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鏡玉の歴史
鏡玉の歴史
 16世紀の中頃イタリーのポルタという哲学者が窓のシャッターをしめ切って部屋を暗くしそのシャッターに指先ほどの穴をあけて外の景色を室の壁にうつして人に見せていた。そしてポルタははじめて凸レンズを使用したという。初めは暗箱の前にレンズを付け後に磨ガラスを取り付けていた。その後鏡を仕込み上部から見えるよう工夫した。この暗箱はカメラオブスキュラと呼ばれ風景画家の道具としても用いられ、磨きガラスに映る風景を写しとって描き下絵とした。天文学者ケプラーはポルタのカメラオブスキュラを携帯できるよう改良し、暗箱の上部に鏡を斜めに置きその下に平凸レンズを置き、鏡を反射した光線がレンズによって暗箱の内部の白紙に焦点を結び外景を映し出す装置を考案した(写真の発明前であり写生のために使われた)。レンズの収差が著しく画の中心部しか鮮明でなかったが、レンズをぐるり回転させながら広い範囲を写生する方法が工夫された。
 

1812年
(文化9年)
 
   
英)ウォーラストンはメニスカスレンズをカメラオブスキュラ用に研究し、ペリスコープと名付け発表した。
これによりカメラオブスキュラの画の周辺まではっきり映るようになる(1枚のメニスカスレンズで色収差がある)。
 
1837年
(天保8年)
    (仏)光学機器商シュバリエは1821年望遠鏡用の色消しレンズ(肉眼用色消しレンズ)を発明し、1829年カメラオブスキュラに使用するための肉眼用色消しレンズを作る。1837 年にはダゲールの写真撮影用暗箱(ダゲレオタイプカメラ)に色消し鏡玉を考案する。(ダゲールの考案したダゲレオタイプカメラは初めは大型で、シュバリエのレンズはカメラオブスキュラに装置されていたものと同様のものを工夫した色消しレンズ F14 であった。クラウンガラスの凸とフリントガラスの凹を接着したもので、色収差のみを除去した鏡玉であるので絞って使うため露出がかかり人像撮影に不適当で、歪曲も著しいため建築物の撮影にも適さず、景色撮影用である。)そして1841年、望遠鏡の前玉と後玉が収差を打ち消しあうことを応用して大口径の色消し鏡玉 F6 を作る(そのときすでにペッツヴァールが仏の奨励協会の懸賞を以ってした明るいレンズの設計の募集に応じ人像鏡玉を発明していた)。1844年頃にシュバリエの色消しレンズは銀板写真撮影用の色消しに改良される。双眼鏡の前玉などに用いられていた肉眼用の(可視光線での)色消しレンズであったたものが感光材料が強く反応する光の色と肉眼に強く感じる光の色の焦点を一致させた色消しレンズに変更された。シュバリエはまた種々の焦点距離の鏡玉を組合せて随意の焦点距離の鏡玉とする組合せ鏡玉を企てた(組合せ鏡玉の祖)。


1840
(天保11年)
(仏)ジルー商会から木製暗箱のダゲレオタイプ(八ツ切)が発売される。このカメラにははじめシュバリエの色消しレンズF14が装されていた。2枚張合せの前側は凹フリント、後側は凸クラウンで、色収差とともに球面収差も修正され、正弦条件も満足させることが出来るが(コマの修正)、歪曲、像面湾曲、非点収差は残る。そこでシュバリエタイプの色消し単玉を2つ用いて絞りを真ん中に置き対称に配置した複玉とする設計が種々研究された。

『カメラの改造はフランスでも行われた。シャルル・シュヴァリエはこの年(1840年)に「二重色消しレンズ」カメラを作った。このレンズは色消しレンズ2組を間隔をおいて並べたレンズである。このレンズは絞る必要がなかったので、その分だけ露光を短縮できた。また彼はカメラを小さくして2分の1板(10.5×16.5cm)や4分の1板(8.3×10.5cm)が撮れる大きさのを作った。4分の1板では露光が2分ほどに短縮できた。』
発行所 株式会社 朝日ソノラマ 解説・訳 中崎昌雄 完訳 ダゲレオタイプ教本 50ページより引用

1840
(天保11年)

