メールカウンセリング顛末記 〜バカ医者の懺悔と考察〜


バカ医者が思いつきで始めた試みが大失敗に終わってすでに5年になる。
メールをいただきながら対応できなかったかつてのクライアントに対する
お詫びと懺悔の気持ちを込めてこの文章をアップします。
ご意見はこちらへ


目次:


はじめに
 このサイトを設立した当時(1996年秋),私はこのページ上に「私設カウンセリングルーム」というコーナーを開いて,無料のメールカウンセリングを行っていた。当時はまだネット上に日本語のメンヘル系サイトは両手で数えられるほどしかなく,さらにその中でもメールによるカウンセリングを行っているページは片手で数えられるほどの数だった。

 私がメールカウンセリングを始めたのは,電子メールというコミュニケーション媒体が,非対面形式で,自室内で時間を気にせずいつでもアクセス可能であること,(一応)プライバシーが保たれており内面の悩みを告白しやすいこと,などの特性を持っておりこの上でカウンセリングを展開することが可能なのではと考えたからである。「文字のみ」によって成立するネット上のコミュニケーションの特殊性についてはまだあまり知られておらず,むしろネットの世界の明るい未来のみが語られている牧歌的な時代であった。

 思いついたらすぐやってみることができるのがネット上の世界である。そしてその思い付きがいかに無謀であったかすぐに分かるのもネット上ならではである。表1にカウンセリングを開始して1年間の相談メール数を表す。カウンセリングのページは1996年(H8年)9月下旬にアップ(公表)し,翌年3月末で閉鎖したが,その半年の間に400通弱の相談メールがあったことになる。相談の内容については後述する。

 およその数字しかあげられないのは,一部のファイルがPCのトラブルで失われてしまったことと,メールの主目的が相談か質問かあるいはリンクの依頼かの判断がつかないようなメールが非常に多かったことである。また,カウンセリングや質問への回答に対するお礼のメールもよくいただいた。この表の数字はメールの主目的が「相談」であると断定できるものだけに限定したものであり,「相談らしき」メールを含めるとメールの総数は1000通近くになる(以前に公表していた数字はこちらである)。
 また相談によっては複数回数のメールのやりとりを要したので,そのメールもカウントしてある(「2回目以降」と記載)。

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表1:相談メール数の推移

相談メール総数うち2回目以降私の状態
開始-------------------------------------------
1996/950余裕
10205
11305ちょっとしんどい
126010息切れが
1997/19025苦しい〜
28020
310030危篤状態
閉鎖-------------------------------------------
43010逝ってます
半年で体重10kg
減りました(本当)
5205
6205
7255
8155
9255少し回復

 このように相談件数は半年間で大きく増加している。1ヶ月の相談件数が約60件になった96年12月頃よりメールを数日内に返信することが困難になりだし,返信までに1〜2週間かかるようになってきた。メールという限定された情報を元に精神科医として責任のある対応をしようとすると,回答には熟慮を要する。ちょうどこの頃より本業の方も多忙となったため,カウンセリング活動開始後数ヶ月にして既に活動の継続が困難になってきた。

 年が明け97年になってさらに相談件数は増え,3月の時点で月に100件を超えるようになった。これは私のサイトがあちこちにリンクされたり紹介される際に「現職精神科医が無料で相談に応じてくれる!!」とのオビがつくことが多かったせいもあるだろう。

 だがこの時点で,毎日長時間をPCの前で呻吟しながら過ごすことが私個人の身体的・精神的健康にも大きく影響し始め,4月からは職場が変わることもあって,これ以上この活動をボランティアで続けていくことは絶対に不可能であると確信した。そのため3月末でカウンセリングのページを閉鎖し,新規の相談の受付を停止した。また並行して参加していた他のメールカウンセリンググループやMLからも外してもらった。

 非常に無責任なことだが,結局3月後半以降のメールは大部分が未返信のままとなってしまった。また,新規の相談受付を停止する旨の告知は出したものの,全ての個人メールに返信しないとは書いていなかったため,数は減ったものの「ダメ元」で送られてくる相談メールは絶えなかった。これも表のように月に20件ほどはあった。結局これらにもほとんど返信できなかった。そのため7月になって個人的なメールには一切返信できないことをサイト上で正式に告知した。

