top page
鏡玉の歴史
鏡玉の歴史

1812年 (英)ウォーラストン考案の鏡玉




1837年
(仏)シュバリエの色消し鏡玉 F14

16世紀の中頃イタリーのポルタという哲学者が窓のシャッターをしめ切って部屋を暗くしそのシャッターに指先ほどの穴をあけて外の景色を室の壁にうつして人に見せていた。そしてポルタははじめて凸レンズを使用したという。初めは暗箱の前にレンズを付け後に磨ガラスを取り付けていた。その後鏡を仕込み上部から見えるよう工夫した。この暗箱はカメラオブスキュラと呼ばれ風景画家の道具としても用いられ、磨きガラスに映る風景を写しとって描き下絵とした。天文学者ケプラーはポルタのカメラオブスキュラを携帯できるよう改良し、暗箱の上部に鏡を斜めに置きその下に平凸レンズを置き、鏡を反射した光線がレンズによって暗箱の内部の白紙に焦点を結び外景を映し出す装置を考案した(写真の発明前であり写生のために使われた)。レンズの収差が著しく画の中心部しか鮮明でなかったが、レンズをぐるり回転させながら広い範囲を写生する方法が工夫された。 1812年(文化9年)、(英)ウォーラストンメニスカスレンズをカメラオブスキュラ用に研究し、ペリスコープと名付け発表した(風景用レンズの祖)。これによりカメラオブスキュラの画の周辺まではっきり映るようになる(しかし1枚のメニスカスレンズには色収差がある)。
(仏)光学機器商シュバリエは1821年望遠鏡用の色消しレンズ(肉眼用色消しレンズ)を発明し、1829年カメラオブスキュラに使用するための肉眼用色消しレンズを作る。1837 年にはダゲールの写真撮影用暗箱(ダゲレオタイプカメラ)に色消し鏡玉を考案する。(ダゲールの考案したダゲレオタイプカメラは初めは大型で、シュバリエのレンズはカメラオブスキュラに装置されていたものと同様のものを工夫した色消しレンズ F14 であった。クラウンガラスの凸とフリントガラスの凹を接着したもので、色収差のみを除去した鏡玉であるので絞って使うため露出がかかり人像撮影に不適当で、歪曲も著しいため建築物の撮影にも適さず、景色撮影用である。)そして1841年、望遠鏡の前玉と後玉が収差を打ち消しあうことを応用して大口径の色消し鏡玉 F6 を作る(そのときすでにペッツヴァールが仏の奨励協会の懸賞を以ってした明るいレンズの設計の募集に応じ人像鏡玉を発明していた)1844年頃にシュバリエの色消しレンズは銀板写真撮影用の色消しに改良される。双眼鏡の前玉などに用いられていた肉眼用の(可視光線での)色消しレンズであったたものが感光材料が強く反応する光の色と肉眼に強く感じる光の色の焦点を一致させた色消しレンズに変更された。シュバリエはまた種々の焦点距離の鏡玉を組合せて随意の焦点距離の鏡玉とする組合せ鏡玉を企てた(組合せ鏡玉の祖)。

『1839年にダゲールが銀板写真を発明(公表)したときには色消しレンズが製作されていたので、彼が始めて使用したというカメラを見ると、2枚接合の色消しレンズが用いられている。この発明に刺激されて英、仏、独の光学会社は写真撮影用の色消しレンズを製造した。その1例としてドイツのブッシュ(Busch)という会社から売り出されたレンズの構造は表11.2に示す通りであり、その外観は図11.6に示す通りである。このレンズはちょうど天体望遠鏡の対物レンズを裏返しにして絞りを置いたような形になっている。』
 「光学の知識」 東京電機大学出版局発行 山田幸五郎 著より引用


1839
(天保10年)
カメラ・オブスキュラの映像を紙や布に定着させる方法がさまざまに試され、光線によって変化する薬品の研究が重ねられ、ニエプスとダゲールは長年写真術を研究したが、(仏)ダゲールがダゲレオタイプ(銀板写真)を公表する。


1840
(天保11年)
(仏)ジルー商会から木製暗箱のダゲレオタイプ(八ツ切)が発売される。このカメラにははじめシュバリエの色消しレンズF14が装されていた。2枚張合せの前側は凹フリント、後側は凸クラウンで、色収差とともに球面収差も修正され、正弦条件も満足させることが出来るが(コマの修正)、歪曲、像面湾曲、非点収差は残る。そこでシュバリエタイプの色消し単玉を2つ用いて絞りを真ん中に置き対称に配置した複玉とする設計が種々研究された。

『カメラの改造はフランスでも行われた。シャルル・シュヴァリエはこの年(1840年)に「二重色消しレンズ」カメラを作った。このレンズは色消しレンズ2組を間隔をおいて並べたレンズである。このレンズは絞る必要がなかったので、その分だけ露光を短縮できた。また彼はカメラを小さくして2分の1板(10.5×16.5cm)や4分の1板(8.3×10.5cm)が撮れる大きさのを作った。4分の1板では露光が2分ほどに短縮できた。』
発行所 株式会社 朝日ソノラマ 解説・訳 中崎昌雄 完訳 ダゲレオタイプ教本 50ページより引用


1840
(天保11年)