フォクトレンダー社はペッツヴァール式人像鏡玉F3.4 を製造。
 
ダゲールのダゲレオタイプカメラは初めシュバリエのレンズを用いていたが20分程露光する必要があり肖像の撮影に不便であった。その後間もなく感光材に臭素と沃素を混用すると感光力がたかまり1・2分の露光で済むことが解った。オーストリアのペッツバール教授は新たに人物撮影用の鏡玉を発明するに到りその指図に従ったフォクトレンダー製鏡玉は光明の希薄なる物を撮影することを得、シュバリエのレンズに比し更に鮮明であるため写真家の必携すべきものと為った。この鏡玉と沃化臭素を布いた銀板を用いることにより曝露時間は数秒間で足ることとなる。 ペッツバール人像鏡玉は色収差、球面収差、コマが修正され、約30度の範囲で非点収差も修正されている。大口径のため歪曲があるが人像撮影においてはもんだいとしなかった。ぺッツヴァール氏が設計した人像鏡玉は氏の設計に基づき各社が製造した。

凸凹レンズの組み合わせについて

ジョセフ マックス ペッツバール氏は1807年ハンガリーに生まれる。1835年に28才でベスト大学の教授となり、間もなくオーストリアの ウイーン大学の理学博士エッチングハウゼン教授の後をうけて数学の教授となる。ある年エッチングハウゼン教授は写真理学の研究でパリ に赴き、ダゲールの写真術の公開に立ち会う。エッチングハウゼン教授はパリから帰国するとすぐにペッツバール教授にダゲールの発明したダゲレオタイプカメラがもっと明るい鏡玉を用いれば人物も撮影できるのだがと話した。これをうけてペッツバール教授は明るい鏡玉の研究に着手し、球面なレンズがつくりだす5つの収差について、そしてペッツバールの条件とよばれる論理を解明する。すでに1827年エーリー氏が収差の研究を発表していたがこれにつき独立して学説を立てた。そして明るいレンズの設計を行いその製造をウイーンの鏡玉師フォク トレンダー氏に託し、1840年フォクトレンダー製造のペッツバール人像鏡玉は誕生する。当時のレンズは皆小口径で F14より明るいレン ズはなかったので人々を驚嘆させた。 ペッツバール式人像鏡玉は明るさF3.4で前群は2枚貼合せ、後群は空気間隔をおいた2枚合わせ、設計は人物を撮影することを目的として画面の中央部を良像とすることに重きをおき、前玉と後玉の距離はやや離れているので包括角度が狭く風景撮影用としては不向きであった。球面収差はよく修正されて非点収差も中央部において修正されているがその第1焦線面は少しく感光板の後方に彎曲し第2焦線面は前方に彎曲している 。そして前玉と後玉の焦点距離はおよそ5:3であり、後玉によって全焦点距離を短くしている。また前玉と後玉の隔たりは焦点距離の半分である。後玉が中央にのみ鮮明な画像をつくる傾向を前玉が広い範囲に拡散し画面の中央部と周辺部の明るさの差を均すこと を補っている。球面収差は前玉が積極的、後玉が消極的と反対の性質である。
ross
ペッツバール人像鏡玉の製造の翌年の1841年、英国においてロッス氏の人像鏡玉が製造される。一説にはペッツバールの人像鏡玉より早く世に出たと言われている。人像撮影の他、後玉のみで単独に用いて風景用となせるものである。ただし後玉のみにては像面彎曲があらわに なるので感光紙を彎曲した硝子間にはさんで撮影した。明るさはF4.5。

仏国のシュバリエ氏においてもダゲレオタイプにもっと明るい鏡玉を装置しようと考えていた。その当時の望遠鏡は前玉と後玉が互いに収差の欠点を補 うようにしてあったことを写真鏡玉に応用してペッツバールの人像鏡玉の製造と同年(1841年)に、ペッツバール式とは異なる前玉と後玉を組合せた大口径の鏡玉を作った。そしてまた種々の焦点距離の鏡玉を組合せて随意の焦点距離の鏡玉とする組合せ鏡玉を企てた(組合せ鏡玉の祖)。

ペッツバール氏の人像鏡玉はオランダ式の望遠鏡(双眼鏡)の構造を応用したものであり、シュバリエ氏の考案と似たものであるのは偶然の 一致であった。故に前玉と後玉の性質を反対にし収差を打ち消しあう方法の始祖はさだめがたい。