 その後も,サイトそのものが休止状態になるまで月に5〜20件は相談があった。個人的な状況が落ち着いてからは相談に応じられることもあったが,以前の多くのメールが未返信になってしまっていることを考えると積極的に返信をすることはためらわれた。

 これが私の大失敗の経過である。サイト全体の流れについてはこちらも参照して欲しい。

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相談内容について
 次に,この(閉鎖後の半年を含む)1年間にいただいたメールに基づいて,メールカウンセリングの傾向を簡単に分析してみたい。

 まずは相談の内容について表2にあげる。各相談内容がメール全体の何%を占めるかを表している。これも厳密に分類することは困難で,おおよその数字でしかない。また,1通のメールの中に複数の内容が含まれていることが多く,それらは別にカウントしているため合計は100%を越える。表1と同様,ごく単純な質問メールや内容が判別不能のものは除外し,複数回数のやりとりがあったケースではそのうちの1通のみをカウントしている。

表2:相談内容

相談内容全体に占める割合
症状・診断・対応について50%
精神科受診について35%
自分の性格について35%
家族について30%
精神科薬物療法について15%
トラウマについて15%
精神分析・カウンセリングについて10%
恋愛関係について10%
夢について5%
身体的な病気について5%
分類不能10%

 私のサイトは「精神科医YASU-Qの〜」と題がついているので,必然的に精神科に関する医療相談や質問メールが多い。当たり前のことだが,母体となるサイトの表題や運営方針はカウンセリングの内容にも大きく影響すると考えられる。

 性別は判るものに限れば男性6割・女性4割といった割合か。年齢は20代後半から30代が多かった。「初めて電子メールを送りました」というPC初心者も意外に多く,メールを書くという行為は当時すでにかなり大衆化しつつあるようだった。

 相談のメールで一番多いパターンは,自分や家族の症状・人格傾向について書いてあり,これについて診断は何であると考えられるか,今後の対応はどうすべきかのアドバイスを求める形のものである。これがほぼ半数を占めている。

症状については,はっきり特定できないケースも多いため統計はとれないが,相談者本人の症状としては,

  1. 対人恐怖・対人緊張・広場恐怖 (赤面・発汗含む)
  2. 抑うつ気分
  3. パニック発作 (過呼吸発作含む)
の順に多く,

家族・知人の症状としては,

  1. 幻覚妄想の疑い
  2. 何らかの依存傾向 (ギャンブル・アルコールだけでなく,女性ではパチンコ・買い物依存も多かった)
  3. ひきこもり (主に思春期・青年期のケースで親が相談)
の順だった。不眠や食欲不振などのありふれた症状がメインの相談は意外に少なかった。これは近医でも比較的簡単に眠剤が手に入ったりするからだろうか。それともある程度精神症状が悪くなってからでないと相談しないからか。

 すでに精神科に通院しており,薬物治療や診断についてのセカンドオピニオンを求めるメールも多かった。もちろん第三者が不用意な回答をすべきでないケースもあったが,診療上重要なことであるのにごく簡単な説明すらされていないケースも多く,いかに日本の精神科の診療現場で患者への説明が十分に行われていないかを自分自身の日常臨床も含めて考えなおさせられた。

 当時,アダルトチルドレンという概念が世間に広く知られ,ある種の流行になっていて(明らかに拡大解釈されていたが),これに関する質問や相談も多かった。これらは自分の症状・人格傾向や家族との関係,トラウマについて告白している部分が主で,これらに対する何らかのコメントを求めてはいるものの,「語ること」そのものがメールの目的になっているケースが多いのが印象的だった。こういったケースでは,こちらも必然的に「受容」に徹することが必要となる。

 不倫や恋愛に関する相談などもちょくちょくあった。中には,何で俺んとこにこんな相談送ってくるかなあ,と思わざるを得ないものもあったが,一応真面目に回答しなければしょうがない。相談可能なテーマははっきりと決めてサイト上に掲示しておくべきであり,テーマから逸脱するメールには一切返信しないなどを告知しておくべきだろう。メールを書く側にも無駄な時間を使わせないで済む。

 また学術目的での相談も少なからずあった(特に学生さんの卒論関係)。内容がそれだけの場合はそもそもこの統計の対象からはずしているが,学術上の相談と個人的な相談とが同一メール上に存在する場合もあり,その場合は「分類不能」の中にカウントされている。

