第1編 沿革
第1章 概論
明治39年1月18日 二股(現南大夕張)福山抗の試掘権を有する
川崎繁実が逓信省鉄道局に対し、清水沢・二股間5哩40鎖の専用鉄道
敷設免許を申請するに始まり
明治39年6月 京都合資会社が組織され権利一切を譲り受け
明治39年8月2日 鉄第884号をもって専用鉄道敷設免許を受け
明治40年7月 京都合資会社、炭坑部門を分離独立させ、夕張炭砿
株式会社と改称
明治44年6月1日 鉄道院運転管理の下に専用鉄道として運転を開
始せり
明治45年6月 三菱合資会社が大夕張炭砿に資本投入、共同経営と
なり
大正5年2月17日 三菱合資会社、大夕張炭砿株式会社を吸収合併
し、炭坑部の美唄砿業所の管理下に大夕張坑と称し
大正7年4月10日 三菱合資会社は炭坑部を分離独立させ三菱鉱業
株式会社設立す
大正15年8月 北部開発の議起こり
大正15年11月 南大夕張・通洞(現大夕張炭山)間6哩10鎖専用
鉄道延長工事着手
昭和2年6月10日 大夕張砿業所独立
昭和3年11月27日 北部延長工事完了
昭和4年5月15日 北部延長線の運転認可を受け
昭和4年6月1日 清水沢・通洞間10哩65鎖専用鉄道として
自営運転を開始す
昭和14年4月20日 地方鉄道、三菱会社線として営業開始。車扱
貨物の連絡運輸を実施
昭和20年9月1日 鉄道課設置し
昭和22年1月16日 国鉄清水沢駅に乗入れ、新清水沢駅を廃止し
て清水沢駅を共同使用駅とす
昭和32年5月より昭和37年10月に至り、二股ダム建設に伴う鉄道
移設工事を完了。道立公園シューパロ湖を具え南大夕張・明石町駅間6
粁の様相を一変せり
第2章 南部時代
1、開闢
明治21年夕張炭田の大露頭発見以来、附近炭砿の開発が盛となり、
二股(現南大夕張)夕張川岸15尺露頭が発見されたが、地形峻険
にして輸送困難のため開発は進まなかった。
明治31年頃、福山某がこれの試掘権を得てより福山抗と称されたが、
その後数名の手を経て川崎茂実の名義となり、これが開発の目的を
もって明治39年1月18日、逓信省鉄道局に対し清水沢・二股間5哩40鎖の
専用鉄同敷設免許の申請を提出せり
明治39年6月 坂本則義を社長とする京都合資会社が組織され、
権利一切を譲り受け炭砿事業に着手。同時に専用鉄道の前段としての
馬鉄工事施工中、明治39年8月2日、鉄第884号をもって
専用鉄道敷設免許権を得た。
明治39年10月 京都合資会社が夕張川岸15尺露頭を目標に
福山抗を開坑、更に同坑の北方10数町、滝ノ沢上流に滝ノ沢抗を開坑、
二股に事務所と貯炭場を設ける等内外の設備を整えたが、
明治40年7月 京都合資会社は炭坑部門(含鉄道)を分離独立させ
株式組織とし、夕張炭砿株式会社と命名。権利一切を譲渡。
更に福山抗の附近に錦抗を穿ち馬鉄工事も着々と進められた。
2、 馬鉄
大夕張炭砿株式会社社紋 |
明治39年6月以来、夕張炭砿株式会社により施工中の馬鉄工事は、
明治40年8月完成、石炭の搬出が開始された。
その後、明治42年9月、大夕張炭砿株式会社と社名を改称し、
明治44年6月1日、専用鉄道が敷設される迄4ヶ年に亘り
馬鉄をもって、二股在住請負人、佐藤庄太郎をして石炭の
積出を行わしめた。
当時の運炭方法は、輓馬又は自転車道(エンドレス)により
抗口から選炭場へ運び、バースクリンにて塊、粉に別ち、
馬鉄をもって省線清水沢駅に輸送し鉄道の貨車に積替え市場に搬出した。
馬鉄は5哩40鎖、軌条は45封度、軌間2呎6吋の単線であるが、
二股の選炭場、清水沢の石炭積込場及び中小屋(現遠幌駅構内附近)
には行違線を設け、遠幌加別川には吊り橋が架けられ、葡萄山の
断崖は難所であった。
その昔、山道を徒歩で葡萄山を登り、葡萄蔓を伝って断崖を
下り川岸を迂廻して中小屋に達したが、この断崖を人呼んで
葡萄蔦と称し、これが葡萄山の語源である。
当時の馬は俗に道産子馬と呼ばれる和種で、1頭20円乃至50円。
4歩積又は5歩積トロリー5両を連結して牽引。下り勾配で加速、
惰力をもって上り勾配を上る波状の連続とし、制動装置としては
鋼棒を車輪に差込み、更に馬夫が挺子を引く木製の棒であり、
これは数日にして更換しなければならなかった。
5両のトロリーに2屯の石炭を積込み「送り」という送状を携行
5哩の道程を運搬して70銭、1日2往復で1日1円40銭。
40数頭の隊列をもって清水沢迄山中を運搬する様は当時としては
見事なものであった。
後に至り輓馬の疲労を考慮し、輸送区間を中小屋で2分し
中継のことゝした。
当時の労賃は1日30銭。馬糧の燕麦が1俵80円という。
冬季降雪期には2屯積の馬艝をもって運搬したが、
大雪に見舞われ数日間、又10数日間も輸送中止すること屡々であった。
清水沢の貯炭場は盛土とし、積込場(現清水沢駅構内日通営業所附近)
に炭台を設け貨車積を行った。
3、 専用鉄道
明治39年8月2日、鉄第884号をもって清水沢・二股間専用鉄道の
敷設免許を受けてより鉄道工事は着々と進められ、明治43年10月
道床基礎工事、葡萄山隧道工事及び遠幌加別橋梁工事が完了。
翌明治44年春、融雪を待って軌条を施設5月に至り完成。
6月1日から鉄道院運転管理の下に専用鉄道として運転を開始せり。
専用鉄道は清水沢・二股間5哩40鎖、軌条は60封度、軌間3呎6吋、
機関車は鉄道院追分機関庫の7214号、石炭車はト号10屯車の
外後に至り大型鉄製車(オテセ)が入線した。
(葡萄山隧道)
延長6鎖81節(137m)
煉瓦積
曲線とすべく東西両面より掘進せしも、測量の缺陥から中央結合部に於て
中心線と一致せず、無理に施工のためS曲線とせり。
(遠幌加別橋梁)
遠幌加別橋梁の架設については、馬鉄に使用せし吊橋を人道として
存置する目的をもって、吊橋の上流に併行して架設のため橋梁の前後を
曲線として軌条を布設せしが、橋梁工事中に吊橋は老朽のため落下破損せり。
現在の遠幌加別川橋梁は昭和10年再度架替せしもので馬鉄用吊橋と同位置にて、
上流に今なお旧橋梁の橋脚が残墟せり。
明治45年6月、三菱合資会社が大夕張炭砿に資本投入共同経営となり、
増資後は資本金150万円となり組織も一新され、明治45年7月には若菜抗を開坑、
これを主力として愈々発展せり。
大正5年1月26日、三菱合資会社は大夕張炭砿株式会社を吸収すべく
譲渡申請を提出、大正5年2月17日監第309号をもって認可を受け
権利一切を譲り受け、三菱合資会社に移管後は炭坑部の美唄砿業所の管理下に
大夕張砿と称した。
大正7年4月10日、三菱合資会社は炭坑部を分離独立させ三菱鉱業株式会社
(受権資本金2億円)を設立。6月14日これの譲渡を監第1051号で認可された。
当時大夕張砿の職制は運転管理を鉄道院に委託していた関係上鉄道は
係部門を置かず、軌道保守は工作係、乗降客の取扱いは労務係で行い、
労務係詰所を大夕張駅とし、小型客車2両を連結運転せり。
もともと石炭輸送のための専用鉄道であったが、他の地区とを結ぶ道路が
ないため鉄道の旅客便乗が許されていた。但し当時は施設も悪く
危険が多かったので乗車券(乗車勘合証と称す)の裏面には人命を保証しない旨
注記され、表面様式は白色無地に横線が1本。行先により赤色・青色に
区別されていた。
第3章 北部開発
1 北部開発計画
大正7年頃より北部開発計画あり、その調査を開始したが、
この産炭を如何にして搬出するかが当時の大きな課題であった。
その第1次案として、北部、万字間に鉄道を建設する事とし
