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         ニエプスのへリオグラフィーとダゲールのダゲレオタイプ
   

(仏)クロード・ニエプス、ニセフォール・ニエプスの兄弟は1814年頃から石版術に光線を利用する研究をはじめる。1816年、兄のクロード・ニエプスは巴里に移り、弟のニセフォール・ニエプスはひとりで研究を続ける。銅版画を光によって複製する研究とともにカメラオブスキュラに映る像の紙や布への固定化を研究する。ニエプスは銅版画の防食剤として用いられていたビチューメンはラベンダー油に溶解するが、光に当たると不溶解性となることを知り、まず銅版画を光線を利用して複製する方法を研究する。ビチューメン(アスファルト、土瀝青)は死海、カスピ海近傍などから産出する黒色の鉱物でテレピン油、ラベンダー油(精油)、石油エーテルなどに溶解する。ビチューメンをラベンダー油で溶いた液を金属板上に注ぐとその表面に薄膜がつくられ、これが乾くと薄い褐色の層となる。これを日光に曝すと変色はしないがラベンダー油に対する溶解性を失う。銅板にラベンダー油で溶いたビチューメンを塗り乾かし、パラフィンで半透明とした陽画を載せて光に当てる。ラベンダー油を石油で溶いた液で洗うと画の線の部分だけビチューメンが溶け去る。銅板の露出した部分を硝酸で腐食してから残ったビチューメンを取り去ると凹版の複製の原板ができあがる(2階調であるが元の銅版画のハッチングによる陰影は再現される)。インクを塗り掃うと酸で腐食した凹の線にインクが残り印刷することができた。また、銅板にビチューメンを塗布してこれを乾燥させたものをカメラオブスキュラに入れて数時間露出すると光線を受けた部分は不溶解性となり、その他の部分は変化しないので、ラベンダー油を石油で溶いた液でレンズを通して光の当たリ少なかった被写体の暗い部分のビチューメンを洗い流したあと酸による腐食など銅版画の複製と同様の工程でレンズを通した被写体の像を写し取る方法を研究する。ニエプスはこの光による複製法をへリオグラフィーと名付けた。しかしレンズを通した被写体の複製が「写真」であるにはは2諧調でない多諧調が必要なので錫や銀板にヨード蒸気で陰影をつける方法などを研究したが「写真」としての完成には至らなかった。ニエプスの写真の方法はその死後に諧調表現ができる写真銅版術が考えだされる。 錫や銀板にヨードを用いて陰影をつける方法はダゲールの銀板写真法に受け継がれる。

ニエプスが瀝青の薄膜を銅あるいはガラスの板に敷きたるものを用いて得たる写真は、恐らく光の干渉の理に合せしものならん。ニエプスが1825年12月5日、ダゲールへ与えし書面は、ガラス板に景色を撮影せし写真に就いて報導したるものにして、次の如く言へり。『この写真は透過光線にて見れば朦朧たる画像を認むるのみなれども、一面に漆を塗りて反射面を作り、その反射光線を或る角度において見るときは、不思議にも物体の各部の色を表わす如く見ゆ。これ恐らくニュートン環の理に因るものなるべきが、尚火に研究すべき価値あり』云々と。然れども其後に之を利用して、天然色写真を撮影せんと試むるものなかりき。1868年に至りてベルリンのウィルヘルム・ゼンカーは光の干渉の理を応用して、天然色の写真を得べきことを掲げしが不思議にも当時世人の注意を惹かざりき。1889年オットー・ウイナーは塩化銀を含んだコロジオンにて実験し、のちノイハウスはその横断面の顕微鏡的研究をなし、真に銀層の存在及びその各層の距離が光の半波長なることを証明せり。光の干渉の理を応用して始めてスペクトルを其色と全く同一の色に撮影し得たるは、パリのリップマンなり。氏は1892年、蛋白を以て処理したるコロジオン乾板を用い、そのガラスの方をレンズに向け、感光膜を後にし、そのうしろに水銀を置き光を反射せしめたり。翌年リップマンとルミエール発明したゼラチノブロマイド板で撮影した写真は透過光にて見るときは、普通の陰画の淡きものの如くにして、やや実物の餘色を帯ぶるのみなれども、これを黒き面の上に置き反射光によりて見るときは物体の色を呈す。                                                                                                              ( 明治42年 光風館 「理化工業発明界之進歩」より引用)