フォクトレンダー社はペッツヴァール式人像鏡玉F3.4 を製造。
 
ダゲールのダゲレオタイプカメラは初めシュバリエのレンズを用いていたが20分程露光する必要があり肖像の撮影に不便であった。その後間もなく感光材に臭素と沃素を混用すると感光力がたかまり1・2分の露光で済むことが解った。オーストリアのペッツバール教授は新たに人物撮影用の鏡玉を発明するに到りその指図に従ったフォクトレンダー製鏡玉は光明の希薄なる物を撮影することを得、シュバリエのレンズに比し更に鮮明であるため写真家の必携すべきものと為った。この鏡玉と沃化臭素を布いた銀板を用いることにより曝露時間は数秒間で足ることとなる。 ペッツバール人像鏡玉は色収差、球面収差、コマが修正され、約30度の範囲で非点収差も修正されている。大口径のため歪曲があるが人像撮影においてはもんだいとしなかった。ぺッツヴァール氏が設計した人像鏡玉は氏の設計に基づき各社が製造した。

凸凹レンズの組み合わせについて

ジョセフ マックス ペッツバール氏は1807年ハンガリーに生まれる。1835年に28才でベスト大学の教授となり、間もなくオーストリアの ウイーン大学の理学博士エッチングハウゼン教授の後をうけて数学の教授となる。ある年エッチングハウゼン教授は写真理学の研究でパリ に赴き、ダゲールの写真術の公開に立ち会う。エッチングハウゼン教授はパリから帰国するとすぐにペッツバール教授にダゲールの発明したダゲレオタイプカメラがもっと明るい鏡玉を用いれば人物も撮影できるのだがと話した。これをうけてペッツバール教授は明るい鏡玉の研究に着手し、球面なレンズがつくりだす5つの収差について、そしてペッツバールの条件とよばれる論理を解明する。すでに1827年エーリー氏が収差の研究を発表していたがこれにつき独立して学説を立てた。そして明るいレンズの設計を行いその製造をウイーンの鏡玉師フォク トレンダー氏に託し、1840年フォクトレンダー製造のペッツバール人像鏡玉は誕生する。当時のレンズは皆小口径で F14より明るいレン ズはなかったので人々を驚嘆させた。 ペッツバール式人像鏡玉は明るさF3.4で前群は2枚貼合せ、後群は空気間隔をおいた2枚合わせ、設計は人物を撮影することを目的として画面の中央部を良像とすることに重きをおき、前玉と後玉の距離はやや離れているので包括角度が狭く風景撮影用としては不向きであった。球面収差はよく修正されて非点収差も中央部において修正されているがその第1焦線面は少しく感光板の後方に彎曲し第2焦線面は前方に彎曲している 。そして前玉と後玉の焦点距離はおよそ5:3であり、後玉によって全焦点距離を短くしている。また前玉と後玉の隔たりは焦点距離の半分である。後玉が中央にのみ鮮明な画像をつくる傾向を前玉が広い範囲に拡散し画面の中央部と周辺部の明るさの差を均すこと を補っている。球面収差は前玉が積極的、後玉が消極的と反対の性質である。
ross
ペッツバール人像鏡玉の製造の翌年の1841年、英国においてロッス氏の人像鏡玉が製造される。一説にはペッツバールの人像鏡玉より早く世に出たと言われている。人像撮影の他、後玉のみで単独に用いて風景用となせるものである。ただし後玉のみにては像面彎曲があらわに なるので感光紙を彎曲した硝子間にはさんで撮影した。明るさはF4.5。

仏国のシュバリエ氏においてもダゲレオタイプにもっと明るい鏡玉を装置しようと考えていた。その当時の望遠鏡は前玉と後玉が互いに収差の欠点を補 うようにしてあったことを写真鏡玉に応用してペッツバールの人像鏡玉の製造と同年(1841年)に、ペッツバール式とは異なる前玉と後玉を組合せた大口径の鏡玉を作った。そしてまた種々の焦点距離の鏡玉を組合せて随意の焦点距離の鏡玉とする組合せ鏡玉を企てた(組合せ鏡玉の祖)。

ペッツバール氏の人像鏡玉はオランダ式の望遠鏡(双眼鏡)の構造を応用したものであり、シュバリエ氏の考案と似たものであるのは偶然の 一致であった。故に前玉と後玉の性質を反対にし収差を打ち消しあう方法の始祖はさだめがたい。

ペッツバール人像鏡玉は空前なる大口径鏡玉でその学説とともに発表せらるや、世のすみずみにひろまり、これを変形した種々の鏡玉が製造された。ペッツバール氏はこの人像鏡玉のほか口径小にして(F8)包括角度大なるの新鏡玉オルソスコープ(コロスコープ鏡玉、オートスコープ鏡玉)を1858年設計し、フォクトレンダーが製造販売した。人像鏡玉は包括角度が狭いが、それは後玉が中央にのみ鮮明な画像をつくる傾向にあるためなので、その後玉を両凹と凸メニスカスの組合せに替えて包括角度をひろげ、歪曲も人像鏡玉より減じた景色用鏡玉を作つた。                     

(明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」を参照)


1841
(天保12年)







 

フォクトレンダー社
ダゲレオタイプカメラ

ブラス組み立てのフォクトレンダー製ダゲレオタイプカメラ発売。ペッツヴァールの人像鏡玉 F3.4を 装す。
   
a ペッツバールレンズ
焦点板の位置(ピントを合せたあと円形の銀板写真の感光板に嵌め替える)
焦点合わせの覗き窓
 
   
(仏) シュバリエはダゲレオタイプカメラに用いる大口径の色消し鏡玉 F6 を作る(肉眼での色消しレンズ) 。
(英) ロッス社は人像鏡玉を製造。


1844
(天保15年)
(仏) シュバリエは写真用の色消しレンズを作る 。


1858
(安政5年)
ペッツバールは景色用鏡玉オルソスコープ F8 (Orthoskop、正写の意)を作る。人像鏡玉の後玉を取替えて、包括角度を広くしながら歪曲を減じた。

 
 


