初代タイガーマスク〜タイガーキング

年譜

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1981年

4月23日:新日本プロレスの蔵前国技館大会で衝撃のデビュー戦。D・キッドを原爆固めで破る。正体はもちろん、元NWA世界ミドル王者でメキシコ・イギリス遠征に出ていた佐山サトル(本名・聡)であった。

5月8日:イギリスへの短期再遠征を経て、MSGシリーズ序盤戦に特別参加。この日から5試合に出場する。

5月17日:タイガーマスク(ティグレ・エンマスカラド)としては初のメキシコUWA遠征へ。エル・トレオでG・浜田、小林邦と組み6人タッグに出場する。23日まで計5試合を消化。

6月3日:愛知県体育館で帰国の挨拶をし、日本マット長期滞在を宣言。その後三たびイギリスへ戻り、初代世界ヘビー・ミドル級王座決定トーナメント決勝戦でM・ロコ(後の初代B・タイガー)に敗れる。

6月24日:蔵前国技館でのビジャノ3号戦のため1試合のみの帰国。四たびS・リーとしてイギリスへ戻る。

7月31日:サマーファイト・S後半戦からようやく日本定着を果たす。

9月23日:田園コロシアムでソラール(1号)と対戦。蹴りの連打で右肩脱臼に追い込む非情のファイト。

10月8日:蔵前国技館で初のマスカラ・コントラ・マスカラに挑む。M・ハリケーンを破り、正体(ボビー・リー)を露わにする。リーはこのとき腰を痛めており、本来の実力が全く発揮されず、かつ引退試合となってしまった。

11月5日:蔵前国技館で浜田と初の対決。リングアウトで辛勝。

12月8日:蔵前国技館でE・カネックと初対決。両者リングアウトで引き分けるもヘビー級のパワーに押され、左足首骨折の重傷を負う。


1982年

1月1日:藤波が返上したWWFジュニアヘビー級王座決定戦でキッドを破り、第6代王者となる。日本人レスラーとしては2人目の奪取で、この後ザ・コブラ(G・高野)とH・斉藤に継承された。

1月4日:東京スポーツ社選定の'81プロレス大賞で大衆賞を受賞。

1月8日:後楽園ホールでA・猪木、藤波と組み、6人タッグながら初のメインエベント出場。A・T・ブッチャー、ブレット・ハート、B・フェース組を破る。

3月11日:キックボクシング・大極ジムに初出場。B・キャットを下す。

4月8日:新日本のアラブ首長国連邦遠征に参加。D・キッド、ブレット・ハートを連日、連破する。

4月21日:蔵前国技館でのチャリティ興行で、初代B・タイガーと初対決。ドローながらWWFジュニア王座6度目の防衛に成功する。

4月25日:山形・川西町体育館で浜田と組み、B・タイガー、J・ゴンザレス(のちB・ブロディ刺殺犯として知られる)組と対戦中、右ヒザじん帯損傷の重傷を負う。

5月2日:後楽園ホールのリング上で、WWFジュニア王座返上と欠場を発表。

5月20日:中村市スポーツセンターで復帰戦。J・ゴンザレスを下す。

5月25日:静岡産業館でL・ソントンを破り、NWA世界ジュニアヘビー級王座奪取、第34代王者となる。日本人レスラーとしてはH・マツダ以来18年ぶり2人目、またマスクマンとしては史上初の獲得。当時このベルトは管理主体が曖昧で、全日本プロレスのG・馬場は「無効」との宣伝を展開、またNWA側から防衛戦の権利料を要求された経緯から初防衛戦は暫く組まれなかった。のちザ・コブラが受け継ぐが、後年のジュニア8冠王座を構成した夢ファク版同名タイトルは全くの別物である。

5月26日:大阪府立体育会館でB・タイガーを破り、WWFジュニアヘビー級王座奪還、第8代王者に返り咲く。連夜のタイトル奪取に加え、NWA・WWFの2冠王は史上初の快挙だった。

