鏡玉の歴史
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![]() 1812年 (英)ウォーラストン考案の鏡玉 ![]() 1837年 (仏)シュバリエの色消し鏡玉 F14 |
16世紀の中頃イタリーのポルタという哲学者が窓のシャッターをしめ切って部屋を暗くしそのシャッターに指先ほどの穴をあけて外の景色を室の壁にうつして人に見せていた。そしてポルタははじめて凸レンズを使用したという。初めは暗箱の前にレンズを付け後に磨ガラスを取り付けていた。その後鏡を仕込み上部から見えるよう工夫した。この暗箱はカメラオブスキュラと呼ばれ風景画家の道具としても用いられ、磨きガラスに映る風景を写しとって描き下絵とした。天文学者ケプラーはポルタのカメラオブスキュラを携帯できるよう改良し、暗箱の上部に鏡を斜めに置きその下に平凸レンズを置き、鏡を反射した光線がレンズによって暗箱の内部の白紙に焦点を結び外景を映し出す装置を考案した(写真の発明前であり写生のために使われた)。レンズの収差が著しく画の中心部しか鮮明でなかったが、レンズをぐるり回転させながら広い範囲を写生する方法が工夫された。 1812年(文化9年)、(英)ウォーラストンはメニスカスレンズをカメラオブスキュラ用に研究し、ペリスコープと名付け発表した(風景用レンズの祖)。これによりカメラオブスキュラの画の周辺まではっきり映るようになる(しかし1枚のメニスカスレンズには色収差がある)。 (仏)光学機器商シュバリエは1821年望遠鏡用の色消しレンズ(肉眼用色消しレンズ)を発明し、1829年カメラオブスキュラに使用するための肉眼用色消しレンズを作る。1837 年にはダゲールの写真撮影用暗箱(ダゲレオタイプカメラ)に色消し鏡玉を考案する。(ダゲールの考案したダゲレオタイプカメラは初めは大型で、シュバリエのレンズはカメラオブスキュラに装置されていたものと同様のものを工夫した色消しレンズ F14 であった。クラウンガラスの凸とフリントガラスの凹を接着したもので、色収差のみを除去した鏡玉であるので絞って使うため露出がかかり人像撮影に不適当で、歪曲も著しいため建築物の撮影にも適さず、景色撮影用である。)そして1841年、望遠鏡の前玉と後玉が収差を打ち消しあうことを応用して大口径の色消し鏡玉 F6 を作る(そのときすでにペッツヴァールが仏の奨励協会の懸賞を以ってした明るいレンズの設計の募集に応じ人像鏡玉を発明していた)。1844年頃にシュバリエの色消しレンズは銀板写真撮影用の色消しに改良される。双眼鏡の前玉などに用いられていた肉眼用の(可視光線での)色消しレンズであったたものが感光材料が強く反応する光の色と肉眼に強く感じる光の色の焦点を一致させた色消しレンズに変更された。シュバリエはまた種々の焦点距離の鏡玉を組合せて随意の焦点距離の鏡玉とする組合せ鏡玉を企てた(組合せ鏡玉の祖)。 『1839年にダゲールが銀板写真を発明(公表)したときには色消しレンズが製作されていたので、彼が始めて使用したというカメラを見ると、2枚接合の色消しレンズが用いられている。この発明に刺激されて英、仏、独の光学会社は写真撮影用の色消しレンズを製造した。その1例としてドイツのブッシュ(Busch)という会社から売り出されたレンズの構造は表11.2に示す通りであり、その外観は図11.6に示す通りである。このレンズはちょうど天体望遠鏡の対物レンズを裏返しにして絞りを置いたような形になっている。』
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| 1839 (天保10年) |
カメラ・オブスキュラの映像を紙や布に定着させる方法がさまざまに試され、光線によって変化する薬品の研究が重ねられ、ニエプスとダゲールは長年写真術を研究したが、(仏)ダゲールがダゲレオタイプ(銀板写真)を公表する。 |
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| 1840 (天保11年) |
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| 1840 (天保11年) |
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| 1841 (天保12年) |
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| (仏) シュバリエはダゲレオタイプカメラに用いる大口径の色消し鏡玉 F6 を作る(肉眼での色消しレンズ) 。 |
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| (英) ロッス社は人像鏡玉を製造。 |
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| 1844 (天保15年) |
(仏) シュバリエは写真用の色消しレンズを作る 。 |
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| 1858 (安政5年) |
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| 1859 (安政6年) |
ゴッダード氏は良く歪曲が修正された単玉を設計した。両凸レンズと両凹レンズを密着し、これに空気間隔 をおいて凸メニスカスレンズを反対の向きに組み合わせたもので、密着鏡玉は凸凹相殺し度がないが、メニスカスとの組み合わせで色収差がなくなる。次にゴッダード氏は中央に両凹レンズ、前後に単凸メニスカスの三重鏡玉を設計したが、すぐに前側を色消し凸メニスカスに置き換えた。3つのレンズを密着すれば度のないものとなるが、空気間隔をおいて配置し、系としての凸レンズと成し、歪曲がよく修正されている。空気間隔をせばめれば周辺部の映画が鮮明となり、間隔をもたせれば像面彎曲を減ずることができる。 |
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| 1860 (万延元年) |
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(英) レイ商会は三ツ組改易単鏡玉を発売。 |
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| (米) ハリソンは広角鏡玉を作る。 |
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| 1861 (文久元年) |
(英) ロッス社はサットンの水鏡玉の発明の特許権を取得し製造。広角鏡玉の始原。またサットンは凹レンズを中央にし色消しレンズを前後に配した三重鏡玉を設計したがしばらくして製造を中止した。この設計の最初は凹レンズを中央にし平凸レンズを前後に配し、平凸レンズの欠点を凹レンズで平均化するものであり後年のクックのアナスチグマットの基礎はこれと同じものといえる。(明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」より) |
