フェースブック「六櫻社」開設しました




ダイヤモンドと炭とが同じ炭素であるように、銀もその粒子の状態によって銀色、灰色、黒色、黄色などに変化する。銀自体は感光性がないが、ハロゲン化銀は感光性が強く、感光すると黒化銀が生成する。長時間光にあたると変色したり変質する物質は多くあるが、写真の感光材として用いるため には短時間で作用するものでなければならない。ハロゲン化銀(塩化銀、ヨウ化銀、臭化銀)は写真の感光材として最適であり臭化銀は特に感光性が強い。
  
硝酸銀
無色板状の結晶をした化合物。日光に当たると銀が遊離、黒変し有機物を加えるか紙等に塗り日光に当てるとさらに速く黒くなる。シュルツなどにより感光物質として研究されたが、ニエプスとダゲールが写真術を発明してからは、硝酸銀自体は写真の感光材として用いられず、塩化銀、ヨウ化銀、臭化銀などを製する原料として扱われるようになる。

銀を硝酸の中に投入すると、沸々泡を発して分解する。この溶液を煮詰めると硝酸銀の結晶を得る。硝酸銀は水によく溶ける。硝酸銀液をもって紙片を潤しこれを乾かして日光に曝すと直ちに黒色に変じる。有名なる陶磁器製造人の子ウェッジウッド氏と化学者デビー氏は1802年初めてこの仕事に従事する。硝酸銀を塗った紙片の上に植物の葉など平たい物を置き、黒色の地に白く葉の形をつくった。ウェッジウッド氏は此方法により硝子板を黒色に塗り書画を線で掻き取り、裏に硝酸銀を布いた紙片を置き日光に曝して書画を黒く写しとった。しかし光線に曝せば白色のところも忽ち黒色となってしまい、当時如何に工夫をめぐらすもこれを永く定着することはできなかった。ウェッジウッド氏とデビー氏との工夫はただ平たきものに限りこれを写し取るものであったが、ウェッジウッド氏自身も立体の影を平らに写し得る工夫を考えレンズの付いたカメラオブスキュラをを用いてこの目的を遂げようと試みた。ウェッジウッド氏とデビー氏は一種の銀塩を塗布した紙片を用いて立体像を写しとろうと数時間曝露し置くがその像は朦朧として認め難く、これ感光紙の力弱きにより、ニセフォールニエプスの土瀝青を用いた写真の発明を待つ処となる。

                                              (参照   明治26年 「光線並写真化学」ヘルマン・フォゲル著,小川一真訳,石川巌閲)

   
         
ハロゲン化銀

塩化銀
硝酸銀溶液に食塩を加えると白色の塩化銀が沈殿する。塩化銀は弱い光線では変色がゆるいが、日光に当てると主に紫外線の作用で塩素が半量遊離し次塩化銀となり紫色に変化する。長く日光にあたると次塩化銀の一部は分解して銀と塩酸になり次第に黒化するが、有機物を加えるか紙等に塗って日光に当てると速やかに分解が進み黒くなる塩化銀においてはひとたび遊離した塩素は再び本体の塩化銀に付着しないので、塩化銀中の塩素は直接に感光することを得てすぐに変色する。この変化は可逆的に行われ、変化した塩化銀でも暗所に置くと次第に元に還る(白色にもどる)。P.O.P 、ガスライト紙は塩化銀をゼラチンと混合して紙に塗った印画紙であるが、塩化銀が光に当たり遊離した塩素を吸収するものが存在しているため、暗所に置いても像は消えない。

ヨウ化銀
硝酸銀溶液にヨウ化カリウムを加えると黄色のヨウ化銀が沈殿する。ヨウ化銀を光に当てると若干のヨウ素を分離し次ヨウ化銀(緑色)となるが、ヨウ化銀は分離したヨウ素をよく回収するので本体のヨウ化銀に付着したヨウ素がその下にあるヨウ化銀をおおって光に感じて変色することを妨げなかなか濃暗を帯びないが長く日光に当てておくとやや褐色に変化する。可逆的変化は塩化銀より一層顕著で、ヨウ化銀を含む印画紙や低速度の乾板は露光してから暗所に置くとはやく潜像が衰える。定着はハイポーよりも青化カリが迅速である。
  
臭化銀
硝酸銀溶液に臭化カリウムまたは臭化アンモニュームのような臭化物を加えると淡黄色の臭化銀が沈殿する。臭化銀(淡黄色)は光線の作用によりで臭素が半量遊離し次臭化銀(帯黄灰色)となる。臭化銀の感光速度はヨウ化銀よりは速いが、塩化銀ほどでない。臭化銀の感光作用はヨウ化銀がヨウ素を吸収するほどの力はないが、塩化銀が塩素を復旧する力よりさらに大であり臭化銀の感光力はヨウ化銀より弱く塩化銀より強い。臭化銀はその化合の量と操作の如何によって、種々の変色を呈する。(臭化銀の変化の有様)

臭化銀を用いてゼラチン乳剤とした場合に感光性が極めて速くなり、改良を経た乾板・フイルムは臭化銀を感光主剤とする。多少の可逆反応性はあるが、撮影済みの乾板・フイルムを暗箱内にそのままにしても潜像がすぐには失われない。


                                                                                (昭和11年 アルス写真講座 実用写真化学より参照引用)
  

                                                                                                                                       

「写真」は長時間の露光によって感光板(紙)が光線によって変色し顕像(陰画)するのが道理であるが、曝露時間を定め諧調ある鮮明な画を得ることは実際は困難なしごとである。「現像」が写真の必須である。


物理現像法
ダゲレオタイプ、コロジオン法(湿板写真)などの現像法。潜像が物理的吸着作用を有することを利用したもの。感光膜の表面に画像ができるので、擦れると剥離し画像が消えてしまう。 塩化銀、ヨウ化銀、臭化銀を用いて湿板写真(コロジオン法)を撮り物理現像をしないで像を顕すためには極めて長い露光時間を要す。物理現像をするのであれば、あらかじめ露光時間を長くしないですむ。塩化銀、ヨウ化銀(銀板写真に於いては水銀蒸気をあててアマルガムをつくり顕像。湿板写真においては沒食子酸、硫酸第一鉄により沈殿した銀を吸着し顕像)、臭化銀を用いて写真を撮り物理現像をするとヨウ化銀がもっとも鮮明な画となり、次に臭化銀であり、塩化銀はそれほど明瞭でない。光線のために最も変色しないヨウ化銀が物理現像液によってはもっとも強く顕像される。

化学現像法 
ハロゲン化銀に光があたるとその結晶内の一部がに還元される(現像核)。この状態では像が目に見えない(潜像)。現像剤によって現像処理をおこなうと、現像核をもつハロゲン化銀は全て還元されて銀となる。光が当たらず現像核を含まないハロゲン化銀の結晶は定着処理でのぞく。 画像の濃淡(諧調)は銀の集まる密度による。薄い感光膜であっても銀粒子は層をなし、密集した状態は黒色の点と見える (ルーペで黒い粒として見えるものは銀の粒子が密集した状態である)。



写真術には直接陽画をつくる方法とはじめに陰画である種板をつくり焼付けて陽画である印画をつくる方法がある。

 直接に陽画を得る方法

銀板写真 ダゲレオタイプ。被写体の明るい部分がアマルガムで明るく、暗い部分が銀で暗く見える。


湿板(wet plate) 生撮りで硝子原板そのままを見たり(ヨウ化銀コロジオンをごく薄く塗り撮影した湿板写真(陰画)は硝子板の裏側に黒布をあて斜めに見ると陽画として見えるので撮影後すぐに現像し客に渡した)。湿板は明治5年頃から流行し、乾板が用いられるようになっても明治末頃まで簡易な写場で生撮りが行われた。


 陰画をつくり、焼付けて陽画をつくる方法

陰画をつくる方法
 
紙取法(カロタイプ) 「紙に食塩水に浸し乾かして硝酸銀液中に入れ以って従来ウェッジウッド氏が用いたるものよりは更に光線に感じ易き紙(塩化銀紙)を製し得たり。タルボット氏はこの紙を樹木の葉を写すに用いたが、この画は紙面になお銀塩を保ち光線に感じ易きがために永く保存すること難しかりしが氏は熱き食塩水の中にこれを浸して銀塩の多分を除き去りたれば大抵の光線を受くるも黒色に変じることなかりき(定着に用いるチオ硫酸ナトリウムは当時極めて高価)。ウェッジウッド氏がその効を奏すること能はざりしところの変色せざる紙写真を製することを得たりしが此方法を以っては植物の葉とか織物の見本の如き平面の物に限り容易に紙上に写し取ることを得るのみこの手術は一時中絶せる姿なりしが近来再び世に出て植物の花葉等の麗しき飾り模様などを製せるに以前になき所の善き紙を用いしが故にタルボット氏の製したりしものよりは更に精美の見本を製し此種の紙を樹葉複写紙と称し世上に販売することとなり。」      (明治26年 「光線並写真化学」ヘルマン・フォゲル著,小川一真訳,石川巌閲  より引用・加筆)