5月30日:後楽園ホールでの新格闘術・士道館の興行に初出場し、タッグマッチを行う。

6月18日:蔵前国技館でウルトラマンとのアイドル・マスクマン対決が実現。WWFジュニア王座初防衛に成功する。

7月23日:石川県産業展示場でD・キッドとノンタイトルで対戦。フェンスアウトの反則負けを喫する。初代タイガーとしては今日まで、唯一のシングルでの黒星。また猪木が欠場していたこともあり、初のシングルのメインエベント出場でもあった。

8月30日:ニューヨークMSGに初出場。D・キッドを破りWWFジュニア王座6度目の防衛に成功し、以後全米で爆発的な人気を得る。

10月22日:広島県体育館でL・ソントンと対戦。NWA世界ジュニア王座の初防衛戦を予定したが、ソントンのウェイトオーバーによりノンタイトル戦となる。「負けたら王座返上」を宣言、一蹴したが、試合前に海外遠征帰りの小林邦が乱入、遺恨が芽生える。

10月26日:大阪府立体育会館で小林と対戦。マスクを引き裂かれての反則勝ちで、WWFジュニア王座9度目の防衛。

11月4日:蔵前国技館で2冠を賭けて小林と再戦するも、またもマスクを破られ反則勝ち。WWFジュニア王座は10度目、NWA世界ジュニア王座は初の防衛に成功。

11月10日:この日より1ヵ月間、海外遠征へ。米WWFとメキシコUWAをサーキットし、圧倒的な声援を受ける。この間、WWFジュニア王座を計4回防衛。海外での防衛サーキットは後にAWA世界王者のJ・鶴田、NWA世界王者の蝶野らが実現したが、この時点では画期的と言ってよかった。

1983年

1月4日:'82プロレス大賞でMVP、技能賞の2冠を制する。馬場・猪木以外でのMVP受賞は史上初。

1月6日:後楽園ホールで小林にリングアウト勝ちし、NWA世界ジュニア王座2度目の防衛。取りあえずの決着をつけた。

4月1日:後楽園ホールで星野と組み、D・キッド、B・ガエタノ組と対戦。キッドのツームストン・ドライバーを受け、頚椎挫傷を負う。

4月3日:蔵前国技館のリング上で、欠場と2冠の返上を発表。

4月11日:桐生市民体育館で復帰戦。

4月21日:蔵前国技館でのNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦で、因縁のD・キッドと対戦。延長戦の末、痛み分けに終わる。これがタイガー最初にして最大の宿敵、キッドとの現時点での最後の対決である。

5月23日:東京スポーツ紙が「タイガー引き抜き1億円工作発覚」とのスクープ。この事件の詳細は不明だが、一説によれば鶴田(2代目力道山を襲名とも言われた)とタイガーを核に新団体を旗揚げするとの構想で、団体名は「大日本プロレス」。U・トルコ氏の暗躍も噂された。

5月25日:いわゆる梶原一騎事件が発生。以後、タイガーの改名問題がクローズアップされる。

6月2日:蔵前国技館でのNWA世界ジュニアヘビー級王座決定戦で小林を破り、2ヵ月ぶりに第35代王者に返り咲く。

6月12日:新日本のメキシコUWA遠征に参加。メキシコシティーのエル・トレオ・デ・クワトロ・カミノスでのWWFジュニアヘビー級王座決定戦でフィッシュマンを下し、第9代王者に返り咲く。また梶原問題の余波で、この日よりマスク・コスチュームを新調、マーシャルアーツ風のパンタロンを履き、ファイトスタイルもキックを多く取り入れるようになる。

6月17日:後楽園ホールでの藤原敏男引退興行で、3度目のキックボクシング出場。B・キャットを下す。

8月4日:蔵前国技館で寺西を下し、NWA世界ジュニア王座2度目の防衛に成功。この日の試合前、タイガーの改名プランが正式に発表される。具体的には次期ブラディファイト・Sを「さよならシリーズ」とし、終了後に海外遠征へ。翌年からマスクとコスチュームを一新し、改名(『フライング・タイガー』を予定)した上で再デビューするという計画だった。