ペッツバール人像鏡玉は空前なる大口径鏡玉でその学説とともに発表せらるや、世のすみずみにひろまり、これを変形した種々の鏡玉が製造された。ペッツバール氏はこの人像鏡玉のほか口径小にして(F8)包括角度大なるの新鏡玉オルソスコープ(コロスコープ鏡玉、オートスコープ鏡玉)を1858年設計し、フォクトレンダーが製造販売した。人像鏡玉は包括角度が狭いが、それは後玉が中央にのみ鮮明な画像をつくる傾向にあるためなので、その後玉を両凹と凸メニスカスの組合せに替えて包括角度をひろげ、歪曲も人像鏡玉より減じた景色用鏡玉を作つた。                     

(明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」を参照)



1841年
(天保12年)









 

フォクトレンダー社
ダゲレオタイプカメラ

ブラス組み立てのフォクトレンダー製ダゲレオタイプカメラ発売。ペッツヴァールの人像鏡玉 F3.4を 装す。
   
a ペッツバールレンズ
焦点板の位置(ピントを合せたあと円形の銀板写真の感光板に嵌め替える)
焦点合わせの覗き窓
 
   
(仏) シュバリエはダゲレオタイプカメラに用いる大口径の色消し鏡玉 F6 を作る(肉眼での色消しレンズ) 。
(英) ロッス社は人像鏡玉を製造。



1844年
(天保15年)
(仏) シュバリエは写真用の色消しレンズを作る 。


1858年
(安政5年)
ペッツバールは景色用鏡玉オルソスコープ F8 (Orthoskop、正写の意)を作る。人像鏡玉の後玉を取替えて、包括角度を広くしながら歪曲を減じた。


(英) グラブはアプラナチック鏡玉(Aplanatic lens)を作る。色消しレンズの前側を凸クラウン、後側を凹フリントとし、三面とも被写体側に対して凹にし、その前に絞りを置いた大口径鏡玉で映画の周辺まで良好である。アプラナチックの語 は1791年ブレールにより広く良好なレンズをさして用いられたが、グラブはこの鏡玉にその名を冠し、後年(独)シュタインハイルは複玉のアプラナチック(アプラナート)鏡玉を作る。
1859年
(安政6年)

ゴッダード氏は良く歪曲が修正された単玉を設計した。両凸レンズと両凹レンズを密着し、これに空気間隔 をおいて凸メニスカスレンズを反対の向きに組み合わせたもので、密着鏡玉は凸凹相殺し度がないが、メニスカスとの組み合わせで色収差がなくなる。次にゴッダード氏は中央に両凹レンズ、前後に単凸メニスカスの三重鏡玉を設計したが、すぐに前側を色消し凸メニスカスに置き換えた。3つのレンズを密着すれば度のないものとなるが、空気間隔をおいて配置し、系としての凸レンズと成し、歪曲がよく修正されている。空気間隔をせばめれば周辺部の映画が鮮明となり、間隔をもたせれば像面彎曲を減ずることができる。


1860年
(万延元年)
(英) ダルメイヤー社創立、三重鏡玉(トリプルレンズ)を製造。色消しレンズを3つ使用、前後はサットン鏡玉と同じく凸の色消し、中央は凹の色消しで前後の収差を打消す。集合人物用がF4、一般用はF10.6で焦点距離 5吋〜50吋。歪曲・像面彎曲なく、非点収差47度まで少ないが、球面収差がある。当時もっとも有名な鏡玉で1866年に速直鏡玉が生まれるまで製造された。
(英) レイ商会は三ツ組改易単鏡玉を発売。
(米) ハリソンは広角鏡玉を作る。


1861年
(文久元年
)
(英) ロッス社はサットンの水鏡玉の発明の特許権を取得し製造。広角鏡玉の始原。またサットンは凹レンズを中央にし色消しレンズを前後に配した三重鏡玉を設計したがしばらくして製造を中止した。この設計の最初は凹レンズを中央にし平凸レンズを前後に配し、平凸レンズの欠点を凹レンズで平均化するものであり後年のクックのアナスチグマットの基礎はこれと同じものといえる。(明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」より)


1865年
(慶応元年)
(英) ダルメイヤーはゴッダード氏の設計に似た3枚貼合せの色消し景色用鏡玉を作る。
(独) シュタインハイルは ペリスコーピック鏡玉を作る。


