1798年 |
|
|
(独)アロイス・ゼネフェルダーは石版印刷術を発明する。それまでの印刷(版画)は木版・金属板を用いた凹版・凸版であったが、石版は石灰石板が水と油をともによく吸着し、また水と油はなじまないことを応用した平版印刷法である。石灰石板に油性クレヨン(ロウ・石鹸・脂・煤から合成したもの)を塗ると、その部分はクレヨンの油分で化学変化をおこし、洗い落としても油をひきつけ水をはじくようになり印刷用インクを塗ると文字部分にだけインクがのる。この方法によれば版を彫ったり起こしたり、金属板を酸で腐食したりすることなく描いたままのものが何枚でも印刷できる。 |
|
|
1814年~
|
|
自製のカメラオブスキュラにレンズを嵌め自宅の窓から鳥小屋を撮影するが、塩化銀紙に写したそのぼんやりした写真(のちにレンズの周縁を覆い、より明瞭な映画とする)は時間とともに像が失われる。そしてニエプスは陽画の写真を得るため光によって黒くなるのではなく退色する物質を研究する。また、光があたると分解し腐食作用をしなくなる酸をさがし像を固定することを考える。
『彼は「マンガンの黒い酸化物」(二酸化マンガン)が塩素と接触すると白くなることを知った。もしもその漂白が塩素によって始められるならば、それは光によって完成されるのである。彼は遮光的であるのみならず、気密的であるカメラを作った。そして二酸化マンガンが露出している間に、カメラの中に塩素を注入した。しかしその技術はうまくいかなかった。彼はそれを諦めた。1817年になると、彼は次のように報告した。「私はある化学書で次のことを読んだ。癒瘡樹脂それは、黄色みを帯びた灰色であるが、それは光にさらされる時、非常に美しい明るい緑になることを。またその時、それが新しい性質を帯びることを。そうしてまた、この状態の中でそれを溶解するためには、自然状態の中でそれを溶解するよりももっと精留されたアルコールが要求されるということを」。樹脂を用いる彼の最初の企ては不成功だった。彼はそれを諦めて燐を採用した。 (中略)
3ヶ月間の実験の後で、彼は彼のいわゆる「この不実な可燃物」と彼が呼んだものを諦めた。彼が得たすべてはひどい手のヤケドであった。』
朝日ソノラマ 発行 ボーモント・ニューホール 著 小泉定弘 小斯波泰 訳 「写真の夜明け」より引用
『兄に書いた1816年5月5日付の手紙によると、まだ定着法は発見してはいない物の、2階の窓から中庭を撮って鳩小屋が写ったと書いているからウェッジウッドより進歩しているといえよう。しかし塩化銀紙を使っていては定着が困難である(ハイポーによる定着法が発明されていない)。それで塩化鉄、二酸化マンガン、リン、グアヤク樹脂などいろんな感光剤を試した。』
朝日ソノラマ発行
L.J.M.ダゲール 著 中崎昌雄 解説・訳 「完訳 ダゲレオタイプ教本」より引用
1816年ニエプスは住まいのあるシャロンの郊外で石灰石の採取にとりくむ。そしてニエプスは肉眼では判別されない光による化学変化を研究するようになる。1817年癒瘡木(ユソウボク)からとれる黄色い樹脂はアルコールに溶けるが、日光にあたると緑色に固まりアルコールに溶けなくなること知る。密着焼きで実験するとよかったが、ガラスレンズを使用して暗箱で撮影するとうまくいかなかった。癒瘡木の油脂は紫外線にだけ反応して変化するため、肉眼で焦点を合わせ撮影するとアルコールで洗ったあとの像は輪郭がぼけたものとなった。
グアヤク樹脂=ユソウボク(癒瘡木)の樹脂
ユソウボクの精油から採れるグアイオールを加熱精製するとアズレンができる。アズレンは青色だが紫外線を吸収し緑色に変化する。
|
1822年 |
|