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| 1865 (慶応元年) |
(英) ダルメイヤーはゴッダード氏の設計に似た3枚貼合せの色消し景色用鏡玉を作る。 (独) シュタインハイルは ペリスコーピック鏡玉を作る。 |
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| 1866 (慶応2年) |
(独) シュタインハイルはアプラナート(Aplanat)を発表する。 (英) ダルメイヤーはラピッド・レクチリニア(Rapid Rectilinear) を発表する。 Rapid Rectilinear はAplanatとほとんど同時に発明される。 アプラナート Aplanat と ラピッドレクチリニア Rapid Rectilinear 〈独)アドルフ・シュタインハイル氏は1865年に2個のメニスカスレンズを対称に配置したペリスコープを公表した。この鏡玉は色収差があったので、これを除くために両玉ともに色消しレンズを用いた鏡玉を設計し、1866年アプラナートを発表する。又同時期にダルメイヤ氏はラピッドレクチリニアを設計し、、両者は同じレンズ設計であり同時発明である。 クラウンの凸、フリントの凹(クラウンの代りに密度の小さいフリントを使ったものもある)を接合した色消しレンズ (グラブのメニスカスレンズ)を2つ、絞りを中間に置き対称に配置し歪曲、コマが修正される(鏡玉を均斎式にすれば歪曲、コマ、倍率色収差は無くなる)。非点収差と像面湾曲は除くことができないので絞りにより減じる工夫をした。 風景用、人像用、集合写真用、広角等色々な種類が当時のレンズ製造会社から発売される。当時のF8は明るいレンズで曝露時間が短くて済み、建築物などが真直ぐに写るので速寫直正鏡玉と呼ばれた。 鏡胴の前後両端にレンズを嵌めた複玉(明治時代シメトリカルレンズと呼ばれた)は歪曲のない写真を撮影できる。色消しレンズを使用した「シメトリカルレンズ」はラピッドレクチリニア、アプラナートであり速直鏡玉、R.R.レンズとも呼ばれる。色消しレンズの前玉と後玉を同じくした均斎式においては、絞りから被写体の距離と絞りから像面の距離が等しいときコマ、歪曲は無い。均斎式でない鏡玉はその距離の差が大きいとき歪曲が少ない。
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| 1866 (慶応2年) |
(英) ダルメイヤーは人像B印鏡玉F3を作る。又広角直線鏡玉F16(Wide Angle Rectilinear )を作る。 |
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| 1870 (明治3年) |
(英) ダルメイヤーは人像A印鏡玉F4を作る。 |
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| 1878 (明治11年) |
フォクトレンダー社はユーリスコープ鏡玉を作る。 |
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| 1879 (明治12年) |
(独)シュタインハイル社はアンチプラネット鏡玉を作る。 | ||||||||||||||||||||
| 1884 (明治17年) |
(独) アッベ教授及びショット博士は新ガラスを研究開発、イエナガラス製作所創立。 |
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| 1887 (明治20年) |
(英) ロッス社のシュレーダーはイエナガラスを用いたコンセントリック鏡玉を設計。製造は4年後。 |
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| 1890 明治23年) |
(独) ツアイス社は3類4類5類アナスチグマット鏡玉を製造。(1900年、明治33年にプロターと改称) (英) ロッス社は(独) ツアイス社のロンドン代理店となりツアイスのレンズをライセンス製造する。 |
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| 1891 (明治24年) |
(独) ツアイス社は1類2類A3類アナスチグマット鏡玉を製造。 |
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| 1893 (明治26年) |
(独) ツアイス社はA2類アナスチグマット鏡玉を製造。 (独) ツアイス社はA6類アナスチグマット鏡玉を発売。独 ゴルツ社は3類ダブルアナスチグマットを発売。 (独) フォクトレンダー社はコリニア鏡玉を製造し 独 シュタインハイルはオルソスチグマット鏡玉を製造。(製造権分与) (英) テーラー社はクーク鏡玉製造。 |
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| 1895 (明治28年) |
(独) ツアイス社は7類アナスチグマット鏡玉を製造。 (英) ダルメイヤー社は1類スチグマチック人像鏡玉、ベルハイム鏡玉を製造。 |
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| 1897 (明治30年) |
(英) ダルメイヤー社は2類スチグマチック鏡玉を製造。 (独) ツアイス社はA1類プラナー鏡玉を製造。 |
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| 1899 (明治32年) |
(独) ゴルツ社は2類およびA2類ダブルアナスチグマットを製造。 |
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| 1900 (明治33年) |
(独) フォクトレンダー社はヘリアー鏡玉を製造。 (独) ツアイス社はB1類ウナー鏡玉を製造。 (英) ダルメイヤー社は3類スチグマチック鏡玉を製造。 |
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| 1902 (明治35年) |
(独) ツアイス社はテッサー鏡玉を製造。 (独) フォクトレンダー社はダイナー鏡玉を製造。 |
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| 鏡玉製造年月日 | |||||||||||||||||||||
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人像用鏡玉 |
明治20年 「写真術独習書」より 鏡玉について 明治36年 「新式写真術」より 鏡玉の分類 明治38年 「実験応問写真博士」より 鏡玉に就きて 明治45年 「実地写真術」より複玉、アナスチグマットの分類について (国立国会図書館所蔵) |
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