお導きです)。
 あの鉄橋やトンネルはいまどうなっているか、まちのたたずまいはあれから
どれほど変わったろうか…、思った瞬間、現地に立ったかのような気持ちに
させてくれるこの頁は実に素晴らしいですね。
 小生の「大夕張駅舎」にも言及下さり、ありがとうございます。
 客車・施設の保存に関しては仰言る通りで、市民の側から何ができるか、を
どうして欲しいか、といっしょに行政側に伝えていくことが大事かと思います。
(岡山ではいま市内電車の延伸計画が進んでいますが,役所も「パブリック・
インボルブメント」などと申して市民の声に耳を傾けるようになってきました)
 当分は一方的に情報をいただくだけになってしまいそうですが、どうぞ
よろしくお願い致します。

(317)山史 (19) 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月15日(月)07時43分18秒

山史(19)
   三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

第5章 石炭運賃

   大夕張炭山〜清水沢間1屯当り石炭賃率
昭和14年4月20日 開業当時併算制施行 7級 18粁 50銭
         最低運賃の関係により59銭の実施を得る
昭和17年4月1日 戦時輸送通算制施行のため減収となり実収55銭
         但し昭和19〜20年頃一括割賦を使用したため扇町
         及び隅田川駅着長距離輸送により70銭〜90銭の実
         収を得(最高月屯当り1円20銭)
昭和21年3月1日 運賃値上               1円60銭
昭和21年4月1日 大貨物営業粁10割増設定    35粁  2円50銭
昭和22年3月1日 石炭賃率設定             2円80銭
昭和22年7月6日 運賃値上げ石炭賃率廃止        18円50銭
昭和23年7月10日 併算制復帰               66円
昭和23年9月1日 取引高税実施に伴い大貨物営業粁11割とせるも
         賃率に変化なし       36粁    66円
昭和25年1月1日 運賃値上げ取引高税廃止に伴い大貨物営業粁廃止
         実粁とす          18粁    81円
昭和26年11月1日 運賃値上                106円
昭和27年3月1日 大貨物営業粁10割設定     35粁   157円
昭和28年2月1日 運賃値上                182円
昭和32年4月1日 運賃値上                211円
昭和35年7月1日 等級引下            6級   211円
昭和36年4月6日 運賃値上                243円
昭和37年3月30日 国鉄運賃延納取引実施      100分の6.5
昭和37年11月1日 石炭運賃通算制施行      社線実収約215円


第6章 沿線炭鉱

    沿線炭砿年度別送炭表は別紙

 日本通運株式会社
  昭和19年11月1日 追分支店と後払契約締結月佛とす
  昭和34年6月1日 札幌総括主管支店と契約更新(追分支店廃止)

 北海道炭砿汽船株式会社夕張砿業所遠幌砿
   昭和21年7月16日 遠幌駅構内拡張工事協定締結
   昭和23年1月   岐線完成 740.66M 送炭開始
   昭和23年4月1日 岐線作業協定締結、料金後佛の月佛とす
            岐線料は屯13円、運転料は粁42円
   昭和23年5月24日 住宅6戸(最小78坪)竣工後乙の所有と
            する旨締結
   昭和23年9月18日 駅本屋40坪、附属建物6坪及び社宅完成
            乙の所有とする引渡書交換
   昭和24年9月16日 運賃料金後佛契約締結 旬佛とす
   昭和25年4月1日 全上 1ヶ月毎の旬佛概算で月精算に改定
   昭和29年11月   送炭終了
   
 夕張炭砿株式会社北夕砿業所
  昭和24年9月   岐線完成 5K388M地点 現在延長 518M200
  昭和24年9月16日 送炭開始
  昭和24年10月26日 札幌鉱山株式会社北夕砿業所と作業協定及び
           後佛契約締結 旬佛とす
           岐線料は屯20円 運転料は370円
  昭和27年3月1日 夕張炭砿株式会社北夕砿業所と社名変更
  昭和28年12月1日 後佛契約改正 月佛とす
  昭和29年7月13日 買付炭代と運賃相殺
  昭和31年4月1日 後佛契約改正 半月佛とす
  昭和35年5月   閉山問題発生
  昭和33年10月1日 後佛契約解除 現佛とす
  昭和33年10月7日 拓銀佛出の小切手を認む
  昭和38年9月1日 後佛再契約 半月佛とす

 北菱産業株式会社
  昭和28年3月   岐線完成 5K238M地点 現在延長526M200
  昭和28年3月   鹿島炭砿送炭開始
  昭和28年4月1日 後佛契約締結 月佛とす
            岐線料は屯20円 運転料は粁370円
  昭和32年2月   香取坑、大夕張炭山駅終点より送炭開始
  昭和37年2月   全上 送炭終了