土瀝青を銅板を塗って、その上に書画を置き光線に曝すと、書画の黒線は光線を防ぎ留め土瀝青膜は溶解性を保つが、白紙の下は不溶解性となる。ラベンダー油を板の上に注ぎかけると書画の黒線部分は銅板が露出したものとなり、白紙の部分は不溶解性となった土瀝青が板に固着したものとなる。この状態で土瀝青膜に書画を刻した如く見えるが、板に腐食酸を注ぎかけると銅板に書画の線どおりの溝ができ、固着した土瀝青を落とせば凹版印刷の銅版ができる。銅版にインクを塗りこめ拭うと銅板の溝にインクが残り、紙に圧着し印刷ができる。此の種の銅版画をニエプスは自ら製して写真銅版(ヘリオグラフィー)と称し1826年の頃知己朋友に示した。今日紙幣の製造に用いる銅版はこの方法に改良を加えたものである。ニエプスの工夫した銅版印刷は完全なものでなかったので世人の注目するところとならず、ニエプス自身もこの方法の更なる研究は中止し、カメラオブスキュラ(写真暗箱)の像を定着させる方法の工夫を重ねるうち1829年よりダゲールと共にし1833年の死に至るまで更に経験の功を積む。
     (明治26年 「光線並写真化学」ヘルマン・フォゲル著,小川一真訳,石川巌閲  国立国会図書館蔵 より引用参照) 


    桑田商会「写真用薬品詳説」より


写真銅版術 (光による凹版印刷法)

「ニエプスの死後数年を経て再び世人が土瀝青の性質に注意し写真術の最も美妙なる応用すなわち写真銅版術を発明するに至りたり。」
銅板にビチューメンの細末を散布し少し温めて固着させたあと感光性ゼラチンを塗り乾かし、カメラに装置して撮影する。被写体の明るさに応じてゼラチンの固まる厚さに差ができる(ゼラチンの感光性)ので、固まっていないゼラチンを洗い流すと凸凹状のゼラチンがのこる。ゼラチンは浸透性があるので硝酸に浸すと硝酸が染み込み下の銅板を腐食して凹とする。腐食の程度は光の強弱に伴ってできたゼラチンの厚さによる。薄いゼラチンの部分は、硝酸が染み込み銅板を深く腐蝕しよってインクは厚くなりその印刷は濃くなる。ゼラチンが厚い部分はこの反対となる。その際、ビチューメンの細末がスクリーンのように作用し銅板に網目版と同様の画紋陰影を生む。


網目版法(ハーフトーン プロセス)

ミューニッヒのマイゼンバッハは1888年が創始、のちアングラーやゲッシル等が改良を加える。最初は布をスクリーンとして用いていたがフィラデルフィアのマックス・レヴィーの改良した機械で作る精巧なスクリーンを使用するようになる。それはビチューメンと蝋を混合したニスを塗ったガラス板に金剛石で一吋あたり120条程度の細線を刻しフッ化水素で腐食しニスを除去し、これに黒色の顔料を塗布してから拭い去り黒い細線が密に引かれたガラス板とする。この板を縦横直角に合わせて極小の網目ガラスとする。このスクリーンを感光板(湿板法)の前に置き撮影する。感光板の像の左右を逆にするため湿板のコロジオン膜をガラス板より剥ぎ取り裏返しにする。次に銅板に感光性ゼラチンを塗り乾かしその上に感光した湿板(陰画)を置き電燈又は日光を投射してから水で洗った後瓦斯ストーブで熱する。色の変化とともに像が現れてきて褐色になったら塩化鉄液に浸し腐食を行うと光の強弱に応じて腐食された点が大小となり、したがって印刷面となる凸の点は光の強いところは小となり光の弱いところは大となり密度が多くなる。故にこの原板を印刷すると濃淡のある画となる。(印刷面が無数の小黒点の集合より成るため純白な部分を現わすにはさらに手を加える)。  