8月10日:新日本に突如、契約解除を通告。カナダ・カルガリーで予定していたD・キッドとのNWA世界ジュニア王座防衛戦をキャンセル、事実上の引退となる。電撃的な引退理由はいまだに明らかにされていないが、新格闘技への志向を始め、クーデター事件に伴う人間不信、極秘裏の結婚を強要されることへの不満、イベントのギャラ不払い問題などが取りざたされた。

9月21日:東京スポーツ紙の1面トップで「タイガー、ボクシング転向か」と題し、佐山聡の素顔写真(82年のアラブ遠征時に撮影したものとされる)が大々的に掲載される。この週発売の写真週刊誌に佐山の素顔での結婚記念写真が掲載されることが判明し、窮余の一策だったという。以後、専門誌や一般誌でも素顔の佐山が登場し、タイガーとしての早期復帰は絶望的となる。とくに某男性誌の連載で佐山がクーデター事件の内幕を告白したことで、新日からは不興を買ったという。

12月1日:早稲田大プロレスFC「ファイター」主催の「新間寿氏を激励する会」にゲストとして出席、氏との和解を認める。新間氏もタイガー復帰への意欲を明かす。

1984年

1月18日:テレビ番組「欽ちゃんのどこまでやるの」に出演し、ザ・タイガーのマスクを公開。噂されていたWWFでの復帰と新団体参加を匂わせる。

2月11日:「タイガージム」をオープン。新日本を退社した山崎一夫がインストラクターとして参加。

6月28日:山崎と共に会見し、第1次UWFへの出場を表明。約1年ぶりの復帰がようやく確定する。

7月23日:UWFの後楽園ホール「無限大記念日」大会にザ・タイガーとして出場、354日ぶりのカムバック。新日復帰説、全日入り説、WWF再デビュー説など曲折を経て、漸くの復帰だった。高田と組むも、藤原・前田組に敗れる。

7月24日:後楽園ホールで、M・隼人(初代、肥後繁久)を破る。ザ・タイガーとしてはこの2試合のみで終わった。

8月4日:山崎と共に正式にUWF入団を表明。タイガージムのショウジ・コンチャ(曽川庄司)会長とは絶縁。

8月29日:高崎市中央体育館で、スーパー・タイガーとして3度目の再デビュー。R・チャーランド(ザ・テンペスト)を下し、以後、シューティング路線を推進する。

9月7日:後楽園ホールでの実力No.1決定戦第1ラウンドで、藤原を倒す。

9月11日:後楽園ホールでの実力No.1決定戦第2ラウンドで前田を倒し、「実力No.1」の称号獲得。

10月19日:UWFの浦田昇社長がタイガー移籍に絡み、S・コンチャ氏への強要容疑で逮捕される。

12月5日:後楽園ホールでのノーフォール・デスマッチで、藤原を破る。

12月26・28日:後楽園ホールでの「無限大記念日PARTII」で「ノーマスク・スパーリング」が行われ、英国でのサミー・リー時代以来約3年9ヶ月ぶりに素顔でリングに上がる。また仮装バトルロイヤルで空中(故人)がS・タイガーに変身して登場。佐山は馬場に扮した。

1985年

1月16日:大阪府臨海スポーツセンターでの格闘技ロード公式戦(いわゆる実力査定リーグ戦、この試合のみノールール・デスマッチ)で藤原と対戦、左肩を脱臼し、レフェリーストップで再デビュー後初の敗北を喫する。覆面を被って以降のシングル敗戦は82年7月23日、金沢大会でD・キッドに反則負けを喫して以来2度目だった。

1月20日:後楽園ホールでの格闘技ロード公式戦で、負傷が癒えずまたもレフェリーストップ、高田に初の敗北。

2月18日:この日の後楽園ホール大会より、素顔でファイト。ただしリングネームは最後までS・タイガーのままだった。

5月31日:後楽園ホールでの格闘技ロード2位決定戦で、アキレス腱固めで藤原に敗れる。ピンフォール/ギブアップでの敗戦は覆面を被ってからは初めて。この結果、第1回公式リーグ戦でのランキングはAリーグ3位と確定。

9月2日:大阪府臨海スポーツセンターでの第2回公式リーグ戦で、前田と伝説的な喧嘩マッチの末、反則勝ちを拾う。原因はタイガーのシューティング路線に前田が不満を抱いたためとされる。