1834年より光による印画を研究していた(英)フォックス・タルボット氏は塩化銀紙を用いた上記の紙取り法(陰画)を発明し1841年にヨウ化銀感光紙を用いて陰画の写真を撮影したのち塩化銀感光紙を用いて日光で焼付け陽画を得る紙取写真法(カロタイプ)を発表する。紙を硝酸銀溶液に浸して乾かしてからヨウ化カリウム溶液に2,3分浸すと弱度の感光紙(ヨウ化銀紙)ができる。このヨウ化銀紙を硝酸銀と沒食子酸の混和液に浸して感光力を強めすぐに暗箱で露光するとヨウ化銀の光に当たったところが還元され一部が銀となり潜像を形成する。これだけでは画像はほとんど見えないが、暗室でしばらく時間をおくか、あらためて硝酸銀と沒食子酸の混和液に浸すと析出した銀を潜像が吸着して像が見えるようになる(物理現像)。これを臭化カリウム液で定着する。この写真は陰画となるが、これにパラフィンを布いて半透明(故に透光した画は鮮明とならない)にして塩化銀紙と重ね合わせ焼き付けると陽画が出来て何枚もつくれる。のちにヨウ化銀に臭化銀を加えて感光性をはやめ、現像前に硝酸銀と沒食子酸の混和液に浸さないで現像液として硫酸鉄や焦性沒食子酸を用いる方が沒食子酸よりも強力に作用することが知られ改良された。定着剤もタルボットははじめ臭化カリウム液を用いたがやがてハーシェルの発見したチオ硫酸ナトリウム(明治時代の写真術の記述はチオ硫酸ナトリウムを指して次亜硫酸曹達としている)による定着法をおこなう。 

タルボットの初期の紙取法は紙(ヨウ化銀感光紙)が粗でありその陰画が朦朧となり、さらに塩化銀感光紙に透光して転写すると白地のなかの固まりが黒い斑として転写され鮮明さに欠けた。間もなく均質な透光性の紙に改良されるがやはり銀板写真に劣るものであった。しかし銀板写真とちがい紙ネガの透光性を利用し複写ができる利点によりカロタイプは発展する。写真の原板として紙を用いるかわりに硝子板を使用し鮮明な画像を得る研究をしたのはニセフォール・ニエプスの甥ビクトル・ニエプスである。ビクトル・ニエプスは卵白を用いた。卵白とヨウ化カリウムの混合液を硝子板に布き乾かし、硝酸銀溶液に浸すと感高力が強い黄色の蛋白膜のヨウ化銀感光板が出来る。このガラス感光板を暗箱に装し撮影したのち没食子酸の液中に浸すと画像が現われる。この原板をタルボットの陽画法と同じく、良質の感光紙と重ね合わせ光線に曝露し鮮明な陽画を作る。そして(仏)グレーはヨウ化カリウムに臭化カリウムと食塩を少量加え卵白に混合してガラス板に塗り乾燥させてから酢酸を加えた硝酸銀液に浸して感光性を与え撮影のあと没食子酸で現像することを試みビクトル・ニエプスの方法を改良する。卵白液は腐敗しやすく硝酸銀と没食子酸は取り扱いがやっかいであり銀板写真法に手馴れた人に嫌われたが銀板写真には1枚製作の不便があったことから次第に普及しダゲールの銀板写真に比して精良な画が世人の認めるところとなっていく。そして蛋白質が腐敗し易い欠点を免れるコロジオンの使用(湿板法)が写真術を大きく変えることとなる。


1839年
タルボット
ヨウ化銀紙のネガ→塩化銀紙の印画(カロタイプ)
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ビクトル・ニエプス
卵白を乳剤としヨウ化銀ガラスネガ→塩化銀紙の印画
1847年
卵白を乳剤としヨウ化銀ガラスネガ→鶏卵紙の印画     
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1850年
タルボットは初めて鶏卵紙をつくる

1851年
アーチャー
コロジオンを乳剤としヨウ化銀ガラスネガ(湿板法) →鶏卵紙の印画


湿板 1845年シェーンバインが発明した綿火薬の爆発性の弱い種類をアルコールとエーテルで溶解するとコロジオンとなることが1847年発明された(傷薬に供された)。ガラス板の被膜を布くのに腐敗し易い鶏卵の蛋白を用いずにコロジオン液を用いる方がよいと多くの実験写真家は考えたが、1849年(仏)グレーは初めてコロジオンを写真術(写真原板)に応用する。グレーはコロジオンの使用を説き、実際にこれを用い成功したのは(英)スコット・アーチャーであり1851年に湿板法が発明される。 1853年からコロジオンを用いた湿板法によるガラス原画をもとにした鶏卵紙の写真が広まりその写真は世に賞玩されるに至り、銀板写真の需要は減少し米国における二三の場所を除くのほか全く其の製造を絶つこととなる。当時の湿板写真は小型の密着焼付けであり、多量に転写焼付けし名刺がわりに配布することが流行した。

1851年(英)スコット・アーチャーが発明したコロジオンプロセス。
綿80ゲレン(1ゲレンは0.065g)を硝酸と硫酸(1:3)の混合液1オンス(28cc)に浸し15秒後に取り出し水洗し乾燥すると綿火薬が出来る(綿火薬はニトロセルロース、硝化綿のこと。1846年発見されエーテル、アルコールの混合液に溶解する。綿火薬に樟脳を加えるとセルロイドとなり後年フイルムのベースとして用いられた)。綿火薬を硫酸エーテルとアルコール(1:1)で溶解するとコロジオン(1848年発見、傷薬に用いる)が出来る。ガラス板をヨウ化カリウムなどの沃化物を溶解したコロジオン液に浸して余分のコロジオンをおとすと2、3分で寒天状に薄膜をなして固まるので暗室で1分間硝酸銀液(水1オンスにつき硝酸銀30ゲレン)に浸す。コロジオン膜の孔質中には脂肪の如く硝酸銀液の水分を退け硝酸銀がとりこまれ感光板=湿板となる。すぐに取枠に入れ暗箱に収めて撮影する。水1オンスにつき沒食子酸3ゲレン、醋酸(沒食子酸の還元力を抑えて潜像以外の点に黒化銀が吸着されるのを防ぐ)1ドラム(3.5cc)を混和した現像液で現像する。硝酸銀液の少量は常に膜上に付着しているので現像液をそそぎかけるときは銀の沈殿を生じるが銀は輝く銀粒を生じるほどでなく灰白色の粉状として沈殿し、光線の作用を受けたヨウ化銀の潜像にこの銀が吸着され目に見える像が現れる。湿板写真の現像法はダゲレオタイプと同様に潜像が物理的吸着性をもつことを利用した現像法である。感光したヨウ化銀の潜像は現像液(沒食子酸)によって変化しないが湿板の膜に含まれた硝酸銀に現像液(沒食子酸)がふれると銀が遊離し、析出した銀を潜像が吸着して像が見えるようになる(のちに現像液として硫酸第1鉄を用いる方が沒食子酸よりも強力に作用することが知られた)。そしてチオ硫酸ナトリウム(ハイポ)で定着する(余分なヨウ化銀を溶かし去る)。この画は通例透明に過ぎて紙写真に転写するには適さず、硫酸第一鉄と硝酸銀の混和液を板に注ぎかけ銀の肉乗りをうながす。湿板を原板として複数の陽画を得るための印画紙としては鶏卵紙が用いられ紙写真法によって印画をつくった。湿板法のガラス原画から紙製の印画を得れば、タルボット氏の紙写真法(カロタイプ)の紙製原画からの印画より鮮麗なものとなる(1847年ビクトル・ニエプス氏が写真用紙に鶏卵の蛋白を塗布して改良を加え紙面に光沢を与えその印画の黒色を際立たせた)

ヨウ化銀の感光板はのちにヨウ臭化銀の感光板(コロジオンにヨウ化カリウムと少量の臭化カリウムを加えてガラスに注ぎ凝結させる)に改良される。ヨウ化銀は特に強い光線に感じやすく、ヨウ化銀板で肖像写真を撮り物理現像すると顔は数秒で鮮明に現れて、黒い上着は朦朧としていまだ像が現れない不都合が生じる。臭化銀をあわせることによりこれを解消できる。

湿板は撮影し現像、定着する操作を板が濡れている間に行わねばならない、そのため暗い場所での撮影など長い露出時間をかけられない(コロジオンの膜が乾いて固くなると現像液や定着液を透さない)。また野外の撮影には暗室(テント)器材、薬剤一式を運ぶ必要があるが、膜質が緻密、粒状性も微細で、減力・補力が自由に出来る長所がある。湿板法はダゲレオタイプ、カロタイプにとってかわったが、しばらくして乾板が発明される。日本へは安政年間(1857年)に湿板が渡来。生撮りで硝子原板そのままを見たり(ヨウ化銀コロジオンをごく薄く塗り撮影した湿板写真(陰画)は硝子板の裏側に黒布をあて斜めに見ると陽画として見えるので撮影後すぐに現像し客に渡した)、種板を日光で鶏卵紙に焼付けて写真としたりした。湿板は明治5年頃から流行し、乾板が用いられるようになっても明治末頃まで簡易な写場で生撮りが行われた。