万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂のため廃案となった。
大正8年、第2次案として独逸人「ベンネッケ」氏により通洞案
(現在の鉄道をもって夕張川本流を溯り、通洞をして北部炭田に達するもの)が
立案されたが工事の着手には至らなかった。
第3次案として、大正10年頃、現遠幌駅附近より遠幌加別川を溯り、
北部炭田鹿島沢附近に達する鉄道を立案測量を開始したが、
全線40分の1(1000分の25)の急勾配となる上、延長40鎖(800米)に
及ぶ隧道の外、2、3ヶ所の隧道を必要とする悪条件のため実現に至らず。
更に大正12年に至り第2次案を最良とし実測を再開せるも遇々関東大震災のため
中止のやむなきに至れり。
大正15年8月、俄に北部開発の議起こり、採炭方法は緒案再検討の結果
第2次案の通洞案に決定。専用鉄道は既成線4哩55鎖地点を起点とし、
夕張川本流に沿い6哩10鎖を延長、昭和4年9月完工の目標をもって
大正15年11月上旬より工事を開始せり。
2、 北部延長工事
(1)第1期道床工事
道床工事は延長6哩10鎖にも達する長区間のためこれを4期の工事区間
に区分せり。
然るに二股を去る僅に56鎖なる途中(5哩31鎖より5哩40鎖に至る)
に青葉峠(俗称ダニ峠)の険崖あり。これを開鑿しなければ一切の機械及び
物資を搬入する事を得ず。4哩67鎖より5哩75鎖に至る1哩08鎖間をして
第1期道床区間とし、4哩67鎖より5哩42鎖までを大井組に、以北は梅原組をして
大正15年11月上旬より着工、断崖に命綱を用うる難工事であったが遂にこれを
克服。昭和2年8月31日これを完了せり。
当区間に於ける工事中、土工の切土誤魔化しのためか、中心杭を
川側に振られ、予定の8鎖(半径160米)曲線が6鎖半(半径130米)となり、
軌条布設の際判明せるも修正の暇なく、8鎖曲線として監査を免れたが、
後、列車運転に際し第2、第3動輪にフランジのない9200形式蒸気機関車の
脱線する事屡々であったが後これを正規に修正せり。
(2)専用鉄道延長認可
昭和2年3月17日付をもって、鉄道省陸運監督局に対し、
二股・通洞間専用鉄道敷設免許の申請を提出するも、
工事に当り認可を受くる暇なく、一時これを物資運搬道路開鑿の名儀の下に
御料地を借地し工事を進めしが、昭和2年6月15日監第1494号を持って
正式免許を得たので、線路中心より左右各20間(36.36米)を借地し
工事を進めることゝせり。
(3)
大夕張砿業所独立と鉄道係設置
昭和2年4月8日、本店技術部より技師、沢田梅太郎氏来山、
はじめて工事予定線を踏査帰任、4月10日には旧大夕張炭砿直轄の鉄道係を設け、
事務所を用度係事務所(既成線終点4哩70鎖の山川附近)内に置くこゝとしたが、
翌5月中旬専用鉄道工事担当者として沢田技師正式発令、同月22日着任した。
更に従来美唄砿業所の支抗として稼業を続けてきた大夕張炭砿は、
昭和2年6月10日付をもって新に参事、勝呉英初代所長を迎え
大夕張砿業所として独立したので、北部大夕張開坑事業は一切当所に移管され、
超えて7月11日新に鉄道係を設置沢田技師を鉄道係主任として専用鉄道延長工事を
推進することゝせり。鉄道係事務所は工事の進展に伴い
昭和3年5月、明石沢橋梁下流約50米地点に移転し、測量隊の合宿と併置したが、
昭和4年10月北部事務所(現本事務所)落成により移転せり。
(4) 馬車軌道
通洞に至る鉄道予定線は、険崖あり渓沢ありて起伏甚だしく、
急速に工事を進むるを得ず。開坑準備に必要の機械、物資の緊急搬入のため
鉄道建設に先立ち、7万余円の予算を持って昭和2年9月1日より着工せり。
馬車軌道は45封度軌条をもって軌間2呎6吋、5哩65鎖附近に手動巻上機を設置。
川側低地まで急坂を降るスイッチバックとし、これより北部に向い6哩70鎖附近に於て
鉄道予定線に至り、渓沢は山側を迂廻しつゝ仮桟橋を施設、全力を挙げて工事を進め
10月12日通洞附近に達することを得た。
馬車軌道完成により請負人佐藤庄太郎をして機械及び物資の搬入を開始せしが、
5哩65鎖附近の馬匹難所である巻上線脇の岩山上に佐藤組馬頭観音を建立せり。
(5) 第2期道床工事
第2期道床工事は5哩75鎖より7哩10鎖に至る1哩15鎖間とし、6哩55鎖までは梅原組、
以北を大井組に請負はしめ、昭和2年9月1日着工、翌昭和3年6月15日これを完工せり。
(6) 第3期道床工事
第3期道床工事は7哩10鎖より10哩16差に至る3哩06鎖の区間としたが、
本工事中最も大なるをもって請負人の人選には相当の考慮を払い、
入札の結果小樽在住の橋本組に決定。昭和2年11月4日着工せしが、
土質甚だ不良にして法面崩壊のため切取土砂著しく増加、竣工予定期日に
遅れる事2旬にして昭和3年9月21日これを完了せり。
(7) 第4期道床工事
第4期道床工事は10哩16鎖より終点10哩65鎖に至る49鎖の区間とし、
第3期工事と同様橋本組に決定。昭和3年7月23日着工せしが、
工事区域は全般にわたる湿地帯にて切土個所より噴出する水量多く
工事甚だ困難を加えたるも、昼夜兼行の努力により同年10月25日漸くこれを完了せり。
(8) 渓沢の名称
渓沢は工事中の沢より順7号の沢と仮称せしが、昭和2年11月4日勝呉所長により次の如く名称を付された。
1号の沢 鶯 沢
2号の沢 吉 野 沢
3号の沢 五 十 鈴 沢
4号の沢 香 椎 沢
8号の沢 明 石 沢
5号の沢 旭 沢
6号の沢 竜 田 沢
7号の沢 宝 沢
名 取 沢
初 音 沢
明石沢は当初暗渠布設の予定なりしも、途中これを橋梁に変更のため
後これを8号の沢と称し、又名取沢は以前に地形の沢又は鳴海の沢とも称せり。
(地形の沢の語源は地形測量隊より出ず)
(9) 橋梁基礎工事
鶯沢より宝沢に至る橋梁基礎工事中、鶯沢は梅原組に請負はしめ
昭和2年8月22日着工より順次進められ、同年11月25日これを完了せり。
更に宝沢は昭和3年5月1日大井組をして着工、同月25日これを完工せり。
(10) 橋梁架橋工事
橋梁は鋼製上路式結構径間48呎及びロールIビーム19呎6吋の2種を使用、
橋台は基礎コンクリート上に鋼材を組立てるものにして、本道は勿論全国にも
希なものであり、渓沢水路面上100呎以上の高所に架設される様は一大偉観を
失わず、全長6哩区間に橋梁の数8個所を有するもその類例が少ない。
橋桁は横河橋梁会社に於て加工、海路室蘭港を経て南大夕張に輸送、
昭和2年12月中旬より昭和3年2月初旬に亘り10数回分送到着、
南大夕張より書く橋梁現場に至る搬入方法は、南部在住請負人佐藤庄太郎に
指定請負わしめ、昭和3年2月初旬より3月初旬に至る硬雪期間中、馬鉄線上に
馬艝をもって運搬せしめた。
架橋工事は小樽の橋本組に落札、昭和3年4月1日鶯沢架橋工事着手より
順次進められ、8月13日宝沢架橋工事をもって完了せり。
各橋梁の中心哩程及び橋長は次の通り。
番号 橋 梁 名 中心哩程 橋 長 径間 連数
哩 鎖 節 分 呎 吋 分 呎
吋
1 鶯 沢 5.54.74.5 165.0.0 19.6×8
2 吉 野 沢 7.02.83.8 187.9.0 48.0×3
19.6×2
3 五十鈴沢 7.39.68.5 264.1.5 48.0×5
19.6×1
4 香 椎 沢 7.67.80.9 264.1.5 48.0×5
19.6×1
8 明 石 沢 8.22.15.4 060.0.0 19.6×3
5 旭 沢 8.43.47.5 236.4.5 48.0×4