 大夕張産業株式会社
  昭和28年6月1日 後佛契約締結 月佛とす
  昭和28年10月1日 北菱建設工業株式会社大夕張作業所と社名変更

 鹿島通運株式会社
  昭和28年11月1日 後佛契約締結 月佛とす
  
 中島鉱業株式会社
  昭和28年7月20日 後佛契約締結 月佛とす
  昭和30年10月1日 全上解除

 北宝建設株式会社
  自昭和34年8月1日   12M200M 移設工事資材運賃後佛契約
  至昭和34年12月31日           締結 月佛とす
   
  自昭和34年10月1日   明石沢・香椎沢間道路工事資材運賃後佛
  至昭和35年3月31日   契約締結 月佛とす

  自昭和34年12月1日   10K700M移設工事資材運賃後佛契約締結
  至昭和35年9月30日   月佛とす

  自昭和36年6月10日   道路工事資材運賃後佛契約締結 月佛とす
  至昭和36年10月30日  

 黒 江 昭 利
  昭和29年11月    送炭開始
  昭和30年4月1日  後佛契約締結 月佛とす

 大成建設株式会社
  自昭和32年4月1日   青葉隧道工事資材運賃後佛契約 月佛とす
  至昭和33年4月31日

  自昭和33年10月1日   南大夕張開発岐線工事資材運賃後佛契約
  至昭和34年3月31日   月佛とす

 井 出 組
  昭和34年8月1日   後佛契約 月佛とす

 藤 田 組
  自昭和35年3月19日   後佛契約 月佛とす
  至昭和35年8月31日

  自昭和36年6月10日   全上
  至昭和36年11月30日

 営 林 署(帝室林野局)
         大夕張炭山    南大夕張    遠  幌
岐線完成月日   昭10.6.30   昭14.11.20  昭15.9.1
現在岐線延長    773M740     1261M500    192M550
料  金   専用鉄道のため  計算行程/粁とし 運転作業粁年間
       岐線料運賃込み  岐線料/往復に付    3,100円
                  1円50銭
                回送料1粁に付
                    72銭
                転てつ手人件費年間
                   1、100円

  昭和23年4月1日 上記3協定を合併契約
          岐線料は屯16円 運転料は粁42円
  昭和27年6月1日 料金改定
          岐線料は屯60円 運転料は370円

 朝日新聞北海道支社   昭和34年6月1日

 毎日新聞北海道発行所  昭和35年5月1日   後佛契約締結

 読売新聞北海道支社   昭和37年11月1日

第6編 バ ス 関 係  

 昭和25年3月30日 設立せる夕張乗合自動車株式会社(夕張バス)は、その後
路線を拡張しつゝあったが、昭和26年清水沢・南部間道路開通後昭和28年6月8日
より清水沢・南部間8粁、6往復の運行を開始、年毎運行回数を増加15往復に達せり。

 昭和31年9月16日 美鉄バスは大夕張地区山内(砿業所前〜明石町間及び中学校前間)
18往復の運行を開始、その後昭和36年5月1日名称を三菱鉱業バスと改称せり。
 
 昭和37年10月6日 清水沢・大夕張間道路開通し、翌7日より大夕張・夕張間急行
バスを三菱7往復、夕張バス8往復として運行開始。片道70分をもって本町地区に
達することを得たり。

 昭和38年5月5日 三菱、夕張両バス共従前の粁当り4円56銭の運賃を5円30銭に
引上の運賃改正の認可を得実施せり。

 昭和38年5月27日 三菱バスは予て申請中の一般貸切旅客自動車運送事業免許の
認可(札陸自認第618号)を受け、事業区域を夕張市とし6月5日より乗車定員59名
1両の貸切バス運行を開始せり。

 昭和38年10月1日 夕張バス解散。夕張鉄道に吸収合併せり。

 昭和38年12月25日 大夕張・夕張間急行バス運行区間に新たに北高前及び
炭砿病院前の2停留所を追加設置せり。


 追伸

 山史も残り2編となりました。第7編 参考表、第8編 三菱大夕張鉄道年表です。

(316)山史 (18) 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月14日(日)00時51分02秒

山史(18)
三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

第4編 営 業 成 績

第1章
第2章
 (全て別表とさせていただきます)

第3章 連絡運輸範囲

 昭和16年12月1日 旅客連絡運輸取扱開始
   国鉄線  東海道線 東京、横浜、名古屋、大阪、神戸
        東北線  東北本線各駅、日立、陸中花輪、八戸、
             陸中夏井、久慈
        奥羽線  奥羽本線、能代、羽後四ッ屋、羽後長野
        羽越線  温海
        北海道線 各駅
  国鉄線を経由し社線と次の鉄道線間
    国鉄線清水沢・鹿ノ谷間経由三菱鉱業株式会社線各駅と夕張鉄道線
    各駅間。

 昭和24年1月20日 三井芦別鉄道と連絡運輸取扱開始
    国鉄線を経由し社線と次の鉄道線間。
    国鉄清水沢・芦別間経由三菱石炭鉱業株式会社線大夕張駅と三井
   芦別鉄道線各駅間

 昭和31年6月1日 連絡運輸に美唄鉄道と併合次を追加
    国鉄線   東海道線 静岡、三ノ宮
          北陸線  富山
          東北線  大湊
          奥羽線  各駅
          信越線  新潟

                        続きます。

(315)ぽっぽや 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月12日(金)23時38分33秒

今日,新聞の広告に『鉄道員』(高倉健主演)の広告が写真で
出ていました。雪降る中の蒸気のシーン,実直そうな高倉健演
じる乙松の姿に思わず,心がジーンと,目には涙が出てきてし
まいました。
新聞広告で涙なんて,と思いつつ妻に話したところ,TVの宣伝
なんてもっと泣けるよ,とのことでした。

当時の時代を知るものだからでしょうか・・・。映画をぜひみたい
ものだと思いました。

(314)夕張岳について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月12日(金)17時56分30秒

飯田さんが、前に「札幌から夕張岳が見える」と書いていました。
もう絶版でしょうが、たしか
坂本直行著、北海道新聞社「札幌から見える山」という本で夕張岳にふれており
晴れた日なら札幌市内一円から夕張岳は望めると書いてました。
学生時代、私も白石の北郷への跨線橋からよくふるさとの「夕張岳」
を眺めました。
乗田さん、ドリフのSLは「bQ」です。
北海道文化放送の「テレビグランドスペシャル・札幌真夏を突っ走れ」
という番組で47年の8月29日の放送でした。

