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認知科学とは?現在の科学技術では,ヒトの心のなかを直接外から読み取って調べることはできません。フィルター理論自然科学的な方法でもってヒトの精神活動をとらえようとすると,それはどうしても外から何らかの手段でもって何かを測定するということになります。これはとらえどころのない心のはたらきを何らかの「量」に置き換えるということです。
例えば,脳波や脳内磁場,脳の血流,脳の形態変化,脳内のある物質の量,その他にも心電図や筋電図,運動量,何らかの心理テストの成績などを測定します。
この場合の「量」というのは,精神活動に相関して刻一刻変化する経時的・動的な量です。ある時点での値は,静的な一定量を表すものではなく,あくまでその時点での一時的な値に過ぎません。したがってその量の解釈は常に精神活動の時間的な・動的な流れの中で行われなければなりません。
精神活動に流れをもたらしているのが周囲の世界との関わりです。そしてこの周囲の世界との関わりを保障しているのが「感覚」「知覚」です。つまり外界からの刺激を「感覚」によって受け取りこれらを「知覚」「認識する」,そして結果として精神の中に外の世界に対応した何かが現われる,これらを絶えず繰り返して行くことによって精神活動の流れは保たれています。こういった精神のはたらきを「認知」と呼びます。
もちろんこれはいろいろ議論のあるところです。世界との関わりを持たないコギト (自我)は実在するのか,世界とそれを認識する主体を前提として区別する考え方は主と奴隷の弁証法 (ヘーゲル)の再現に過ぎないのではないか,とか...まあ,こういう話は哲学者に任せておきましょう。ヒトの精神活動をこういった「認知」の機能を中心に考えて行こうとするのが「認知科学」の考え方です。そしてこれが現代の心理学や精神医学の中心的な考え方になっています。そしてこの認知科学を実証科学たらしめているのが「測定」「量」といったモノです。認知科学の仮説は何らかの測定技術とそれで測られた量によって検証され,学説として成立します。
しかし認知科学では常に外界からの刺激とその受容によって精神活動が駆動されているかのような「受け身」のモデルに立つがゆえ,精神活動の主体はどこへ行った?ということになります。また知覚に対応するものを単純に「行動」と割り切ってしまうため,精神活動は入力と出力しか持たない極めて機械的な「PCのような」ものと考えられがちです。
また患者さんにとって周囲の世界は,通常の世界ではない「何かこれまでと違う普通ではない世界」として現れますが,認知科学では世界は「誰にとっても均質な唯一普遍の世界」であると純朴に定義されます(それが自然科学の大前提ですから)。しかしこれでは患者さんの世界は全て間違った認知によってもたらされた歪んだ世界であるということになってしまいますし,患者さんを「異常者」「病者」として健常者と区別し孤立化させてしまうことになってしまいます。
このように認知科学的なモノの見方は,人間を受動的・機械的な存在にしてしまう面があります。
が,患者さんの主体を出発点にして極めて厳密に論理を展開したとしましょう。すると今度はきっと素晴らしく哲学的な精神病理学の記述が出来上がります。ほとんどの人にとってはちょっと読むだけで頭が痛くなる近寄り難い逸品です。これはこれで現実の患者さんからは遠い淋しい営みになってしまう可能性があります。
それではどのようなアプローチをするのが良いのか ---------- おそらく正解などないのでしょう。しょせんは人間のやることですから。しかし,認知科学的な見方をするにせよ,精神病理学的なアプローチをとるにせよ,それぞれの立場と欠点を十分に認識しながら進んで行けば,(それらが交わることは永遠にないにせよ)臨床に還元できるものは決して少なくはないはずです。
過包摂理論人間の脳には常時たくさんの感覚情報が同時に入って来ています。