(英) グラブはアプラナチック鏡玉(Aplanatic lens)を作る。色消しレンズの前側を凸クラウン、後側を凹フリントとし、三面とも被写体側に対して凹にし、その前に絞りを置いた大口径鏡玉で映画の周辺まで良好である。アプラナチックの語 は1791年ブレールにより広く良好なレンズをさして用いられたが、グラブはこの鏡玉にその名を冠し、後年(独)シュタインハイルは複玉のアプラナチック(アプラナート)鏡玉を作る。


1859
(安政6年)

ゴッダード氏は良く歪曲が修正された単玉を設計した。両凸レンズと両凹レンズを密着し、これに空気間隔 をおいて凸メニスカスレンズを反対の向きに組み合わせたもので、密着鏡玉は凸凹相殺し度がないが、メニスカスとの組み合わせで色収差がなくなる。次にゴッダード氏は中央に両凹レンズ、前後に単凸メニスカスの三重鏡玉を設計したが、すぐに前側を色消し凸メニスカスに置き換えた。3つのレンズを密着すれば度のないものとなるが、空気間隔をおいて配置し、系としての凸レンズと成し、歪曲がよく修正されている。空気間隔をせばめれば周辺部の映画が鮮明となり、間隔をもたせれば像面彎曲を減ずることができる。


1860
(万延元年)
(英) ダルメイヤー社創立、三重鏡玉(トリプルレンズ)を製造。色消しレンズを3つ使用、前後はサットン鏡玉と同じく凸の色消し、中央は凹の色消しで前後の収差を打消す。集合人物用がF4、一般用はF10.6で焦点距離 5吋〜50吋。歪曲・像面彎曲なく、非点収差47度まで少ないが、球面収差がある。当時もっとも有名な鏡玉で1866年に速直鏡玉が生まれるまで製造された。

(英) レイ商会は三ツ組改易単鏡玉を発売。


(米) ハリソンは広角鏡玉を作る。


1861
(文久元年
)
(英) ロッス社はサットンの水鏡玉の発明の特許権を取得し製造。広角鏡玉の始原。またサットンは凹レンズを中央にし色消しレンズを前後に配した三重鏡玉を設計したがしばらくして製造を中止した。この設計の最初は凹レンズを中央にし平凸レンズを前後に配し、平凸レンズの欠点を凹レンズで平均化するものであり後年のクックのアナスチグマットの基礎はこれと同じものといえる。(明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」より)


1865
(慶応元年)
(英) ダルメイヤーはゴッダード氏の設計に似た3枚貼合せの色消し景色用鏡玉を作る。
(独) シュタインハイルは ペリスコーピック鏡玉を作る。


1866
(慶応2年)
(独) シュタインハイルはアプラナート(Aplanat)を発表する。
(英) ダルメイヤーはラピッド・レクチリニア(Rapid Rectilinear) を発表する。 Rapid Rectilinear はAplanatとほとんど同時に発明される。

アプラナート Aplanat と ラピッドレクチリニア Rapid Rectilinear
〈独)アドルフ・シュタインハイル氏は1865年に2個のメニスカスレンズを対称に配置したペリスコープを公表した。この鏡玉は色収差があったので、これを除くために両玉ともに色消しレンズを用いた鏡玉を設計し、1866年アプラナートを発表する。又同時期にダルメイヤ氏はラピッドレクチリニアを設計し、、両者は同じレンズ設計であり同時発明である。 クラウンの凸、フリントの凹(クラウンの代りに密度の小さいフリントを使ったものもある)を接合した色消しレンズ (グラブのメニスカスレンズ)を2つ、絞りを中間に置き対称に配置し歪曲、コマが修正される(鏡玉を均斎式にすれば歪曲、コマ、倍率色収差は無くなる)。非点収差と像面湾曲は除くことができないので絞りにより減じる工夫をした。 風景用、人像用、集合写真用、広角等色々な種類が当時のレンズ製造会社から発売される。当時のF8は明るいレンズで曝露時間が短くて済み、建築物などが真直ぐに写るので速寫直正鏡玉と呼ばれた。

鏡胴の前後両端にレンズを嵌めた複玉(明治時代シメトリカルレンズと呼ばれた)は歪曲のない写真を撮影できる。色消しレンズを使用した「シメトリカルレンズ」はラピッドレクチリニア、アプラナートであり速直鏡玉、R.R.レンズとも呼ばれる。色消しレンズの前玉と後玉を同じくした均斎式においては、絞りから被写体の距離と絞りから像面の距離が等しいときコマ、歪曲は無い。均斎式でない鏡玉はその距離の差が大きいとき歪曲が少ない。

アプラナチック鏡玉 (ラピッドレクチリニア Rapid Rectilinear(R.R) 、 アプラナート Aplanat)

この鏡玉はあるいはアプラナットと称せられ、球面収差とコマを修正したものを言う(アプラナチックなる語は1791年ブレール氏が初めて用い、当時は広いレンズをさして言うものであった)。アッベ博士は、コマが削除されるとき正弦条件が満足されていることを発見した。正弦条件とは鏡玉軸上より発する光線のその軸となす角度の正弦(サイン)と、その光線が屈折後軸となす角度の正弦(サイン)との比例は全て一定であることを満足することである。しかしこの修正はアプラナチックの点と称するある一定距離にある点より発する光線に対してのみ修正されるもので、この条件を満足しないとコマを発生し、この一定距離にある点の外においては被写体の1点より発する光線を集め、映像の真の1点に帰せることはできない。写真鏡玉はある一定の距離にある被写体にたいしコマを修正したものは、他の距離のものに対して複コマを生じる。正弦条件を満たさないとコマを発生する。写真鏡玉は総ての被写体との距離において正弦条件を満足できない。被写体との距離においてコマは現れる。距離の遠近にかかわらず被写体を完全に精映に写す鏡玉を製作することは学理上は不可能であるが、近世の良鏡玉(アナスチグマット)を用いれば我々は被写体の距離にかかわらず撮影に不便を感じることはない。それがアプラナットの時代においてはいずれの距離にあるものも撮影するためには画の鮮明の幾分を犠牲にすることが止むを得なかった。アプラナチック鏡玉は多くは均斎式鏡玉で、速直鏡玉と同種のものも多い。アプラナチック鏡玉の出現以前の速直鏡玉は口径が小さかったがシュタインハイル氏の設計によって口径が大きくなり、曲面の度を低くしてコマと非点収差の欠点を減少させ、その等距離圏の焦点距離を等しくするに努めた。また前後鏡玉をやや遠くに配置し画面の像面彎曲を修正した。故に鏡胴が長く広い角度を包括できない。アプラナチック鏡玉としてはシュタインハイル氏設計のほか、ダルメイヤ氏のラピッドレクチリニア、ホクトレンダー会社のユーリスコープ、ゲルツ会社のリンカイオスコープが良質の誉れあり。                         