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ネット上で「精神科医」と名乗ること
 私はネット上で「精神科医」であると標榜しているが,あなたはこれを信用しますか? 自分でメールカウンセリングをやっておいてこんなことを言うのは言語道断かもしれないが,私に個人情報を含む形で相談を送ってくれた人は,見方によってはちょっと無防備であるとも言える。私が本当に精神科医であり,守秘義務を忠実に守るという保障はどこにもない。ネット上で医師免許や指定医証のコピーでも出せばいいのかもしれないが,それらですらいくらでも偽造可能である。私が偽精神科医である可能性は決して少なくないのである。

 例え本名を出していなくても,会社や学校のメアドを使っていればヘッダなどから個人を特定することはそんなに難しくない。私のような赤の他人に個人情報を含む形でメールを送るのは,ある意味非常に危険なのだが,「精神科医」とサイト上で名乗るだけで多くの人がこの危険を冒してしまう。私が本当に精神科医であれば結果的には問題はないのだが,相手にこのような危険を冒させていることに関して気にするのは私だけか...。

 「精神科医」であるとサイト上で名乗ることは私自身に対しても強力な拘束衣となる。私が精神科医という看板を背負って回答メールを書けば,それは精神科医をよく知らないその人にとっては,ある意味全ての精神科医の代表コメントのようなものに受け取られてしまうかもしれない。これでは迂闊なことは書けない。しかし,ちょっとしたことを回答するのにもいちいち確認をとったりしているといつまで経っても回答が書けない。ちょっと筆がすべってそれが相手にトラウマを与えてしまうと,もうその人は決して精神科へ行こうとしなくなるかもしれないし,それが相手の人生にどれほどの損害を与えるかは分からない。

 この国の人々にとって精神科医というのはまだまだ身近な存在ではない。理想化されたり,神格化されたり,占い師か呪術師か,はてまた催眠術師か錬金術師のように思われていたり。精神科医という看板を背負ってネット上で語られた私の言葉は,神の声に聞こえるかもしれないし,いかさま占い師のインチキ占いに聞こえるかもしれないし,それは聴く人次第なのである。

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メール交換の回数
 相手が強く希望する場合,狭義のカウンセリング(治療契約や目標,フレーミングを設定した上での)を行ったケースもあった。複数回数のメールのやりとりを通じて問題の同定や解決をはかっていくわけである。次に,これに関して詳述する。

 表3は同一の相談について私の方から何回のメール返信を要したかについて示している。回答が遅くなりそうな場合,まず「メール受け取りました。現在回答を考え中です」という確認のメールを送ってから本来の回答を返信していることが多かったが,このメールはここには含めていない。

表3:メール交換の回数

メール交換回数全体に占める割合
1回71%
2回24%
3回以上5%

 上記のようにメールの内容としては医療相談が多いため,1回の回答でお礼のメールが来て終わり,というのが最も多い(因みに,たいていはお礼のメールをちゃんといただいた。これが何よりの励みになった)。私は年齢・性別・居住地などの情報を初回メールの絶対必要条件としてあげていなかったので,どうしてもそういう情報が必要な場合は,2回目のメール交換が必要となる。だがこれは全体の2〜3割に過ぎない。

 3回以上のメール交換を要したケースの中に,狭義のカウンセリング活動を行った例が含まれる(別にメル友してたわけじゃない)。またこの中には精神医学的な介入を行ったケースや,ごく少数だが実際に私の外来を受診するに至ったケースも含まれる。

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電子メールによるコミュニケーション再考 (1)
 すでにあちこちで述べられていることだが,電子メール(以下,メールと略)でのカウンセリングにはいくつかの利点と欠点がある。これらは主にネットでのコミュニケーションが「文字のみ」に依存するという点に由来する。文字以外の様々なメディアが進化・発展した結果としてその最先端に現れたネット文化が,原始的な「文字のみ」のコミュニケーションに高度に依存しているというのは,「文字の逆襲」というか逆説的で面白い現象ではある。

 通常の対人コミュニケーションというのは,一瞬一瞬の積み重ねであり,言葉であれ,仕草であれ,表情であれ,全てはどんどん流れ去ってしまう。コミュニケーションの「事実」は明らかに実在するが,それは常に一回だけで失われていく運命にある。「一回性の」「記憶の中だけの」コミュニケーション,とでも呼べるだろうか。
 一方で文字によるコミュニケーションは,「書く」と「読む」が時間的にも物理的にも乖離していることが多いため,「事実」性としては希薄だが,コミュニケーションの媒体になった「文字」は手紙なりファイルなりの形で「モノ」として物理的に保存することができる。書き直すことや読み直すことができるため「非一回性」の性質をもつとも言えるだろう。