硫酸第一鉄(緑礬)を用いた現像
「普通に行われる方法は先ずガラス板を清浄にし卵白を下引きしこれにヨウ化カドミウム、臭化カドミウム及びヨウ化アンモニウムを混合したコロジオンのアルコール・エーテル液をガラス板に注ぎ、板を動かして一様の厚さに広がらせる。するとアルコール・エーテル液は蒸発してガラス板上に薄いコロジオン膜がつくられる。次にこれを硝酸銀液中に浸すと、膜中にヨウ化銀、臭化銀が生じる。この方法はタルボットの方法のように厚さや組織の不同に基因する欠点がなく、準備と現像に多くの時間を要さない。現像には硫酸第一鉄が用いられる。飽和した硫酸第一鉄 10、酢酸 4、水 70に少しアルコールを加えた現像液を撮影した感光板に注ぎ、現像後青化加里液に浸して定着してから水洗し、さらに塩化アンモニム 1、水 40の液に昇汞 1を加えたものに浸し漂白したあと水で洗い、アンモニア水を注ぎ全面を黒変させる。これを水洗し最後に水假漆を塗り乾燥させる。湿板から乾板に時代は移り変わっても、ヌケがよく廉価な湿板は複写や製版に使い続けられ硫酸第一鉄の現像液も永く使用されている。」

緑礬(硫酸鉄 FeSO4・7H2O)は湿板法の現像液として用いられる。この緑礬を硝酸銀液と混合すると銀が細微の粉末となりて沈殿する。酸素を吸収しやすい緑礬(硫酸)を酸素を含む硝酸銀と混合すると直に酸素を引きつけ銀が遊離する。没食酸なども同一の作用をする。従来、緑礬(硫酸鉄)は光線に触れたヨウ化銀を還元すると考えられていたがこれは誤りである。濡板を曝露した後これに付着している硝酸銀を洗い 落とすと、現像液である緑礬を注いでも画は現れない。緑礬はヨウ化銀に作用を及ぼさない。硝酸銀が在れば画が現れる。濡板に付着している硝酸銀液は大事な意味があり、曝露する前に硝酸銀を洗い落としても感光力がきわめて弱くなる。ヨウ化銀の感光力は硝酸銀の助けにより増大する。このほかコーヒー、茶、タンニンの汁液などヨウ素と化合しやすいものはヨウ化銀の感光力を増しタンニンの汁液などを用いて乾板を製することが出来る。単に硝酸銀溶液に浸けた濡板が乾くとヨウ化銀を分解して板に蝕入するため濡れているうちに曝露し現像する必要があるが、保存できる湿板(すなわち乾板)は湿板に着附した硝酸銀を洗い落としタンニンのようなヨウ素に化合しやすいものの液で板を蔽って製することができ、その被膜はヨウ化銀の薄膜を損傷することなく乾燥させられ、永く保存することができる(この乾板の感光力は湿板の感光力に遠く及ばない)。 この乾板の現像には通例没食酸を用いる。没食酸は硝酸銀液より銀を沈殿させるが没食酸だけでは乾板面に画を現わすことはできない。硝酸銀液は板が濡れているときに限り板面に存す、乾板にあってはいちど硝酸銀を洗い落としているので没食酸に硝酸銀を加えた混合液を現像液とする。沈殿した銀は板の曝露された部分に付着して画が現れる(この乾板の映像は湿板ほど美しくない)。


乾板 ---コロジオン乾板---
コロジオン湿板は湿潤しているうちに使用しなければならない不便があるためコロジオン乾板が研究される。1854年、(仏)ゴーダンは5月に、(英)ムアヘッドは8月に乾板の製作及び効果について発表し、これを1855年、トーぺノは実行した。トーぺノの方法はコロジオン乳剤をガラス板に塗り乾燥させてから、酢酸を加えた硝酸銀溶液に浸してまた乾燥させるものである。1864年ボルトンとサイスは臭化銀を含有するコロジオン(コロジオブロマイド乳剤)をガラス板に流して乾燥する方法を創め、その後この製作法は改良されたがゼラチン乾板が生まれるとすたれた。

最初の市販の乾板は(英)ノーリスが販売したコロジオン乾板である。

---ゼラチン乾板---
1871年(英)マドックスは乳剤にゼラチンを用いることを考案した。臭素をコロジオンで溶かし硝酸銀と合わせると臭化銀ができこれをゼラチンと混合しガラス板に塗り感光板とする。乾かしても現像液、定着液に浸せばよく染み込む。しかしその製法は不完全なものであった。1873年べンネットは保存ができる乾燥状態の臭化銀ゼラチン乳剤を創製して特許を得、実用に供せる乾板製作法を公にした。

1874年、ベルギーの化学者スタスは長時間臭化銀および塩化銀を温めると分子変化がおきることを観察したが、ベンネットはこれを写真術に応用した。1878年ベンネットは種々の実験の結果ゼラチン乳剤を7日間32度で温めると感光性が増すことを発見し速写乾板が製造できるようになる。1879年8月モンクホーヘンは乳剤に少量のアンモニアを加えると著しく感光性を増すことを発見し、アンモニヤを添加する成熟法を発明した。その方法は強アンモニアを加えた硝酸銀液を臭化かリウム、ヨウ化カリウムを含むゼラチン液に加えるものである。1879年ウォースレーはベンネットの温暖法において65℃にすると数時間で充分であることを発見し、マンスフィールドは乳剤を沸騰させるとさらに早く製し得ることを発見した。しかし沸騰させる方法はアンモニア法に較べて感光性少なくかつ良好な成績を得なかった。

種板を自製し、野外撮影には写真薬品を持ち歩かなければならなかった湿板写真の時代、明治14年に長崎の上野彦馬は、たまたま寄航したロシアの船長から5箱の乾板を入手した。上野彦馬はこれを契機に湿板より取り扱いが簡便で感度もすぐれている乾板の研究にとりかかった。明治15年頃から乾板が輸入される。1894(明治27年)頃は(英)マリオン会社の乾板などが輸入された。明治35年頃 は(英)ブリタニア社(のちにイルフォード社)のイルフォードやアライアンス乾板、とくにイルフォード赤札は圧倒的な人気であった。そして整色性の乾板が現れはじめたが、取り扱いに慣れていないためもあって、依然イルフォード赤札、アライアンス赤札、ライオン赤札などのオルソ乾板がよく売れていた。小西本店は六櫻社を建設し、明治38年 さくら乾板を発売するが明治40年までで六櫻社の乾板製造はいったん終わった。


ヘリオグラフィー 石板、錫板 1829年 ニエプス 感光時間6時間
ダゲレオタイプ  銀板 1839年 ダゲール 30分
カロタイプ   1841年 タルボット  3分
湿板 硝子板 1851年 アーチャー 10秒
コロジオン乾板 1855年 トーベノ 15秒
ゼラチン乾板 1878年 マドックス  1秒




                                                                                                                                       
焼付けて陽画である印画をつくる方法

塩化銀法(焼出印画紙)
食塩紙 原始的な印画紙。澱粉と食塩との混合液を紙に塗り乾燥させたもの。使用するとき硝酸銀溶液に浸して紙の表面に塩化銀をつくり乾燥させる。この感光紙を種板(陰画)と重ね日光で焼付ると陽画が現れてくる。これを鍍金、定着する。これによる印画は鮮明さに欠けるが、水彩絵具で彩色を施すことができる。写真術の最初期にはカメラオブスキュラの感光紙として用いられたが、撮影された陰画は定着法が発明されていなかったのでしばらくで像が消えた。


紙取法(カロタイプ)
上記のとおり


鶏卵紙 湿板写真法の発明(1851年)と前後して鶏卵紙が生まれる。食塩紙の写真が鮮明さに欠けるため次に鶏卵紙が考え出された。良質の紙に卵白と塩化アンモニウムの水溶液(または食塩)を塗り乾燥させ取り扱いごとに硝酸銀溶液に浸し乾かす。硝酸銀は鶏卵紙中に含まれた塩素と結びつき塩化銀ができる。湿気を帯びたその紙は感光性が弱いが、乾かすと充分な感光性を具える。この鶏卵の蛋白が塗られた紙(鶏卵紙)には塩化銀と硝酸銀が含有されている。(その寿命は2、3日のため自家製造であったが、その後寿命が改良された製品が販売され、乾板の時代となってもアリスト紙とともに用いられた)。この鶏卵紙の上に種板を重ね日光で焼き付ける。
塩化銀 + 光線 →次塩化銀 + 塩素
塩素が遊離し感光膜中の硝酸銀(焼出印画紙の特徴として感光膜中に余分の硝酸銀を含ませる )と作用する。
硝酸銀 + 塩素 + 製膜質 → 塩化銀 + 製膜質の硝化物
この変化は平衡状態に達しないで次第に進み、塩素を含む割合は極めて少なくなり黒化銀に還元されて画像が濃くなってくる(物理現像)。焼付けられた画像は銀と次塩化銀によって形成された不安定な状態であり、この印画はそのままでは光の作用で全てが黒くなるので、長く保存するためには含まれている銀塩を除かならない。チオ硫酸ナトリウムの溶液でこれをおこなうが、そのままチオ硫酸ナトリウム(ハイポ)で定着すると茶褐色に変色するので塩化金液に浸し「鍍金」を行って銀の画像を一部金と置換えて耐久力のある印画とする。そして印画には金と銀が存在しているので洗滌をしないと残余のチオ硫酸ナトリウムにより黄色の硫化銀を生じ画が黄変する。当時写真師は此事を知らず洗滌を施さず、故に鶏卵紙の古写真は黄色を帯びている。