ニエプスはガラス板にビチューメンを塗り、その上に銅版画(ローマ教皇ピウス7世の肖像画)をパラフィンで半透明としたものを載せて日光に曝してから、光に当たらない描線の部分をラベンダー油を石油で溶いた液で溶解し去って複写した(印刷原版ではない。現存しない)。また食卓を描いた銅版画の複製も作った(現存しない)。銅版画のハッチングが再現される。現代の黒白写真のネガのように見る角度によって陰画とも陽画とも見て取れる。
|
1823年 |
|
ニエプスは石灰石板にビチューメンを塗り、その上に銅版画をパラフィンで半透明としたものを載せて日光に曝してから、光にふれない部分をラベンダー油を石油で溶いた液で溶解し去って更にそこを硝酸で腐食し、残ったビチューメンを落とし複製を作った(印刷原版)。石灰石板は細孔にインクがのる。
|
1824年 |
|
ニエプスはビチューメンを塗った石灰石板を自製のカメラオブスキュラ(前に蛇腹を装し、その開口部に幻燈の発明者キルヘが考案した絞りを取付けたもの)に装して窓の外の風景を数日間露光し撮影する。
|
1825年 |
|
ニエプスはビチューメンを塗った銅板を自製のカメラオブスキュラに装して撮影し、被写体の暗い部分のビチューメンをラベンダー油を石油で溶いた液で溶かし、そこを更に硝酸で腐食し影像と同じ模様を現出させるよう研究する。
|
1826年 |
|
ニエプスはビチューメンを塗ったピューター板(錫に鉛をを加えた低融点合金で、工芸等に使われる )の上にパラフィンを塗って半透明にしたアンポワーズ枢機卿の銅版画を置き日光に曝してから、光にふれない部分をラベンダー油を石油で溶いた液で溶解し去って更にそこを硝酸で腐食し、残ったビチューメンを落とし複製を作った(印刷原版)。
またビチューメンを塗ったピューター板を自製のカメラオブスキュラに装して撮影し、ラベンダー油を石油で溶いた液で、その像の暗い(光の当たらない)部分のビチューメンを溶かし除いたあと硝酸で腐食し影像と同じ模様を現出させる研究をした。ニエプスは自身の印刷術、写真術をヘリオグラフィーと名付ける。
(1827年12月8日付でロンドン皇立学士会院のボーアーを通じて同会にこれを報告すべく依頼したが、単に写真法の可能であることを報告しその内容の詳細は明かさないことを望んだため発表の機を失う。)
「ダンボアーズ枢機卿の肖像」
(現存する。向かって左向きが原版、右向きは印刷)
|
1827年 |
|
ニエプスはビチューメンを塗った純錫板を自製のカメラオブスキュラに装して自宅の窓からの景色を撮影する(サン・ルー・ド・レンヌ風景 現存する写真)。硝酸によるエッチングををしないでヨード蒸気により陰影表現をおこなう(印刷原版ではない)。
|
1829年 |
|
写真の研究をしていたダゲールはニエプスへ共同研究をしたい旨の書状を送るなどニエプスの写真技法に強い関心を寄せていたが、1829年12月5日その技法を伝授され共同研究を行う運びとなる。
「今回発見した方法、私(ニエプス)がヘリオグラフィーと名づけた方法は、光線の当たる強弱を映像の白から黒に至る諧調として現出するものである。銀メッキ銅板を鏡面に磨きビチューメンをラベンダー油に溶解した溶液を軟らかい革を丸めて薄く布き、乾いたら直ぐにカメラ・オブスキュラで露光する。そしてプレートをラベンダー油とペトロリウムの混合液に浸すと映像が次第に現れる。自然に近い陰影を得るためにはヨードを用いる」。
このニエプスの写真術をダゲールは研究する。
|
1831年 |
|