(313)TVに登場した大夕張 投稿者:乗田 功一  投稿日:03月12日(金)03時03分58秒

大夕張鉄道で忘れられないのは、以前奥山さんも書かれていましたが
「ドリフターズ」をはじめ、芸能人が多数ロケに来たことでしょうか。
大夕張駅のホームで、奥村チヨが「終着駅」を歌うシーンを撮影して
いたのを良く覚えています。
また、なべおさみが「鹿島旅館」に宿泊するとかで、大騒ぎしていた
記憶もあります。
ドリフターズは、まだ「荒井注」さんが在籍していたころで、炭山駅
近くでのロケ現場では、多くの見物人の後ろから私も眺めていました
が、いかりや長介さんがこちらを向き「目が合った!」とドキドキし
たことを懐かしく思い出します。
この時のロケはテレビで放映したのですが、どんな番組だったのかよ
く覚えていません。ですが、大夕張のSLが至る所で登場していたは
ずです。

その他、子供向けで「走れ!K-100」というドラマの撮影も大夕張
でやっていました。これは、タイヤを履いた道路を走るかわいらしい
SLが主人公でしたが、この車両を載せたトラックが岳富町の道路を
勢い良く走り抜けたのを目撃しました。

これらの映像をもう一度見てみたいと思うのですが、もう残っていな
いでしょうね・・・。

(312)はじめまして 投稿者:田崎 はじめ  投稿日:03月11日(木)04時58分50秒

 飯田先生、こちらの掲示板では初めまして。
 談話室のほうでは、ハリマオの名でお世話になっております。

 今井さん。メールをいただきありがとうございました。
 談話室のほうに書き込みをしました、私の勤務する中学校の「写真
部のA君」のことで、すっかりお世話になっております。

 A君を連れて、大夕張をご案内していただけるとのこと、私もA君
もすぐに甘えてしまいました。今井さんのご厚意に感謝しております。

 飯田先生の掲示板を通して、このような出会いができたこと、大変
嬉しく思っています。
 A君には、卒業式を前に、あるいは高校入学を前に、素晴らしいプ
レゼントになったのではないでしょうか。

 とりあえず、飯田先生と今井さんへ、簡単ですが、お礼まで。
 ありがとうございます。

  http://www.na.sakura.ne.jp/~time/

(311)夕張岳 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月09日(火)21時16分11秒

 奥山さんの「私の好きな風景」を読ませて頂いて、「さすがは奥山さん!」と
思いました。確かに清栄町側でしたら秀峰夕張岳も望めますね。
 幌南町の借家から南部の職場に向う時、北菱産業を過ぎてから菊水町や青葉町を
見下ろせる場所があります。夕張岳の右側の方から朝日が昇ると、三菱の社宅群の
緑色のトタン屋根がオレンジ色にピカピカ光りました。寒い快晴の朝には夕張川
からモヤが立ち上り菊水町や青葉町を絹地の布のように包むと、水墨画のようで
会社に遅刻しない程度に眺めていた思い出があります。

 夕張岳は大夕張出身の皆様も思い入れのある山だと思いますが、私もとても
好きな山です。
 昨年の8月に永年の想いが叶って夕張岳初登山に挑戦しました。
 厚別で仲間と待ち合わせ、江別経由で向いました。江別から「きらら街道」で
南幌に向う途中の、元夕張鉄道の千歳川橋の隣に架けられた江南橋からは、ほぼ
正面に夕張岳を望め、わくわく心を増幅してくれました。
 天候不順が続いた去年の夏の数少ない晴れの日でした。
 今年も夕張岳登山に挑戦します。


 追伸
 夕張岳は石狩平野のほぼ全域から望めますが、前岳との微妙な関係で随分表情が
違いますね。

(310)わたしの好きな大夕張の風景 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月09日(火)21時07分12秒

やっぱりみなさん山の上からの風景が印象に残っているんですね。
夕張で暮らしたものだからこその風景かもしれません。

天気のいい夏の日。
鹿島小学校からつづら折りの参道を登り,石の階段を登りきると
大夕張神社の境内でした。
そこからは大夕張の街を眼下に見下ろせます。そして,シューパロ川
の向こうに続く山並みと,夕張岳を正面に望むことができました。
その雄大な景色を前に,山々を渡る風に吹かれながら,草わらに
腰を下ろし,街を見ていることの好きな子供でした。

 炭砿病院の前を通り,代々木町,大夕張駅と炭住の間をゆっくりと
走る山内線の三菱鉱業バス。
 大夕張駅構内で黒い煙と白い蒸気を上げながら停車している三菱大夕張
鉄道の蒸気機関車と,石炭や木材,メタノールを運ぶ長い貨車。
 大夕張駅を中心に縦横に連なる商店街。
 その後ろにはぎっしり並んだ数多くの黒っぽい炭住。
 そして,その家々の煙突から立ち上る黒い煙や,街を貫いていた銀色の
配管の継ぎ目からシューシューと立ち上る蒸気と湯気。
 病院前から横一直線にひかれた灰色の舗装道路。そこを鎖を引きずり
ながら走る木材を積んだトラックや車。
 人の姿も手が届くように思われ,人の話し声や遊び声も,街中の音という音が
神社のところまで届いてきました。

あきることなく見つめていた緑の山に囲まれた黒っぽく埃っぽい街が,
当時の私の街のすべてでした。
大夕張神社から見ていたあの街の風景が今も記憶に焼きついています。

大夕張神社は,夕張岳を正面に仰ぎ見ることのできる絶好の場所でした。
そこから見る夕張岳は,シューパロ湖を前に見る夕張岳や,他のどの場所から
見える夕張岳より私にとっては気に入った夕張岳でした。
街を走った三菱バスや蒸気機関車も私にとって街の印象を形作る一つの
大切なものになっています。
最近,大夕張鉄道の話が掲示板に続いていますが,鉄道を通して,大夕張の
ことについて話題にできるのも,とてもうれしく思います。
大夕張に住んていたことのある方は,きっとあの鉄道を利用していたはずです
から。