例えば今これを読んでいるあなた。今,あなたの目にはモニターに映った文字が視覚情報として入力されています。でもそれと同時に周囲のいろいろな物音(PCのファンが回る音,時計の音,隣室のTVの音,窓の外のクルマのエンジン音などなど...)も同時に耳から聴覚情報として入っています。また指先からキーボードやマウスの手触り,お尻や背中からは座っているイスの感触,足からはひんやりした床の感触が体性感覚(触覚)情報として同時に伝わっているかもしれません。またコーヒーでも飲みながらこれを見ているのであれば,さらに口唇にあたるコーヒーカップの感触,コーヒーの匂い(嗅覚),味(味覚)といった情報も同時に脳に伝わってきているはずです。
これらの情報は常に同時並行で脳に伝わっているはずですが,実際に意識されるのはこのうちの1つかせいぜい2つです。無理に複数の情報に意識を向けようとすると大変な努力が要りますし,とても長時間は続きません。
これは脳を重要な情報の処理だけに集中させるために存在する「注意」のはたらきであると考えられています。文字を読んでいるときに,周囲の物音やお尻の感覚や何かの匂いなどもろもろの関係ない情報が意識に上って来れば,文字の情報処理は妨げられ,いわゆる「気が散る」「集中できない」状態になります。このため脳は「注意」によって不要な情報が意識に上るのを抑えているわけです。統合失調症の患者さんではこの「注意」のはたらきがうまく行っていないことが様々な研究から明らかになっています。
この「注意」のはたらきは,フィルターのようなものとして例えることができます。外から入ってくる様々な刺激をふるい分け,関係のない刺激はカットして必要な刺激だけ通すフィルターです。図にすると下のようになります。
注意のフィルター | 関係ない刺激 → | | 重要な刺激 → → → 情報処理 → → → 正常な認知 | 関係ない刺激 → | |
外界 |
大脳 これに対し,このフィルターに異常がある場合は,関係のない不要な刺激までがどんどん意識の中に入り込んでしまい,脳が大量の情報を一度に処理できず混乱してしまいます。Broadbent (1958)は著書の中で統合失調症の基礎障害としてこのフィルター機能の異常をあげ,無関係な情報が脳の中で氾濫することで誤った認知が生じる,と考えました。
フィルターに異常 | 関係ない刺激 → → → 情報処理 | 大量の情報で脳が
こんがらかってしまい
誤った認知に至る重要な刺激 → → → 情報処理 → → → | 関係ない刺激 → → → 情報処理 |
外界 |
大脳 セグメンタル・セット理論上記のフィルター理論から発展したものに過包摂(かほうせつ overinclusion)理論があります。「過包摂」というのは "over-inclusion" を訳した言葉ですが,"include"が「含む・入れる・含有する」という意味の動詞であることからすると「一定のスペースに何かが過剰につめ込まれている」というイメージを思い浮かべてもらえばいいと思います。
つまり過包摂というのは,注意のフィルターが壊れてしまった結果,関係のない様々な刺激が意識に飛び込んで来てしまい,本来の思考・認知の流れの中に無関係な別の要素がいっぱい含まれてしまう事態を表現しています。Cameron (1939)は統合失調症の患者さんの言語を解析し,概念が拡散していてしばしば不適切な個人的事象がそこに込められていることを報告しました。Payne (1966)は先のBroadbent (1958)のフィルター障害理論とこのCameronの理論をまとめ,過包摂こそが統合失調症の基本的な障害であり,過包摂の結果として生じてくる「過包摂思考 overinclusive thinking」が,かつてブロイラーが統合失調症の基礎障害であると考えた「連合弛緩」の本態であると述べました。
ここで大事なことは,思考の流れの中に侵入してくる無関係な要素には,外的な刺激だけではなく脳の中から出てくる(無意識からの?)要素も含まれることです。つまりある物事について考えているときに,その思考に関係のない考えが浮かんでこないように抑制している内的なフィルターも想定されているわけです。
例えば,こういう状況を想像してみて下さい。
あなたの家族の誰かがお土産にもらってきた美味しそうなリンゴがテーブルの上に置いてあるのがあなたの目に入ったとしましょう。「美味しそうだな」→「食べてみようかな」→「でも皮をむくのが面倒だな」→「後で誰かが皮をむいて食べ出したら一切れ頂戴しよう」
とか,
「美味しそうだな」→「食べてみようかな」→「でも皮をむくのが面倒だな」→「いいや丸かじりしちゃえ」