  参考:光による凸版印刷法




本店小西六右衞門販売の網目版用取枠 4ツ切用
                                                                                       
平板法 感光性ゼラチンは光に当てると硬化して水を吸水しなくなることを利用したもの。原板に油性インキを塗ると光に感じた部分はインキを吸引し、光に感じていない部分はインクはじく。

@コロタイプ(阿膠版) ガラス板に卵白、珪酸ソーダの液を下引き乾燥させてから感光性ゼラチンを塗り乾燥し、その上に裏返した陰画を載せてガラス面から日光に曝露する。水洗いし感光性を除き印刷原板とする。

A写真石版  感光性ゼラチン塗った転写紙に陰画を載せ日光に曝露し、これにインキをを塗って拭い去ると感光の度合いに応じてインキを吸収する度合いが異なり、陽画ができる。これを石版の上に置き再び転写するとインキは石版に転移して原図と同様の図画を生じる。これを普通の石版術のように先ず水気を与えたあと油性インキを塗り拭い去ると図画の部分だけがインキを吸収し、他の部分は水分のためインキをはじく。これに紙をあて圧して印刷する。この方法は地図や文字のように諧調なきものに適する。石灰石と同様の性質がアルミニウムにもあることが発見されて、アルミニウムを円筒形にして輪転機に取りつけた。


明治30年 本店小西六右衞門 「写真用品目録」より石版印刷機械の図




 へリオグラフィーとダゲレオタイプ 年表

1798年
(独)アロイス・ゼネフェルダーは石版印刷術を発明する。それまでの印刷(版画)は木版・金属板を用いた凹版・凸版であったが、石版は石灰石板が水と油をともによく吸着し、また水と油はなじまないことを応用した平版印刷法である。石灰石板に油性クレヨン(ロウ・石鹸・脂・煤から合成したもの)を塗ると、その部分はクレヨンの油分で化学変化をおこし、洗い落としても油をひきつけ水をはじくようになり印刷用インクを塗ると文字部分にだけインクがのる。この方法によれば版を彫ったり起こしたり、金属板を酸で腐食したりすることなく描いたままのものが何枚でも印刷できる。


1814年
自製のカメラオブスキュラにレンズを嵌め自宅の窓から鳥小屋を撮影するが、塩化銀紙に写したそのぼんやりした写真(のちにレンズの周縁を覆い、より明瞭な映画とする)は時間とともに像が失われる。そしてニエプスは陽画の写真を得るため光によって黒くなるのではなく退色する物質を研究する。また、光があたると分解し腐食作用をしなくなる酸をさがし像を固定することを考える。

彼は「マンガンの黒い酸化物」(二酸化マンガン)が塩素と接触すると白くなることを知った。もしもその漂白が塩素によって始められるならば、それは光によって完成されるのである。彼は遮光的であるのみならず、気密的であるカメラを作った。そして二酸化マンガンが露出している間に、カメラの中に塩素を注入した。しかしその技術はうまくいかなかった。彼はそれを諦めた。1817年になると、彼は次のように報告した。「私はある化学書で次のことを読んだ。癒瘡樹脂それは、黄色みを帯びた灰色であるが、それは光にさらされる時、非常に美しい明るい緑になることを。またその時、それが新しい性質を帯びることを。そうしてまた、この状態の中でそれを溶解するためには、自然状態の中でそれを溶解するよりももっと精留されたアルコールが要求されるということを」。樹脂を用いる彼の最初の企ては不成功だった。彼はそれを諦めて燐を採用した。      (中略)        3ヶ月間の実験の後で、彼は彼のいわゆる「この不実な可燃物」と彼が呼んだものを諦めた。彼が得たすべてはひどい手のヤケドであった。  
                 朝日ソノラマ 発行 ボーモント・ニューホール 著 小泉定弘 小斯波泰 訳 「写真の夜明け」より引用