19.6×2
6 竜 田 沢 8.76.30.0 291.3.0 48.0×1
7 宝 沢 9.43.89.5 242.0.0 48.0×5
(11) 軌条敷設工事
軌条敷設工事は直轄作業として昭和3年5月3日、4哩55鎖より作業開始、
トロリーによる繰延法により順次延長し、6月1日に至り6哩70鎖吉野沢附近の
馬車軌道との接合点に達し、こゝに用度係の臨時中継倉庫を設け、
6月1日より美鉄より借受けの3080号機関車に8屯積無蓋貨車を連結運転、
材料及び物資の輸送を行い、以北は馬車軌道により中継搬入せしため、
以南の馬車軌道を撤去せり。
更に8月2日より以北の軌条敷設工事を続行、下旬に至り9哩10鎖附近に達し、
再び仮中継所をこゝに移して以南の馬車軌道を撤去せり。
9月下旬、軌道敷設は北部駅(現大夕張駅)構内に達し構内配線工事も完了、
11月27日には通洞駅(大夕張炭山駅)構内終点10哩65鎖に達し、
当初目標の昭和4年9月完了に先立つこと10箇月にして北部延長工事を竣工せり。
(12)
巨熊射殺と香椎沢山火
昭和2年は早春より通洞方面において熊の出没頻繁にして、入山時常に脅威を感ぜしが、
9月8日早朝、定夫中鉢芳治、仝船場石太郎の両名は竜田沢附近に於て工事中、
険を犯して巨熊1頭を射殺せり。
昭和3年8月20日、4号香椎沢橋梁上、軌条敷設工事中橋脚附近より原因不明
(煙草の吸殻と推定される)の出火により、東南の風に煽られ瞬く間に山手御料林に延焼、
一時殆ど絶望と思われたるも幸い風向きの変化と各員必死の奮闘により7、8町歩の
延焼に止まり午後1時鎮火せり。
(13)
機関車及びその他の車両
建築列車用蒸気機関車3080号は、元より美鉄において運転不能なるものを
応急修繕の上、昭和3年6月1日より無理に使用したもので、運転中屡々
故障を生じ且つ蒸気漏洩のため6哩間を一気に運転するを得ず。
途中停車により蒸気の快復を待ち再び運転を再開する状況にして、
9201号蒸気機関車を使用する10月末に至る5個月間を辛じて運転を継続せり。
10月24日、予て払下出願中の9201号蒸気機関車が到着、
これに若干の修繕を加え10月31日より運転を開始したが、
これより先建築列車に便乗する者多く、線路も稍整備せるをもって12月12日から、
美鉄より同時払下の客車1両を連結1日4回の運行をなし、
更に翌昭和4年2月4日より客車2両を連結運転せり。
(14) 大夕張駅及び通洞駅
北部駅は中心粁程9哩60鎖、主として旅客の乗降及び購買会用品等
少量の貨物を取扱うを目的とし、通洞駅は中心粁程10哩40鎖とし、
10哩25鎖より終点10哩65鎖に至る大構内とし、一般乗降客を取扱わず
専ら石炭積出し及び砿業所物資の積卸しを行う目的として5個の配線を行えり。
昭和4年1月22日、従来の大夕張駅を南大夕張駅と改称し、
新に北部駅を大夕張とし更に通洞駅の名称を付せり。
(15) 送炭開始
昭和4年5月7日、美鉄より9237号蒸気機関車及びト号車2両の
譲渡引渡しを受け、北部選炭場の使用と相伴って昭和4年5月8日、
9201号蒸気機関車の運転する建設列車をもって待望の北部炭送炭を開始せり。
3、 監査及び自営運転
原文綴じ不良或いは紛失のため割愛
4、 青葉峠落石覆
昭和5年7月中旬、予て落石のため運転に支障多かりし青葉峠
コンクリート落石覆設置に着工、11月下旬これを完成せしも更に
昭和10年7月2日南大夕張側に25米の増設工事に着手、
同年9月24日完工せり。
5、 鉄道係廃止
昭和5年8月26日、鉄道係主任沢田技師本店技術部に転任、
既に専用鉄道延長工事も完結せるをもって、9月5日鉄道係を廃止し
工作係に合併せり。
6、 北部移動と新清水沢駅の開業
昭和2年10月6日通洞貫通、昭和3年より1年に亘り、南大夕張砿は
経済界の不況と相伴って従業員を整理、南部コークス場及び鉄道保線等の
60数名を残すのみとし、北部抗移動希望者中より銓衡の上設備一切と共に
北部に移転、更に昭和8年4月下旬着工の北部選炭場増設工事を
10月26日完成。昭和9年5月北部コークス炉造営に着工し、
昭和10年8月コークスの製造を開始等、北部大夕張は目覚しい発展をなせり。
もどって昭和7年10月20日、従来の大夕張砿業所清水沢出張所に
休養所を加え移転(社起点より150米、清水沢駅より353米地点)執務取扱い開始、
新清水沢駅兼出張所と称し開業せり。
7、 御料岐線
昭和9年上旬、帝営林野局札幌支局に於て大夕張以奥森林軌道敷設工事に
着手せしも、同月30日には当所との協定により、通洞駅構内に
御料木材土場入岐線工事着手、昭和10年6月39日完成し
翌7月2日より使用開始、以後管内原木の積出に当れり。
当時は専用鉄道なりしため運賃又は岐線料金とせず、岐線料金を含め
通洞・清水沢駅間1屯当り搬出料金80銭と協定せり。
後昭和14年11月20日には南大夕張駅構内に、昭和15年9月1日には
遠幌駅構内に御料岐線を敷設、今なお夕張岳山麓の原木搬出を行えり。
8、 メートル法の実施
昭和9年10月1日より特殊事項を除きメートル法を実施、専用鉄道の
哩程を廃止し総て粁程に改正せり。
9、 遠幌加別川橋梁架替工事
遠幌加別川橋梁は明治45年10月竣工せしものなるが、昭和9年橋脚に亀裂あるを発見
架替のことゝし、その昔馬鉄当時吊橋のありし個所に昭和9年10月着工、
昭和10年1月18日完成、更に軌条敷設及びペンキ塗装工事の残工事を
4月25日より着手し、同年5月19日完了に付試運転の上即日列車の運転を開始せり。
本工事により従前の橋梁前後の曲線は修正され直線とせり。
10、 香椎沢橋梁流出
昭和8年8月、6日以来の降雨に引続き7日以来の豪雨により専用鉄道各所損壊、
4号香椎沢山側土砂崩壊のため、8日午前8時直前橋梁橋脚損壊し
列車運転不能となり、昼夜兼行復旧に当り30日に至り工事落成、
31日午前7時より列車の運転を開始したが、比間出炭は抗外貯炭とし
操業を持続せり。
11、 葡萄山隧道崩落
当所石炭の増産を唱える折柄、葡萄山隧道前後の路線勾配が
輸送力を阻害するため、隧道を廃止する目的を持って昭和8年10月16日より
隧道附近前後の勾配並びに曲線修正による外線工事中の処、
軟弱な土質を切土のため昭和9年4月6日朝隧道内煉瓦積に亀裂を生じ、
翌7日午後5時10分頃中央部約27間(約49米)に亘り崩壊交通社絶(謝絶)せり。
よって昼夜兼行応急対策として夕張川岸の断崖に枕木サンドルによる
迂廻仮線を布設、17日午後6時仮工事を完成同30分列車の運転を開始せしが、
この間出炭は抗外貯炭として操業を継続せり。
後外線附近改良工事に着手、昭和8年9月落成のため15日午後4時
切替を行い、更に夕張川岸擁壁設置工事に着手、一部を残し10月中旬完成、
残工事は昭和10年7月完成引続き伏樋工事に着手10月23日悉く完成せり。
後昭和36年4月、営林署より要請あり隧道前後を閉鎖せり。
12、 雪害事故とラッセル車
昭和10年1月22日夕刻より大吹雪となり、翌23日も依然猛烈となり
専用鉄道各所に吹溜りを生じ列車不通、24日に至るも開通不能のため
1、2番方共採炭休業、総動員をもって除雪に当り消防組その他の
援助により全線600余名を配し復旧に努め、同日午後9時漸く列車の
開通を見、吹雪は24日午後10時漸く止めり。
本雪害事故に鑑み昭和11年7月、国鉄において廃車とせる木製雪掻車
(形式キ1 番号28)を払下げ入線、昭和15年胆振縦貫鉄道に