鹿島小学校が資料とともに保存されるとのこと,奥山さん情報ありがとうござい
ます。思い出の場所が一つ残ることになったことにほっとした気持ちを感じて
います。
きっと鹿島小学校の教室の窓から見えた夕張岳は,昔も今も,そしてこれからも
ずっと変わらず,私達が訪れたときも迎えてくれることになるのでしょう。

(309)わたしの好きな風景 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月09日(火)17時54分45秒

今井さんは、宮前町の「ずり山」からの三菱大夕張鉄道の列車の
光景が好きなようですが、私は清水沢小学校のグランドや
清栄町の山側からの列車の光景が好きです。
「北炭発電所」「清水沢ダム」「清水沢炭砿の立坑等」を背景に
大夕張に向かう混合列車の光景は、遠くに夕張岳も望め
特に夕方などは郷愁を誘います。
いまでは、忘れ得ないふるさとの光景です。
さて、鹿島小学校が「資料館」として活用されるそうです。
まだ、「新聞発表」もありませんが、いずれ詳しいことが解る
と思います。

(308)今井さん・乗田さんへ 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月08日(月)18時06分29秒

鉄道の話、色々とありがとうございました。
田代商店さんの話の他、山影さんという方も車両を購入して
市に寄贈して公園とする計画を持っていたようです。
また、廃線後もライダーの交流会に、客車を使用したり
南部の商店会では、何とか客車を活用しようとしていました。
ダム水没後、あの車両達は「三菱」「大夕張」の歴史を伝える
数少ないものになります。
状況はかなり厳しいですが
商店街など、地元の人を後押しして、何とか保存・活用に結びつけたい
ものです。

(306)100年の夢・・・ 投稿者:乗田 功一  投稿日:03月07日(日)23時51分30秒

奥山様、ご連絡ありがとうございました。
南大夕張の客車の手入れをなさったという事。頭が下がります。
たしかに行政に訴えるだけでなく、私達の手で出来ることは自主的に
行動することは大切なことだと思います。
仮に望み通りに保存整備がなされたとしても、そのままま維持管理を
しなければ結局今の現状と同じ事になってしまうでしょうね。
昭和50年、国鉄から蒸気機関車が全廃されてから全国各地でSLブ
ームに便乗して静態保存機が公園などに展示されましたが、そのまま
放置されて朽ち果ててしまった物も多かったようです。

鉄道に関して言えば、価値を理解する「マニア」と称する人たちが相
当数いらっしゃいます。そのような人たちが結集すれば何か素晴らし
い結果が生まれそうな気がしますが、実際にはとても難しいようです。
しかし、大井川鉄道でSLの動態保存を実現している(財)日本ナシ
ョナルトラスト等のボランティア団体の例もあり、個人、民間の力を
持ち寄れば「山をも動かす」ことも可能な気がします。

いずれにせよ、保存するなら「今」行動をおこさなければ手遅れにな
ってしまうと思います。
今見慣れた廃車体でも、100年後には真の価値を認められると思い
ますし、何よりもダムの底に沈んでしまう生まれ故郷「大夕張」の産
業を支えた「大夕張鉄道」を100年後までも伝えたいと考えます。

(305)山史 (17) 投稿者:今井 一郎  投稿日:03月07日(日)09時08分19秒

山史(17)

三菱鉱業株式会社 大夕張鉄道

自、明治39年〜至、昭和38年  58年史
   (前投稿からの続きです)

第3編 駅の歴史

清水沢駅
  明治30年2月16日 北海道炭砿鉄道の駅として開業追分起点 33.6Km
  明治39年10月   鉄道国有法により逓信省鉄道作業局に買収され
          省線となる。
  明治22年1月16日 社線乗入れにより共同使用駅となる。
  昭和31年4月2日  新駅舎完成

新清水沢駅 清水沢起点353M 社起点150M
  昭和7年10月20日 従来の大夕張砿業所清水沢出張所に休養所を加え移築、
          執努取扱開始。新清水沢兼出張所と称す。
  昭和13年10月31日 新清水沢駅と称す
  昭和14年4月20日 地方鉄道として開業、社線内旅客及び貨物の取扱開始。
  昭和22年1月16日 清水沢駅乗入れにより廃止

遠幌駅 清水沢起点4K053M 社起点3K850M
  昭和15年6月1日 木材積出の為帝室林野局と協定
  昭和15年9月1日 遠幌加別停留所として木材積出開始
  昭和16年12月1日 発駅を南大夕張駅として連絡車扱貨物を取扱う
  昭和17年6月1日 駅舎完成 現駅舎東方約100M
  昭和17年8月1日 遠幌駅と改称、乗降客取扱うも乗車券発売せず
  昭和18年10月1日 車扱連絡取扱及び社内乗車券発売
  昭和23年1月   北炭遠幌砿送炭開始
  昭和23年6月18日 駅舎社宅完成 北炭より提供受く
  昭和24年1月11日 旅客及び荷物連絡運輸取扱開始

南大夕張駅 清水沢起点7K603M 社起点7K400M
  明治44年6月1日 二股駅と称するも駅舎なし
  大正7年6月14日 三菱鉱業に移管後労務係詰所を大夕張駅と称す
  昭和4年1月22日 南大夕張駅と改称
  昭和14年4月20日 地方鉄道として開業、社内旅客荷物小口取扱及び
          車扱連絡運輸開始
  昭和16年12月1日 旅客荷物小口扱連絡運輸開始

シューパロ湖駅 清水沢起点10K233M 社起点10K050M
  昭和37年6月1日 社線内旅客の取扱開始
  昭和38年6月10日 10月31日迄旅客一時限り連絡運輸取扱う
          着駅は夕張線各駅の外、札幌小樽等を含め20駅とし
          準片券を発売