兄に書いた1816年5月5日付の手紙によると、まだ定着法は発見してはいない物の、2階の窓から中庭を撮って鳩小屋が写ったと書いているからウェッジウッドより進歩しているといえよう。しかし塩化銀紙を使っていては定着が困難である(ハイポーによる定着法が発明されていない)。それで塩化鉄、二酸化マンガン、リン、グアヤク樹脂などいろんな感光剤を試した。
                      朝日ソノラマ発行   L.J.M.ダゲール 著 中崎昌雄 解説・訳 「完訳 ダゲレオタイプ教本」より引用


1816年ニエプスは住まいのあるシャロンの郊外で石灰石の採取にとりくむ。そしてニエプスは肉眼では判別されない光による化学変化を研究するようになる。1817年癒瘡木(ユソウボク)からとれる黄色い樹脂はアルコールに溶けるが、日光にあたると緑色に固まりアルコールに溶けなくなること知る。密着焼きで実験するとよかったが、ガラスレンズを使用して暗箱で撮影するとうまくいかなかった。癒瘡木の油脂は紫外線にだけ反応して変化するため、肉眼で焦点を合わせ撮影するとアルコールで洗ったあとの像は輪郭がぼけたものとなった。

グアヤク樹脂=ユソウボク(癒瘡木)の樹
ユソウボクの精油から採れるグアイオールを加熱精製するとアズレンができる。アズレンは青色だが紫外線を吸収し緑色に変化する。

1822年 ニエプスはガラス板にビチューメンを塗り、その上に銅版画(ローマ教皇ピウス7世の肖像画)をパラフィンで半透明としたものを載せて日光に曝してから、光に当たらない描線の部分をラベンダー油を石油で溶いた液で溶解し去って複写した(印刷原版ではない。現存しない)。また食卓を描いた銅版画の複製も作った(現存しない)。銅版画のハッチングが再現される。現代の黒白写真のネガのように見る角度によって陰画とも陽画とも見て取れる。
1823年 ニエプスは石灰石板にビチューメンを塗り、その上に銅版画をパラフィンで半透明としたものを載せて日光に曝してから、光にふれない部分をラベンダー油を石油で溶いた液で溶解し去って更にそこを硝酸で腐食し、残ったビチューメンを落とし複製を作った(印刷原版)。石灰石板は細孔にインクがのる。
1824年 ニエプスはビチューメンを塗った石灰石板を自製のカメラオブスキュラ(前に蛇腹を装し、その開口部に幻燈の発明者キルヘが考案した絞りを取付けたもの)に装して窓の外の風景を数日間露光し撮影する。
1825年 ニエプスはビチューメンを塗った銅板を自製のカメラオブスキュラに装して撮影し、被写体の暗い部分のビチューメンをラベンダー油を石油で溶いた液で溶かし、そこを更に硝酸で腐食し影像と同じ模様を現出させるよう研究する。
1826年 ニエプスはビチューメンを塗ったピューター板(錫に鉛をを加えた低融点合金で、工芸等に使われる )の上にパラフィンを塗って半透明にしたアンポワーズ枢機卿の銅版画を置き日光に曝してから、光にふれない部分をラベンダー油を石油で溶いた液で溶解し去って更にそこを硝酸で腐食し、残ったビチューメンを落とし複製を作った(印刷原版)。
またビチューメンを塗ったピューター板を自製のカメラオブスキュラに装して撮影し、ラベンダー油を石油で溶いた液で、その像の暗い(光の当たらない)部分のビチューメンを溶かし除いたあと硝酸で腐食し影像と同じ模様を現出させる研究をした。ニエプスは自身の印刷術、写真術をヘリオグラフィーと名付ける。
(1827年12月8日付でロンドン皇立学士会院のボーアーを通じて同会にこれを報告すべく依頼したが、単に写真法の可能であることを報告しその内容の詳細は明かさないことを望んだため発表の機を失う。)