 一回性のコミュニケーションでは人は常に時の流れに支配されており,コミュニケーションを完全にコントロールすることは困難である。私の発する言葉は,常に口から出た途端に消え去っていく運命にあり,二度と取り戻すことはできない。ここでのコミュニケーションは「事実」「コト」であり,決して手に持って扱える「モノ」ではない。
 逆に,文字によるコミュニケーションにおいては,メッセージの発信と受信は別々の「コト」であり,発信者と受信者は文字という「モノ」を共有しているだけで属する「コト」を異にしている。「モノ」は自分の手許にある限り,好きなように操作することが可能である。発信者にとっても受信者にとっても場合によっては「モノ」を介するコミュニケーションの方が,コントロールしやすい気楽なものと感じられるだろう。

 この「コト」と「モノ」の違いをよく理解して欲しい*。

 人類の歴史の中で文字の発明がいかに重要なイベントであったかは,私のような者が改めて書くことでもなかろう。私たちは歴史の様々な局面で一回性のコミュニケーションと非一回性の(文字による)コミュニケーションをうまく使い分けて生きてきているはずである。ところが,20世紀も終わりに近くなって,奇妙なコミュニケーション手段が流行りだしたわけだ。

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電子メールによるコミュニケーション再考 (2)
 電子メールというのは「電子手紙」なわけだから,手紙に類する通信手段であることは確かだ。
 しかし手紙は,「モノ」ではあるものの,便箋を選び,ペンを選び,文字を書いて,あて先を書いて,切手を貼って,投函するという十分な作業と時間を経て作られたモノであり,そこには書いた者の「俺が書いたんや」という「コト」が自然とにじみ出ている。電子メールにはこれがない。本当に「文字だけ」なのである。「コト」性をほとんど持たない極めて純粋な「モノ」の側面を持つと言えるだろう。

 20世紀になって現われた他のコミュニケーション手段として,電話やFAXというものもあげられる。しかしこれらはいずれも従来のコミュニケーション手段の枠内でとらえられるものであり,電子メールほどの際立った特徴を持っていない。ちょっと大げさかもしれないが,我々は歴史上最も特殊なツールを手にしているのである。

 メールによるコミュニケーションは極めて「モノ」的な側面を持つため,発信側にも受信側にも大きな自由がある。つまり「いつでも」「どこでも」「だれでも」というやつである。いつ発信してもいいし,いつ受信して読んでもいい。自室のベッドの中から発信してもいいし,それを学校や会社で受信して読んでもいい(バレたら怒られるかもしれんが)。そして通常相手に分かるのはせいぜい自分のメアドぐらいなので,自分から明かさなければ,よほどのことがない限り自分が誰かは相手に分からない。筆跡鑑定されることもない。携帯を使えばこれらの自由度はさらに広がる。非常に使い勝手がいいツールである。相手のメッセージをそのまま引用して返信を書いたり,誰かに転送したり,まさにやりたい放題である。私たちはコミュニケーションを完全に支配したつもりになって,はしゃいでいると言える。

 しかし実際にメールを書いたり,読んだりという行為(書き直したり読み直したりする場合はその1回1回の行為)は「コト」に他ならない。あなたは,自分が一度書いたメールを後で読んで書き直したり,送信してしまった後で後悔したりしたことはないだろうか。結局「最初にメールを書いたあなた」はすぐに過ぎ去ってしまい,そのメールを書いた「コト」はもう取り返しがつかないところへ流れて行ってしまっているのである。幸いまだ未送信なら,書いたメール本体は手許にあるから書き直すことはできる。しかしまた気が変わるかもしれない。どこかであなたは書き直す「コト」を止めてメールを送信してしまわなければならない。

 また,あなたは誰かからもらったメールを読んで非常に悲しんだり傷ついたりしたことはないだろうか。タネを明かせば単なるASCIIデータの配列に過ぎないメールなのに,単なる「モノ」に過ぎないはずなのに,そこから大きな感情の動きを被る。これはまさにあなたの心に「コト」が生じているである。あなたは自分が完全に支配していると思っていた「モノ」から,重大な「コト」としての反撃を食らったわけだ。