1866年
(慶応2年)
(独) シュタインハイルアプラナート(Aplanat)を発表する。
(英) ダルメイヤーは
ラピッド・レクチリニア(Rapid Rectilinear) を発表する。 Rapid Rectilinear はAplanatとほとんど同時に発明される。

アプラナート Aplanat と ラピッドレクチリニア Rapid Rectilinear
〈独)アドルフ・シュタインハイル氏は1865年に2個のメニスカスレンズを対称に配置したペリスコープを公表した。この鏡玉は色収差があったので、これを除くために両玉ともに色消しレンズを用いた鏡玉を設計し、1866年アプラナートを発表する。又同時期にダルメイヤ氏はラピッドレクチリニアを設計し、、両者は同じレンズ設計であり同時発明である。 クラウンの凸、フリントの凹(クラウンの代りに密度の小さいフリントを使ったものもある)を接合した色消しレンズ (グラブのメニスカスレンズ)を2つ、絞りを中間に置き対称に配置し歪曲、コマが修正される(鏡玉を均斎式にすれば歪曲、コマ、倍率色収差は無くなる)。非点収差と像面湾曲は除くことができないので絞りにより減じる工夫をした。 風景用、人像用、集合写真用、広角等色々な種類が当時のレンズ製造会社から発売される。当時のF8は明るいレンズで曝露時間が短くて済み、建築物などが真直ぐに写るので速寫直正鏡玉と呼ばれた。

鏡胴の前後両端にレンズを嵌めた複玉(明治時代シメトリカルレンズと呼ばれた)は歪曲のない写真を撮影できる。色消しレンズを使用した「シメトリカルレンズ」はラピッドレクチリニア、アプラナートであり速直鏡玉、R.R.レンズとも呼ばれる。色消しレンズの前玉と後玉を同じくした均斎式においては、絞りから被写体の距離と絞りから像面の距離が等しいときコマ、歪曲は無い。均斎式でない鏡玉はその距離の差が大きいとき歪曲が少ない。



アプラナチック鏡玉 (ラピッドレクチリニア Rapid Rectilinear(R.R) 、 アプラナート Aplanat)

この鏡玉はあるいはアプラナットと称せられ、球面収差とコマを修正したものを言う(アプラナチックなる語は1791年ブレール氏が初めて用い、当時は広いレンズをさして言うものであった)。アッベ博士は、コマが削除されるとき正弦条件が満足されていることを発見した。正弦条件とは鏡玉軸上より発する光線のその軸となす角度の正弦(サイン)と、その光線が屈折後軸となす角度の正弦(サイン)との比例は全て一定であることを満足することである。しかしこの修正はアプラナチックの点と称するある一定距離にある点より発する光線に対してのみ修正されるもので、この条件を満足しないとコマを発生し、この一定距離にある点の外においては被写体の1点より発する光線を集め、映像の真の1点に帰せることはできない。写真鏡玉はある一定の距離にある被写体にたいしコマを修正したものは、他の距離のものに対して複コマを生じる。正弦条件を満たさないとコマを発生する。写真鏡玉は総ての被写体との距離において正弦条件を満足できない。被写体との距離においてコマは現れる。距離の遠近にかかわらず被写体を完全に精映に写す鏡玉を製作することは学理上は不可能であるが、近世の良鏡玉(アナスチグマット)を用いれば我々は被写体の距離にかかわらず撮影に不便を感じることはない。それがアプラナットの時代においてはいずれの距離にあるものも撮影するためには画の鮮明の幾分を犠牲にすることが止むを得なかった。アプラナチック鏡玉は多くは均斎式鏡玉で、速直鏡玉と同種のものも多い。アプラナチック鏡玉の出現以前の速直鏡玉は口径が小さかったがシュタインハイル氏の設計によって口径が大きくなり、曲面の度を低くしてコマと非点収差の欠点を減少させ、その等距離圏の焦点距離を等しくするに努めた。また前後鏡玉をやや遠くに配置し画面の像面彎曲を修正した。故に鏡胴が長く広い角度を包括できない。アプラナチック鏡玉としてはシュタインハイル氏設計のほか、ダルメイヤ氏のラピッドレクチリニア、ホクトレンダー会社のユーリスコープ、ゲルツ会社のリンカイオスコープが良質の誉れあり。                    