9月11日:後楽園ホールでの第2回公式リーグ戦最終戦で藤原に敗れる(藤原は公式リーグ戦連覇)。この後開催が予定された興行は「急病」を理由に欠場し、結局この日を最後にUWFを離脱、同時にプロレス界からも引退となる。S・タイガーとしてのシングル戦績は40勝5敗だった。

10月11日:新聞紙上で正式にUWF脱退を表明。その後、佐山聡として新格闘技シューティングの確立に心血を注ぐも、暴露本「ケーフェイ」(実際の執筆者は山本隆司氏とも言われた)の出版、「フルコンタクトKARATE」誌上などでの第2次UWF批判などから、プロレス界とは断絶状態となっていった。

12月7日:後楽園ホールでのシュートボクシング興行にゲスト出席。C・武志と共に来春のアマチュア大会開催を予告する。

1986年

4月13日:後楽園ホールでの全日本サンボ選手権に出場するも、プロ・アマ問題を巡るトラブルからスパーリングのみの公開で終わる。

6月30日:後楽園ホールで「第1回プリ・シューティング大会」を開催。

1988年

4月2日:両国国技館での梶原一騎追悼興行「格闘技の祭典」で、シューティングのデモンストレーションを行う。リング上で、2代目タイガー(三沢光晴)との握手が実現する。

1992年

10月7日:ジャパン女子プロレスの愛知・露橋スポーツセンター大会にゲスト出席。8年ぶりにプロレスのリングに上がり、激励の挨拶をする。

1993年

4月:正式デビューを控えた3代目タイガー(金本浩二)に特訓を施し、プロレス界との雪融けの兆しが見られる。

1994年

3月9日:新日本の福岡ドーム大会出場とA・猪木への挑戦を会見で表明。10年ぶりのカムバックが確定する。

3月11日:後楽園ホールでの新格闘プロレス旗揚げ戦のリングで挨拶。以後、同団体と日本プロシューティング協会は提携関係を打ち出す。

3月16日:新日本の東京体育館大会のリングで正式に復帰の挨拶、A・猪木と握手を交わす。

5月1日:新日本の福岡ドーム大会で10年ぶりに、“初代タイガーマスク”佐山聡としてマット復帰。獣神サンダー・ライガー(山田恵一)とエキジビション・マッチを行い、引き分け。当初はタイガーマスクまたはS・タイガーとしての出場を予定したが、コンディション作りが間に合わず、結局素顔でのシューティング・スタイルとなった。しかしその後佐山がこの試合を「芝居」と発言したため再び新日との関係は悪化。また佐山をタイガーとして復帰させようとのプランに、当時メキシコ遠征中だった3代目タイガーが反発、素顔になるきっかけともなってしまった。

8月25日:この日発売の「週刊ゴング」誌9月8日号(No.528)でのインタビューで「4代目タイガー育成計画」を表明。

1995年

5月20日:西日本プロレスの熊本市体育館大会でシューティングのデモンストレーション。対戦相手は白のマスクを被り、4代目タイガーの正体と噂された。

6月11日:FSwRの釧路市厚生年金体育館大会で、シューティングのエキジビション・マッチを行う。対戦相手は現在の4代目タイガーで、銀のマスクを被っていた。

6月11日:FSwRの北見市立体育センター大会でもシューティング・エキジビション。パートナーはやはり4代目タイガーで、デビュー前に試合会場での経験を積ませた形だった。

6月下旬:L−1出場を控えた神取(LLPW)に、スーパータイガー・ジムで特訓を施す。

7月15日:後楽園ホールでの「'95格闘技の祭典」のリング上で、藤原とトークショー。この日は4代目タイガーのデビュー戦があった。

7月25日:大日本プロレスの後楽園ホール大会で、4代目タイガーとエキジビションでの師弟対決を行う。

9月26日:シューティングの駒沢オリンピック公園体育館大会で、初代タイガーマスクとして新日本の小林邦とのエキジビション・マッチが実現。アクシデントながらKOを収める。当初はマスクを被っていたが、途中から素顔となった。小林との対戦はタイガーマスク時代以来実に12年ぶり。