農場前臨時乗降場 清水沢起点10K253M 社起点10K050M
  昭和21年2月1日 食料増産の為第2農場前臨時乗降場として設置
  昭和25年11月1日 農場前臨時乗降所と改称
  昭和32年2月1日 二股ダム建設に伴い廃止

明石町駅 清水沢起点13K603M 社起点13K400M
  昭和20年5月6日 食料増産の為農場前臨時乗降場として発足
  昭和21年2月1日 第1農場前臨時乗降場と改称
  昭和25年11月1日 通勤者輸送の為駅に昇格明石町駅称し旅客荷物貨物の
          社内取扱開始
  昭和28年5月11日 連絡運輸取扱開始
  昭和33年11月4日 乗降場地下道完成
  昭和37年12月2日 手小配達及小口扱取扱廃止

千年町駅 清水沢起点14K953M 社起点14K150M
  昭和25年11月1日 千年町停留場として開業、駅舎設立社内線旅客
          のみ取扱う
          千(表記は円中に千の字)大夕張の符号を付し
          乗車券を発売
  昭和27年3月15日 連絡乗車券を発売千(表記は円中に千の字)大夕張とす。
  昭和35年3月21日 千年町として運賃設定し乗車券発売同時に連絡取扱開始

大夕張駅 清水沢起点15K851M 社起点15K648M
  昭和4年1月22日 以前北部駅と称するも大夕張と改称
  昭和4年6月1日 専用鉄道として発足
  昭和14年4月20日 地方鉄道として開業、社内旅客荷物小口取扱及び
          車扱連絡運輸開始
  昭和16年12月1日 旅客荷物小口扱連絡運輸開始
  昭和25年11月  新駅舎完成

大夕張炭山駅 清水沢起点17K201M 社起点16K998M
  昭和4年1月22日 通洞駅と称し旧機関庫内に置く
  昭和4年6月1日 専用鉄道として発足
  昭和13年10月20日 大夕張炭山駅と改称
  昭和14年4月20日 地方鉄道として開業、車扱貨物連絡運輸開始及び
          小口扱社線内取扱。運炭係内に駅を置く
  昭和16年12月1日 小口扱貨物連絡運輸開始
  昭和22年12月25日 駅舎新築落成
  昭和27年5月1日 小口扱貨物取扱廃止
  昭和28年12月16日 駅舎移築
  昭和28年12月25日 社線内旅客荷物取扱開始

機関庫 昭和16年3月落成す。

                      続きます。

追伸

  昭和62年三菱石炭鉱業株式会社南大夕張砿業所鉄道課の廃止が決まってから
 鉄道存続を企画していた方がいました。南部東町の田代商店の息子さんでした。
  彼は夕張市議選にも出馬し、名前だけの手書きの選挙ポスターなど話題を呼び
 ましたが落選しました。
  彼も鉄道好きで、なにより南部の街の将来を気にかけていました。
  彼とは顔なじみで、私が清水沢宮前町のズリ山にオートバイで登り景色を
 眺めていたら、なんとハイエースで私を追い、登ってきました。
  私は、宮前町のズリ山から清水沢のダム湖や発電所の脇をノコノコ走る、
 石炭が満載された28両セキ(貨車)がディーゼル機関車に牽かれるのを
 眺めるのが好きでした。
  快晴の初夏、彼が「今井さん、鉄道なくらったらどうするの?坑内に
 入るの?」と、聞いてきました。私は、坑内に戻る気もなく、夕張から
 離れる事を伝えると、彼は「石原軍団に何通も手紙を書いているけど
 返事が来ない」
  彼は、夕張に石原軍団を呼び、鉄道存続の活路を見出そうとしていました。
  私は彼の奇抜で乱暴な計画に同調する事ができず(頭から無理と思いました)
 彼はズリ山をバックで降りていきました。
  今思うと、私たち鉄道に従事していた者が、何十年も受け継がれてきた線路
 や車両の行く末を案じていればと後悔しています。南部の「放置車両」を見る
 度に鉄道の楽しかった思い出も辛く変わってくるようです。

(304)客車の保存について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月05日(金)14時44分27秒

続いて投稿します。
南大夕張の車両の保存については、一方的に行政に働きかけるだけでなく
自分達でどのような、事が出来るのかを示す必要もあるのではとと思います。
休日の労力奉仕等、「夕張市にお金がないならこんな手伝いも出来ます」よ
と働きかければ、対応も異なってくるし、住民との連携も可能かと思います。
これほど客車が荒廃していない時に、妻と掃除道具を持って出かけました。
昨年も、雪が入らぬよう「オハ1」の屋根の開口部に板を打ち付けてきました。
今年は屋根が落ちていないか、この豪雪が気がかりです。
珊瑚の96を組立中との事。私の手許に友人が製作した「大夕張駅舎」が
ありますが、あの光景が模型の中だけでは寂しいものです。
ネコ「総天然色のタイムマシーン」に6ページにわたり「大夕張鉄道」の
記事があります。

(303)乗田さん・飯田さんへ 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月05日(金)13時35分52秒

乗田さん、ご返事ありがとうございます。
森川氏も、最近はちょっと炭砿から離れていますが
彼のPR紙「安曇野通信」で飯田さんのホームページを紹介して
もらいました。
鉄道ファンで炭砿志向の方からのアクセスがあるかもしれませんが
飯田さん、よろしくお願いいたします。
「事故」と共に、「小児麻痺」は大夕張の暗い記録ですが
発生した昭和35年当時は札幌〜夕張間に直通バスが走り出した頃です。
当時、中央長沼で5分程の「トイレタイム」がありましたが、長沼町民に
その「トイレ」の使用も嫌がられたようです。
「盆踊り」の曲も色々あるようです。私が現在勤めている会社が
「雄別炭砿」の、関連会社という事で、昭和40年にSTVで放送された
「道東を拓く雄別炭砿」というフィルムが残っています。
その中で雄別(阿寒町)の子供たちは「オバQ音頭」で盆踊りを踊っていました。