譲渡売却する迄4ヶ年に亘り、当鉄道の降雪期路線の安全を確保せり。
第4章 地方鉄道改組
1、 地方鉄道改組
大夕張専用鉄道沿線住民の福祉と地区産業発達に資する目的をもって、
昭和12年7月21日鉄道省陸運監督局に対し、専用鉄道を地方鉄道に変更の
申請書を提出、翌昭和13年10月20日付監第7802号をもって認可となり、
昭和14年4月20日線名を三菱鉱業株式会社線と称し、地方鉄道として
営業を開始せり。
但し、貸切扱い(現車扱貨物)については、即日省線との連絡運輸の取扱いを
実施せるも、旅客及び荷物並びに小口扱貨物については、
昭和16年12月1日より連絡運輸を実施せり。
営業開業時の現状
(1)
停車場及び実測換算中心粁程
駅 名 社線岐点より 備考
粁 米
新清水沢 0.150 省線清水沢駅を共同使用せず社駅を有す
南大夕張 7.400 大夕張 15.638
大夕張炭山 16.998 昭和13年10月10日、従来の通洞の駅名を
改称、貨物のみ取扱う
(2) 営業粁程
粁 粁 粁 粁
清水沢 0.4 7.6 15.8 17.2
新清水沢 7.2 15.4 16.8
南大夕張 8.2 9.6
大夕張 1.4
大夕張炭山
(3)
旅客運賃1粁当り賃率、省線と同額、1銭5厘6毛
銭 銭
新清水沢 12 24
南大夕張 13
大夕張
上記運賃により開業し、尚連絡乗車券の発売は昭和16年12月1日なるも、
旅客は新清水沢駅に於て下車省線清水沢駅迄約350米を徒歩連絡により
乗継せり。
(4) 貨物運賃
省線貨車を直通乗入し、大夕張炭山〜清水沢間営業粁程17.2粁
石炭等級は7級、18粁の屯当賃率50銭なるも通算制のため
社線収得額約60銭となれり。
(5) 保安方式
専用鉄道当時のスタフ閉塞式を改め、タブレット閉塞器を設置し運転の安全を確保せり。
(注)スタフ閉塞方式
閉塞区間にスタフ(棒)を設け、これを携行する列車のみ
その閉塞区間の運行権を与えるもので、他に補助手段を持た
ない最も単純な閉塞方式であり、隣接する閉塞区間のスタフ
はその形状を異にする。
(6) 車両
地方鉄道改組に備え昭和12年8月12日新製蒸気機関車9603号入線、
更に同年10月半鋼製2軸ボギー客車ナハ1号入線、客貨輸送に一新紀元を画せり。
昭和16年1月、増備の第2陣として9604号蒸気機関車を新製せるも、
美唄鉄道に於る輸送力の関連から当線には直接入線せず美唄鉄道に配属、
支援に美唄鉄道より9217号蒸気機関車を借受け使用せしも昭和22年9月16日、
10粁850米暗梁盛土流出により顛覆破損後返却、昭和22年12月、
9604号の返戻を受け使用を開始せり。
尚、昭和15年鋼製ラッセル車 キ1を新製翌昭和16年3月入線当鉄道降雪期の
安全を確保せり。
2、 遠幌加別駅の開業
帝室林野局より遠幌加別地区原木搬出のため、新清水沢〜南大夕張駅間
(社起点より3.9粁)に於て貸切扱貨物取扱の要請あり、昭和15年6月15日
鉄道省に対し遠幌加別駅の新設を申請、8月26日これが認可を得御料岐線を
布設して9月1日より貸切扱貨物の社線内取扱を開始せるも、駅舎はなし、
南大夕張駅に於て業務の取扱をなせり。
昭和16年12月1日、発駅を南大夕張として連絡車扱の取扱はなし、
昭和17年6月1日駅舎を設置(現本屋東方約100米)して駅員2名を配置、
更に8月1日駅名を遠幌駅と改称し乗降客を取扱うも乗車券の発売には至らず、
昭和18年10月1日連絡車扱及び社線内乗車券の発売を開始せり。
3、 宝沢橋梁撤去
昭和7年9月、町営事業として着工した宝沢道路工事は、宝沢橋梁下流に
盛土暗梁として翌昭和8年1月完工したが、昭和16年宝沢橋梁桁の一部に
亀裂あるを発見、橋梁を廃止築堤線路に変更すべく工事着工、昭和19年9月
に至り築堤完成し30日新線に切換え運転を開始せり。
4、 農場前臨時乗降場
戦前戦後を通じ当所住民の食糧難打開の目的を持って、現明石町地区に
農場を経営、食料搬出のため昭和20年5月6日、13粁400米地点に
農場臨時乗降場を設置せり。
更に昭和21年2月1日、現シューパロ湖駅附近(10粁050米)に第2農場を
経営のためこれをっ第2農場前臨時乗降場と称し、前記農場前臨時乗降場を
第1農場臨時乗降場と改称せり。
第1農場は後農場を廃止、当所従業員社宅約300戸を新築し町名を明石町と
称したので通勤者及び一般旅客取扱のため、昭和25年11月1日より
明石町駅に昇格するまで、又第2農場は二股ダム建設のため昭和32年2月1日
これを廃止するまで乗降客の取扱をなせり。
乗降場は枕木とし、列車は昼間停車するも夜間は通過とし、旅客は外方駅に
至る乗車券を購求、集札は車掌の取扱とせり。
5、 C11蒸気機関車
戦時中、雄別炭砿鉄道株式会社尺別専用鉄道に於て、輸送力増強のため
新製入線せるも、直後閉山のため当鉄道に転属。昭和19年1月1日入線せり。
第5章 鉄道課独立
1、 鉄道課独立
当鉄道の業務形態は地方鉄道として発展後も、運炭課、工作課及び
経理課等に於て夫々分担執務せしが、地方鉄道の運営上欠陥ありとして
監督官庁より示唆もあり、社内的にも鉄道課設置の気運が騰まり、
たまたま終戦という障害発生せしも昭和20年9月1日付をもって
鉄道課設置、宇賀村進氏を初代課長として運輸、運転及び保線を
一体とし資材課倉庫の一隅を仮事務所として業務を遂行することゝせり。
2、
大夕張鉄道交通従業員労働組合
昭和20年11月、大夕張炭砿労働組合発足せるも、12月20日に至り
鉄道関係従業員により大夕張鉄道交通従業員労働組合設立
(初代組合長、吉崎秀太郎)私鉄総連に加盟せしが、
後炭労合併の気運強く、昭和23年5月23日大夕張炭鉱労働組合に
合併せり。
3、 雪害事故
昭和21年3月14日、融雪期にもかゝわらず夕刻より重量ある湿雪
が降りはじめ、15日に至るも止まず、蒸気機関車3両をもって運転する
ラッセル車も及ばず線路両側は数米に達する積雪となり、採炭を中止し
全従業員はもとより一般住民の協力をも得て昼夜兼行の除雪を行い、
18日夕刻の止みし頃漸く全線の開通を見た。この間日数4日に及べり。
4、 大貨物営業粁程
戦後のインフレにより物価高騰し当鉄道の営業収支も均衡を失い
旅客及び貨物運賃の値上げを行うも及ばず、健全経営の目的をもって
運輸省に大貨物営業粁程設定を申請認可を受け、昭和21年7月1日より
10割増粁(35粁)を実施せり。
昭和23年9月1日より取引高税実施に伴い貨物営業粁程11割増(36粁)
となるも、昭和25年1月1日貨物運賃の値上げと共に取引高税廃止により
実粁となり、昭和27年に至り再度申請、3月1日より認可を受け10割増となり
現在に至る。
5、 客車形式 ハ1
昭和21年8月、戦時中廃止せし渡島海岸鉄道より、ハ1を購入、
戦後増加せる旅客に対処せり。
6、 北炭遠幌砿
北海道炭砿汽船株式会社夕張砿業所より、遠幌砿開坑に関し、
石炭搬出の目的をもって当鉄道遠幌駅構内に専用側線並に
積込ポケット等設置の申出あり、昭和23年1月に至り索道、
積込ポケット及び専用側線を設置して送炭を開始。昭和23年6月18日、
駅本屋40坪、附属建物6坪及び住宅6戸の引渡しを受け当所の所有とせり。
第6章 清水沢駅乗入
1、 清水沢駅乗入
当鉄道に於ける国鉄との連絡運輸については、従来より新清水沢駅を有し、
旅客は約350米の徒歩連絡、更に荷物及び郵便物は荷車をもって運搬中継
せしため列車の遅延を来す等不便を免れず。これが緩和のため省線清水沢に