 このようにメールによるコミュニケーションは,その時間的・空間的・匿名的な操作性ゆえ便利な「モノ」そのものであると誤解されがちであるが,読み書きするのが人間である以上,常に「コト」の面を伴っている。それが突然大きな「コト」を当事者に突きつける可能性があるということを忘れてはいけない。「モノ」だと思っていた無味乾燥な文字列の中から,突然「コト」としての生身の人間が現われてあなたの心を直撃するのである。  私たちはメールの上で,言葉を好きなようにあやつりコミュニケーションを支配しているように思っているが,実際は逆に言葉によって玩ばれているだけなのかもしれない。

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メールによるカウンセリング再考 (1)
 話をカウンセリングに戻そう。

 本来,カウンセリングというのは,カウンセラーとクライアント(相談者)が同じ場に存在し,そこに起こる「コト」を共有することでクライアントの問題の解決を進めていく手段である。クライアントはカウンセリングの場と非カウンセリングの場(日常生活)を持ち,カウンセリングの場で起こった「コト」をそれ以外の場で追体験することで日常生活を変えていくと言ってもいいだろう。
 そこでは言葉が重要なはたらきをするが,そこで語られる言葉は決して「モノ」そのものではなく,カウンセラーとの転移関係やクライアントの感情などがこめられた「コト」としての言葉である。再現性に乏しい,その場限りの,一回だけの言葉である。仮にクライアントがそれを「モノ」として持ち帰ることがあっても,それを「コト」として日常生活の場で再体験できる場合のみその言葉は有用であり得る。

 メールという媒体によってこのカウンセリングの機能を構成しようとすると,そこにはほとんど克服不可能と言っていいくらいの様々な障害が存在する。

 まずカウンセラーとクライアントが,場を,「コト」を共有していないことである。なるほどメールの読み書きを通じて二人が同じ場にいるかのような錯覚に陥ることは可能である。しかしそれは絶対に錯覚でしかない。そのメールを書いたという「コト」とそれを読むという「コト」は物理的にも時間的にも大きな乖離があり,読み手の中に生じる「共感」のようなものも,その時点では読み手が自分の中で勝手に作っている感情である。次にその読み手が「共感しました」という返信メールを書くまで,書き手は何が起こっているのか知る由もない。カウンセラーとクライアント,それぞれの所で交互に別々の「コト」が起こっているだけで,二人の「間」には何も起こっていないとも言える。二人の間にあるのは無味乾燥な「モノ」としての言葉だけである。

 感情の交流や転移に似た現象を起こすことは可能だろう。しかしそれは擬似現象であって,実態は全く異なるものである。二人の感情は全く別々の所で別々のタイミングで生起しており,実際に共有しているのは「モノ」としての言葉だけである。カウンセラーに対して起こる転移も,実際のカウンセラーではなくクライアントが頭の中で勝手に構成したカウンセラー像に対する擬似転移であり,カウンセラーがそれを読み,解釈し,操作することは極めて困難である。

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メールによるカウンセリング再考 (2)
 また「言葉」は,使い手の意図を超えた恣意性と独立性をもっている。私たちが言葉を使っているのではなく,言葉が私たちを動かしているとまで言い切る考え方もある**。しかもネット上の言葉というのは,文字の配列以外の情報を全く持たず,極めて純化された状態で私たちの前に現われる。カウンセリングという,その人にとって重大でかつデリケートな現象を,この無骨な言葉のみに任せてしまうのはあまりにも乱暴,かつ危険なことではないだろうか。

 全てが言葉の上で起こるということは,全てを言葉にするという行為(言語化)をクライアントに課している面がある。なるほど言語化は問題の意識化や焦点付けなどいろいろな局面で有効ではある。しかしそれはあくまで前意識のレベルまでであって,より深く抑圧された問題やトラウマを言語化させることは,強い退行を起こしたり,トラウマを再体験させてしまったりするため非常に慎重になされなければならない。

 実際のカウンセリングの場面で,慣れたカウンセラーならば,早急な言語化を抑制したり退行をコントロールすることは難しくはない。しかしメールカウンセリングにおいては,クライアント側で起こるこういった好ましくない現象も,返信が届くまでカウンセラーには全く分らない。致命的な退行や行動化が起こってしまっても,クライアントが自力でそれを言語化しSOSを求めるまで,カウンセラーはそれを知ることもできないのである。