(302)北海道の産業遺産 投稿者:乗田 功一  投稿日:03月05日(金)03時22分11秒

北海道内の貴重な産業遺跡の保存を訴え続けている『産業考古学会』や
奥山さんのようにマスコミを通じて一般の方に産業遺産の存在を紹介し
て下さる方の存在は、とても頼もしい限りです。

>あったのですが、「三弦橋」「大夕張鉄道客車」などは住民にとっては、
>毎日見ている日常の「風景」で、「文化財」的な価値を感じていないと
>いっていました。
>それらが「喪失」する事の「重大性」に気づいていないと言うことです。

これは当然だと思います。たとえば国宝の仏像であっても道端で何年間
も雨ざらしになっていれば、誰も興味を持たないでしょう。
国宝にふさわしい扱いがなされたとき、初めて人々はその物の価値を認
めるのでしょうね。
ですから本来なら自治体側がその価値を認め、保存の有用性を地元の住
民に訴えるのが理想だと考えるのですが、難しいところでしょうね。

南大夕張駅の跡に明石町駅舎を移築するのは良いアイデアですね。大夕
張鉄道の駅舎で現存するのが明石町駅だけになってしまったのは残念で
すが、移築するなら大夕張駅が理想です。叶わぬ理想ですが・・・。

旧炭坑都市が復興策としてテーマパーク等を建設し、炭都のイメージを
払拭することに懸命になるのは悪いことではないと思いますが、一方で
他府県からの観光客がそれらの施設を望んでいるかどうかも気になりま
すね。北海道の発展の原動力になった石炭やその他の産業遺跡こそ、堂
々と胸を張って北海道内外にアピールできる物だと思います。

『私の夕張』の花井正弘さんとは電話で少しだけお話した事があります
が、とても温和な方という印象でした。将来『私の夕張』の再編集も考
えていらっしゃるとのことで楽しみです。そのうち花井さんのショップ
にも顔を出そうと思っています。

>炭砿鉄道の車両を精力的に模型化している友人が長野県穂高町に
>居るのですが、彼も出版を企画しましたが、今は不況で模様眺めの状況です。

『モデルワーゲン』の森川さんですね。以前、大夕張鉄道のNo.4を模
型化して頂きたく、懇願のお手紙を出させていただきました。
もっとも待ちきれないので珊瑚模型店の9600キットを買ってしまいま
したが(現在もNo.6として改造組立中)。
私も夕張の鉄道にはとても興味があるのですが、あまり所有していません。
とりあえず、今待ち望んでいるのが『北線路』上下巻の再販です。

炭坑街には蒸機の汽笛が似合います。子供の頃、長大な『セキ』列車を、
見えなくなるまで立ち止まって眺めている子供でした。奥山さんがおっし
ゃるように、あの汽笛の音は「炭坑が事故もなく操業している証」だった
のですね。一生忘れられない響きです。

(301)「私の夕張」について 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月04日(木)18時27分43秒

先の投稿、全身は「前身」の誤りです。
送信前に校正が必要なようです。乗田さん「鉄道廃線跡を歩く」ご購読ありがと
うございます。
宮脇俊三氏も足が弱っており、次のZが最終になると思います。
前回のXにも河野哲也君の「大夕張周辺の森林鉄道」の記事がありますので
合わせて読んで頂ければと思います。
飯田さんも、乗田さんも「私の夕張」をご購入のようですね?
花井氏は昭和45年、高校生の時に初来道し、日本大学の鉄道研究会
に入っていた、昭和47〜50年頃にかけ「三菱大夕張鉄道」「夕張鉄道」
と足繁く撮影に来ていたそうです。
蒸気末期の情景豊かな写真が多いのですが、出版は昭和56年、北炭新砿の
大事故の年であり、バットタイミングでした。
また、雑誌広告も気動車の写真であり、1,000部ほど印刷したものが
完売したのは13年後の事でした。
現在、彼の手許には、印刷汚れのあるものが数部だけです。
昭和30年代の黄金期も含めた「夕張の鉄道」が全て理解できる書籍が
欲しいのですか、なかなか実現しません。
炭砿鉄道の車両を精力的に模型化している友人が長野県穂高町に
居るのですが、彼も出版を企画しましたが、今は不況で模様眺めの状況です。
まだ、OBの方も元気ですし、今がタイムリミッドなのですが。
北海道志向もあるのでしょうが鉄道趣味の中でも、
「炭砿鉄道」は人気があります。
炭砿で寡黙に石炭を運び続ける機関車に郷愁を感じるのでしょうか?
私にとっては、機関車と言えば、C62やD51で無く、大夕張のキューロク
でした。幼い時はもちろん、高校時代の一時期、通学にも利用しました。もう
それは生活の一部でした。
こんなこともあり南大夕張の車両は、気掛かりです。
NHK「すずらん」、映画「鉄道員」いずれも舞台は北海道の炭砿街の駅です。
炭住街に響く機関車の汽笛は、炭砿が事故もなく操業している証であり、
夕張市民には生活の一部であったのではないでしょうか?
遠い、遠い「思い出」ですが、あの時代が懐かしく思います。

(300)炭砿施設の保存・活用は 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月04日(木)10時07分56秒