列車を乗入のことゝし、昭和19年8月25日付をもって清水沢駅構内連絡設備変更に
関し協定、後本工事を進め終戦により一時中断せしも昭和22年1月、これを完成。
同月16日清水沢駅に乗入を開始せり。
同日新清水沢駅を廃止。これに伴い昭和22年3月1日より旅客及び荷物の
営業粁程並びに旅客運賃を改め、省線との連絡運輸は運輸省広報掲載のため
若干遅れ4月21日より実施せり。
(1)営業粁程
粁 | 粁 | 粁 | 粁 | |
清水沢 | 4.1 | 7.6 | 15.8 | 17.2 |
遠 幌 | 3.5 | 11.7 | 13.1 | |
南大夕張 | 8.2 | 9.6 | ||
大夕張 | 1.4 | |||
大夕張炭山 |
銭 | 銭 | 円.銭 | |
清水沢 | 50 | 80 | 1.50 |
遠 幌 | 40 | 1.10 | |
南大夕張 | 90 | ||
大夕張 |
2、 列車顛覆事故
昭和22年9月16日、前夜来の豪雨も止みしが、10粁850米暗梁閉塞のため
盛土決壊路線支障しあるを、第2列車(初列車)乗務員が発見急停止するも
及ばず、9217号蒸気機関車約10米下の渓沢に落下顛覆大破せるも、
機関士及び軌間助手共幸に泥流より脱出事なきを得た。
間もなく機付緩急車も渓流に落下、更に客車も徐々に転倒せしも一般乗客に
死傷者なし。
蒸気機関車の引上げ、暗梁盛土工事等昼夜兼行の復旧作業の結果
18日深夜に至り工事完了列車を通過せしが、9217号機関車は
修理不能のまゝ美鉄に返却後廃車とせり。
3、
鉄道課事務所と大夕張炭山駅新築
予ねて資材課倉庫の一隅に仮居せるも、昭和22年12月15日
大夕張炭山駅構内東側(現炭務事務所南方)に鉄道課事務所及び
大夕張炭山駅本屋を併置落成転居。昭和28年12月15日大夕張炭山駅に於て
社線内旅客及び荷物取扱開始のため現在地に移築せり。
4、 従業員待遇乗車券制度
戦後労組より申出あった従業員並びに家族に対する当鉄道乗車に関し、
昭和23年4月1日より従業員待遇乗車券制度を制定せり。
交付基準
有効期間は6ヶ月間(各期毎)とし、
前6ヶ月間の稼動日数、坑内110方、抗外140方以上の従業員及び
家族に対し、年功1年以上3年未満の者は4片、3年以上5年未満の者は
6片、5年以上の者に対しては12片を交付する。
運賃は山許原価で負担鉄道勘定に振替収入することゝし、
1券片に40円とせしも、後20円より10円に減額のため、旅客1人当り運賃
及び客車乗車効率低下のため、対陸運局関係に支障を及ぼし本制度廃止
すべく努力中なるも対労関係あり未だ廃止に至らず。
5、 遠幌駅一般連絡運輸開始
遠幌駅は従来、旅客及び荷物は社線内扱い、車扱貨物のみ連絡運輸の
取扱をせしが、北炭遠幌砿の発展と共に駅周辺に住宅新築、人口も大幅に増加、
地区住民より要望もあり昭和23年6月26日省線との一般連絡運輸を申請、
認可を得て昭和24年1月11日より実施せり。
6、 南部開発
国策としての石炭増産に副うべく、当所に於ても南部開発を計画、
昭和22年8月より踏査開始、12月に至り開坑着手、昭和23年12月送炭開始、
昭和27年7月29日には容量120屯の石炭積込ポケットを設置、昭和30年4月
送炭を終了する迄の6ヶ年に亘り68,000屯を輸送せり。
7、 客車 形式ナハ2
昭和23年7月、戦後増備客車の第2陣として国鉄から鉄道車両会社を通じ
改造車を購入、9月入線使用を開始せり。
8、 北夕開坑
札幌鉱山株式会社が北夕鉱業所を開坑、昭和24年9月16日より
5粁388米地点に専用岐線と積込ポケットを新設、石炭の積出を開始。
昭和27年3月18日夕張炭砿株式会社北夕鉱業所と社名変更。
後昭和33年5月頃炭況悪化のため一時閉山問題も起りしが、よくこれを再建、
年産6万屯を輸送せり。
開坑当初より運賃支払方法に関し後払契約を締結しおりたるが、
昭和33年10月1日これを解除、現払又は拓銀小切手をもって取扱いたるところ、
出炭好調で経営安定のっ兆あり、更に当社買付炭の関連もあり昭和38年9月1日より
再度後払の契約を締結せり。
9、大夕張炭山駅構内流雪溝
冬季降雪期における甚大な除雪費節減の目的をもって、昭和24年10月
大夕張炭山駅構内に、新斜坑の湧水を利用して巾50糎深さ60糎、
延長675米に及ぶ流雪溝を設置。水力による構内の雪捨てを行い
多大の効果を敗めり。
(延年間除雪人夫 5,700人/2)×@210=598,500円≠60万円
10、 9605号蒸気機関車
昭和25年6月、輸送力増強のため国鉄より9605号蒸気機関車を払下げ入線、
9603及び9604号と共に当線の主力として活躍せり。
11、
明石町及び千年町駅開業と大夕張駅改築
昭和25年11月1日、第1農場前臨時乗降場を駅に昇格、明石町駅と改称、
同日更に14粁750米に千年町停留場を新設営業を開始、同年12月改築中の
大夕張駅新駅舎落成せり。
明石町駅
旅客、荷物及び貨物の社線内取扱を開始せるも、後昭和28年5月11日
連絡運輸取扱い。昭和37年12月2日経営の合理化をはかり小口貨物の
取扱い並びに手小荷物の配達業務を廃止し現在に至る。
千年町駅停留場
旅客駅とし、社線内のみ取扱う。
開業当初、停留場を臨時乗降と混同誤解
((丸の中に千の字)表示できない)大夕張の駅名をもって
乗車券を発売。外方の駅までの乗車券を有効として取扱い、
後昭和27年3月15日より連絡乗車券を発売(6着駅のみの常備片道券)
せしが、昭和34年12月1日札幌陸運局より誤扱である旨示唆あり、
昭和35年3月21日より千年町駅として正式取扱いをせり。
昭和38年11月11日、合理化を図り千年町駅を委託駅とし、
業務一切を請負とせり。
千年町駅業務委託料
1、基本料金
2、旅客取扱料
イ、普通乗車券 運賃の100分の5
ロ、定期乗車券 〃 100分の4
ハ、団体乗車券 〃 100分の1.8
ニ、着札取扱料 1枚に付 2円
ホ、払戻手数料 1件に付 10円
3、荷物取扱料
イ、有料手回品 1ヶに付 10円
ロ、一時預 全額
4、有料広告
イ、ポスター 1件に付 10円
ロ、額面 1件に付 30円
大夕張駅
昭和24年12月改築着手、昭和25年12月落成。
12、 客車形式ホハ1、2
昭和25年5月、国鉄よりホハユニ2両の払下を受け、旭川同志社にて改造、
ホハ1、ホハ2とし、昭和26年6月入線使用を開始せり。
昭和33年10月、ホハ2のみ三菱芦別専用鉄道に炭砿要員輸送のため譲渡せり。
13、 小口扱貨物一元請負
昭和27年4月1日、経営の合理化を図り小口貨物の受託作業及び積卸作業を
日本通運をして一元請負に付せり。
請負料金は全額通運業者の収入とするも、貨車使用料金として1ヶ月に付
10万円を当鉄道に支払う外、清水沢駅に於ける中継作業料金を負担することゝせり。
同年11月1日から上記を改定、、小口貨物社収運賃の38%を貨物使用料金とし、
残額62%を請負料金とせり。
翌昭和28年4月1日より貨物使用料金を37パーセントに改定し昭和29年3月31日
まで実施せしが、昭和28年11月1日、鹿島通運株式会社が通運事業を開始せるため
両者をして入札の結果日本通運はこれを辞退し、鹿島通運が貨車使用料を
55%とし昭和29年4月1日より実施せり。
昭和31年4月1日上記料金を屯建に改定、取扱数料1屯に付き322円を鹿島通運の
請負料金とせり。
14、
大夕張炭山駅旅客取扱開始
大夕張炭山駅は開業当初より貨物駅として小口扱及び車扱のみを取扱いたるも、
