2代目タイガーマスク

評伝


赤地に青なので目がチカチカする。89年3月ごろより長期欠場まで着用

動乱の時代が産んだ政治的キャラクター

2代目タイガーマスク誕生の経緯は、UWF設立、新日大量離脱事件といったプロレス界の大動乱と背中合わせであった。その意味で、すぐれて政治的なキャラクターだったと言える。
初代タイガーマスクの「引退」後、新日でも2代目をデビューさせる計画があった。白羽の矢が立ったのは初代の付き人だった山崎一夫で、体育大学で1年間、器械体操を学ばせる予定だったと聞くが、諸々の事情で中止された。
このプランを全日に持ち込んだのが、当時新日本プロレス興行社長だった大塚直樹氏である。彼は原作者の故・梶原一騎氏と馬場の橋渡しをし、メキシコEMLL遠征中だった三沢光晴の変身を実現させたのである。馬場も一時はザ・タイガー(佐山)を全日マットに上げることに興味を示したが、条件の問題で諦めた経緯がある。2代目タイガーを「オレの隠し子」と称し、士道館やハワイでの特訓に付き合う熱心さだった。
この誕生劇には、あるいは大塚氏のかつての上司、新間寿氏の意向ないし怨念も作用していたかも知れない。新間氏はザ・タイガーの参加によりUWFを追われた格好になっており、全日にタイガーマスクを出現させることでザ・タイガー復活のインパクトを薄めようとした---との観測はあながち的外れとも言えないだろう。
「初代が戦闘機なら、2代目は重爆撃機」。84年8月26日、田園コロシアムでのデビュー戦を観戦した梶原氏の言葉である。この指摘に間違いはなかった。当時、新日のジュニア戦線ではザ・コブラ、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスの3人が台頭し、初代タイガーのライバルだった小林邦昭、ブラック・タイガー(初代)らが凋落するという、パワーファイト全盛の時期を迎えていた。最初はヒョロッとしていたとはいえ、ヘビー級なみの長身をもつ2代目タイガーは、全日ジュニアにもこの傾向をもたらしたと言える。
長身故に、その動きは初代に比べてどうしても遅く映る。何かにつけて初代と比較されるプレッシャーも想像に難くない。それでも日本人レスラーで初めてトペ・コンヒーロやプランチャ・コンヒーロを公開するなど、2代目タイガーのファイトはそれなりに「タイガーマスクらしさ」をにじませていた。ただ翌年夏、肉体改造に成功してからは更に重厚なファイトに終始するようになり、本人ももはやヘビー級転向だけを志向するようになってしまった。
ましてこの時期、初代タイガーが既にスーパー・タイガーとしてシビアな路線を歩んでいたことで、プロレスに徹する2代目タイガーはイメージ面でかなり損をしていた。

レモンイエローのマスクは欠場明けの90年1月から最後まで着用

禁断の木の実だった「重量級の虎」

デビュー直後の2代目タイガーは、なかなかマッチメークに恵まれなかった。もちろんテレビ中継には毎週のように登場し、破格の売り出しを受けてはいたが、相手は主としてルチャドール。強豪相手のシングルマッチはなかなか組まれず、試合はいつも緊張感を欠き、いわば「実技発表会」の様相を呈していた。
85年にはジャパン・プロの小林邦との抗争がスタートしたとはいえ、D・キッドとはまともな形でのシングルは1回のみ、D・スミスとは組まれずじまい。86年前半にザ・グレート・カブキとの抗争があったが凡戦に終始し、マスコミから注目されたS・冬木との抗争は遂に一度も試合が実現することなく、全くの尻切れトンボに終わった。
馬場の、あまりに安全運転なマッチメークが残念である。ジャパン勢参戦で日本人選手の数が飛躍的に増え、シングルを組みにくかったことはわかる。しかしあの時期、2代目タイガーはもっともっと、名勝負の山を築けたはずだった。中途半端な売り出し方と、ヘビー級転向を急いだことが結果的に、タイガーをone of themのレスラーにしてしまうこととなる。
ヘビー級転向後は全日お得意の「猛虎7番勝負」が組まれ、鶴田、天龍、谷津らとのシングルが組まれた(ちなみにこの企画は当初、対戦相手をファン投票で募ったものだが、結果的にはほとんど反映されていない。また止むを得ない事情とは言え、第2戦にフランク・ランカスターが名を連ねたことは汚点となった)。タイガーはこれらの相手に片っ端から負けた。更にはカート・ヘニングのAWA世界王座やリッキー・スティンボートのNWA世界王座にも挑戦させられ、当然ながらフォール勝ちを収めることは許されなかった。初代タイガーはシングルでは反則負けがひとつあるだけであり、2代目もジュニア時代は小林邦に1度だけ、フォールを許したきりだったのに、である。
これがヘビー級の世界である。ことヘビー級にあっては、「常勝」はエース級のみにしか許されない。3代目4代目にも受け継がれてしまった「負けるタイガーマスク」の姿はここに始まる。「決起軍」のリーダー、新世代の担い手としての地位は保証されていたが、タイガーの団体内の地位は4番手か5番手程度であった。マスクマンであったことがその最大の足かせであり、それに飽き足らなくなった三沢はマスクを脱ぎ、本格派としてトップを目指した。当然の結論である。
三沢光晴が優れたレスラーであることは認めよう。しかし2代目タイガーマスクは、残念ながら初代を超えることはできなかったし、「タイガーマスク」というブランドに陰りを生じさせてしまったことは否定できない。その傾向は、次の3代目でピークに達することとなる。


年譜

国内シングル全戦績

覆面の変遷



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