感光液 硝酸銀 炭酸曹達 水
鍍金液 方法1  醋酸曹達     塩化金  水 
方法2  硼砂        塩化金  水
方法3 白墨  さらし粉  塩化金  熱湯
定着液  チオ硫酸ナトリウム アンモニア水 水

紙取り写真の感光紙には塩化銀と硝酸銀を保つが塩化銀は光線を受けて銀となること早く硝酸銀は遅い。光線のために遊離した塩素は直ちに硝酸銀の銀と化合し再び塩化銀を生じる。この塩化銀はさらに光線によって分解され鳶色の銀を遊離する。この過程は硝酸銀が存し光線の作用を受けている間中繰返される。塩化銀のみでは像の痕跡は微弱であるが硝酸銀の存するときは鮮明な画を成す。焼付けた画は光線に触れれば鳶色に変色するので、変色しないよう紙面に残る塩化銀と硝酸銀を洗い落とす必要がある。塩化銀はハイポによって硝酸銀は水にて溶け去る。ハイポに印画を浸すと紫色が帯黄鳶色の写真となるので、麗しき色とするため塩化金液に浸し着色仕上げをおこなう。銀は塩素と化合し塩化銀となり金は沈殿して画に藍色を付す。この藍色は画の鳶色と混して不変色の一種の美色を成す。紙取り写真には少量ではあるが銀と金が4:1の割合で含まれている。

小西本店は(独)ドレスデン社 三楓・さくら印などの製品を輸入販売した。   鶏卵紙鍍金法 小西本店「紀念帖」


白金タイプ紙 1873年ウイリアムウイリスが発明。塩化白金カリと蓚酸第二鉄との混合溶液を紙に塗布したもの。白金タイプ紙は感光度が強く原板を密着して日光で1・2分焼くと黄色の地に淡緑色の白金の画像がかすかに出る蓚酸第二鉄が光線の作用によって蓚酸第一鉄に変化し蓚酸第一鉄は蓚酸カリによって溶解すると同時に塩化白金カリ中の白金を還元することを応用したもの)。これを蓚酸カリと燐酸カリの混合液に浸すとかすかな画像が鮮明になる。これを希塩酸で定着する。白金タイプはプラチナの安定性により印画の耐久性があり、純黒の深みのある画調になる。
カリタイプ法は白金タイプ法の白金の代わりに硝酸銀を使用する。
明治35年 東京府下淀橋町十二社に六櫻社が建設される。
明治36年 「さくら白金タイプ紙」発売。(最初の国産印画紙)


アリスト紙 POP印画紙(Printing out paper)
1882年誕生。明治27年頃から輸入

写真用紙に塩化銀ゼラチン乳剤を塗布したもので(塩化銀ゼラチン液中に大量の硝酸銀を入れ、これに少量の塩化銀と有機酸類を加えた写真乳剤をバライタ紙の光沢面に塗布)購入後の銀付けの手間がいらない印画の耐久度はわるく、年月を経ると変色しやがて像は消失する。英国、日本で多く使用された。POPは鶏卵紙やコロジオン紙のように硬い調子の原板は不適当である。日光で焼くときは半日陰か白紙を透過した光線とする。焼付けを了えた印画は鍍金定着混合液で鍍金定着を行う。
明治34年前後(米)アリスト会社のアリスト紙を輸入していた。
明治37年 「さくらPOP印画紙」発売。明治末まで主流であった。(大正の初めに「カッスルPOP」と改称)


白金アリスト紙(白金を含まない)
写真用紙に塩化銀コロジオン乳剤を塗布したもので購入後の銀付けの手間がいらない。POPのゼラチンの代わりにコロジオンが用いてあり、暑中でも膜が溶けず扱いやすい。耐久度も良い。独国で多く使用された。日光で焼くときは半日陰か白紙を透過した光線とする。POPより濃く焼き、原板POPよ硬調な方が良い。
明治38年 「さくらセルロイジン紙」(白金アリスト紙。1865年誕生)
明治40年 「さくらセルロタイプ紙」(さくらセルロイジン紙の改良)




臭化銀法(現像紙)
写真用紙にゼラチン乳剤を塗布したもので臭化銀を感光主剤とする臭素紙(ブロマイド紙)、両者を含有するクロロ・ブロマイド紙がある。それまで焼出し印画紙で晴れの日に作業をしていた営業写真家は、現像紙のおかげで日中に撮影し夜に暗室作業ができるようになった。

ブロマイド紙
1874年誕生
ブロマイドは臭素紙とも呼び、乾板と同様に臭化銀を紙に塗布したもので暗室以外に持ち出すことは出来ない。コダック社のブロマイド紙は明治23年頃から輸入された。感度がはやく人工光で焼付けられる。大正時代、ブロマイドはイルフォード製PMS(プラチノ マット サーフェイス)が人気であった。大正末までは緑を基調とした冷黒調印画紙が普及していたが、昭和初期頃から赤を基調とした温黒調印画紙が人気となった。


ガスライト紙
現像紙には塩化銀を主剤としたゼラチン乳剤のガスライト紙がある ブロマイド紙より感度が低く薄暗い室内では感光しないが、弱い光で感光する。電気設備の無い時代、ガスや石油ランプの光で焼いた。感光度はガスライト紙(密着用)を1とすると、八重印画紙(六櫻社の密着・引伸し両用の高速クロロ・ブロマイド紙)が50、ブロマイド紙(引伸し用)は400ほど。1893年( 明治26年),(米)ネペラ社はガスライト紙ベロックスを発売。明治37年ごろ(POPが主流の時代)小西本店はベロックスを輸入し、明治40年頃(米)コダック社のアーチュラを輸入した 。大正に入り写真館では人像用として主にアーチュラ(塩化銀を塗布)が使用されていた(暗い室内ならば焼付も仕上も出来便利であった)が大正14年ビタパと改称された。ガスライト紙は密着焼付用であり引伸しに向かないため昭和に入りすたれた。
 


カーボン印画

歴史
不変色写真中最も古く発明された。ゼラチンとクローム塩との混合物を光線にあてると、ゼラチンが不溶解性になることを応用したもの。1839年、ポントン(Ponton)は重クロム酸カリを用い「写真」を試みた。重クロム酸カリの濃厚液を塗り乾かした紙の上に図画を現わすことを実験した。1840年、(米)ディクソン(Dixon)はアラビヤゴムと重クロム酸カリを用い石版にて銀行券を印刷したが、その方法は1854年まで公表されなかった。1841年、ポッツヴァン(Poitevin)はゼラチンと重クロム酸カリとの混合物は光によりて不溶解性となることを利用して一種の写真法を発明しする。1860年、ファーギア(Fargier)は色素をゼラチン、重クロム酸カリ液に混合し、焼付のあと温湯中にて紙より剥離し、ガラス板に貼付し裏面より洗い溶解性の部分を除去する方法を発明する。1864年スワン氏はカーボン印画法を完成させる。また後年にアラビヤゴムと重クロム酸カリを用いると画像反転せず転写の要なく表面より現像が出来ることがわかった。

印画法
ゼラチン、砂糖を水に溶解しこれに粉状絵具(油煙即ちカーボンを絵具とした。市販のチッシュはブラック、ウォームブラック、ブラウン、セピア、レッド、パープルなどに調色されている。)を加えて紙に塗り乾かす(カーボンチッシュ)。カーボンチッシュ自体は感光性がない。カーボンチッシュを更に重クロム酸カリをアルコールと水の混合液に溶解したものを塗り授感させる。上に陰画を載せ焼付すると、表面は全部多少の光を感じて不溶解性となり、これを表面より現像すれば像は不鮮明となるので、ゼラチン膜を転写する。 転写する紙は単転写紙、再転写紙の別がある。単転写紙はチッシュ面に焼付けられた印画膜を単一に転写するに用い、再転写紙は仮転写紙あるいはオパール板に転写された印画膜を再転写するに用いられる(左右逆の画を正すため)。再転写紙はゼラチンとクローム明礬の混和液を紙に塗ったものであり、焼付けの済んだチッシュと転写紙を水中で密着させてから取り出しガラス板の上に置く。軽く圧し水気を取去ったあと再び温湯中に入れると密着した2枚の紙の四隅より絵具が溶けて滲み出してくる。そして2枚の紙を引き剥がせば印画は転写紙上に転写されている。しかしこのときは黒いだけで像がわからない。黒くなった転写紙に温湯を注ぎかけると光線の作用を受けていない部分のゼラチンは溶け、不溶解の部分が残り像が徐々に現れてくる。現像が済むと明礬水で定着した後水洗する。