12月30日:大阪城ホールでのA・猪木主催興行で、初代タイガーマスクとして本格再デビュー。ラウンド制で小林邦と引き分ける。完全にマスクマンに戻り、往年の虎殺法の数々を披露、ファンを狂喜させた。

1996年

6月30日:横浜アリーナでの力道山追悼興行に出場。4代目タイガーとの師弟対決が実現。延長の末、引き分ける。銀白色を基調にしたマスク・コスチュームを新調し、本格復帰への意欲を表明した。リングネームも初代タイガーマスクとして定着する。

8月4日:冴夢来プロジェクトの厚木大会に初出場。

8月13日:みちのくプロレスの岩手・軽米町大会に初出場。翌日は鶴岡大会での6人タッグで、4代目と対戦。

8月17日:UWFインターナショナルの神宮球場大会に初出場。G・浜田(みちのく)と13年ぶりの対決で引き分ける。

8月25日:東京プロレスの横浜大会に初出場。UWFインターの安生と組み、石川敬、高山組、A・T・ブッチャー、弁慶組を連破し、TWA世界タッグ王座奪取、第3代王者組となる。新日本離脱以来13年ぶりのタイトル奪取。またヘビー級及びタッグのベルトはデビュー以来初めてだった。

9月11日:UWFインターの神宮球場大会にて、公募の対戦相手、FSwRのザ・コブラ(G・高野)との夢の新旧アイドル・マスクマン対決が実現。リングアウト勝ちを収める。これ以後、UWFインターの興行には4連続で参戦。

9月15日:東プロの青森・森田村大会で安生と組み、ブッチャー、弁慶組を下しTWA世界タッグ王座初防衛。なお同王座の防衛戦はこれが最後で、後に東プロの崩壊に伴い自然消滅となった。

10月8日:東プロの大阪大会で、2代目タイガーとかつて抗争したT・G・カブキとの初対決が実現。これも初の無効試合となる。

10月10日:みちのくの両国国技館大会で、M・マスカラス、T・G・サスケと組み、D・キッド、D・カラス、小林組とのドリームマッチが実現。往年の宿敵、キッドとは13年半ぶりの顔合わせだった。

11月12日:みちのくの前橋スポーツセンター大会で、4代目との師弟タッグが実現。TAKAみちのく、船木勝(バトラーツ)組を下す。なおこの日はG・浜田のプロレス生活25周年記念興行だった。

11月26日:チーム・ウルフの群馬・邑楽町大会に初出場。

12月1日:東京・代々木でのA・猪木主催興行に出場。

12月13日:WARの両国大会に初出場。武輝道場の望月と組み、L・ストーム、安良岡組のインターナショナル・ジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦するも敗れる。

12月19日:みちのくの徳島大会でサスケと組み、浜田、S・デルフィン組と対戦。

12月26日:川崎での「T・山本追悼興行」で、みちのくの獅龍を破る。

1997年

1月7日:冴夢来プロの後楽園大会で、T・J・シン、剛と超異色トリオを結成。ドインク、C・ムエルテ、G・センセイ(フリー)組を下す。

1月14日:みちのくの札幌大会で、TAKAを下す。

1月21日:格闘探偵団バトラーツの後楽園大会に初出場。

3月:A・猪木とともに、プロ格闘家に転身、プロレス参戦を発表した元柔道日本選手権者・小川直也の特訓に従事する。

3月12日:新日本の4・12東京ドーム大会での猪木とのシングル初対決が決定。世界格闘技連盟構想を共に推進する佐山からの対戦要望を、猪木が受諾した。

4月11日:著作権及び4代目タイガーへのマイナスを配慮し、「タイガーキング」と改名。「タイガーマスク」「ザ・タイガー」「スーパー・タイガー」「初代タイガーマスク」に続き、5度目の虎へ再変身を図る。

4月12日:新日本の東京ドーム大会でタイガーキングとしてのデビュー戦。猪木に敗れる。プロレス界再復帰後、シングルで初の敗北であり、第1次UWFラストマッチでの藤原戦以来実に12年7ヶ月ぶりのことになる。