当所従業員の南大夕張、明石町及び千年町駅からの通勤者乗降のため昭和28年
12月16日駅本屋を現在地に移築し、同月25日より社線内旅客及び荷物の取扱いを
開始せり。
15、 北菱鹿島炭鉱
昭和27年、北菱産業株式会社が鹿島炭砿を開坑、7月11日、5粁238米地点に
専用側線及び石炭積込ポケットを設置、翌昭和28年3月より送炭を開始せり。
16、 客車形式 オハ1、2
昭和27年2月、国鉄よりオハフ8857の払下を受け、北海陸運工業に於て
車体を新製、オハ1として昭和28年3月入線使用。
昭和29年2月、国鉄よりホハ2401の払下を受け、オハ1と同様北海陸運工業に
於て車体を新製、オハ2として同年8月入線、使用を開始せり。
17、 駅売店営業開始
企業合理化に伴う離職者の就職斡旋を図り駅待合室に売店を設置経営を
させることゝせり。
大夕張駅売店 昭和29年1月29日
千年町駅売店 昭和36年6月1日
遠幌駅売店 昭和38年5月1日
但し遠幌駅売店は経営不振のため同年9月30日限り営業休止せり。
18、 竜田沢埋立
昭和28年8月8日竜田沢橋梁(6号)橋脚に亀裂あるを発見、応急処置を行うも、
たまたま清水沢・大夕張間開発道路工事との関連あり、橋梁を撤去し線路を
山側に20米移設し盛土暗渠とすべく昭和28年12月中島工業に請負わしめ、
翌29年5月着工11月27日埋立完了新線に切換え、更に明石町寄山側岩盤の
切取工事に着手、30年11月5日完了新線に切換え運転を開始せり。
第7章 最近に於ける営業事項
1、 美鉄と連絡運輸併合
従来大夕張鉄道と美唄鉄道は、国鉄との連絡運輸については恰も別会社の如く、
ここに連絡番号を有し業務を取扱いたるも、昭和31年6月1日よりこれを併合
三菱鉱業株式会社の美唄鉄道線又は大夕張鉄道線と称し、連絡運輸契約も当社
取締役社長と国鉄営業局長との間に締結、連絡運輸事務は美唄鉄道を窓口として
大夕張鉄道分を併せ取扱うことゝし、国鉄との駅共同使用契約、接続駅に於ける
連絡設備、国鉄用地の借地契約等の連絡運輸以外の件に関しては従来同様美鉄、
大夕張個々に行うことゝせり。
2、 北菱香取坑
昭和32年2月、北菱産業株式会社が香取坑を開坑、同月19日より送炭を開始。
3月に至り大夕張炭山駅構内終点付近に南部開発の積込ポケットを移築利用、
昭和37年2月21日積出を終了するまで5ヶ年間に亘り約6万5千屯の石炭を送炭、
昭和37年6月8日ポケットを撤去せり。
3、
モーターカー
昭和32年6月8日、モーターカー入線、保線作業に機動力を齎らせり。
4、 客車形式ナハ3、4
昭和31年11月28日、国鉄よりナル17.612同13の払下を受け泰和車両にて
側廊付来客用コンパートを一端に持つ客車に改造、昭和32年6月26日入線使用を
開始せり。
5、 客車形式ナハ5
昭和33年5月、国鉄よりナル17.702の払下を受け泰和車両に於て車体を新製、
昭和34年3月入線使用を開始せり。
6、 メタノール
昭和33年、坑内ガスよりメタノール合成のため、大夕張炭山駅東方、夕張川岸に
メタノール工場建設、昭和34年7月には工場試運転、12月に至り製造を開始、
もどって8月29日より私有貨車タキ14両入線、翌35年1月27日よりメタノールの
輸送を開始せり。
7、 急行券の発売
昭和36年1月14日より、国鉄札幌・夕張間にジーゼル準急行列車「夕張」を
2往復運転開始せしが、当鉄道各駅からの連絡旅客に対しても2月1日より
準急行券を発売開始せり。
当鉄道発売駅 大夕張、千年町、明石町、南大夕張及び遠幌
後、旅客の利便を図り、昭和37年5月1日より第1種普通急行券を、
更に9月1日より第2種普通急行券を大夕張駅より発売せり。
8、 石炭運賃延納
昭和36年4月6日鉄道貨物運賃15%値上となったが、石炭業界に及ぼす
影響甚大であり、政府に対し石炭運賃の軽減を要請せる処、経済企画庁が
中心となり運輸、通産の各省協議の結果、石炭運賃臨時特別措置として
昭和36年7月1日(連絡社線発となるものは昭和37年3月30日)より
石炭運賃の延納取扱が実施された。
1、 昭和36年4月6日値上り運賃(15%)の2分の1に相当する
6. 5%とする(社線運賃を除く)。
2、 取扱期間は昭和38年度分(昭和39年3月31日)までとする。
3、該当石炭業者(当所関係分)
イ、 三菱鉱業株式会社札幌支店長 落合一男
芦別、上芦別、茶志内、常盤台、盤ノ沢及び大夕張炭山の
6駅を発駅とす。
ロ、 北菱産業株式会社代表取締役 田中剛一
平岸、美唄炭山、遠幌、頼城及び緑泉の5駅を発駅とする。
ハ、 夕張炭砿株式会社取締役社長 上野 清
遠幌駅を発駅とする。
4、 国鉄に提出する担保
イ、 大手17社については17社が連帯保証人となる連帯保証書
ロ、 中小炭砿業者の中、大手系列に入る者については、大手17
が連帯保証人となる連帯保証書
ハ、 他の中小炭砿業者は、国鉄の認める有価証券、銀行の保証書又
は個人保証書等
5、 延納額の返納
昭和36年度中に延納の取扱を実施せし者は36年度分は43年度中に
37年度分は44年度中に、38年度分は44年度中に、夫々12ヶ月の
均等月賦とし、毎月末迄に所属国鉄鉄道管理局会計課に返済する。
6、 延納額は政府の指示により利息を付けない。
7、 当鉄道関係延納額実績次の通り。
イ、発生年度別延納額(円)
年度別 | 三菱大夕張 | 北菱鹿島 | 北 夕 | 合 計 |
36 | 116.320 | 48.400 | 15.140 | 179.860 |
37 | 16.329.380 | 5.513.450 | 1.752.730 | 23.595.560 |
38 | 16.882.290 | 4.229.860 | 2.399.090 | 23.511.240 |
合計 | 33.327.990 | 9.791.710 | 4.166.960 | 47.286.660 |
金利 | 17.030.603 | 5.003.564 | 2.129.316 | 24.163.483 |
備考 昭和36年度分については昭和37年3月30日、31日の
2日間のみである。
延納取扱により各石炭業者の得る金利は日歩2銭として
推算した。
(0. 02円×365日×7ヶ年)÷100円=0.511
ロ、 支払年度別均等月賦額(円)
年度別 | 三菱大夕張 | 北菱鹿島 | 北 夕 | 合 計 |
43 | 9,693 | 4,033 | 1,262 | 14,988 |
44 | 1,360,782 | 459,454 | 146,061 | 1,966,297 |
45 | 1,406,858 | 352,488 | 199,924 | 1,959,270 |
備考 札幌鉄道管理局会計長から毎月10日迄各石炭業者に
支払請求書が発行され月末迄に支払う。
9、 石炭運賃通算制
連絡運輸の目的は国鉄及び連絡社線か恰も一運輸機関の如き効果を発揮し
旅客及び荷主の便益を図るにあるが、運賃制度については公共的には通算制が、
企業的には併算制が唱えられ、各々利害得失があり、戦前戦後を通じ次の如き
変遷を経てきた。
昭和17年3月まで 併算制
昭和17年4月より昭和23年7月まで 通算制
昭和23年7月から 併算制復帰
昭和25年1月から 特定社線につき通算制を採用
当社に於ても輸送費の軽減のため車扱貨物運賃を通算制とすべく
昭和31年2月10日国鉄に対し申請書を提出するも、国鉄経営不振の折柄認められず
7ヶ年に亘りこれを推進の結果、昭和37年1月1日漸く石炭運賃についてのみ