(明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」を参照)
   

シュタインハイル氏はアプラナート(Aplanat)とともに アンチプラネット(Antiplanet)を設計した。アンチプラネットも絞りを中間に置いて2つの張合せレンズを配置するが、前玉と後玉の色収差、球面収差を正負逆として、収差が打ち消し合うようにした。  


1866年
(慶応2年)

(英) ダルメイヤーは
人像B印鏡玉F3を作る。又広角直線鏡玉F16(Wide Angle Rectilinear )を作る。


1870年
(明治3年)
(英) ダルメイヤーは人像A印鏡玉F4を作る。


1878年
(明治11年)
フォクトレンダー社はユーリスコープ鏡玉を作る。


1879年
(明治12年)
(独)シュタインハイル社はアンチプラネット鏡玉を作る。


1884年
(明治17年)
(独) アッベ教授及びショット博士は新ガラスを研究開発、イエナガラス製作所創立。


1887年
(明治20年)
(英) ロッス社のシュレーダーはイエナガラスを用いたコンセントリック鏡玉を設計。製造は4年後。


1890年
明治23年)
(独) ツアイス社は3類4類5類アナスチグマット鏡玉を製造。(1900年、明治33年にプロターと改称)
(英) ロッス社は(独) ツアイス社のロンドン代理店となりツアイスのレンズをライセンス製造する。


1891年
(明治24年)
(独) ツアイス社は1類2類A3類アナスチグマット鏡玉を製造。


1893年
(明治26年)
(独) ツアイス社はA2類アナスチグマット鏡玉を製造。
(独) ツアイス社はA6類アナスチグマット鏡玉を発売。
(独) ゴルツ社は3類ダブルアナスチグマットを発売。
(独) フォクトレンダー社はコリニア鏡玉を製造し
(独) シュタインハイルはオルソスチグマット鏡玉を製造。(製造権分与)
(英) テーラー社はクーク鏡玉製造


1895年
(明治28年)
(独) ツアイス社は7類アナスチグマット鏡玉を製造。
(英) ダルメイヤー社は1類スチグマチック人像鏡玉、ベルハイム鏡玉を製造。



1897年
(明治30年)
(英) ダルメイヤー社は2類スチグマチック鏡玉を製造。
(独) ツアイス社はA1類プラナー鏡玉を製造。 


1899年
(明治32年)
(独) ゴルツ社は2類およびA2類ダブルアナスチグマットを製造。


1900年
(明治33年)
(独) フォクトレンダー社はヘリアー鏡玉を製造。
(独) ツアイス社はB1類ウナー鏡玉を製造。
(英) ダルメイヤー社は3類スチグマチック鏡玉を製造。


1902年
(明治35年)
(独) ツアイス社はテッサー鏡玉を製造。
(独) フォクトレンダー社はダイナー鏡玉を製造。


人像用鏡玉
主に写真営業家の写場内に置かれ、人物撮影用である。短時間の曝露を以って撮影ができる明るい鏡玉であるが歪曲の欠点がある。焦点は浅く包括角度も狭小であるが、人像撮影にはこれらの不備の点が大した害にならない。明るい鏡玉ほど貴ばれている。人像鏡玉に使用される絞りはたいがい差絞で、近来は蛟彩絞の装置されているものもあるが、常に一定の照明下で撮影する写場では、一人写しの時は何番の絞、集合人像の時は何番の絞と決めておくので便利な蛟彩絞の必要をみとめないのみならず、蓋の開閉や暗箱の移動にあたっても一定不動の差絞が却って重宝される傾向をもっている。

景色用鏡玉
景色用鏡玉と称されるものは、明るさが凡そF11より暗く包括角度中程度である。単鏡玉にあっては絞を鏡玉の前部に附けられたものである。絞を前方に用いた作画は幾分の樽形の歪曲を生じ、絞りを後方に用いれば糸巻形の歪曲を生じが、樽形、糸巻形のいずれの歪曲が欠点の障害が少ないか見定める必要がある。樽形は周囲のみ鋭利となり、糸巻形は中央のみ鋭利となるが、普通おこなわれる作画においては周囲のみ鋭利なるは絞を小にすればある程度まで修正できるが、中央の鋭利なのは絞りを非常に小さくしないとその欠点を修正することができない。そのため鏡玉の前に絞りを置いて幾分絞って写すことが通則となっている。