盆踊りの歌詞、繰り返し部分間違えました。
ソーレソレソレ トン シャシャン が正解です
乗田さん、返答ありがとうございました。
以前、夕張市の社会教育担当者(その方も大夕張出身です)と話す機会が
あったのですが、「三弦橋」「大夕張鉄道客車」などは住民にとっては、
毎日見ている日常の「風景」で、「文化財」的な価値を感じていないと
いっていました。
それらが「喪失」する事の「重大性」に気づいていないと言うことです。
夕張市は、国内有数の炭砿都市であり、「炭砿施設」「鉄道車両」等は
「土器」等以上に文化財的価値があると思います。
すべて解体して、一部分だけでも博物館に収容して保存するのが良いのか
それらの「産業遺産」を野外博物館的に整備するのか論議はあると思いますが、
南大夕張の車両は早急に結論がいると思います。
ダム完成後に、当然周辺整備(ダム資料館の建設や公園整備)の予算が付くと
思いますが、それまでは客車は保たないでしょう。なんとか周辺整備を前倒し
して、南大夕張の駅の跡に「明石町」駅舎を移転「大夕張資料館」にして「鉄道
車両」との一体化整備を図って欲しいと思ってます。これは「観光資源」とも
なるはずです。
夕張市内で「南部地区」は目立った「地域振興策」はとられていません。
南部地区の住民からも、こうした「声」が上がればと思います。
札幌や東京からの声よりも、行政は地元住民の声に弱いはずです。
全車両が無理なら2〜3両でも、と可能性を探りたいものです。
客車も貴重ですが、セキ1は全身は明治44年製造のオテセ9900形で
後の国産石炭貨車の原型をなしたものです。
「石炭の歴史村」にも、肝心の石炭車は保存されてません。夕張市内に
最低、1両位「石炭車」は保存して欲しいものです。
客車に関連しますが、産炭地各地で「炭鉱施設」の除却が進んでます。
これは「予算」の裏付けである「産炭地域振興臨時措置法」が時限立法であり、
期限切れを控えている事から、駆け込みで「炭鉱施設」の解体が進められて
いるのです。
それらの「文化財的」価値が考慮されないで解体が進んでますが、
発想を転換し、それらを活用し「残す」ことに「予算」を付けて
欲しいものです。
その点、空知支庁の「炭鉱の記憶発掘事業」は注目に値すると
思います。「報告書」の刊行や、美唄市でのシンポジウムが
予定されてますが、単年度で終了せず次年度以降も「保存・活用」の
具体化など、モデル事業の予算でも付けばと思います。

(299)保存の可能性 投稿者:乗田 功一  投稿日:03月04日(木)02時36分49秒

奥山さん、大変詳しいご説明ありがとうございました。
やはり現時点では具体的な保存計画という物はないようですね。
新ダム建設が決定したことにより保存・整備のプランも白紙にな
ってしまったということでしょうか。

国道の迂回ルートがどのようなものかは判りませんが、保存する
なら現在地が個人的にはベストだと考えています。しかし、新ダ
ムが完成した場合、あの辺りがどの様に変化するかによっては移
動する必要もあるのでしょうね。
できるなら、新ダム湖周辺整備の一環として車両保存計画がなさ
れれば理想ですね。
それにしても事態は急を要すると思います。実際、昨年夏の時点
で「オハ」の天井から空が見える状態ですし、窓ガラスもほとん
ど破られ、塗装の経年変化もとっくに限界を超えているようです。
あそこまで崩壊が進みますと、いくら半鋼製とはいえ所詮は元木
製車体、本当にスクラップになりかねません。
私達も自治体等に直訴する必要があるかもしれませんね。

たとえば「三弦橋」は、その希少性や構造の価値観が徐々に認め
られて来て、夕張市も観光と「人道橋」としての実用性を含めて
移築(もしくは橋脚延長で現在地)保存を考え始めていると聞き
ます(この件につきましては奥山さんもお詳しいかと思いますが、
これはぜひ実現してもらいたいものです)。
一人でも多くの人々が関心を持ち、産業遺産としての価値観を
認めれば「大夕張鉄道」という石炭産業の貴重な遺産を保存する
ことも夢ではないと思います。

(298)大夕張の春 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月03日(水)21時11分29秒

メールをいただきました。

>猫柳が芽を出し始める季節ではないでしょうか。確か小学校のグランド
>のネット裏の神社の入り口付近に猫柳の木があって子供の頃よく
>取りに行った事を思い出します、その木は神社の入り口の左側にあり
>入り口の右側には奇麗な涌き水が湧いており遊びまわった後には
>よく喉を潤したものです、すごく冷たくて(しゃっこい)旨かった、また
>あの水の味を味わいたいものですね。

メールを読んであらためてこの時期の大夕張を思い出しました。
山や沢で遊んでいるとあちらこちらにネコヤナギの白い毛に覆われた芽が
ふくらみはじめているのでした。
枝を手折って,家に持ちかえり,花瓶にさして芽が開くのを楽しみにしていた
記憶があります。
また,雪解けの頃になると,暖かい日差しとともに地面近くの雪がとけはじめ,
厚い雪を下まで掘ると沢の水や地面を流れる雪解け水が雪の下から次々と湧いて
きて,みるみる雪をとかしていくのも,待ちわびた春を感じさせたものでした。

(297)夕張子供盆踊りについて 投稿者:奥山 道紀  投稿日:03月03日(水)18時17分59秒

飯田さんと同じく、私も盆踊りを踊れない子供でした。
踊りの輪を見つめて、曲の終わり頃になり輪に入り
お菓子を貰うという感じでした。
「夕張子供盆踊り」の歌詞は以下の通りです。

1番
そろた揃うた よい子の踊り
笛も太鼓もよくはずむ
うたが揃えば心も揃い
やまに自慢の灯がゆれる
トント足拍子 ショシャンと手拍子
踊れしなよく 身ぶりよく
ソーレソレ トン シャシャン

2番 省略

3番 省略 

4番
歌のひびきに選炭場では
光る自慢の黒ダイヤ
ぼくも私も郷土の明日を
やがて担うよ この肩に
(繰り返し)