5月3日:新日本の大阪ドーム大会でA・猪木とタッグを結成、藤原、獣神T・ライガー組を下す。猪木とのタッグは15年ぶり。藤原との対戦は第1次UWFラストマッチ以来で、ライガーとは福岡ドームでのエキジビション以来3年ぶりの顔合わせだった。

6月8日:新日本の武道館大会で小林邦を破る。覆面を被って以後の通算対戦成績はタイガーの9勝1引き分け。

7月6日:新日本の札幌・真駒内大会でA・猪木と組み、佐々木、藤田和組を下す。

8月31日:新日本の横浜アリーナ大会で小林と組み、山崎、K・カシン組を下す。小林とのタッグはタイガーマスク・デビュー直後のメキシコ遠征時以来、約18年ぶり。山崎との元・タイガージム師弟対決は第1次UWF以来12年ぶりだった。

10月10日:みちのくの両国国技館大会にメキシコ修行時代のスタイルで「サトル・サヤマ」として登場。当時の宿敵E・サタニコと約17年ぶりに対戦し、下す。サタニコは80年3月、NWA世界ミドル級王座を奪い取られた時の相手。

10月12日:両国国技館で行われた梶原一騎没後10周年追悼記念興行「'97格闘技の祭典SPECIAL」での「タイガーマスク・フェスティバル」で、初代タイガーマスクとして4代目と組み、2代目、3代目(金本)組を下す。注目された2代目の正体は全日本(当時)の若手、金丸で、日本人選手同士では79年8月26日の「夢のオールスター戦」以来の、新日・全日タッグとなった。また同日行われた「UWF最強決定戦」ではS・タイガーとして藤原と第1次UWFラストマッチ以来13年ぶりにシングル対決したものの、ノーコンテスト。特別レフェリーを務めたA・猪木の裁定で延長戦が組まれるも引き分け、更に1分間の延長も決着はつかなかった。

11月2日:新日本の福岡ドーム大会で獣神T・ライガーと組み、金本、高岩組を下す。

12月23日:後楽園ホールでの上田馬之助激励興行で4代目タイガーと1年4ヶ月ぶりに対戦し、下す。これ以後試合出場から遠ざかり、A・猪木の主催するUFO(世界格闘技連盟)の設立に尽力する。

1998年

9月2日:アルシオンの女子版タイガー、タイガードリーム(C・奥津)誕生に向け特訓を施す。

9月12日:みちのくの岩手・大迫町大会で初代タイガーマスクとして9ヶ月ぶり試合出場、6人タッグに快勝する。

10月24日:両国国技館でのUFO旗揚げ戦に初代タイガーマスクとして出場、キックボクシングのケビン・ローズイヤーをノールール・マッチで下す。

11月1日:みちのくの幕張大会でヨネ原人(米河彰大)との異色対決が実現、一蹴する。

12月30日:大阪城ホールでのUFO旗揚げ第2戦でバトラーツのA・大塚と初対戦、負傷によりレフェリーストップ負けを喫する。シングルでの敗戦は前年4月12日、東京ドームでのタイガーキングとしてのデビュー戦でA・猪木に敗れて以来約1年8ヶ月ぶり。「タイガーマスク」名義では82年7月25日、金沢でD・キッドに反則負けして以来実に15年5ヶ月ぶり2度目。またこの試合では素顔でファイトしたが、これは「'97格闘技の祭典SPECIAL」で、S・タイガーとして藤原と戦った時以来である。

1999年

3月14日:横浜アリーナでのUFO旗揚げ第3戦でA・大塚と再戦するも、まさかの連敗を喫する。

4月:UFO離脱が表面化。団体の方向性を巡る猪木との食い違いが原因と見られる。

5月27日:新格闘技団体「掣圏道」の設立を正式表明。市街地での実戦性を追求したルールとし、7月、北海道での旗揚げシリーズを発表した。

6月9日:後楽園ホールでの空中正三氏追悼興行に出場。バトラーツの日高を下す。

7月10日:旭川総合体育館で掣圏道旗揚げシリーズが開幕。自身はSAプロレス部門に出場し、フリーのA・クーガーを破る。

7月11日:マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟の沖縄県立武道館大会に出場、バトラーツの田中を破る。なおこの試合は当初、バーリ・トゥード・ルールを予定したが、実際には「コンセプトマッチ」として行われた。