普通鏡玉
普通鏡玉は絞の前後に鏡玉を有せる複鏡玉で明るさは普通F8以上である。アプラナート、ラピッドレクチリニア等の鏡玉はこの普通鏡玉に含まれ、景色撮影、建築物撮影、瞬間撮影の凡てに用いられる。この鏡玉は歪曲の欠点少なく、割合に焦点も深いからアナスチグマット鏡玉が発明される以前は万能的に盛んに使用されていたものである。此の種の鏡玉で有名なのはダルメイヤ速直鏡玉、ホクトレンダー会社のユーリスコープ、ゲルツ会社のリンカイオスコープであり、普通手提暗箱に装置されている仕着鏡玉は凡て速直鏡玉である。
広角鏡玉
明るさはF11以下、包括角度は90度ほどで135度に達する鏡玉もある。有名なものはゲルツ会社のハイペルゴン、ツアイス社のプロター5類である。何れもアナスチグマット式で良鏡玉である。

万能鏡玉
一個の鏡玉で凡ての方面に用いることの出来る鏡玉。アナスチグマット鏡玉の代名詞。近世アナスチグマット鏡玉の発明以来、営業写真家が人像撮影にも広角撮影にも応用して人像鏡玉や広角鏡玉を圧倒している。

 (明治43年 写真新報社出版部「写真術の常識」参照)