(明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」を参照)

1866
(慶応2年)

(英) ダルメイヤーは人像B印鏡玉F3を作る。又広角直線鏡玉F16(Wide Angle Rectilinear )を作る。



1870
(明治3年)
(英) ダルメイヤーは人像A印鏡玉F4を作る。


1878
(明治11年)

フォクトレンダー社は
ユーリスコープ鏡玉を作る。


1879
(明治12年)
(独)シュタインハイル社はアンチプラネット鏡玉を作る。
1884
(明治17年)
(独) アッベ教授及びショット博士は新ガラスを研究開発、イエナガラス製作所創立。


1887
(明治20年)
(英) ロッス社のシュレーダーはイエナガラスを用いたコンセントリック鏡玉を設計。製造は4年後。


1890
明治23年)
(独) ツアイス社は3類4類5類アナスチグマット鏡玉を製造。(1900年、明治33年にプロターと改称)
(英) ロッス社は(独) ツアイス社のロンドン代理店となりツアイスのレンズをライセンス製造する。


1891
(明治24年)
(独) ツアイス社は1類2類A3類アナスチグマット鏡玉を製造。


1893
(明治26年)
(独) ツアイス社はA2類アナスチグマット鏡玉を製造。
(独) ツアイス社はA6類アナスチグマット鏡玉を発売。独 ゴルツ社は3類ダブルアナスチグマットを発売。
(独) フォクトレンダー社はコリニア鏡玉を製造し 独 シュタインハイルはオルソスチグマット鏡玉を製造。(製造権分与)
(英) テーラー社は
クーク鏡玉製造


1895
(明治28年)
(独) ツアイス社は7類アナスチグマット鏡玉を製造。
(英) ダルメイヤー社は1類スチグマチック人像鏡玉ベルハイム鏡玉を製造。



1897
(明治30年)
(英) ダルメイヤー社は2類スチグマチック鏡玉を製造。
(独) ツアイス社はA1類プラナー鏡玉を製造。 


 
1899
(明治32年)
(独) ゴルツ社は2類およびA2類ダブルアナスチグマットを製造。


1900
(明治33年)
(独) フォクトレンダー社はヘリアー鏡玉を製造。
(独) ツアイス社はB1類ウナー鏡玉を製造。
(英) ダルメイヤー社は3類スチグマチック鏡玉を製造。


1902
(明治35年)
(独) ツアイス社はテッサー鏡玉を製造。
(独) フォクトレンダー社はダイナー鏡玉を製造。


鏡玉製造年月日


人像用鏡玉
主に写真営業家の写場内に置かれ、人物撮影用である。短時間の曝露を以って撮影ができる明るい鏡玉であるが歪曲の欠点がある。焦点は浅く包括角度も狭小であるが、人像撮影にはこれらの不備の点が大した害にならない。明るい鏡玉ほど貴ばれている。人像鏡玉に使用される絞りはたいがい差絞で、近来は蛟彩絞の装置されているものもあるが、常に一定の照明下で撮影する写場では、一人写しの時は何番の絞、集合人像の時は何番の絞と決めておくので便利な蛟彩絞の必要をみとめないのみならず、蓋の開閉や暗箱の移動にあたっても一定不動の差絞が却って重宝される傾向をもっている。


景色用鏡玉
景色用鏡玉と称されるものは、明るさが凡そF11より暗く包括角度中程度である。単鏡玉にあっては絞を鏡玉の前部に附けられたものである。絞を前方に用いた作画は幾分の樽形の歪曲を生じ、絞りを後方に用いれば糸巻形の歪曲を生じるが、樽形、糸巻形のいずれの歪曲が欠点の障害が少ないか見定める必要がある。樽形は周囲のみ鋭利となり、糸巻形は中央のみ鋭利となるが、普通おこなわれる作画においては周囲のみ鋭利なるは絞を小にすればある程度まで修正できるが、中央の鋭利なのは絞りを非常に小さくしないとその欠点を修正することができない。そのため鏡玉の前に絞りを置いて幾分絞って写すことが通則となっている。


普通鏡玉
普通鏡玉は絞の前後に鏡玉を有せる複鏡玉で明るさは普通F8以上である。アプラナート、ラピッドレクチリニア等の鏡玉はこの普通鏡玉に含まれ、景色撮影、建築物撮影、瞬間撮影の凡てに用いられる。この鏡玉は歪曲の欠点少なく、割合に焦点も深いからアナスチグマット鏡玉が発明される以前は万能的に盛んに使用されていたものである。此の種の鏡玉で有名なのはダルメイヤ速直鏡玉、ホクトレンダー会社のユーリスコープ、ゲルツ会社のリンカイオスコープであり、普通手提暗箱に装置されている仕着鏡玉は凡て速直鏡玉である。