 「ダンボアーズ枢機卿の肖像」
(現存する。向かって左向きが原版、右向きは印刷)
1827年 ニエプスはビチューメンを塗った純錫板を自製のカメラオブスキュラに装して自宅の窓からの景色を撮影する(サン・ルー・ド・レンヌ風景 現存する写真)。硝酸によるエッチングををしないでヨード蒸気により陰影表現をおこなう(印刷原版ではない)。
1829年 写真の研究をしていたダゲールはニエプスへ共同研究をしたい旨の書状を送るなどニエプスの写真技法に強い関心を寄せていたが、1829年12月5日その技法を伝授され共同研究を行う運びとなる。
「今回発見した方法、私(ニエプス)がヘリオグラフィーと名づけた方法は、光線の当たる強弱を映像の白から黒に至る諧調として現出するものである。銀メッキ銅板を鏡面に磨きビチューメンをラベンダー油に溶解した溶液を軟らかい革を丸めて薄く布き、乾いたら直ぐにカメラ・オブスキュラで露光する。そしてプレートをラベンダー油とペトロリウムの混合液に浸すと映像が次第に現れる。自然に近い陰影を得るためにはヨードを用いる」。
このニエプスの写真術をダゲールは研究する。
1831年 ニエプスはヨード蒸気法を暗部に諧調をつけるため採用したが、ダゲールはビチューメンを使わずヨード蒸気法によるヨウ化銀感光板を用いる方法を考える。ヨードの蒸気に触れた銀板は薄黄色を呈す。このヨウ化銀板を光線に曝すと鳶色となるが、暗箱にヨウ化銀板を装置し写真を撮るには長時間を要す。
1833年 ニエプス死去。ニエプスの事業は息子のイシドール・ニエプスが継承する。

1835年 ある日ダゲールは露出時間が短く像を現わしていなかったヨウ化銀感光板が、傍らに置かれた水銀の作用によって像を現わしているのをみつける。ヨウ化銀板の光の作用で還元され黒化銀(数が少ない潜像の状態)となった部分が水銀の蒸気と結合し「現像」されたものである。そしてダゲールはヨウ化銀の感光板で撮影をし、水銀の蒸気をあてて写真をつくる方法を研究する。

1837年 ダゲールは食塩水で画像の定着をおこなう。その後1839年には(英)ハーシェルが銀塩類を溶解するにはチオ硫酸ナトリウムが有効であると発表したことを知り、チオ硫酸ナトリウムで画像の定着をおこなう。

1839年 2月、ダゲールの発明したダゲレオタイプ(銀板写真法)がフランス学士院を会場にして公開される。 ダゲレオタイプの感光力はヘリオグラフィーのそれよりは14、5倍も強く映像も鮮明に描写されるので、その方法がたちまち各国に伝わり写真の営業がはじまった。

ダゲレオタイプのプロセス
銅板に銀メッキを施してよく磨き、その表面にヨウ素蒸気を当てヨウ化銀層をつくる。これをカメラ・オブスキュラに装して撮影する。ヨウ化銀が光に当たると潜像をつくる。これを現像する方法は潜像が物理的吸着性をもつことを利用したものである。水銀を70度に加温し蒸気を発生させるとヨウ化銀の潜像がこれを吸着し銀と水銀の化合物であるアマルガムの細球が光線の作用の度に応じて収縮し、もって光沢なく白っぽく見える。感光しない部分は水銀が吸着されず、そのヨウ化銀は定着液(チオ硫酸ナトリウム)で溶解し銀の下地が見えるようにする。被写体の明るい部分を表わすアマルガムは被写体の暗い部分を表わす磨かれた銀の反射の具合に比べて明るい部分と見える(陽画。或る方向より見るときは鮮明に見えない)。銀板写真は長期に像が保存され、鍍金液で処理を施したものは特に良好である。

ヨウ化銀を光にあて黒化銀による像が目に見えるようになるには長時間を要するが、水銀蒸気によって黒化銀の粒子をアマルガムとして目に見えるようにすることにより露光は数分ですむことができた(物理現像)。1851年に現像法が発明されると、さらに短い露光時間による潜像のわずかな黒化銀粒子を核として多くの銀粒子をつくり見える像とすることが可能となる(化学現像)。

のちに、ヨウ化銀の感光板が臭化銀も存在するほうが感光が早いことがわかり、ヨード蒸気と臭素ガスを併用し沃臭化銀の感光板とした。この感光力のある銀板とフォクトレンダー社の明る
ペッツバール人像鏡玉(ポートレートレンズ)を用いて露光時間がさらに短縮された。