...なんていうのがまずまず普通の反応でしょうか。
ところがこの時に,「やけに赤いリンゴだな」とか「赤いものは血だ」「椎名林檎」などという関係のない考えが思考の中に割り込んでくるとどうなるでしょうか。「美味しそうだな」→「食べてみようかな」→「やけに赤いリンゴだな」→「でも美味しそうだな」→「赤いものは血だ」→「食べると歯ぐきから血が出るかもしれない」→「そういえば『椎名林檎』なんていうアーティストもいたな」→「彼女の歌には毒があったな」→「白雪姫のお話にも毒リンゴが出てきたな」→「このリンゴにも毒が入ってるかもしれない」→「大変だ!誰かが間違って食べないうちに捨ててしまおう」
関係のない考えがどんどん浮かんでくるのを抑制できないと,このようにまとまりのない思考になってしまい,全く違った結論(リンゴを捨ててしまう)に至ってしまうかもしれません。
因みに「リンゴは赤い」「血は赤い」から一足飛びにリンゴと血を結びつけてしまうような思考を「述語思考」「原始思考」などと呼び(von Damarus, 1944; Arieti, 1955),統合失調症に伴う連合弛緩の際によく見られる思考異常だとされています。また「リンゴ」という音から直接「椎名林檎」とか「看護」「珊瑚」「リング」など似たような音の言葉を想起してしまうのは「パラディグマ的」と表現され,これも統合失調症の際の思考異常に特徴的とされていました(宮本忠雄, 1978)。
過包摂理論はフィルター理論に基礎を置いています。しかしながら,このフィルター理論を実際の脳・神経系の機能に置き換えて考えようとすると様々な問題が出てきます。フィルターは刺激が脳に入る前にあるのかその後にあるのか,フィルターの開き具合や開くタイミング・方向性を決めているのは何なのか,フィルターは一つなのかそれとも複数のレベルにわたっていくつも存在するのか,フィルターがブロックするのは刺激の入力なのか情報処理過程なのか...言い出せばキリがありません。
また過包摂理論では思考障害のないタイプの病型をうまく説明することはできませんし,自我障害などの統合失調症に特異的とされる他の重要な症状にもほとんど言及できていません。これらのことからフィルター理論や過包摂理論は「机上の空論である」という批判を受け,統合失調症の病理仮説の表舞台から姿を消しました。しかしながら人の認知機能において「注意」の機能が非常に重要であることは確かであり,統合失調症の患者さんでこの注意の機能に何らかの障害が見られることが多いのもまた事実です。近年のゲーティング機能障害説やワーキングメモリー障害説の中にもこれらの理論のエッセンスは形を変えてしっかり生き残っています。
認知心理学が大きな発展を見せた1950年代から60年代はじめにかけて,統合失調症の病理に関しても認知科学的な観点から様々な理論が提出されました。これらは互いに相反するものや実際の実験結果に一致しないものなども含み,実に種々雑多なものでした。Shakow (1962)はこれらを受け,それまでに明らかになった多くの実験心理学的知見を整理し,独自のアイデアのもとにそれらをまとめました。このアイデアが「セグメンタル・セット理論」と呼ばれるものです。
彼はその論文(1962)の中で,まず統合失調症の研究には常に疾病論的な問題と実験条件上の問題が存在することを指摘し,研究の前提となる「設定」が重要であることを述べています。疾病論的な問題というのは「はたして統合失調症は一つの病気と言えるのか」という問題にはじまり,病型や病期による症状の相違によって研究結果が大きく左右されることを言います。また実験条件上の問題というのは,患者さんが示す結果が常に一定とは言えず,同じ患者さんでも周囲の状況によって結果が大きく違ってくることを言います。これらの問題から彼はその理論の対象として「慢性患者さん」のみを扱う設定を行っています。慢性期の患者さんだと診断も確定しており,状態も安定していて周囲の状況により変化しにくいと考えられるからです。
彼はまず理論の展開を始めるにあたって,これまでの様々な研究を概観し,統合失調症患者さんの一般的な特性を素描します。すなわち,新しい事物に対して慣れるのが難しく新しい物事を避ける傾向(neophobia),その場面に関係のない刺激に影響を受けやすいこと,通常なら心の底に沈んでいて浮かんでは来ないような過去の感情が常に心の表層を漂っていること...などなど。彼はこれらをある種の「注意」の障害としてとらえ,その背景として,自分の内外からの刺激を処理する際の「構え」"set" に何らかの障害があると述べます。
