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宗教随筆

 

挙一全収の宗教性  -偽仏と真実に対し鑑別の要あり-

仏教に「挙一全収」という熟語がある。一を挙げればことごとく収まるという意味である。
例えば、浴衣一着をとり、そのどこをとっても高くつまみ上げると一着全部が吊り上がる。
また大きな鏡餅があって、一匹のネズミがそのどこをかじっても餅全体の真味を満喫しうる。
丁度そのように全仏教はその何宗何派、またその説時と説者の如何を問わず、その教門が偽物でなくして真実である限り、どこをどう学んでもそれが真実の教えである限り、全仏教を収め取ることができるという大変貴重な話である。

俗に桃栗三年、柿八年。唯識三年、倶舎八年などいわれ、また菩薩となる際に三祇百劫の長遠時を要し、この世の成仏など思いもよらずなどの経説ある反面、浄土門にては 「南無佛一称、即得往生」ないし「佛願乗托五乗斉入」など。
また聖道門にありては、「即心成仏」(即身成仏)など頓速の教旨、迎接にいとまなし。
聖浄二門、八家九宗いずれを問わず凡そその教門が真実である限り挙一全収の理によりて彼岸は一つ。必定して入信大悟、成仏境に到り得る仕組みになっている。

唯一つ玆に心すべき重要点は、その宗門会派が宗教の真実を説くものでなくてはならぬと言うことだ。
論者言わん、何れの宗かあって虚妄(うそ)を説くものあらんや云々と。いやいや決してそうではない。この論者に答うるの辞として、「自宗染着」(じしゅうぜんちゃく)ないし「我が仏、尊とし」などの誡語がある。
各宗の林立は機類萬差、応病与薬という対機法門の立場よりして是認できるのだが、その自宗宣揚、愛護に切なるあまり、転じては「我が仏、尊し」の自宗染着の線から進百歩。ついには他宗を軽賤誹謗をこれ能事とするに至りては、これはもはや神聖なる宗教として目すべきでなくその心事の随劣なるむしろ下司下郎の風下に唾棄すべき俗類でしかない。
ただ彼の宗祖日蓮の教条たる四箇格言は古今に比なき他宗誹謗の尤作であったが、末法に出生して一宗の開創を目指すからには先師の前説を一々ごもっともと拝跪していたのでは一宗の開立は成るはずなく、その点方便仮説にせよもって衆目を惹くの要ありし点はうなずける。

しかし現在において、「日蓮大聖人ととなえた奉りてお題目を高叫すれば・・・」病気も治る金も儲かるという教条主義はちと季節違い、時代錯誤も甚だしい。
世間に今も愚民は多くこの邪教とその出店たる徒党は迷信教徒の血涙を絞りて高楼を誇る遇進の途上にあり。
挙一全収というにしても、こんな邪教が吊り上がって、鏡餅の腐片を囓らさせられたネズミとなっては余りにも救われない。
真実の宗教、仏教の真実を見極めるが先決である。

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尊貴なりこの一刻  不空道人   

「人生わずか50年」

浪花節の文句はもう古い
欲にだんだん芽が吹いて
七十古希は古希ならず
米寿百寿も何のその
百歳夢ならずの夢時代
ももいそ(百五十)会から二百歳説
果ては萬年会長まで飛び出す始末
目出度し目出度しのお開きは
お伽芝居じゃあるまいし
マアマアちょっと待ってくれ
人生とは今の一刻が人生だ
今こそ当の人生なんだ
この只今を別にして
他に人生があるものか
「きのう」といい「あす」いとうのは
単なる概念でしかありをせぬ
言わば空想であり風袋だ
有りというなら掴んでみやれ
只今の一秒だけが我が命
自由に なせる我が命
わが命そのまま仏の命
生仏一如と知った時
そこに生死なく永生あり
貴重なるかなこの一刻
 

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