9月24日:掣圏道の山形大会で、タイガーマスクと約1年ぶりにタッグ結成。バトラーツの田中、M・純二組を下す。

11月5日:横浜文化体育館でのA・大塚との3度目の対戦で、ようやく雪辱を果たす。覆面はアイマスク風のものをつけ、試合中に外すというスタイルだった。

2000年

3月11日:横浜アリーナでの「第2回力道山メモリアル」大会で、藤原と2年5ヶ月ぶりシングル対決。レフェリーストップで敗れ、第1次UWF以降の通算対戦成績を3勝4敗1引き分けとする。掣圏道のスーツ姿で、入場時のみマスクとマントを着用した。

4月21日:新日本・後楽園ホール大会での、小林引退式に出席。往年の宿敵にリング上でメッセージを送り、固く抱き合った。

8月19日:LLPW・草加大会での男女混合タッグマッチで神取と組み、タイガーマスク、風間組と対戦。タイガーマスクに敗れ、初の師匠超えを許す。

12月4日:パンクラス・日本武道館大会での船木引退セレモニーに出席。

2001年

2月:年内にも現役を引退し、掣圏道のフロント業務に専心することを発表。3月11日・有明大会で「引退カウントダウン3」をスタートすることが決まる。

2月25日:バトラーツ・宮島競艇場大会でのタッグマッチで半年ぶり試合出場が決定したものの、体調不良により当日欠場。

3月11日:掣圏道・ディファ有明大会での「引退カウントダウン3」第1戦でA・大塚と対戦。3分3ラウンド時間切れ引き分けとなり、通算対戦成績を1勝2敗1引き分けとする。

5月18日:7月の参院選に自由連合公認候補として、比例代表区に立候補することを発表。

6月10日:全日本キック・長野大会で、マスク姿でリング上から挨拶。リングサイドでは藤原敏男氏と共に観戦。

7月12日:第19回参議院議員通常選挙に立候補届け出。

7月28日:香川県琴平町での「こんぴら夏まつりプロレス10周年記念大会」に参加。試合出場はせず。

7月29日:参院選が投開票され、個人名で33,754票を獲得するも落選する。

8月13日:掣圏道・メッセ昭島大会での「引退カウントダウン3」第2戦でT・コブラと組み、M・マスカラス、D・カラス組との夢のマスクマン・タッグマッチが実現するも、マスカラスにフォール負けを喫する。マスカラスとはこれが初対決。またD・カラスとは5年ぶり2度目の対戦だった。

10月1日:掣圏道・後楽園大会で、年内にも予定していた引退試合の延期を表明。

2002年

2月27日:掣圏道・東京体育館大会で、佐竹雅昭とエキジビション。

3月29日:掣圏道オフィシャルサイト上で、「6月23日に引退試合を行う予定」と明言する。

8月18日:華☆激の下関大会で1年ぶり試合出場。ディアブロと組み、ソラール、アステカ組を下す。ソラールとは81年9月23日、田園コロシアム大会以来タッグながら21年ぶりの再戦だった。

9月14日:華☆激の和歌山・吉備町大会でT・G・タケル(IWAジャパン)と組み、A・クーガー(フリー)、ディアブロ組に快勝する。

10月19日:掣圏道オフィシャルサイト上で、「ウインズ・オブ・ゴット」への変身を宣言。

12月27日:「プロレス・マニア館」とのマスク・コスチューム使用契約を巡る訴訟で、東京地裁が敗訴の判決を下す。



評伝

国内シングル全戦績
初代タイガーマスク

ザ・タイガー/スーパー・タイガー/復活初代タイガーマスク/タイガーキング

初代タイガーマスク・海外全戦績
(HOT DOG Igarashiさん提供)

覆面の変遷

テレビ放送試合リスト
(虎四郎さん提供)



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