そして次に,この"set"は人が大人になるにしたがって成長し,いわば「大人のset」になると考えます。これが"major set"です。人は"major set"を持つことでより広い範囲の事物を包括的・全体的にとらえることができ,新しく起こってきた環境の変化にもラクに対処できます。「落ち着いた」「全体的な」構え・心の持ち方,とでも言えば分りやすいでしょうか。患者さんはどうもこの"major set"を持つことができていないようだ,というのが彼の説です。
その原因の一つとして彼は,患者さんでは@子供から大人へ成長して行く中で満たされるはずだった基本的な欲求が満たされないまま残っている,Aそれらは大人の"major set"のもとでは満たされることがない,Bそのため"major set"を放棄し,より未分化な"minor set"を主に使うようになる,Cその結果として認知の様々な面が「分断化・断片化」 "segmentalized"される---このように述べています。
最後に彼は"segmental set"によってどのように認知にひずみが生じて来るのかを分りやすい例え「木を見て森を見ないこと」を使って表現しています。それによると,例えば妄想型の患者さんだと,森を通る時に木の一本一本の生え方や葉っぱの形状にとらわれてしまってちっとも先に進めない状態だと考えられますし,破瓜型の患者さんだと,森に入る以前に全ての木,地面,匂い,物音にとらわれてしまい道を見失って彷徨ってしまう状態だと表現されます。いずれにしても,患者さんは,本来は"major set"によって森を全体として見通し効率よく進んで行くべきところを,"minor set"つまり"segmental set"によって断片化したとらえ方しかできなくなってしまっているのだ,と結論付けられています。
彼の考え方は認知科学的な精神病理理論に大きなインパクトを与え,最近の研究の中でも時おり引用されることがあります。
PCになぞらえると上述のように認知科学ではヒトの精神活動をよくコンピューターのようなアルゴリズムで表現します。例えばこんな風に。
眼・耳など 筋肉など
刺激 →
感覚器 →
大脳 →
効果器 →
行動 感覚 知覚 このようなモデルには重大な欠落部分があります。
例えば,常に知覚が行動に即,直結する人間なんているでしょうか?もしいたらそれはまるで原始人か野獣のような,とても人間とは呼べない存在でしょう。しかしこのモデルに基づいた精神を考えると人間はみなそういう存在になってしまいます。
また,常に外界からの刺激がないと行動できない人間っているでしょうか?いたりして。このモデルでは常に何らかの刺激入力がないとヒトは一切行動できないことになってしまいます。これではヒトは主体的に行動を開始することができません。このモデルではヒトは常に刺激を受容しそれに合わせて行動を主力するだけの存在です。しかしながらこのようなモデルでもヒトの精神活動のごく一部については表現できるでしょう。例えば,刺激に合わせてボタンを押したり押さなかったりするような単純な機械的活動ならば。
いずれにせよ,精神生理学ではまだあまり複雑な精神活動を扱うことはできません。複雑な精神活動には様々なファクターが含まれており,それらの絡まり合いまでは測定できないからです。ですから我々にできることというのは患者さんに単純な作業をしてもらいその際の精神活動を測定することになります。つまりそういった単純な精神活動の解釈のためにはこのようなモデルでも有用なことがあるのです。と言っても,ヒトの精神活動を表現するのにいくらなんでもこのモデルでは単純過ぎますので,もう少しモジュールを増やしてみましょう。ヒトは常に並行して無数の刺激を外界から受け取っていますし,単に一つの運動系ではなく様々な(眼球運動系や内臓運動系など)運動系に同時に行動が発現しています。また,知覚処理を行う大脳皮質とそれらを統合する大脳連合野,記憶の機能を分化させたモデルにすると次のようになります。
あ〜,この図作るのめっちゃ疲れた...