ニエプスはヨード蒸気法を暗部に諧調をつけるため採用したが、ダゲールはビチューメンを使わずヨード蒸気法によるヨウ化銀感光板を用いる方法を考える。ヨードの蒸気に触れた銀板は薄黄色を呈す。このヨウ化銀板を光線に曝すと鳶色となるが、暗箱にヨウ化銀板を装置し写真を撮るには長時間を要す。
|
1833年 |
|
ニエプス死去。ニエプスの事業は息子のイシドール・ニエプスが継承する。
|
1835年 |
|
ある日ダゲールは露出時間が短く像を現わしていなかったヨウ化銀感光板が、傍らに置かれた水銀の作用によって像を現わしているのをみつける。ヨウ化銀板の光の作用で還元され黒化銀(数が少ない潜像の状態)となった部分が水銀の蒸気と結合し「現像」されたものである。そしてダゲールはヨウ化銀の感光板で撮影をし、水銀の蒸気をあてて写真をつくる方法を研究する。
|
1837年 |
|
ダゲールは食塩水で画像の定着をおこなう。その後1839年には(英)ハーシェルが銀塩類を溶解するにはチオ硫酸ナトリウムが有効であると発表したことを知り、チオ硫酸ナトリウムで画像の定着をおこなう。
|
1839年 |
|
2月、ダゲールの発明したダゲレオタイプ(銀板写真法)がフランス学士院を会場にして公開される。 ダゲレオタイプの感光力はヘリオグラフィーのそれよりは14、5倍も強く映像も鮮明に描写されるので、その方法がたちまち各国に伝わり写真の営業がはじまった。
ダゲレオタイプのプロセス
銅板に銀メッキを施してよく磨き、その表面にヨウ素蒸気を当てヨウ化銀層をつくる。これをカメラ・オブスキュラに装して撮影する。ヨウ化銀が光に当たると潜像をつくる。これを現像する方法は潜像が物理的吸着性をもつことを利用したものである。水銀を70度に加温し蒸気を発生させるとヨウ化銀の潜像がこれを吸着し銀と水銀の化合物であるアマルガムの細球が光線の作用の度に応じて収縮し、もって光沢なく白っぽく見える。感光しない部分は水銀が吸着されず、そのヨウ化銀は定着液(チオ硫酸ナトリウム)で溶解し銀の下地が見えるようにする。被写体の明るい部分を表わすアマルガムは被写体の暗い部分を表わす磨かれた銀の反射の具合に比べて明るい部分と見える(陽画。或る方向より見るときは鮮明に見えない)。銀板写真は長期に像が保存され、鍍金液で処理を施したものは特に良好である。
ヨウ化銀を光にあて黒化銀による像が目に見えるようになるには長時間を要するが、水銀蒸気によって黒化銀の粒子をアマルガムとして目に見えるようにすることにより露光は数分ですむことができた(物理現像)。1851年に現像法が発明されると、さらに短い露光時間による潜像のわずかな黒化銀粒子を核として多くの銀粒子をつくり見える像とすることが可能となる(化学現像)。
のちに、ヨウ化銀の感光板が臭化銀も存在するほうが感光が早いことがわかり、ヨード蒸気と臭素ガスを併用し沃臭化銀の感光板とした。この感光力のある銀板とフォクトレンダー社の明るいペッツバール人像鏡玉(ポートレートレンズ)を用いて露光時間がさらに短縮された。
ダゲ-ルの法は忽ち宣伝され、トーソンは大なるレンズを使用することを始め、ニューヨークのドレーバーは始めて人の肖像を撮影する。ゴッダードがヨードと臭素の蒸気を用いて一層感度を鋭敏ならしめることを発見しダゲールはこの理を応用して感光板を製造する改良法を発明し、フィゾーは塩化金を用いて調色する法を発明する。
ダゲレオタイプは1回の撮影での写真を何枚もつくることはできないが、同じ頃に英国でタルボットがこれを可能とする写真術=カロタイプを発明している。また露光時間がさらに短く潜像のごくわずかな黒化銀を増幅して目に見える像とする現在の銀塩写真に通じる「湿板現像法」が1851年に英国でスコットアーチャーにより発明され、銀板写真から湿板写真の時代に移る。
|