次の通り実現せり。
◎ 昭和37年11月1日、日本国有鉄道公示第532号抜粋
石炭の連絡車扱貨物運賃・料金の特殊計算方について、当分の間次のよう
に定める。
1、 適用範囲
次に掲げる社線各駅発車扱貨物に限る
雄別炭砿尺別線、留萌鉄道線、天塩炭砿鉄道線
羽幌炭砿鉄道線及び三菱鉱業株式会社線
2、 適用品目
貨物等級表の品目番号0101及び0102に該当する石炭
3、 運賃料金の計算方
連絡運輸規則第170条第2項の規定(通算制)による
◎ 昭和37年1月1日、鉄業第426号、37石局第956号抜粋
「当分の間次のように定める」ことについて運輸省と通商産業省は
下記の通り了解する。
記
1、本措置は、石炭政策に基づく臨時的な措置であり、
現時点において将来の確定期間を明示することが
困難なため、実施期間を当分の間としたものである。
2、将来、諸情勢の変化により、本措置を改廃しようと
する場合には、運輸省は、事前に通商産業省に協議するものとする。
なお昭和37年10月27日付夕鉄第182号をもって運輸大臣宛貨物
運賃計算方変更認可申請書を提出、昭和37年10月31日付鉄監第1072
号をもって認可を得、11月1日より実施せり。
実施後に於ける実績別紙の通り。
社発連絡車扱石炭運賃通算制による利益の推定
昭和37年下期(37.11.1〜38.3.31)
荷主別 | 輸送屯数 | 通算制 実績運賃 |
併算制 推定運賃 |
損 益 | |
屯 | 円 | 円 | |||
大夕張砿業所 支払運賃 |
163,333 | 116,858,180 | 142,301,460 | 25,443,280 | |
@715.46 | @871.24 | @155.78 | |||
大 夕 張 鉄 道 収 入 |
三 菱 | 163,333 | 38,854,282 | 40,391,480 | △ 5,537,198 |
@213.40 | @247.30 | @ 33.90 | |||
北 夕 | 30,542 | 3,076,011 | 4,228,540 | △ 1,152,529 | |
@100.71 | @138.45 | @37.74 | |||
北 菱 | 61,069 | 7,042,715 | 8,455,010 | △ 1,412,295 | |
@115.32 | @138.45 | @23.13 | |||
其ノ他 | 2,003 | 334,820 | 444,650 | △ 109,830 | |
@167.16 | @221.99 | @54.83 | |||
計 | 256,947 | 45,307,828 | 53,519,680 | △ 8,211,852 | |
@176.33 | @208.29 | @31.96 | |||
差 引 損 益 | 17,231,428 |
昭和38年上期
荷主別 | 輸送屯数 | 通算制 実績運賃 |
併算制 推定運賃 |
損 益 | |
屯 | 円 | 円 | |||
大夕張砿業所 支払運賃 |
297,415 | 201,687,300 | 239,747,590 | 38,060,290 | |
@687.13 | @806,10 | @127,97 | |||
大 夕 張 鉄 道 収 入 |
三 菱 | 297,415 | 65,258,830 | 73,868,590 | △ 8,309,760 |
@219.42 | @247.36 | @27.94 | |||
北 夕 | 44,826 | 4,645,937 | 6,206,160 | △ 1,560,223 | |
@103.64 | @138.45 | @34.81 | |||
北 菱 | 79,619 | 9,196,503 | 11,023,260 | △ 1,826,757 | |
@115.51 | @138.45 | @22.94 | |||
其ノ他 | 1,290 | 215,011 | 300,870 | △ 85,859 | |
@166.68 | @233.23 | @66.55 | |||
計 | 423,150 | 79,316,281 | 91,098,880 | △ 11,782,599 | |
@187.44 | @215.29 | @27.85 | |||
差 引 損 益 | 26,277,691 |
10、 芦別と蒸気機関車交換
昭和37年5月 芦別炭砿の山勢(昭和39年4月閉山豫定)に即応するため、
三菱芦別専用鉄道の9600形式蒸気機関車2両の融通につき社内協議の結果、
大夕張鉄道に於ける輸送力の増強を図る目的をもって9200形式蒸気機関車
2両と交換のことゝし、昭和37年9月より翌昭和38年1月に亘り両機の交換を
完了せり。
昭和37年 9月26日 9237号芦別専用鉄道に譲渡
昭和37年10月11日 9603号芦別専用鉄道より譲受
昭和38年 1月23日 9201号芦別専用鉄道に譲渡
昭和38年 1月30日 9613号芦別専用鉄道より譲受
直ちに譲渡を受けし9603号を9606号と、9613号を9607号と番号を改む。
第8章 二股ダム建設に伴う鉄道移設補償工事
1、 二股ダムの建設
昭和27年、北海道開発局の手により、空知4ヶ町村(由仁、栗山、栗沢
及び長沼)の既成水田7720haの完全補水と4145haの新規開田並びに年間
6650万Kw/hの発電を目的とし多目的ダムの建設に着手。昭和35年12月
湛水及び発電を開始する迄の8ヶ年に亘り総工費60億円をもって二股ダムの
一大工事を完了せり。
第1年目の昭和27年には測量等着工前野町差を開始、昭和28、9年の2年間は
仮放水路のトンネル工事にかゝり、昭和30年からは営林署森林軌道及び三菱
大夕張鉄道の移設補償並びに桜ヶ丘等水没農家の補償の接渉を開始、
31年に至りダム建設の本格的工事に着手。水路仮締切を終え直ちにえん堤
本体下部掘削工事を昭和33年迄続け、もどって昭和32年にはコンクリート
ミキサー及びクレーン等の機械設備を設置。更に清水沢・大夕張間開発道路
工事と併行して三菱大夕張鉄道の移設工事を開始、昭和34年に至り本えん堤
コンクリート打設工事を開始すると共に道と三菱共同出資による二股発電所の
工事に着手、昭和35年秋本えん堤打設を完了、12月3日午前8時を期して湛水を
開始、22日に至り二股発電所の運転を開始せり。子の間しようせるセメント
4万3千屯、鋼材800屯、延150万人を要せり。
その後昭和36年、えん堤上部高欄の取付とえん堤仕上工事及び設備機械の
撤去を完了せり。
この間に要せる工事費は補償費15億円、えん堤工事費30億円、二股発電所
15億円、計60億円を要せり。
2、 鉄道移設補償工事
(1) 概 論
本工事は二股ダム建設に伴う三菱大夕張鉄道移設工事と清水沢・大夕張間
開発道路工事と相伴って行われ、昭和32年5月7日新青葉隧道の掘削工事に
始まり、昭和37年10月、9粁300米付近擁壁を最終とし、6ヶ年に亘り全工事を
完了。川岸に清水沢・大夕張開発道路を介し、夕張岳の秀峰を背景とする
道立自然公園シューパロ湖を東側に配し、南大夕張・明石町間6粁の様相を
一変せり。
(2) 青葉隧道
昭和32年、旧青葉峠落石覆及び鶯沢橋梁を廃止し、440米の新青葉隧道を
建設すべく、4月26日開発局との協定成立、5月7日より大成建設をして工事着工、
12月10日工事完成新線に切換え11日初列車より運転を開始せり。