 本来,カウンセリングの場と日常生活の場には明らかな区切り,差異が存在した。カウンセリングの場は日常生活とは異なった特殊な場であり,クライアントはここに参加する際に一定以上のモチベーションと金銭的・時間的代償を要求される。必然的に,ここで行われる自分の内面に目を向けたり,自分の抱える問題整理したりといった行為に集中することができるのである。

 しかしメールカウンセリングにはこの日常生活との区切りが存在しない。クライアントはいつでもカウンセリングに向かうこともできるが,カウンセリングから完全に逃げることもできなくなる。カウンセリングが日常生活に滲入してくるのである。ある人はメール書きに異常に時間を費やすようになってしまい,ある人はいつまで経っても重要な問題に直面できず無駄なメールを重ねるばかりになる。

 私にも,ネット依存気味になってしまうためカウンセリングに用いる時間の制限を必要としたケースがあった。例えば,1日のうちで午後11時から12時のみをカウンセリングに用いる時間とし,それ以外の時間にカウンセリングに関するメールを読んだり書いたりすることをしない約束をするのである。しかしそれでも,次第に設定を逸脱することが多くなり,ある程度のところでカウンセリングを終了せざるを得なかった。カウンセラーに実際には会ったこともないというのでは,カウンセラーの存在が枠組みを維持させるほどの力を持ち得ないことが多く,限界設定やその維持は困難である。

 メールの文字数にも制限が必要なケースがある。実際のカウンセリングの場では,クライアントの言葉が自立性を持って走り始めてしまった時,それに区切りをつけ,言葉の暴走を振り返らせることも可能である。しかしメールカウンセリングでは,クライアントの「書く」という行為を制限するものは何もない。何せカウンセラーはその場にいないのである。既にメールにされてしまったダラダラと続く無意味な言葉の羅列に介入してもしょうがない。それは「モノ」でしかない。介入すべきなのは,今クライアントがメールを書いているその「コト」なのである。

 これらのことを考慮すると,私自身にとっては(狭義の)メールカウンセリングは有効性よりも危険性が高く,多大な時間を割いてボランティアで行うべき行動ではないと感じられたため,少数のケースのみで中止した。有効であったと考えられるケースもあったが,ドロップアウトやむしろ止めておいた方が良かったかも,と思えるケースもあった。(私のHPでは「精神科医の〜」と名乗っていることから,より病理の深い明らかな精神症状を伴うケースが多かったという可能性はある。)

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メールによるカウンセリング再考 (3)
 今後,それでもメールカウンセリングを行うとすると,以下のような条件が必要になるだろう。

1. 有料化:クライアントの数を制限し,クライアントのモチベーションを確認,本人の中でのカウンセリングやカウンセラーの位置付けをしてもらうためにも必要である。
しかし,どのくらいの料金にするかが難しい。現在のところ,大体2〜3千円というのが多いようだが,その料金に見合った効果があるかというと...どうだろうか。

2. カウンセリングの枠組み:カウンセリングが無制限に日常生活に滲入することを防ぐため,例えば,メールの送信は週に1回土曜日のみ,カウンセリングに関するメールの読み書きは1日1時間まで,等の枠組みは最低限必要だろう。さらに必要に応じて文字数の制限や,書く内容の限定を加える。

3. インフォームドコンセント:上記のような枠組みなどの説明に加え,メールによるカウンセリングには大きな限界があり,また危険性も高いことをあらかじめ伝えておくことが必要である。免責事項ばかりでは情けない。

4. クライアントの選別:それでもさらにこれが必要不可欠と思われる。来る者拒まずの姿勢はむしろ危険である。内省力があり,文章表現能力が高いことが必要である。変化を受け入れることができ,抵抗があまり強くないことも必要である。精神症状が強い場合,退行促進や行動化誘発の危険性がある場合は禁忌である。適応がない場合いつでもカウンセリングは中止され得ることもあらかじめ伝えられていなければなるまい。
通常のカウンセリングと比べると,カウンセラーがその場に立ち会わないことからも,クライアントの自己作業の比率は非常に高くなる。クライアントが自力で言語的な作業を進め,結果を出して行かなければならない。つまりそれに耐えられるクライアントでないといけない。(しかしそれを一体どうやって見抜くというのか)