天然色写真

立体物をその影ではなく像として平面に写し取り固定化することの研究により写真は誕生したが、写しとった画像がそのままの色で再現されることはだれもが望んだ。

写真術従来既に偉大の功績を奏したりといえども、なお自然色写真の調整に至りては前途吾人の研究を要するところの一問題として存せり。彩色写真に至りては世間既に多くを見ることなれどもこれただ描画刷子をもって着色せるものに過ぎず即ち彼の修正法の一種に過ぎざるをもっておおくは画改良の手段となること能わざるものなり。天然色写真術とは単に光線の作用によって原物の色彩を残留するところの画を調整するの義にして従来この施術に関する実験をなしたるものもまた少なからず。光線の化学的作用によりて着色画を製出せんとするの実際は一時はその効を奏し歴然天然色の画を顕象し得るといえども遂にこの画を消滅してその顕象を奪うに至らしむるものもまた同じ光線の作用に係るものなり。されば彩色写真を原色のまま定着せしむるの方法に至りては人智の未だ発明すること能わざるところのものなり。天然色写真を調製せんことを初めて研究せるは既に1710年ユナ府においてシーベック氏が塩化銀を分析光に曝せしにその同色を取りし事実を観察せる時にありとす。この観察は1841年においてハーシェル氏がこれと同様の実験を為すまでは注目されることはなかった。ハーシェル氏は塩化銀及び硝酸銀を塗布した紙面に強力の分析光を投射しただちに不完全ながら原物に似るところの自然色映像を得たりしにシーベック氏の得たるものに異ならず。ベケーレル氏のなせる実験はさらに良好の効果を奏せり。ベケーレル氏はハーシェル氏がその実験用に供したる硝酸銀液は有害の作用を為せることを知り単に塩化銀のみを用い又塩酸水に浸せるところの銀板を用いたりしに板面に白色の塩化銀膜を造り得たればこれを分析光に曝せしにその着色の分析光に酷似せる一種の映像を得たり。ここにおいてベケーレル氏は塩酸水の作用を持続させることが肝要なることを知り湿電気をもって板を塩化させる方法を採った。この目的を遂げるために湿電池の銅端より板を塩化水素中に懸垂し電流によってこの酸を塩素と水素に分解し塩素は銀版に塩化銀をつくるようにした。この方法によれば電流持続の長短に応じて厚薄の度を異にするところの塩化銀膜を製することができる。この塩化銀感光版を暗箱に入れ映画を得るためには長時間の曝露を要し、取り出して光線に当たればすべて変色してしまうものであったがベケーレル氏は板を熱すればその感光力を増加できることを発見した。この実験を利用したのはベケーレル氏の嗣子ビクトル・ニエプス氏であり氏は1851年より1867年までのあいだ天然色写真を調製せんと経験を積みその顛末を巴里アカデミーへ報告した。ビクトル・ニエプス氏はベケーレル氏の如く銀板をもって手術を施しこれを塩化鉄および塩銅の液中に浸して塩化せしめ後これを強く熱し以ってべケーレル氏の製したものより十倍感光性のある板を製しこれを暗箱に入れて彫刻画花卉寺院の窓等を写し取った。同氏の説くところによればその映画に物体の色彩を写し取り得たのは勿論金銀の如きはその固有の色澤を存し孔雀の羽毛の如きは天然の光彩を保たしめたという。ビクトル・ニエプス氏はデキストリンと塩化鉛の溶液より成る一種にニスを塩化銀板に布き感光性を一段と強くした。1867年の巴里大博覧会においてニエプス氏はやわらかい日光中において凡そ1週間持続する天然色写真を出品した。此の種の映画中には同色の彫刻版画より複写したるところの白地面黒線画の一対をも見受けたり。これらの画においては物体の最黒所が白所よりよりも強力に作用を生じるが故に大いに世人の注目するところとなった。これ即ち通常写真に顕われるところのものとは反対の顕像なり。  1870年ビクトル・ニエプス氏の死後天然色写真を研究したのは巴里のポイテビレ氏とベルリンのゼンケル氏、ロンドンのシンプソン氏である。ポイテビレ氏とゼンケル氏はシーベック氏とハーシェルしが用いた方法を利用して紙面に映画を調整する。ただしこの紙の調整法は塩を紙に塗布し硝酸銀液に浸して感光性を与えた後これを洗い硝酸銀を除き去ったあと次塩化錫の溶液中においてこれを日光に曝露し白色の塩化銀より桔梗色の次塩化銀をつくった(次塩化錫は減力剤としてはたらく)。この紙は色光に感じる力は弱いがクローム酸ポッタースと硫酸銅の溶液をもって扱うとその感光力は著しく増加する。この朦朧とした画図をアニリンの蒸発気にさらすと黄色線の存在するところに鳶色を生じ朦朧としていた黄色は鮮明となる。アニリン蒸気は印画を曝すときは印画をアニリンとベンジンの混液でしめした一片の吸取紙を暗箱の内におく。この施術は陽画を生じるので図書の模写をするに適するが左右は逆となる。この術の発明者ウィルリス氏は英国においてアニリン印刷法で書画類の模写、複写に従事した。      (明治26年 「光線並写真化学」ヘルマン・フォゲル著,小川一真訳,石川巌閲  国立国会図書館蔵 より引用参照) 


天然色写真は間接法と直説法に大別される

間接法
初期の写真術においては間接天然色写真法が研究された。間接天然色写真法は天然の総ての色を三原色、赤緑青に分け陰画を製し(フィルターを取替えて3回撮影する)、これを組合せて天然色とするものである。

1801年、イエナのリッテル(Ritter)はスペクトルの各色によって塩化銀に及ぼす作用が著しく異なることを発見する。1810年、(独)シーベック(Seebeck)はスペクトルの各色はややそれと同様の色に銀塩を変化させることを確かめ湿った塩化銀を基として薄弱なる天然色写真を作る。1840年 ハーシェル(Herschel)は塩化銀をもってスペクトルの赤・緑・青を撮影し公表する。又花の色はその余色の光によって漂白されることを実験した。これらの実験にもとづきハント(Hunt)、ウィーネル(Wiener)、カーレー・リー等は有色の光によってその色を呈する感光剤を製することを試みた。又1881年 クロスはカータミンで赤色に染めたコロジオンとフィロサイアニンで青色に染めたゼラチンとカークマで黄色に染めたコロジオンを重ねた黒色の膜を作りこれを有色の物体より来る光に長時間曝露すると、各色の余色のものだけ漂白され全部は物体と同様の色を顕すことを実験した。以上の天然色の再現は定着されるものでなかった。成効したものに2種あり。リップマンの干渉法による天然色写真と3原色法である。



リップマンの発明
パリのリップマンは光の干渉の理を応用してスペクトルをその色と同一の色に撮影した。1892年蛋白で処理したコロジオン乾板を用いて、そのガラスの方をレンズに向け感光膜を後にしてその後に水銀を塗り撮影した。翌年リップマンとルミエールはゼラチノブロマイド板をサイアニン、エリスロシン、キノリン等をもって染色しアルコール、氷酢酸、硝酸銀の溶液に浸し感光度を増し、迅速に撮影した。この写真は透過光で見るとやや余色を帯びた陰影の淡いものであるが、黒い面の上に置いて反射光によれば天然色で見ることが出来る。この写真を幻燈で顕すには表面より散光を生じることを防ぐため小さいプリズムを松脂でその上に付けるか、ベンゾールに浸すか、コロジオン膜で覆い投影する。リップマン法でスペクトルを撮影するときはその色は天然色だが、物体を撮影するときはその色は多少変化する。故に学術的に発明であったが実際の天然色写真の撮影法として一般に用いられない。



光は波動にして入射光線と反射光線が相合するとき、二者干渉して振動の激しい部分と振動しない部分を生じる。かかる干渉が感光膜中に起るときは振動しない部分は光の作用がないため銀塩が変化せず、振動する部分のみ変化する。故にこれを現像すると膜内に銀の薄層の重層したものを生じる。その薄層間の距離は各色の半波長であり色に応じて相異する。これを反射光で見ると1つの層より反射する光と次の層より反射するものが干渉して膜が受けたと同じ各色を呈する。


3原色法
物理学者ヤングはかつて「総ての色感は原色と名づくる三つの色を適当に混合して得られるべし」との説を述べ、マックスウェル及びアプネーは精細なる実験によりてスペクトルの各色は赤・緑・青の三原色を如何なる割合に混じて得られるかを測定し、これを表わす曲線を作れり。然れどもその理を写真に応用せんと試みたるは、仏国のホーロンをもって始まりとする。氏は1859年1月その説を発表し、1869年呈色写真法なる書を著わしたが、この書は後年アイブス・ジョーリー等の実行した各種の法の原理を説いたものである。さらに1876年6月英国にて特許を得た方法は緑色光線に感じる感光板はオーリンあるいはエオシンで染め、橙色光線に感じる板はクロロフィルで染め、3種の濾光器を用いて、3枚の印画を作りこれより各の余色に染めた半透明の紙に陽画をつくり、これを相重ねて見る法である。この法を応用し始めて商業的に容易に天然色写真を作り得たのはフィラデルフィアのアイブスである。
( 明治42年 光風館 「理化工業発明界之進歩」より引用)