国立国会図書館所蔵図書より

明治20年  「写真術独習書」より 鏡玉について


明治36年 「新式写真術」より 鏡玉の分類

明治38年 「実験応問写真博士」より 鏡玉に就きて

明治45年 「実地写真術」より複玉、アナスチグマットの分類について



 (小西本店 紀念帖より抜粋引用) 携帯電話Iモード用URL  http://www2f.biglobe.ne.jp/~ter-1212/imode/i1.htm

今はむかし、写真術の始祖ダゲールが仏国学士会の講壇に立ちて斯術の成功を公演するや、奇事電のごとく伝はり。欧州の士女は一種の感にうたれてさながら狂する如く、人々その容貌風采を百代の後に遺され得るを喜ぶとともに、坐ながら千里の勝景名跡を一卓の上に玩ばんの好奇心勃々たるに乗じて、所在写真の業に従事する者漸く多きを加へける。然るにここに尤も遺憾とするは撮影に用ふる鏡玉の事なり。当時視学未だ進まず、また製玉師とても左せる人物なかりしかば、すべて写真鏡玉といえば手近なる望遠鏡の構造を斟酌して、両凸の形をなせる硝子を使用するものから、其の結果は七色光の分解を来して化学的焦点と視覚的焦点の二つに別れけり。例へば紫色の光線は鏡玉を距ること七吋にしてピントを作り、黄色の光線は八吋の処ならでは然かすること能はずとせんに、かかる場合にピントグラスに宿れる映象を窺ふときは、写さるべき物体の焦点は正しく鏡玉より八吋を隔りて見ふれど、真の焦点は七吋の距離に存して、此処ならねば乾板に鮮かなる画象を与ふることを得じ。その故は人の目に触れて最も鮮明なる映象を呈する黄色光線は、化学的感光とて乾板に塗布せる薬品に変化を起さしむる力、甚だ微弱なるに反して、強き感光の作用を与ふる要素は其実、視覚に鈍き紫色の光線にあることなれば、さればこそ余輩がさきに八吋においては不可、七吋においては可なりといへる理由、全く存すなり。この欠点を憂へてさまざまの苦学研究を積み、終に優等なる人像用鏡玉を創作せしは、ペッツバール教授その人にぞある。視学の原理に基き両凸のクラウン硝子を鏡胴の前後両端に装して、これに配合するに一は両凸、一は片凹のフリント硝子をもてするときは、進み過ぐる黄赤などの光線はその長さをちぢめられて、紫青などの光線と相合い、はじめて視覚的焦点と化学的焦点の一致を来す。のみならず同等焦点距離短くなりて、写度の速きこと(明るいこと)著しい。これぺッツバール教授の方式なり。教授が斯術に鞠躬されたる熱心の感謝すべきは更らにいふまでもなく、其方式の抜群にして善良確実なることは、ダルメイヤー製人像B印A印D印鏡玉をはじめ、ロッス、クレメント、エルマジー等の人像鏡玉が、各々製造者の巧夫と技量加味せらるるとはいへ、其おおもとは何れもペッツバール式を元とせねば無く、久しきを経る今日、尚盛んに写真師の間に賞用さるるに由りて推知せらる。ぺッツバール式人像用鏡玉に次て、教授は二三種の景色用鏡玉を案出せり。コロスコップ鏡玉、オートスコップ鏡玉など称するもの是なり。さはいえ世運は進むで休まず。学術の展開今に於て益々盛なり。斯かりければ写真板が欠点多きダゲール銀板法より一進してアーチャー湿板法となり、再進してベンネット乾板法となり、三進して現時の改良乾板法となりぬると同じく、鏡玉界にありても幾多の学者が彬々輩出し、潜心疑思或は弊ヘたるを矯め或は闕けたるを補いて改良の方其宜しきを得たりき。殊に高名なるエナ硝子製作されてより面目を一変し、新式鏡玉の世に出づることの夥しきは、小西本店発行の写真用品目録を閲せらるる人々の熟知せさせ給ふところなれば、ここにくだくだしく其名を挙げず、ただ英国ダブリューデベンハム氏といへるが、嘗て倫敦写真協会に於いて講演されたる、新式及び旧式人像用鏡玉の比較談を掲げて、彼此優劣の一班を示さば足りなん。
同氏の言に曰く
旧式人像鏡玉のおもなる欠点は、一に映面の平坦ならぬこと、二にアスチグマットの簇生すること、三に透光の不平均なることにぞありける。映面彎曲なるときは、焦点を画面の中央に定むるにあたりて周縁の影象明瞭ならず、因りて之れを周縁に移し定むれば中央の部分却て朦朧たり。さらばとて中央も周縁も同時に相応の明るさを呈せしめんこと、製造者にそのすべなきにしもあらねど、かくするときはアスチグマットは大にひろがりて、左右の端には中央に 等しき光明あるかと見れば、上下の端が不明となり、上下の端を明朗ならしむれば、アスチグマットは転じて左右の端をおほふ。このごとく映面の彎曲とアスチグマットの簇生とは互に一消一長を成して、彼に減ずる所あれば此に増すところあり、此を矯むれば彼に弛むの已むを得ざるありて、到底両ながら完たからしむべからず。况して鏡玉の中央を透過する光線は強ふして且良しといへども、周縁より入り来るものは割合に薄弱にして光明の均一を欠き、シボリを挿みて其作用を假らねば満足の画を作り得られぬなり。但しそれ等の欠点あることあながちにペッツバール式を咎むべきにあらず。其当時の硝子をもて製し得べき最優等の鏡玉式を案出せりと謂つて可なり。以上の欠点をば大に匡正せるスチグマチック人像鏡玉をもて、旧式人像鏡玉と比較せる実験談を報告せんこと、斯道に志す人々にとりて有益なる事どもなるべしと信ぜらる。予は長さ三十吋の白紙を同寸法の木版に貼付け、幅三吋毎に墨もて竪線を引き、線と線との間には大小数種の文字を記したるを室の一方に安置し、此方には鏡玉を例のごとく暗函に装して、さて鏡玉面の中心を木版の右端と相対せしむ。又た取枠には八ツ切判乾板の八吋半なるを三吋半裁り落してその中に容れ、幅半吋づつ都合十回に露出され得る特別の構造を設け、暗函の前部なる座板枠は、暗函を置き据へのまま、それのみ自在に左右え移し動かさるる工夫を用ひ、最初の撮影には、焦点板の中心より左の方一吋半を距る処に鉛筆もて一点をうち、その点を円星として、其の真上なる焦点枠より蛇腹をこえて一直線に糸を張り、これと同じき位置に鏡玉を移し来りて其向きを斜ならしめ、乾板の左端に白紙の右端を写すこととして、それより漸次に右へと撮り行くなり。前にも述ぶるごとく白紙は十行に分たれ、一行の幅三吋は、此方なる乾板の半吋に相当し、又その白紙の右端は鏡玉と向合ふとせば、三十吋を隔つる白紙の左端は、あたかも乾板の中心より五吋右に当るべき割合なり。されば今白紙の左端まで写さんには、その鏡玉は右え五吋左え五吋、合せて10吋四方を照すものたらざるべからず。この比較の試験に供へたる新旧の鏡玉は、ともに同大の写真判に用いらるるところの、焦点距離約九吋半のものなりき。(訳者按ずるに新旧の鏡玉とは、一はダルメヤー製スチグマチック第一類第三番鏡玉にして、他はロッス製迅速人像三番鏡玉ならんか)、さて撮影せる原板の結果を閲するに、旧式人像鏡玉第一絞(1:4)を用ふれば白紙の右端第一行の影像は頗る明なるも、半吋を隔つる次の行は幾分の明瞭を欠き、その次の行に至りては大文字のみ読み得らるるばかりにて、中小の文字は更らに其形を判ぜずして、第四行目は全く跡形もなし。また第二の絞にては第五行目以外は消え失せ、第四の絞を用ふれば第六行目までは微かに痕跡を留むるを見る。さるをスチグマチック鏡玉は第一の絞(1:4)にて能く第八行目に至るの印画を作り、第四の絞を用ふれば白紙の全面を映写してなお若干の余裕あり。以上の試験は平面なる物体に就て行へることなれば、若し彎形のものを写すときは其結果に多少の異変を生じて、旧式鏡玉には都合よきこと勿論なるべけれど、誰人も知らるるごとく人像鏡玉には彎形の物を写すの要かつて無し、いわんや映面の平坦なるべきは一般の撮影に必須なる事どもなるをや。鏡玉の映面平坦なるか彎曲なるかを検するには、前記の白紙の一行づつに焦点を定め行き、其たびに鏡玉を動かすだけの差を覚えおきて、その差をもて乾板の幅に対して比例を求むるなり。予はこの試験によりて旧式鏡玉がスチグマチック鏡玉に比して、二倍以上の彎曲性あることを識り得たり。むべなり集合体の捉写に臨みて、場中に列べる人々を弓形にあんばいせではかなわぬ不体裁を醸す事を。これ誰も知るところなり。あはれ新式鏡玉なりせば、させる苦労もなく一直線に正列せしめたるまま、みごと鮮麗なる写真画を作らるべきものを。何故にスチグマチック鏡玉は映象に平等なる光線を与えるやというに、一には前玉後玉の接近する構造と、二には鏡玉の中央を過ぎる光線も周縁を過ぎる光線も、その透入の際鏡玉と鉛直の状をなすに因れり。試みに旧式鏡玉にシボリを挿まずして開放のままこれを窺うとき、眼、鏡玉面の中心を離れていずれか一方に片寄れば、光線が鏡胴のために遮りとどめらるるところあるを認むるならん。なお仔細に注視するに鏡胴の前部に於て一方に遮りがあれば、後方にてはその反対の方に遮りありて、これを斜めにせば斜めにするほど光線に故障あり。これ鏡胴の長きゆえにして中央透入の光線は始終かわるなきも、周縁より入り来るものは多少の阻礙に遇いて微薄となり、ついに光明の分配に著しき不平等を致すの一原因となりぬるなり。