眼・耳など <--- -- ------- -- 大脳皮質 -- ------- -- ---> 筋肉など
刺激1 →
感覚器1 →
大脳皮質
(一次
感覚野)→
大脳皮質
(高次
感覚野)→
大脳皮質
(連合野)→
大脳皮質
(高次
運動野)⇒
大脳皮質
(一次
運動野)⇒
効果器1 ⇒
行動1
刺激2 ⇒
感覚器2 ⇒ ⇒ → →
効果器2 →
行動2
刺激3 →
感覚器3 → → ← ← → →
効果器3 →
行動3 ・・・ ・・・ 感覚 知覚 ↑ ↓ (意図) (運動) ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
記憶機構 (連合野 + 海馬?) ・・・ ・・・ ここでは,数ある刺激の中から「刺激2」に注意が向けられ,「感覚器2」と「大脳皮質感覚野」を通して「大脳皮質連合野」に到着,「記憶機構」と照合・処理されて「行動1」へと出力されていく過程を表現しています。赤い矢印がメインの情報の流れです。解ります?
例えば,「ピカ」という声と「チュー」という声の2種類がランダムに繰り返し流れるのをイヤホンから聴いてもらい,「ピカ」の時だけ手に持った押しボタンを早押ししてもらう,そんな実験をしてみましょう(これを選択反応時間課題といいます---あ,いや別に覚えなくていいです)。
- イヤホンの音(刺激2)に注意を向けている間も,眼から何らかの刺激(刺激1)は入っていますし,お尻が痛かったり,背中がチトむずむずしたり,色んな刺激(刺激3以降)が脳に入ってきています。
- しかしそれらには目もくれず,イヤホンの音に注意を集中します。音の刺激は1次感覚野(聴覚の場合は聴覚野)で処理された後,さらに高次感覚野で処理を受け,音や言葉として認識されます。
- 「ピカ」が聴こえると記憶の中の「ピカ」と照合し,ボタンを押すべきターゲットの刺激であると認識します。
- 「ボタンを押すぞ」という意図が,高次運動野から1次運動野を経て,特定の筋肉の運動に解釈されます。
- 運動野から手の筋肉(効果器1)に命令が出され,筋肉が収縮してボタンが押されます(行動1)。
これら一連の信号の流れはPCでの情報処理によくなぞらえることができます。
例えば,刺激の入力はマウスやキーボードなどハードウェアーからの入力,行動などの出力系はモニターや周辺機器への出力,大脳皮質感覚/運動野での情報処理はBIOSやOSレベル(デバイスドライバ?)での入力/出力の制御,連合野での刺激の統合はプログラム本体での処理...というように。ここで,何らかのプログラムが実行されている際に,マウスからの入力によってモデムに命令が出され,それと同時にモニターにもダイアログが出されるような場合を考えて見ましょう。上の図を使ってこのプロセスを表現すると下記のようになります。
入力機器
(ハードウェア)<--- -- ------- -- ソフトウェア -- ------- -- ---> 出力機器
(ハードウェア)
入力1 ⇒
マウス ⇒
BIOS ⇒
OS
(デバイス
ドライバ)→
プログラム本体 →
OS
(デバイス
ドライバ)⇒
BIOS ⇒
モニター ⇒
出力1
入力2 →
キーボード → → → →
サウンド
カード→
出力2
入力3 →
モデム → → ← ← ⇒ ⇒
モデム ⇒
出力3 ・・・ ・・・ 感覚 知覚 ↑ ↓ (意図) (運動) ・・・ ・・・
OS ↑ ↓
BIOS ↑ ↓