直説法
直説法は暗箱で直接に天然色写真を撮影し得るもので、現在のカラーフイルムによる撮影がそうであるが、完全な直説法であるカラーフイルムが発明(コダック社コダクローム)される以前1907年に間接法(下記の三原色写真)に近いものであるが(仏)ルミエール氏がオートクローム乾板法を発明した。オートクローム乾板は二層の薄膜をもち下層はガラス面に固着し極薄い透明の着色顆粒より成りこの顆粒は交互に透明の朱赤、黄緑、群青をもって着色されていてこの上に全色感光性臭化銀乳剤を塗布したものである。1回の撮影で済み乾板を現像すると透明な着色画像を得るものである。
また天然色透明陽画から紙に焼き付けて天然色印画を作るウトカラーというものをスミスが発明した。

オートクローム乾板
赤色、緑色、青紫色の三色に染めた澱粉を混合してガラス板に1粒づつ隙間なく並べ、その上にパンクロマチック乳剤を塗布したもの。1回の露出撮影で天然色の透明陽画(カラーポジ)が得られる。澱粉粒の直径は約0.015mmで1mm平方に9千個以上の澱粉がある。この乾板における三原色の澱粉粒は光線が通過するときスクリーンの作用をなし、成画においては色彩を現出する要素となるものである。色光が鏡玉を通過し乾板のガラスを透過して澱粉粒に達するとその色光に対しては余色(補色)の粒子によって一部分の色光が吸収され、補色以外の粒子のみを通過してその裏面にある臭化銀に作用する。作用を受けた臭化銀は現像処理によって黒化銀を生じる。これを過マンガン酸カリ液を用いて黒化銀を溶解し去り残る臭化銀を光線に曝露し再び現像し黒化銀を生じさせると色光を透過した澱粉粒は透明となり、他の澱粉粒は黒化銀に覆われ不透明となる。故に乾板を透して見れば原色が見える。澱粉を染めた三原色以外の色光は2種、3種の澱粉粒を種々の割合を保って通過し、通過した粒子が透明となり、その色が融合して原色を現出する。たとえば赤色光がオートクローム乾板のガラス面から射入すると、赤色光は緑色、青紫色の澱粉に吸収されて赤色澱粉粒のみを透過して臭化銀乳剤に作用する。その部分は現像によって黒色となるが、緑色およびその裏の臭化銀は変化を受けない。これを定着すれば緑色と青紫色の澱粉粒は青緑色を呈する。定着した原板は射入する色光の補色を呈する。原板を現像後定着する前に過マンガン酸カリ液中に浸すと黒化銀が溶解され再び日光に曝露し再び現像すると初め感光しなかった臭化銀は黒化銀を生じ、初め黒化銀を生じた部分が透明となる。それ故射入した色光と同一の色が現れる。白色光は赤、緑、青紫の三色澱粉を透過するので原板は黒色となる。褐色光は赤色澱粉を最も多く透過し、緑色澱粉をわずかに透過し、青紫澱粉をさらに少なく透過し感光乳剤に作用を及ぼし、現像、反転再現像すると原色である褐色が現れる。




写真術の歴史年表
弘治2年 1556 (独)錬金術師ファブリシアス・ヨハンネス(Fabricius)はドイツのフライベルヒ鉱山から出るホルンシルバー(Horn Silver 角銀鉱)が鉱脈中にあっては無色であるが日光に露せば紫色に変わることを見て、銀が塩素ガスと化合し塩化銀が製されることを発見した。

永禄12年 1569 (伊)バプチスタ・ボルタは暗室を作り一方の高い所に針穴を穿ち光線を透入させて室内の卓上に外界の物象を映した。名づけてオブスキュラカメラ(映写暗箱)という名称ここに起る。

享保12年 1727 (独)シュルツは硝酸銀を光によって黒化させた。白墨(白亜、炭酸カルシウム)に硝酸を注ぎ日光に当てたところ黒色に変化した、調べてみるとその硝酸には銀が溶解していた。

明和7年 1770 (瑞西スイス)チャールス・スチールは紫色光が最も強く塩化銀に感ずることを発見する。

安永6年 1777 (スウェーデン)カール・ウィルヘルム・シール(Scheele)は紫色の光線が最も強く硝酸銀、塩化銀を感光させ、赤色の光線が最も微弱なことを発見する。(のちにリッテルが紫外線にも感光するすることを発見する。)

寛政7年 1795 (英)プロッハムは硝酸銀を塗った象牙をカメラオブスキュラ中に曝露して写真画を得る。

寛政11年 1799 ショッジェー(Shaussier)はチオ硫酸ナトリウムを発見する。

享和元年 1801 イエナのリッテル(Ritter)はスペクトルの各色によって塩化銀に及ぼす作用が著しく異なることを発見する。

享和2年 1802 ウェッジウッドは硝酸銀溶液を紙に塗り、その上に図を重ねて日光に当て図のところだけ白抜きとしたが、定着処理をしないその紙は時間とともにすべて黒化した。ウェッジウッドはチオ硫酸ナトリウムを知らない。

文化7年 1810 (独)シーベック(Seebeck)はスペクトルの各色はややそれと同様の色に銀塩を変化させることを確かめ湿った塩化銀を基として薄弱なる天然色写真を作る。

文化9年 1812 (仏)フルトイスはヨードを発見する。

文化11年 1814 (仏)ニエプス兄弟はゼネフェルダーの石版術に光を応用することをかんがえる。

文政2年 1819 (英)ジョン・ハーシェルは塩化銀を溶解するにはチオ硫酸ナトリウムを用いればよいことを発見する。

文政3年 1820
(仏)ニエプスはビチューメン(アスファルト)はラベンダー油に溶解するが、日光に当たるとラベンダー油に溶けないことを知り研究をはじめる。

文政9年 1826 (仏)パランドは臭素を発見する。

天保10年 1839 (仏)ダゲールの発明したダゲレオタイプ(銀板写真術)が発表される。
(英)ジョン・ハーシェルはガラス板に感光性の膜を敷く研究をする。

天保11年 1840 (英)フォックス・タルボットはその発行するところの写真印画紙(初めに食塩水を布きしかる後硝酸銀を塗ったもの)を公示する。
(英)ジョン・ハーシェルはチオ硫酸ナトリウムが定着に効あることを公演する。

天保12年 1841 (独)ディクソンは写真石板術を発明する。
(英)フォックス・タルボットはロンドンの王立協会でカロタイプを発表する。

天保13年 1842 (英)フォックス・タルボットはカロタイプの専売権を得る。
(仏)フィゼユーは鍍金法を発明し塩化金とチオ硫酸ナトリウムの混合液を用いてダゲール法の銀板に鍍金を行う。


天保14年 1843 (英)ジョン・ハーシェルは藍写真(青写真)を発明する。

弘化元年 1844 (英)ロバート・ハントは硫酸第一鉄が現像薬となることを公示する。当時現像には酢酸を加えた焦性沒食子酸を用いたが、のちに湿板法が行われるようになると硫酸第一鉄が用いられ露光時間と現像に要する時間が短縮される。

(英)コックスはゼラチンを改良する。


弘化2年 1845 シェーンバインは綿火薬(硝化綿、パイロキシリン又はピロキシリン、ニトロセルロース)を発明する。

弘化4年 1847 綿火薬の爆発性の弱い種類をアルコールとエーテルで溶解するとコロジオンとなることが発明された(傷薬に供された)。
ニセフォール・ニエプスの甥ビクトル・ニエプスは写真の原板としてガラス板を使用し、卵白によって銀塩の感光膜をつくることを研究する。

嘉永2年 1849 (仏)グレーは初めてコロジオンを写真術(写真原板)に応用する。グレーはコロジオンの使用を説き、実際にこれを用い成功したのは(英)アーチャーを以って始めとし、後にフライががこれを改良する。

嘉永3年 1850 (英)フォックス・タルボットは初めて鶏卵紙をつくる。

嘉永4年 1851 (英)スコット・アーチャーはコロジオン湿板法を発明する。
湿板の発明にともない営業写真家のほか娯楽として写真を始める者も増え英国においては1853年にロンドン写真会が創設され、1954年に写真雑誌「British Journal of Photography」が創刊される。

安政元年 1854 (英)ダブリュー・ニュートンはヨード銀の代わりに臭化銀を用いるの利を論ず。

安政2年 1855 (仏)トーペノはコロジオン乾板法を公示する。

文久2年 1862 シー、ルッセルはコロジオン湿板の現像液として、パイロアンモニアを推薦する。
(英)マジョア・ラッセルは初めて炭酸加里と炭酸曹達を現像に用いる


文久3年 1863 初めて鶏卵紙の地質に藤色、桃色を帯ばしむ

元治元年 1864 (英)スワンはカーボン写真を発明する。
サイス及びボルトンはコロジオブロマイド乳剤を発明する。


明治4年     1871 (英)マドックスは初めてゼラチン乾板を作る。(マドックス法)