5. 他の連絡手段の確保:もし不幸にも行動化が起こったり,医療の介入が必要になった際に備えて本名・メール以外の連絡先はお互いに確保しておかなければならない。医療機関との提携も必要かもしれない。

6. カウンセラーの条件:メールカウンセリングを行うカウンセラーには通常のカウンセリング以上の高い能力が必要とされるのは言うまでもない。このような限定された悪条件の中で言葉だけを武器に有効なカウンセリングを行うのはかなり困難なことである。時間もかなりかかるので,報酬を確保した上で専任化することが望ましい。
クライアントからのカウンセラーの評価(満足度)をフィードバックしているところもあるようだが,これはあまり良くないように思う。カウンセリングがクライアントのご機嫌取りに終始してしまう可能性があるし,カウンセラーの自由をかなり束縛することになる。

 結局のところ,これらの条件を満たすクライアントはかなり限られるし,安全性を考慮するとメールという媒体の利点はことごとくスポイルされてしまう。それでもメールでカウンセリングを行う意義があるかどうか...。

 最近はネット上でのカウンセラーを大量に養成・認定するという団体まである。上記のような立場にたつ私にとってはかなり怖い話である。どうかくれぐれも安易なオンラインカウンセリングによって被害を受ける人が出ないようにしっかりとした養成を行って欲しいものだ。

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まとめ
 さて,まとめに入ろう。

 上記のように私の考えでは,メールでの(狭義の)カウンセリングは非常に困難かつ危険な面を持ち,対象はかなり限られると思われる。クライアントは明らかな精神症状を持たない軽症例に限られ,さらに自分一人でも言語的な作業を進める能力と自立性を保った人でなければならない。有料化されなければならないし,その他にも安全性と効果の確保のため様々な枠組みが必要となる。そしてこれらには十分なインフォームドコンセントに基づく契約が前提にならなければならない。これを行うカウンセラーにも十分な知識・経験と慎重な態度が必要である。できれば専任化が望ましい。

 したがって,メンヘル関連でメールという媒体を有効利用しようとすると,(狭義の)カウンセリングではなく,むしろ医療相談のような「情報提供」をメインにすべきであろう。この場合は,サービスの有料化や過度な枠付けは似合わない。ただ,この場合でもカウンセリングと同様の危険性は存在する。正確な情報を安全に提供するために,提供者にはかなりの知識と経験,そして慎重さが必要である。提供者の労働に対しては十分な対価が支払わなければならない。また,医療機関へ適切な紹介が行われるような提携も必要かもしれない。

 このためには企業スポンサーがサービスの場と情報提供者への報酬を提供し,サービスそのものは無料で行えるような体制がベストだろう。初回メールを適切な情報提供者に振り分けるマネージャーの存在は重要である。サービスの内容を分野別に分けるとすれば,分野別の管理者・全体の管理者などが別々に必要だろう。
 そして最近やっとボチボチこのようなサービスが出始めている。これはとても将来が楽しみだ。

 また,すでに行われている精神科医療を補助するような形でメールを用いることは比較的安全にできるだろう。例えば,精神科で行われる精神療法や行動療法には日記やノートを用いるものがよくある。これをメールによって代行することは可能だろう。自宅でメールを書く際の枠組みさえキチンとしておけば,治療初期の介入の効果を高めることができるだろう。ただし,これも通常の面接なり精神療法なりが高頻度に並行して行われていることが必要条件である。

 おそらく電子メールというこの極めて特殊な通信手段を有効利用する方法はまだあるだろう。メンタルヘルスというデリケートな領域においても。だがその際にはまず「安全第一」である。これをおろそかにしてメンヘルを扱うことは許されない。これが,自業自得とは言えかつて地獄を経験したバカ医者の最終的な提言である。

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資料
* : この「コト」「モノ」という概念は哲学でいうところの「ノエシス」「ノエマ」とほぼ同義に使っています。

** : 例えばラカン派の精神分析では,「言語機能=シニフィアン」こそが人の精神の機能そのものであり,人は言語によって去勢された無力な存在である,という考え方をすることがあります(これは誤解を招きかねない乱暴な言い方かもしれませんが)。

*** : 北米のネット事情とメンヘルに関する文献には現在少しずつあたっています。そのうちアップできるかも。

参考にさせていただいたサイト:

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