新青葉隧道 起点 8K548M242
終点 8K991M758
延長 443M516
(略直線なるも、南大夕張側、11mのみR=240mの
曲線あり)
旧青葉峠落石覆より山側に最大120米入る。
隧道の規格は、開発局第2号型を主張するも当方第1型を
主張。結局は差額当方負担とし第1号型とせり。
工事費 第1号型 106,000千円
第2号型 102,500千円
差額 3,500千円
旧青葉峠落石覆
昭和5年に設置し昭和10年増設せる延長97米42
昭和32年12月11日より廃止するも、道路として利用する
には幅員狭隘のため、昭和36年12月4日より新藤建設をして
爆破取りこわし、ダムの浸水で崩壊せる吉野沢付近の埋立に
使用せり。
鶯沢橋梁
昭和3年4月、横河橋梁をして建設の本橋梁も撤去、旧青葉
隧道落石覆と共に30年間に亘る当鉄道の使用を終えり。
(3) 9粁300付近
9粁300米付近線路は盛土上にあり、ダム湛水により法面崩壊の虞あり。
線路を山側に9米移設のことゝし、昭和36年3月新藤建設をして22、740立米の
岩盤切土工事を行い、高さ3米延長500米に及ぶコンクリート及び石垣擁壁を
設置、昭和36年4月9日線路の移設を行い一応工事を完了せしも、落石土砂崩壊が
続き、やむなく昭和37年4月18日再び線路を旧道床に移設、7月山側75度の急傾斜
の盤面既設擁壁の上部に、更に高さ20米、延長195米に及ぶコンクリート壁を
設置すると共に、9粁228米地点に延長25米の落石覆を新設、昭和37年10月
工事完成、再度線路移設を完了せり。
(4) 10粁700付近
当地点は内部岩質不良にして表土地巡りし川側に移動するため、法面崩壊の虞あり。
昭和33年より付近の測量及び地質調査を行い山側を切土し、線路を最大15米移設
することゝし昭和34年1月1日北宝建設に落札。昭和35年1月15日着工、三菱芦別専用鉄道より
セ号車6両を借受け、100.800立米の切土を輸送して五十鈴沢の埋立に使用、
11月5日完成線路の切換を行えリ。
セ号車 形式セ1 荷重12.6屯 容量14.01立米
(5) 吉野沢
11粁300米付近は盛土上にあり、湛水による法面崩壊の虞あるため山側に
約50米移設、吉野沢橋梁を撤去、更に11粁295米より175米の吉野沢隧道を
新設することゝし、昭和34年より地質調査を開始、同年11月藤田組に落札、
昭和35年1月15日より着工、同年12月7日完成線路移設を完了せり。
尚吉野沢橋梁は12月10日より30日に至り井出組をして撤去完了せり。
吉野沢隧道 起点11K295M 終点11K470M
延長 175Mの曲線隧道
隧道の規格は青葉隧道と同様1号型とせり。
(6) 五十鈴沢 〃
五十鈴沢橋梁は湛水にり橋脚の一部浸水するため、橋梁を廃止し盛土暗渠
とすることゝし、昭和34年11月21日岩倉組をして着工、昭和35年10月完成。
11月5日軌道施設工業をして新線敷設翌6日より運転を開始せり。
なお橋梁は北宝建設及び井出組をして撤去せり。
(7) 香椎沢
12粁200米付近線路は盛土上にあり、法面が湛水侵蝕により滑動流出の虞あり。
更に12米566米地点にある香椎沢橋梁橋脚の一部が浸水するため山側に約20米
移設し盛土暗渠とすべく、昭和34年6月北宝建設に指定入札、7月着工、11月10日
完成、翌11日には大夕張産業及び井出組をして新線切換完了。北宝建設をして
橋梁の解体を行えり。
(8) 南部開発岐線
南大夕張駅構内にダム本体えん堤工事資材取卸しの目的をもって昭和33年11月、
803米の開発岐線を設置。昭和37年5月ダム工事完了に伴い撤去する迄4ヶ年に亘り
使用せり。
この間ダム本体工事資材のセメント4万3千屯、鋼材800屯をはじめとし、
移設工事資材等輸送のため、昭和34年35年の2ヶ年に亘り美唄鉄道より9615号
蒸気機関車を借受け使用せり。
3、 観 光
(1) 夕張観光株式会社
昭和35年秋二股ダム完成。12月3日湛水を開始してより一大人造湖を形成、
夕張岳を背景とし一躍観光地として脚光を浴び、夕張市及び夕張観光株式会社
により二股ダム付近一帯の公園化計画が推進された。
昭和36年9月25日、夕張観光株式会社発起人会が開かれ、三菱大夕張鉱業を
総代とし、11月25日には設立総会を開催。27日には登記手続を終了、
資本金300万円をもって正式発足せり。
役員 常務取締役 豊田 豊種
取 締 役 中島 政雄、簗詰 弥彦、成田 茂、小川 重一
監 査 役 徳間 貢、岡村 亀吉
昭和36年12月22日にはダム呼称選考委員会により湖名を「シューパロ湖」と
決定、昭和37年2月10日には富良野・芦別道立自然公園として指定され、
6月10日に入り観光会社は湖畔に湖畔亭を開業、ボート数十隻を配し、
鯉、桜鱒、ワカサギ等の魚卵及び稚魚を放流して釣場とし、夏季に至り
水上スキー、ボートレース等を開催、一大観光地として躍進せり。
三菱大夕張鉄道に於ても観光客の利便と併せて増収策を図り、湖畔亭の開業に
先立って6月1日より社起点10粁030米にシューパロ湖駅を新設、社内線の取扱を
開始せり。
(2) シューパロ湖駅
昭和37年2月17日付夕鉄第25号をもって本店経営と共に3月15日付をもって
起業申立て、昭和37年5月18日付夕鉄第76号をもって運輸大臣宛シューパロ湖駅
新設の実施届を提出。昭和37年6月1日より営業を開始社内線旅客の取扱を
実施せり。
位置 社起点 10粁030米
規模 駅舎 48.6平方米
乗降場 長さ 80米 幅 3米×28米
工賃 1,618千円 2米×52米
駅名 岩間所長命名 シューパロ湖駅
昭和38年5月21日付夕鉄第78号をもって、国鉄北海道支社長宛、旅客一時限り
連絡運輸の取扱を申請、6月5日付北支営第93号により承認を得6月10日から
10月31日迄の連絡運輸の取扱いを実施せり。
連絡運輸区域、設備乗車券の株式及び営業成績次の通り
表 1―8―3―(2)参照
(3) 観光案内
道立公園 シューパロ湖
シューパロ湖
湖面周囲 35粁
流域面積 433平方粁
満水面積 475平方粁
昭和37年2月10日 富良野・芦別道立公園として指定を受く。
二股ダム
堤高 67.5米 総貯水量 8,730万立方米
堤長 258米 有効貯水量 6,937万屯
海抜 264.5米 堤体積 19万1千立方米
総工費 30億円 湖畔亭より下流約1粁
昭和27年着工〜昭和35年秋完成
昭和35年12月3日 湛水開始
二股発電所
年間発生電力 6,650KwH
出力 14,700Kw
道と三菱の共同出資により昭和35年完成
昭和35年12月22日より運転開始
総工費 15億円
三弦橋
長さ 381米
高さ 70米
営林署森林軌道の橋梁
夕張岳
標高 1668米
明石町駅よりヒュッテまで16.8粁
ヒュッテより山頂まで 9.3粁
全區間距離 26.1粁
夕張小桜等の高山植物140余種群生す。
白銀橋(しろがね橋)
二股ダム補償工事として鹿島開拓地交通の目的をもって
昭和34年架橋。当時開拓橋と称せるも昭和36年3月白銀橋と改称せり。
大夕張えん堤管理事務所
昭和36年8月着工
昭和37年5月落成
道路開通記念碑
昭和37年10月6日、鹿島道路の開通を記念して建立
暗緑色の砂岩で夕張岳を模した台石上に、奥鹿島の山中より産出せる
幅1.3米、高さ2.3米、厚さ0.8米の紅れん岩の中央に、
三菱大夕張鉱業所 岩間所長の筆による「道路開通記念碑」の
文字が刻まれ、全重量4屯に達する。
位置 湖畔亭横 シューパロ湖岸