夕張出身者なら聞き覚えがあると思います。
昭和32年の制定で、翌年ビクターからSP盤が出ています。
乗田さんの南大夕張の客車の件ですが
鉄道廃止時には、地元商店などで買い取り、市に寄贈する等
色々な構想があったようです。
それを受け、市でも「交通公園」などの計画を策定しましたが
ダム建設による国道の切り替えなどにより、車両の移動の可能性があり
整備できないとの事でした。(平成5年頃の夕張市の企画部担当者の見解)
郷土資料研究会を通じて、市への要望も画策しましたが
研究会でも関心無い見たいです。
とはゆえ、このままでは確実に朽ち果ててしまいそうですので何とか行動を
起こしたいと思います。地元から保存運動が起きるのが一番望ましいので
夕張市民に鉄道車両の「文化財」としての価値をアピールしたいと思います。
現在、空知支庁か「炭鉱の記憶発掘事業」を行っています。
柵原町の片上鉄道の例もあり、何とか、地元住民や自治体の意識が変わって
くれればと思います。

(296)学のあるはなし(その2) 投稿者:丸山直記  投稿日:03月02日(火)12時54分46秒

わたしが好きな音楽での思い出をひとつ。
前にも書きましたが私は音楽が好きでしたが生の交響楽団を
聴くチャンスは大夕張ではありませんでした。しかし中学校の
時に札幌交響楽団が中学校の体育館で演奏会を行いました。
音だけは知っていたが見たことも無い楽器を大勢の音楽家が
目の前で演奏していたのは感激でした。その日は生徒ばかり
ではなく町の人たちも沢山聴きに来ていました。一番最初に
演奏した曲は今でも覚えていますがモーツァルトの
「フィガロの結婚」序曲でした。その時の指揮者はもう亡く
なりましたが息子さんが現在NHK交響楽団でコントラバスの
主席をされています。N響が出演する番組で西田さんを見る度に
体育館の演奏会を思い出します。次の機会は高校生の時でした。
夕張市民会館にNHK交響楽団がやってきてきました。大夕張から
は貸し切りバスを仕立てて行きました。わくわくしてバスに乗っ
たことを覚えています。東高校の英語の安藤先生が隣にいましたね。
プログラムはモーツァルトのジュピター交響曲が最初で、
ブラームスのヴァイオリン協奏曲を潮田益子さんがソロでした。
最後は定番ベートーヴェンの「運命」交響曲でした。休憩の時に
楽員の人たちがロビーで知人と話していましたが、主席フルートの
小出信也さんの金のフルートにびっくりしました。
現在は都会に住み自分のお金で簡単に演奏会に行ける様になりまし
たがあの頃の単純な感動はもう経験することはできません。豊富な
ことは必ずしも裕福ではないという例かと思います。
たった2回の経験でしたがほんとうに良い思い出でした。

(295)放置車両について 投稿者:乗田 功一  投稿日:03月02日(火)01時16分19秒

大夕張鉄道の廃線跡も取り上げられたことのあるJTB出版の
『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ、最新の『6』で奥山道紀さん
の『夕張福住人車』の寄稿を読ませていただきました。
以前から奥山さんのご活躍は色々な雑誌等でお見受けしており
ますが、今回も詳細なリポートを楽しませて頂きました。

夕張には『福住人車』をはじめ、鉄道関係ではユニークな物が
多かったようで、夕張鉄道ではスイッチバックや(専門的です
が)スノウプラウ上下装置付きの機関車、自社発注の気動車な
どの貴重な車両がありました。
角田炭坑では従業員の輸送目的なのでしょうか、電車が走って
いたという事を何かで読んだこともあります。
そして大夕張にも自社発注9600や3軸ボギー客車で有名な
大夕張鉄道があります。また、意外と知られていないようです
が、『三弦橋』で有名な大夕張森林鉄道もありましたね。
今はどれも現存しませんが、これらの鉄道の歴史を調べてみる
のも夕張や大夕張を知るために有効だと考えます。
今井さんの「山史」もとても素晴らしい物ですね。

ところで、南大夕張駅跡に放置されている大夕張鉄道の車両群
ですが、なぜあのような状態で放置されてしまったのか、どな
たかご存じないでしょうか?
以前、地元のある方があの辺りを整備して公園を作り、車両を
展示するという予定だったのが、諸事情で断念したという話を
聞いたことがありますが、真偽はどうなのでしょう?

ここ数年、大夕張へ行く度にここへ立ち寄り、崩壊が進む様子
を見ると心が痛みます。
手遅れになる前に保存の方向へ持っていくことはできないもの
かといつも考えているのですが・・・。

(294)『第1回大夕張チャットナイト』へのお誘い 投稿者:飯田 雅人  投稿日:03月01日(月)20時15分16秒

12月の交流会から3ヶ月。この辺りで一度ネット上で交流を深めるために,
『第一回 大夕張チャットナイト』と題しまして,3月6日土曜日の午後10時半
より集いませんか。これまでチャットに参加されたことのある方もない方もぜひ,
参加してみませんか。リアルタイムで大勢の会話が進行していきます・・・大勢の方の
参加があれば・・・の話ですが(^^ゞ

チャットの仕方ですが,メニューの大夕張チャットのボタンをクリック,その後,
チャットネームを決めて入力。『参加』ボタンをクリックしてください。
あとは,一言打ち込んで「発言/更新」を押せば,会話が進んで行きます。
(何も入力しない状態で「発言/更新」を押せば,画面が更新されます)ただ,参
加される人数や当日の回線の状態などによっても違うと思いますが,つながりにく
くなることも予想されますので,送信に時間のかかることもありますが,一回押せば
送信されています。

当日その時刻に都合のつく方は,ぜひお集まりください。そして,大夕張の話題や
近況など,自由にお話してみませんか。

ちなみに私はチャットネーム『まさ』で,参加させていただきます。

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