記憶機器 (メモリ + ディスク類) マウスからの入力(例えばダブルクリック)はマウスポートからPCに入りBIOS(ハードウェアに組み込まれた小規模な基本プログラム)とOSの基本部分(デバイスドライバ類)の処理を受けてプログラム本体に渡されます。メモリ上に展開されたプログラムはそのコードに従ってこの入力を処理し,あらかじめ記述された通りの出力をOSに渡します。OSはBIOSレベルの処理を介してモニターとモデムに信号を出力します。これはあくまで一例です。プログラムは直接I/Oにアクセスすることもできますし,常にこのような処理をしているとは限りません。
認知科学ではヒトの精神活動を考える上でこのようなコンピューター的なメタファーをよく用います。
確かに結構うまくメタファーしてしまえるのですが...ここで決して忘れてはいけないことが一つあります。それは,上に述べたように「このようなコンピューター的メタファーは極めて単純な精神活動にのみ適応できる」ということです。決して全ての精神活動をこのようなメタファーで考えてしまってはいけません。このメタファーが成立するのはヒトの精神活動のごく一部です。
OSレベルの障害?話を統合失調症に戻しましょう。
統合失調症の患者さんの病理をこの認知科学の立場から考えるとどのように説明できるのでしょうか。現在,仮説として考えられているのは次のようなものです。
1. 思考障害・概念の連合障害・言語機能の異常など : プログラム本体の障害 2. 自我障害・情動の障害・高次注意機能の障害など : OSレベルの障害? 3. 注意障害・記憶制御,運動統制の障害など : BIOSレベルの障害? 1.は伝統的な精神医学においてこの病気の中核的な症状,最も重要な基本症状としてとらえられていたもので,「思考のまとまらなさ」「思考と思考のつながりの悪さ」「会話のちぐはぐさ」として現れる症状です。精神医学用語では「連合弛緩」と呼ばれます。「妄想」などもここに入るでしょう。思考などメインの精神活動そのものがうまくいかない障害なので,PCになぞらえるとプログラム本体の障害と考えられるでしょう。
2.は思考の成立する基盤となる「自我」や「情動」の障害であって,プログラム本体の動く基盤の障害なので,OSレベルの障害と考えると解りやすいでしょう。自分の思考や行動が自分のものとして感じられない「離人体験」「作為体験」や,知覚の異常である「幻覚」,思考の漏洩感である「考想察知」「考想伝播」などがこの障害の直接の結果として現れてきます。現象学的・人間学的精神病理学などではこのレベルの病理を最も重視します。
3.はより基本的な情報の入出力に関する障害です。古くは「フィルター理論」,最近では「ゲート障害理論」と呼ばれる,外からの刺激,あるいは内的な記憶からの入力を適切に扱うことができないため脳の中で情報がオーバーフローしてしまい,その結果様々な障害が現れる,とする考え方があります。また「作動記憶 Working Memory」という刺激を情報処理する際の記憶制御に障害があるという説も有力です。またこれとは別に運動・言語を含む出力系の基本的なメカニズムに障害があるとする考え方もあります。これらはBIOSレベルの障害になぞらえることができます。
PCのトラブルを経験した人ならお分かりだと思いますが,低次の機能の障害はより高次の機能にも大いに影響します。
例えば,もしOSに異常があればその上で走っているプログラムの多くの機能に障害が出てきます。プログラム本体は一生懸命何とか機能しようとしますが,自分の足元にあるOSの障害があちこちで足を引っ張るため,結果的にはあちこちに異常が生じます。
もしBIOSレベルに異常があれば結果はより深刻です。OSも何とかしようとしますが,基本的な情報の入出力に問題があるのでうまく走りません。その上で走るプログラム本体はさらに不安定になってしまいます。一生懸命先へ進もうとしますが,いたるところで異常な結果が生じてきます。現代の認知科学的な考え方では,統合失調症の病理に関してはこのBIOSレベルでの障害が最も重視されています。