広角鏡玉
明るさはF11以下、包括角度は90度ほどで135度に達する鏡玉もある。有名なものはゲルツ会社のハイペルゴン、ツアイス社のプロター5類である。何れもアナスチグマット式で良鏡玉である。


万能鏡玉
一個の鏡玉で凡ての方面に用いることの出来る鏡玉。アナスチグマット鏡玉の代名詞。近世アナスチグマット鏡玉の発明以来、営業写真家が人像撮影にも広角撮影にも応用して人像鏡玉や広角鏡玉を圧倒している。

       (明治43年 写真新報社出版部「写真術の常識」参照)



明治20年  「写真術独習書」より 鏡玉について


明治36年 「新式写真術」より 鏡玉の分類

明治38年 「実験応問写真博士」より 鏡玉に就きて

明治45年 「実地写真術」より複玉、アナスチグマットの分類について

(国立国会図書館所蔵)






鏡玉の収差

色収差
1752年   ドロンドは色消しレンズを発明(肉眼用)
1827年頃  エーリーはレンズの収差、像面彎曲、非点収差、歪曲についての研究を発表する。
1844年頃 (英)トウソンは当時の感光材料による写真に適した色消しレンズを解き、(仏)シュバリエは写真用色消しレンズを製造する。 
 

1枚レンズなど色収差のあるレンズで遠方の被写体を撮ると、焦点の合った色の像の周囲に焦点を結んでいない他の色の光線の像が重なりあって軸上色収差があらわれる。近くの被写体を撮ると倍率色収差があらわれる。絞りを入れると軸上色収差はレンズを通る光束が細くなりボケた円の径も小さくなるので色収差は目立たなくなる。倍率色収差(波長により倍率の違う像の端につく色)は変化しない色消しレンズとすることにより軸上色収差と倍率色収差をともに修正できる。写真が銀板、湿板、普通乾板の時代には感光材料は紫色光線の波長に強く感光するので、 単凸レンズなど色収差が修正されていないレンズで写真を撮影する場合、肉眼(可視光線、主として黄色光線でピントを合せたままで撮影すると焦点の合わない写真となった。そのため肉眼で焦点を合わせた後、感光板とレンズの間隔を50分の1程縮める必要があった。


普通のフリントガラスはクラウンガラスより屈折率と色の分散が大きい。ゆえにクラウンガラスの凸レンズにフリントガラスの凹レンズを組み合わせれば凸レンズの色収差を打消すことができる。凸レンズのクラウンガラスの屈折率は小さいので曲率をきつくして屈折を強め凹レンズと組み合わせてもレンズ系として凸レンズとなるようにする。 昔は紫色光線(昔は感光薬品が紫色光線に強く反応した)と黄色光線(肉眼で強く見える)を色消しとした。凸レンズを通過する紫色光線は黄色光線より内に屈折し、凹レンズを通過するとき、紫色光線は黄色光線より外に屈折し、凸レンズの分散より強い凹レンズの負の分散で紫光線と黄光線が一致するようにした。この色消しレンズは凸レンズの曲率を大きくすることで 凸の色消しレンズとしたため非点収差、像面湾曲は大きかった。

非点収差のない平坦な像面が得られる色消しレンズであるためには、ペッツバールの条件により度(レンズの焦点距離の逆数)が凹レンズより強い凸レンズは屈折率も凹レンズより大きくなければならないが、アッベとショットによる研究の結果、1886年(明治19年)、屈折率と色の分散の度合いが相伴わない新種のガラスが誕生した(イエナガラス)。この新ガラスを用いた新色消しレンズは凸レンズ(新クラウンガラス)が凹レンズ(新フリントガラス)より屈折率が大きいので凸レンズの曲率をきつくしなくても凹レンズより屈折が大きくなり、分散は普通のフリントとクラウンの関係と同様である。新色消しレンズは非点収差を修正できたが球面収差の修正が不十分であった。

イエナガラスを用いた新色消しレンズはアッベ博士により、まずツアイス社の顕微鏡の鏡玉に用いられた。新色消しレンズが写真鏡玉に初めて使われたのは1887年シュレーダーとミーテによってである。シュレーダー博士は(英)ロス社が製造したコンセントリック鏡玉を設計し、同じ年に(独)ミーテ博士も新色消しレンズを絞りを真ん中に置き対称に配置した複玉を設計しポーツダムのハートナック工場により製造された(ミーテの鏡玉に使われた新種ガラスは空気成分で腐食されやすく、じき市場から消えた)。ミーテ博士は新種ガラスを用いた鏡玉は、アスチグマット(非点収差)を修正できることによりこれを「アナスチグマット(非アスチグマット)」と冠名した。コンセントリック鏡玉とミーテ博士の鏡玉は非点収差は除かれたが他の収差は残っている。今日ではアナスチグマットレンズといえばザイデルの5収差全てを修正したものを指している。

1890年(独)ツアイス社のアッベ博士の助手であったルドルフ博士は、新旧の色消しレンズを組み合わせて、色収差とザイデルの5収差を修正したアナスチグマット鏡玉(後のプロター鏡玉)を開発した。


普通の色消しレンズにイエナガラスの色消しレンズを組み合わせて設計されたツアイス社のAnastigmat
  前群
旧色消しレンズ
凸レンズ 凹レンズ
屈折率 小  分散 小   屈折率 大  分散 大
 後群
新色消しレンズ
凸レンズ 凹レンズ
屈折率大  分散 小   屈折率小   分散 大
前群と後群の収差を正負逆とし、前群で後群の色収差と球面収差を打ち消し、後群で前群の像面彎曲と非点収差を打ち消すよう設計された。