明治6年 1873 (独)フォーゲルは増感色素を発見し、整色乾板を発明する。普通乾板は黄色赤色光線に対し感光性が弱いので感光板を色素で染めて感光性を整えた。
(英)ダブリュー・ウイリスは白金印画紙を作る。
キング、ジョンストン両氏がゼラチン乳剤を洗滌する方法を考案する。

臭化銀ゼラチン乳剤を保存せしめるために、ケンネットが乾燥状態のゼラチン乳剤を創製して特許を得る。

明治7年 1874 (英)リバプール乾板会社より乾板を発売する。手札判1打の代価2円。
ボルトンはコロジオン乳剤を洗滌し乳剤中の溶解性塩類を除去する。


明治10年 1877 (米)カーレー・リー蓚酸鉄を現像に用いる。
ラッテンは乳剤を洗滌するためにアルコールを用いた。
スワンの製造した乾板が市場に現れた。


明治11年 1878 (英)ピー・モードスレーは沒食アンモニア現像液法を公示する。

明治12年 1879 モンクホーベンはゼラチン乳剤を高感度化させる方法を発明する。

明治13年 1880 (米)ジョージイーストマンは乾板を発売する。
(英)ダブリュー・モーガンは臭素紙を作る。

明治14年 1881 エーダーは塩化銀ゼラチン紙を発明する。

明治17年 1884 (米)ジョージイーストマンは剥落フイルムを発表する。
フォーゲルはオルソクロマチック乾板を作る。

明治19年 1886 (独)リーセガングはPOP紙を作る。

明治22年 1889 (米)ジョージイーストマンはニトロセルロースベースの透明フイルムを発売する。

明治24年 1891 (米)ジョージイーストマンは昼光下でも装填可能なロールフイルムを発売する。


新現像法...現像のしくみ (国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」承認下作成)



k小西本店材料目録よりi

小西本店販売の(独)ドレスデン社 三楓印鶏卵紙



小西本店は明治36年に感光材料の工場として六櫻社を創設し乾板、印画紙を製造した。
    明治38年  さくら乾板 
    「さくら乾板は本邦にて製造する乾板の魁にして
    品質新鮮にして且つ佳良なるものなり。
明治36年 さくら白金タイプ紙
「滑面、中荒目、大荒目、綾地。さくら白金タイプ紙
は品質新鮮、強靭、画調鮮明優美にして不変色な
ること印画紙中最も卓絶せるものなり。」

   明治38年  さくらセロイジン紙
    「さくらセロイジン紙は品質新鮮にして画調優美
    なること白金タイプ紙の如く、粗面、光沢の二種
    あり、共に本邦写真家の洽く称賛して日常使用
    せらる。」
明治37年 さくらP.O.P
「さくらP.O.Pは品質新鮮、平滑にして光沢あり、
画紋を最も繊細緻密に現出して外国品よりも卓絶
すること数等なり。」


当時六桜社は輸入した薬品を壜に小分けして販売していた




   小西本店写真材料目録(明治30年)の輸入乾板、焼出紙、印画紙

第5回内国勧業博覧会(明治36年)の審査報告より抜粋




k日本における写真術i


1848年(嘉永元年)オランダ船によりダゲレオタイプが長崎に伝来し、島津藩の御用商人である上野俊之丞(しゅんのじょう、彦馬の父)がはじめて輸入し 島津斉彬(なりあきら)に献上。日本人の手になる現存する最古の写真は、1857年安政4年)に撮影された銀板写真「島津斉彬像」である。市来四郎らが1857年(安政4)薩摩藩主島津斉彬を撮影した銀板写真が存在する。ただしそれ以前に外国人が日本人を写した写真がある。栄力丸という船に乗って漂流しアメリカの商船に救出された人々を写したもの。日本の栄力丸が嵐で漂流し52日目の1851年1月22日(嘉永3年12月21日)にアメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。栄力丸の乗組員17人はオークランド号に乗りサンフランシスコに着き、ハーベイ・R・マークスが銀板写真を撮影する。
------新たな写真発見として平成18年3月27日放映の『開運!なんでも鑑定団』にてスイスの写真研究家、ルイ・ミッシェル・オエールより彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の写真の鑑定依頼
があった。


1853年ペリー来航、1854年(政元年)、1853年に続き2度目の来航の ペリー艦隊の従軍写真師エリファレット・ブラウン・Jr浦賀に上陸、横浜から下田、函館と周り銀板写真を撮影する。その時の
肖像写真で、6点が現存している。
銀板写真 黒川嘉兵衛(浦賀奉行)像 下田 重文 日本大学芸術学部写真学科寄託
銀板写真 田中光儀(浦賀奉行所与力)像 下田 重文 東京都写真美術館寄託
銀板写真 名村五八郎(通訳)像 横浜 ハワイ、ビショップ博物館
銀板写真 松前勘解由(松前藩家老)と従者像 函館 重文 北海道松前町郷土資料館
銀板写真 遠藤又左衛門(松前藩用人)と従者像 函館 重文 横浜美術館
銀板写真  石塚官蔵(松前藩奉行)と従者像 函館 重文 函館市寄託 函館市写真歴史館
平成18年3月17日  文化庁   重要文化財の新指定について
所在経緯


1858年(安政5)島津斉彬が姫三人を湿板で撮影し、また上野彦馬がポンペの指導で湿板写真をはじめている。その頃には世界の写真は銀板写真が過去の写真術となりカロタイプ即ち紙ネガもガラスネガにとって変わっていた。1862年(文久2)下岡蓮杖が横浜で、上野彦馬が長崎で写真館を開業する。京都の大坂屋与兵衛は、1863年(文久3年)、はじめて鶏卵紙による写真をつくる。写真師がふえるとともにいくつかの薬種商が輸入された写真薬品を扱うようになる。 湿板写真が広まると写真術を研究する者も増え、幕末の頃写真薬品材料を供給する商人が現れるが、明治に入ると薬種問屋が写真薬品を扱うようになる。
湿板写真の時代には写真材料といえば写真薬品が主であり、カメラは自作であったり、指物師へ注文製作であった。 1873年(明治6年)杉浦六三郎(小西六創業者)は写真・石版材料の取扱いをはじめる。 種板を自製し、野外撮影には写真薬品を持ち歩かなければならなかった湿板写真の時代、明治14年に長崎の上野彦馬は、たまたま寄航したロシアの船長から5箱の乾板を入手した。上野彦馬はこれを契機に湿板より取り扱いが簡便で感度もすぐれている乾板の研究にとりかかった。明治15年頃から乾板が輸入される。1894(明治27年)頃は(英)マリオン会社の乾板などが輸入された。明治35年頃 は(英)ブリタニア社(のちにイルフォード社)のイルフォードやアライアンス乾板、とくにイルフォード赤札は圧倒的な人気であった。そして整色性の乾板が現れはじめたが、取り扱いに慣れていないためもあって、依然イルフォード赤札、アライアンス赤札、ライオン赤札などのオルソ乾板がよく売れていた。小西本店は六櫻社を建設し、明治38年 さくら乾板を発売するが明治40年までで六櫻社の乾板製造はいったん終わった。 明治6年(1873)ケンネットは保存ができる乾燥状態の臭化銀ゼラチン乳剤を創製して特許を得、実用に供せる乾板製作法を公にした。 6年4月杉浦六三郎は写真・石版材料の取扱いを始める(小西六創業)。7年杉浦六三郎、はじめて鶏卵紙を入手する。 湿板から乾板に移ったのが明治十五、六年頃です。横浜に居た宣教師がすこしばかり鶏卵紙を持っていたので、それを頒けてもらいました。印画紙の方は初め鶏卵紙を用いました。明治二年ごろです。明治13年小西本店は塩化金(鶏卵紙の鍍金液)を発売する。明治15年小西本店は長谷川利之助らを下職とし、暗函の製造工場を東京神田に設ける。 鶏卵紙から明治26年頃からP、O、Pとなり、それから白金アリスト紙、アーチュラとなる 。明治26年(1893)頃 ダルメイヤー人像鏡玉[慶応2年(1866)~]が最も人気があった。印画紙はP、O、Pが使われるようになった。