ダゲ-ルの法は忽ち宣伝され、トーソンは大なるレンズを使用することを始め、ニューヨークのドレーバーは始めて人の肖像を撮影する。ゴッダードがヨードと臭素の蒸気を用いて一層感度を鋭敏ならしめることを発見しダゲールはこの理を応用して感光板を製造する改良法を発明し、フィゾーは塩化金を用いて調色する法を発明する。 


ダゲレオタイプは1回の撮影での写真を何枚もつくることはできないが、同じ頃に英国でタルボットがこれを可能とする写真術=カロタイプを発明している。また露光時間がさらに短く潜像のごくわずかな黒化銀を増幅して目に見える像とする現在の銀塩写真に通じる「湿板現像法」が1851年に英国でスコットアーチャーにより発明され、銀板写真から湿板写真の時代に移る。



鍍銀銅板を磨き砂とオリーブ油にて滑らかに磨き更に角粉を水に浮かべこれを綿に浸したるものにて磨き上げ、この板を沃素を薄く底に散布せる蓋のなき方形の箱に倒置するときは沃素は蒸発して板面の銀に触れ忽ちこれと化合し板は先ず黄色となり次て赤色となり桔梗色となり終に藍色となる此時板を光線に触れさらしめこれを暗箱に入れ摺硝子の位置に置き光線に曝し小時を経てこれを暗所に運び金属製の底に水銀を蓄えたる箱の内に入れアルコールランプを以ってこの水銀を少しく温むるときは初めの程は板面に像の形跡を見れないが水銀蒸気が既に光線の作用を受けたる板面に凝縮するときは像を顕すに至る而し此手術を施す間に水銀は甚だ微細の白球に微縮する。残れる沃化銀はなお光線に感ずるの性あるが故に像を定着せしめんとするには此沃化銀を溶解するところのチオ硫酸ナトリウムの溶液にて洗い去り更に水にて洗いこれを乾かせば足れり。映画を永く保存せん為これを鍍金することもあり即ち塩化金の溶液を板面に注ぎかけたる後これを温むるときは黄金の薄膜を生じもって映画を永続せしむ、されども此種の画は毀損し易きが故に木匡と硝子にて保護せんことを要す

ダゲール氏の門に就きその業を受るもの四方より集り各自業成るの後その国に就きその術を伝えたり。1839年4月22日ベルリンのサックシー氏初めてダゲール氏が発明の秘訣を受けドイツにおいて代理店を開き、9月22日ベルリンにて初めて銀板写真を製したりしに非常の好評を博す。9月30日ミヤルロッテンバーグ公園に於てその実験を為しフレドリッヒ、ウイルヘルム四世の叡覧に供し、10月よりダゲール氏発明の写真器械をベルリンに於て発売せしかば何人にてもこの写真を製することを得漸く世上に流布するに至りエッチングハウゼン氏もこの新技術を研究せり。最初2年の間サックシー氏は専ら建築偶像及び絵画を撮影せしに頗る世人の賞玩するところとなりしか1840年に至り初めて人物を撮影しその技を以って写真術の本業となし2年にして欧州各国の首府皆多少の写真師を見るに至れり米国にては画家モール氏、ドレーバー氏とともに初めて金属板写真を製せり。                                           
              ( 明治26年 「光線並写真化学」ヘルマン・フォゲル著,小川一真訳,石川巌閲 より引用
)




写真月報第25巻9号掲載

                      

参考文献
株式会社 朝日ソノラマ 発行 ボーモント・ニューホール 著 小泉定弘 小斯波泰 訳  「写真の夜明け」
株式会社 朝日ソノラマ 発行 L.J.M.ダゲール 著  中崎昌雄 解説・訳  「完訳 ダゲレオタイプ教本」
小西本店 発行  「写真月報」
小西本店 発行   「写真宝鑑」
小西本店 発行   「写真術階梯」
アルス刊 「写真講座 実用写真化学」
光風館発行 服部春之助著 「理化工業発明界之進歩」




大正14年11月8日写真発明百年祭の夜のラジオ放送















ニエプスとダゲール