歪曲
レンズの前に絞りを置くと樽形の歪曲となる。レンズの後に絞りを置くと斜めに入る光線の上半部は遮られ、像は下半部の光線で作られるから軸に遠ざかって糸巻形の歪曲となる。絞りを小さくするほど歪曲はつよくなり、絞りをはさんだ前群と後群の対称性によって解決される。
                                                     
            
糸巻形歪曲            樽形歪曲      樽形歪曲             糸巻形歪曲
この絞りの置き方をすると、斜めに入る光がレンズ面に対し直角にちかく入り良い焦点を結ぶ 斜めに入る光がレンズ面に対し平行ちかく入り、良い焦点を結ばない

単レンズ(風景用レンズ)の後に絞りを置くと映面の中央が特に鮮鋭な画となり周辺にかけて朦朧となる。中央の画のみ使うのでなければ、絞りをレンズの前に置く。コマ、像面彎曲が減じられ中央から周辺にかけての像が均しく明瞭化し広く画が使える。


鏡胴の前端に凸レンズをおくと糸巻形歪曲となる。
糸巻形歪曲 絞りをおくと樽形歪曲にむかう
1枚レンズ、または2枚以上を組み合わせた単レンズの一般的な使用法
コマ、像面彎曲も減じられる



鏡胴の後端に凸レンズをおくと樽形歪曲となる。
絞りをおくと糸巻形歪曲にむかう
一般的な1枚レンズの使用法
樽形歪曲




複玉とすると糸巻形と樽形の歪曲が打ち消しあう。

鏡胴の前後両端にレンズを嵌めた複玉(明治時代シメトリカルレンズと呼ばれた)は歪曲のない写真を撮影できるラピッドレクチリニア、アプラナートは色消しレンズを使用した「シンメトリカルレンズ」であり速直鏡玉、R.R.レンズとも呼ばれる。色消しレンズの前玉と後玉を同じくした均斎式においては、絞りから被写体の距離と絞りから像面の距離が等しいときコマ、歪曲は無い。均斎式でない鏡玉はその距離の差が大きいとき歪曲が少ない。






球面収差

上図は球面収差のある鏡玉の例であるが、最もボケの少ない像を結ぶ位置より鏡玉に近い位置では光は紛円の周縁において密であり、鏡玉より離れた位置では中央が密である。この例では最もボケの少ない(紛円の径の最小な)位置Fにおける紛円内の光の分布は周縁に密で中央に疎である。もしこのFの円の径が点と視えるほど小さければこの鏡玉は焦点の合った部分の描写は球面収差の無い鏡玉の描写とちがいが無いが、その前後の被写体の映り具合はその鏡玉固有の前ボケ、後ボケとなる。光が紛円の周縁に密な場合は硬い描写となり、中央部が密な場合は柔らかい描写となる。ピントグラスを最小の紛円の位置(良像を結ぶ位置)より鏡玉に近くすれば描写が硬くなり、離せば描写がやわらかくなる。或る種の鏡玉においては焦点の最も合った描写が硬く見える。それは紛円の径が点に見えず、その円の周縁に光が密であるからである。反対に紛円の径が大きければソフトフォーカスの鏡玉ということになる。ふつう鏡玉の球面収差などは絞りを小さくするほどに減じられ、画像は鮮明となる(開放において最も鮮明で絞ると鮮明でなくなる鏡玉もある)。また絞るほどに回折により画像は不鮮明になる。絞り込むと収差の減少と回折の増加が相殺する状態となり、最も鮮鋭な描写をする絞りの限度を超えて絞れば、回折による不鮮明さがまさってくる。収差のよく修正された鏡玉は少し絞ると収差の更なる改善にまさって回折の影響が顕わになる。収差の修正がされていない鏡玉は絞り込むほどに回折の影響よりも収差の改善が顕わになる。最良の鋭さを得る絞り位置は鏡玉ごとに異なる。



コマ(コマの語源はコメットまたはコンマ)

球面収差はレンズの光軸に平行な光線による収差であり、斜めに入る光線においてはコマとなる。上方から斜めに入る光線は強く屈折し、下方から入る光線は弱く屈折し、中央から入る光線とそれぞれ焦点が一致しないため、周辺ほど彗星状の流れたボケが目立つようになる。コマのあるレンズの前に絞りを近くおけばコマが減じられる。アッベ博士はすべて鏡玉面において中心より距たる等距離圏は各焦点距離を異にし、正弦条件を満足すればコマはないことを解した。

鏡玉を均斎式とすると倍率色収差、歪曲、コマが修正される。均斎式のゲルツ第3類複アナスチグマットの後玉のみを用い風景用鏡玉とする場合、非点収差は除かれているがコマが発生し画面の周辺が流れる。光軸に平行に入る光線による球面収差は除かれているが光軸に対し斜めに入る光線によるコマは均斎式とすることにより除かれるよう設計されているので、単鏡玉として用いるときは絞りによって周辺から斜めに入る光線を遮ることで画面周辺のボケを防いだ。




非点収差
ペッツバール氏を初めとしてアプラナチック鏡玉においても鏡玉の曲面の度を弱くして非点収差を減じるようにした。それらの工夫を経て、根本的な方法で非点収差を除くことが出来たのはイエナガラスの発明によってである。非点収差を除いた初めての鏡玉はシュレーダー博士が(英)ロス社のため設計したコンセントリック鏡玉ならびに(独)ミーテ博士の設計によるアナスチグマット鏡玉である。両鏡玉は厳密に捉えればアナスチグマット(非点収差を修正)であるがアプラナット(球面収差、コマを修正)ではない。色収差、球面収差、コマ、歪曲、像面彎曲とともに非点収差の修正したツアイスのアナスチグマット(後のプロター)はアナスチグマチックアプラナットといえる。