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湿板写真撮影風景

以下   写真月報第24巻第6号  「訪問記」 嵩山 生(氏) 中島精一氏を訪問するの巻 より引用抜粋 

中島精一氏は銚子の人、文久年間12、3歳の頃、オランダ船が銚子の浜に漂着したことがあるが、そのとき写真画を見せられたのでその技法を学びたいとの希望を抱いて江戸に出で、先ず南画家中林湘雲に就いて絵画を学んだ。その後漢訳の写真書「脱影夜話」を得、福地櫻痴居士に書中の意義を質して写真術を研究し、ダゲレオタイプ(銀板写真)を作って咽喉を害したこともあった。湿板写真を試みて千辛萬苦を嘗めたこともあった。鏡玉商玉屋松五郎に就いて専心写真鏡玉の製作に腐心したこともあった、幻燈板の製作に従事して文部省の御用を蒙ったこともあった。明治7年吾妻橋畔に写真館を開いて待乳と号し、中島待乳の名声は都下に鳴り轟いた。現在の呉服橋外に写真館を新築して移転したのは明治27年である。
『ダゲレオタイプは日本では行われなかったようですが、湿板以前には何を用いられましたか』
『湿板以前には黒板というものを用いました(注.ティンタイプ)。鉄板にアスファルトを塗ってコロジオン乳剤を自分で布いたものです。維新前にはこの黒板を用いました。胡粉で彩色すると中々立派なものが出来たので評判が好かったものです。湿板から乾板に移ったのが明治十五、六年頃です。印画紙の方は初め鶏卵紙を用いました。明治二年ごろです。横浜に居た宣教師がすこしばかり鶏卵紙を持っていたので、それを頒けてもらいました。頒けてもらうといっても一日ひとりに1枚しか譲ってくれません。東京から徒歩で横浜へ行って頒けてもらったのです。2枚頒けてもらうには横浜に泊まったものです。それが厄介ですから5、6人の姓名を書いて同盟という風に思わせて5、6枚の鶏卵紙を譲ってもらったこともありました。その当時を回想していると全く夢のようで、今時の人々の想像だに及ばぬことのみでした。鶏卵紙からP、O、Pとなり、それから白金アリスト紙、アーチュラというように変遷したのです。』    

  
 


以下
「写真界の思い出 小野隆太郎」  (写真月報 昭和3年) より引用

自分の入門した写真館では当時(明治30年頃)鶏卵紙は手札一組五十銭、POPは七十銭、ブロマイドも同値であった様に記憶している。明治34年頃に白金アリスト紙が輸入され、此の値段が手札一組七十五銭なるために客から割引を強要される事が度々であった、さような有様で定価はあっても何時も定価よりは安くしたものである。その頃浅草にはヒッパリ写真というのがあった。無論硝子写真であるが、客を見付けると、「写真を写さないか」とか「安く写すから写していけ」とか言って客を引っ張り込んだ。客が入れば見本を見せもう一銭多く出せばもう少し濃くとかもう三銭出してくれればハッキリ焼くとか言って、客から一銭でも二銭でも多く絞り取ったものである。当時この種の写真は何れも生撮りの写真であって非常に写度(露出時間)が多くかかったもので写場といってもスラントはなく図のように一方に壁を作り、小さなサシカケを作りその他は野天であった。又天幕のように白い布を張っていた所もあった。写す場合は全部フロントライトで今から考えれば1番度のかからない写し様であるが、それでも大変長く露出を与えねばならなかった。従って写すとなると首押さえをかけ動けないよう様にしてゆっくり写したものである。ヒッパリ写真の方は硝子写真であったが、東京市内の大きな写真館はその頃(明治30年頃)POP、鶏卵紙を盛んに使用していた。硝子写しの方法は日本ではただ硝子だけで終わって仕舞ったが、外国ではブリキ板などにもやった様である。この方法は生取りの液を硝子とかブリキ板の上に塗り写すもので、硝子の方は昔の写真によく見受ける。自分が淡路町に行った時は、もう硝子写真の時代は過ぎてPOP、鶏卵紙の時代になっていた。それでもまだ速い乾板はなくマリオン五十度などが多く使われていた。しかし小写真館ではやはり生撮りしていた所もある。この生撮りについては濡れている間に写さなければ駄目になってしまうので、出写しの様な時には大変な騒ぎをしたものである。山とか遠くへ出写しに行く場合には生撮りの液を引く道具から、現像の道具、何から何まで持って行かなければならないので、人夫を雇って出掛けたものである。だがこんな時代でありながら、レンズだけは不思議に進歩しており、既にダルメヤ(ダルメイヤー)が輸入され、それも手札から全紙までのレンズが揃っていた。無論シャッターはまだ無く手ぶたと称し一々レンズキャップを手で開閉したものである。記念(集合)写真を写す場合アルバム等というものはなかったから、大抵半切か全紙で撮ったものだ。その後次第に大集合は減り、アルバムを製作するようになってきた。当時大きい写真館においては、POP、鶏卵紙が主なるもので特にブロマイドを希望する客もあった。鶏卵紙は毎日自分で銀引きをしなければ使用できない紙で、一日もおけば黄色くなってどうしても焼け具合が新しいもののようにはいかないものである。鶏卵紙の銀液の仕事は先ず全紙の平バットに銀液を入れ、パピル紙を出し綿で表面の塵をよけ、四隅を持ち膜面を下向きとして角から液の中に入れていき、秒時計で3分計って出していた。実に熟練を要する仕事である。銀液はどこの写真館でも先祖伝来の処方でなかなか人には教えなかった。銀液を作るには硝酸銀を溶かし、少量のアンモニアを加えて中性とし液の温度を計る。この銀の度が各写真師によって異なり絶対秘密であった。淡路町の銀度はハイドロメーターで十八度であつた様に思って居る。鶏卵紙は乾燥してすぐに焼付けすると、焼ボケを生ずるので直ぐには使用できなかった。鶏卵紙を焼くには直接焼くのと間接に焼くのと二通りあってその焼き方によって色が異なってくる。大抵は間接焼きを用いた様である。焼様も色々あるが太陽に直角に向ければ大変早く焼け又結果も良好であった。焼付けが終わると硝子定規で縁を断ち、水洗にかける。鍍金液は塩化金と硼砂とを用いて調色をおこなう。鍍金が仕上がると食塩水とハイポーに入れる。ブロマイドを焼くのが又面白い。まずランプ掃除からやっていかなければならなかった。ブロマイドを焼くには丸芯のランプで、此れを一名西洋ランプと言っていた。焼付けにはランプと焼枠の間にカビネの原板箱を置き箱の縦、横によって距離を定め何十秒というのであるから正確にはいかなかった。この時代には大きな写真が喜ばれ等身大というような大きな注文もあった。近代になって引伸しは小さくなったがいっぽう直接写し(密着印画)は大きくなった様に考えられる。集合写真は別として昔は六ッ切や四ッ切のポートレートを写すものはほんとうに少なかった。原板(硝子)の方もこの頃から一般に乾板を使用するようになり生撮り(湿板)は次第に廃された。その頃はイルフォードの五十度が輸入された、今から考えると僅か五十度だが、生撮りをやっていた人には甚だしく便利がられたものであるが。今まで遅い原板を使っていたためと、いまだシャッターが無く全部レンズキャップでやっていたのであるから、ずいぶん露出過度やらカブッタ種板を作ったものである。それに反し小児等を写すばあいには余り長く露出がかけられないから(こどもがじっとしていられない)露出不足で現像を長くした。昔の原板を見ると大抵色の着いているのはこのような関係からである。原板に着いた色は当時は日光で焼付けしたのだから大したことはなく皆平気でいた。それでもあまり色が着くと明礬で色を抜いた。色が着くもうひとつの原因は当時は酸性定着液がなく、プレインハイポを用いていたことにもよる。それでも定着液が新しい間は着色しないが古くなると恐ろしく色が着いた。白金紙が輸入されたのは明治34年頃と思われる。その後ガスライト紙が輸入され、又乾板も次第に改良されてシードの如き優秀なるものが現れて来た。しかしシャッターはやはり使用されないため、乾板では感光度が早すぎて困った。そこで提灯シャッターが輸入され、後に ローシャッターも輸入されて来たが、非常に高いもので手が出ない有様であった。まもなく和製のものが出来、安価に手に入るようになった。その後白金アリスト紙の時代がしばらく続き、後にアーチュラーが輸入されて、電気で焼き付けることが出来、百枚でも二百枚でもたちまち焼けるというので各写真館で非常に重宝がられた。此の時分はまだあまり電気を使用していた家は少なかったのだがアーチュラーが輸入されてから何でも電気を取り付けるようになった。其の後段々アマチュアの写真家が多くなり、営業家の内でも米国バリとか英国バリとか独逸バリとか色々な写真の流行時代がつづいた。





明治時代の写真館


書割
     















小西本店写真台紙
明治時代の写真館 明治時代の写真館
写真台紙は大きい写真館では直接注文した輸入品を用い、小さな写真館では日本製のものを使用してそれぞれ意匠を凝らしていた。当時の写真で台紙に打込があるものは大抵外国製であり大きな写真館のものである。台紙に打込の代わりに裏ネームと称して印刷したものは日本製で、この印刷が早かったのは印刷局であった。打込や印刷の字は金色のものが多く、この文字のために写真が変色することが多かった。純金を用いれば変色を防げたが、真鍮箔などを用いたため写真も変色した。そのため金色はすたれ色刷りとなり、何処製と名を入れるようになった。

台紙見本


    

小西本店製台紙裏ネーム
鹿嶋清兵衛の写真館「玄鹿館」