もし鏡玉のアイウエオの如き一平面上の光線が斜めに通過するものを、一点に集まるよう設計すれば、鏡玉全面を斜めに通過する光線はすべて一点に集まるようになるが(コマの修正)、同じ一点に集まるものかというとそうではなくアイウエオの如き平面を斜めに通過する光 線のみはその点に集まるが、異なる平面を斜めに通過する光線は異なる点に集まる。これを非点収差と呼ぶ。図のトチの如く2つの焦線(点が線に化けるので焦点といわず焦線と呼ぶ)を生じる。イロを斜めの鏡玉軸とし、ハニの縦の平面を通過する光線はコマが修正されていればトの真ん中の一点に集まる。しかし非点収差があればホヘの平面を通過する光線はトより遠いチに集まる。トに焦点板を置けば像は横線になり、焦点板を離せば横の楕円になり円となって縦の楕円となりチに焦点板を置けば像は縦線になる。トとチの間の円の位置に焦点板を置けば非点収差のボケが最小となる。トにピントを合わせれば点は横線と成り(十字線写したとき縦の線は濃く見え横の線は薄く見える) チにピントを合わせれば点は縦線となる(十字線写したとき横の線は濃く見え縦の線は薄く見える) 。トを第一焦線、チを第二焦線と呼ぶ。 第一焦線と第二焦線の隔たりがおおきいと中間にあるボケの最小円も大きくなる。また中心から周辺部に向かうほど隔たりは大きいので非点収差のある鏡玉は狭い範囲しか使えない。非点収差を修正したアナスチグマットはトとチを一致するよう設計されている。

ペッツバール氏を初めとしてアプラナチック鏡玉においては鏡玉の度を弱くし、鏡玉間の距離を伸張して非点収差が減じるようにした。それらの工夫を経て、根本的な方法で非点収差を除くことが出来たのはエナガラスの発明によってである。非点収差を除いた初めての鏡玉はシュレーダー博士が(英)ロス社のため設計したコンセントリック鏡玉と(独)ミーテ博士の設計による鏡玉であり、厳密な捉え方ではアナスチグマットであるがアプラナットではない。色収差、球面収差、コマ、歪曲、像面彎曲とともに非点収差の修正したツアイスのアナスチグマット(後のプロター)はアナスチグマチックアプラナットといえる。
                                                                                       (明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」を参照)

イエナガラス発明以前のガラスレンズを用いた色消しレンズはペッツバール条件を充たすことができず非点収差と像面彎曲をともに修正できなかった。そこで鏡玉製造者は鏡玉の用途に応じて 、或鏡玉は非点収差を特に修正したり、或鏡玉は第一映像面を平坦としたり(速直鏡玉に多く、鏡胴を短くすれば像面彎曲部が増し、非点収差が減じる)、或鏡玉は最小ボケの映像面を平坦にしたりした。旧式ガラス(普通のクラウンと普通のフリント)による色消しレンズを用いた密着式鏡玉においては非点収差と像面彎曲はともに修正されないが、旧式ガラスによる分離式鏡玉は色消しとしかつペッツバール条件を充たすことができる。しかし厳正な集光の分離式鏡玉を製造することは困難であり実用に耐えるものはない。イエナガラスの発明により色収差の修正とともに、ペッツバール条件を充たすことが可 能となり非点収差と像面彎曲がともに修正された密着式のアナスチグマット(スチグマットも同義)鏡玉が製造された。(当時の)アナスチ グマット鏡玉は一定の画角外は非点収差が顕わになる。

                                                                                      (大正11年 写真月報 加藤精一 通俗写真鏡玉講話 第十七 参照 )



像面湾曲
当時、画の周辺ほどボケる鏡玉で風景などを画角を広くに撮影したい場合は、中心部が鮮鋭に映るピント位置を避け、中心部と周縁部がある程度均等な描写となるピント位置とし、少し絞り込むという工夫をしたり、曲がりの線上に被写体を置く工夫をした。



像面彎曲は必ずしも鏡玉の側に向かうものではなく、彎曲のかたちもガラスの構成が単純でなければ複雑となる。第一、第二焦線面も必ずしも同一の方向に彎曲するものでもない。非点収差の縦横2つの焦線(第一焦線、第二焦線)の中間(真ん中ではない)の良像の点を連結したものが像面湾曲の曲面である。像面彎曲は絞りをいれても変化しないが、中央部にピントを合わせたときの周縁部のボケは絞るとボケ円が小さくなるので目立たなくなる。非点収差と像面彎曲は相反するものであり、画面が平坦になるようレンズを配置すれば非点収差の隔差(ハとニのひらき)を増し、非点収差の隔差を少なくしようとレンズを配置すれば像面彎曲がきつくなる。非点収差を無くしかつ像面彎曲をなくすためには、第一焦線面と第二焦線面を一致させながらペッツバールの和を0に近くする必要がある。これ実現したものが真のアナスチグマットレンズである。

非点収差と像面彎曲
点線:第1映像面
実線:第2映像面
第1映像面を平坦にちかく
設計した速直鏡玉の場合
最小ボケの映像面が平面
となるように設計された速
直鏡玉の場合
或角度まで非点収差、像面
彎曲が修正された、普通の
アナスチグマット鏡玉の場合
中央に近い部分は非点収差の
修正過度としたアナスチグマット
鏡玉の場合



英国の航空写真鏡玉について     写真月報 大正9年1月 第25巻第1号 加藤精一 航空写真鏡玉 より抜粋 
第1次世界大戦は航空写真鏡玉の発明を生んだ。大戦の初期においては、航空写真家も鏡玉製造者も航空写真鏡玉の必要条件を明確に把握 していなかったので、普通のアナスチグマットが採用されたが好結果を奏さなかった。そのなかでもコントラストが強く "relief effect" があるC1類テッサーF4.5が最も適する鏡玉と認められた。その後航空関係者の要求が鏡玉製造者に伝えられテーラー・テーラー・ホブソン会社のアヴィアール(Aviar)F4.5  81/4吋 101/4吋 101/2吋、ロッス会社のエアロエキスプレス(Airo Xpres) F4.5  81/2吋 10吋 14吋 20 吋 などの鏡玉が製造された。最も鮮鋭緻密な画像を得るためには各収差を極減するとともに、内面反射を抑えコントラストを高め、"relief effect" 言い換えれば画像の清明度と描写の"切れ"を際立たせることが必要である。収差が残存していれば描写の"切れ"は収差の量と収差の性質(最小のボケ円における光の分布状態)によって異なるのであるが、各収差が極減されていれば描写の"切れ"は解像力の問題となり、F4.5という明るいレンズとすることにより最小のボケ円の大きさが減少するとともにその輪郭の"切れ"は良くなる。鮮鋭緻密な画像を得るための鏡玉は収差の修正と相俟ってなるべく大口径とすることが望ましい。
鏡玉の理想としては広い角度において完全な画像を結ぶべきであるが実際には限定された或角度内において各収差を修正するほかなく、無理して角度を広くとれば残存収差(修正不足のために存する収差に非ず、合理的な修正をなしてなお存する収差を意味す)は避け難い。アナスチグマット鏡玉の像面彎曲についても、画像面の中央部と縁端部が同一平面上となるようにすればその中間部は異なる点となるため、中央部(縁端部)に焦点を合わせれば中間部は焦点が合わないこととなり、収差の修正の角度を広くとるほどにこの彎曲の程度も大となる。普通のアナスチグマット鏡玉は出来る限り角度を広くとるので、残存収差も著しい。したがってそれらの鏡玉を適切な用途に用いれば最良の鏡玉たりえるが、それを狭い角度に使用すれば最良の鏡玉となりえない。カビネ判に適す鏡玉を用いてカビネ1/2判の写真を撮ればその周辺部はボケることとなる。既存のアナスチグマット鏡玉が画角を狭く連続して撮影する航空写真撮影に適しなかったのはこのためである。いや既存の普通アナスチグマット鏡玉が航空写真に適しなかったのではなく、その用途に合った画角の狭いアナスチグマット鏡玉が製造されてはいなかったからである。したがって鏡玉製造者は実際に必要とする角度に対して収差の修正を計算し、航空写真鏡玉を設計した。角度が減じれば修正は比例以上に容易に又比例以上に高度に進め得ることは人の知るところであるから、製造者はこの用途においてはC1類テッサーにも勝る鏡玉をも製出し得たのである。ロッス社のロス・エキスプレスは56度に対して修正されて最悪なる中間部の収差0.5mmであったのを、エアロエキスプレスでは修正する角度を36度とし収差を0.25とすることができた。その如き事情であるから或種の狭角撮影において航空写真鏡玉がC1類テッサーに勝るということは決して両者の価値の比較にはならない、元来異なった目的の為めに作られたものなのであるから同一の用途に就いて優劣を論ずべきではないのである、この点は英国の鏡玉製造者自身でも明言している所である。従来のアナスチグマット鏡玉にあっては広い角度の収差の修正が誇りとせられて居った観があって、製造者によっては角度の増大をはかるために軸上光に対する修正の幾分を犠牲とすることさえ行われた程で、特に狭い角度に対して修正された鏡玉を試みる者はなかったのである。終わりに臨んで一言を附け加へて置かう、極めて狭角な場合にはアプラナット(速直鏡玉)、集合人像鏡玉(ダルメイヤ D印 など)、或は人像鏡玉の中で然るべきものを選ぶが宜しい、此種の鏡玉の優良なるものは狭い角度内の描写に就いては同口径同焦点距離の普通アナスチグマットに比して勝るとも劣れることはないのである。普通のアナスチグマットの特徴と価値とは画面中で軸線から遠い部分の欠点を修正した点にあるので、軸線に近い部分の修正は通例普通の如くであるか或は軸線から遠い部分の修正のために幾分犠牲にしているのであるから、極めて狭角な撮影に普通のアナスチグマットを選ぶことは実に不経済なのみならず理論上から言っても愚な話なのである。英軍では航空写真暗函(航空カメラ)には主として新式の航空写真鏡玉を装置したが、空中戦の射撃演習に用いる写真砲暗函(ガンカメラ)は対する機影のみを撮るため撮影角度は極めて狭く、専ら速直鏡玉(R.R.レンズ)を用いたらしい。狭角撮影に関してはテレフォト鏡玉が必ず問題に上がるが、此種の鏡玉はバックフォーカスが短い為に通例の場合には非常に利便を感ずるが、同一角度内の画像の精密度は普通鏡玉に比して劣るとも勝るものではなく、かつ糸巻形の歪曲があるから精密性格を主眼とする場合には推薦できない。普通鏡玉の長い焦点距離のものを用い中心部を使うことがよい。





参考文献
アサヒソノラマ クラシックカメラ専科15 「小西六カメラの歴史」 
東京都写真美術館業書 「日本写真史への証言 下巻 亀井武 編」   
東京写真材料商業共同組合 「東京写真材料商組合五十年史」
小西六写真工業株式会社 発行 社史編纂室編 「写真とともに百年」
小西本店「写真自在」
小西本店「紀念帖」
小西本店「写真術階梯」
小西本店「写真用品目録」
藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」 東京浅沼商会
小西本店 発行  「写真月報」

web
http://www.historiccamera.com/ebooks/lens/lens1.html


       





初期写真レンズの歴史