新鏡玉(ザイス社 アナスチグマットレンズなど)が旧鏡玉(ぺッツバール式人像鏡玉など)よりも更に広角度を得らるる理由あり。鏡胴の構造を異にすること即ち是なり。鏡胴の長きもの(旧鏡玉)はシボリを小にするに従い、鏡玉の周縁より入るべき光線を遮るをもて、折角に広き角度をてらし来る周縁の光線は、この妨げに遭ふて徒らに渙散するゆえに、それだけは拡がるべき角度を失はしむ。これに反して新鏡玉の構造は割合に胴つまりてければ、周縁よりする光線は何の妨げらるるところ無く、自由に透入するゆえに、たとひ彼此同角度なりとするも、それだけは余計に拡がるべき道理なり。このため鏡胴の短きものは判面全体に光明が行き渡り易きなり。

アスチグマット(非点収差)とは撮影の際、焦点板の上下と左右を同時に焦点を定めがたきを云う。同時に上下及び左右とも、一平面に焦点を定めがたき理由は、鏡玉面の一方より入る光線は、その入らんとする点と、光軸にて鏡玉の真中心に位する点との中間中間を貫通して焦点を作り、他方より入る光線は、その入らんとする点と、視学的中心にて鏡玉の製法に因りて光軸の付近にその位置を改め換える点との中間を経過して別個の焦点を作り彼と此とは長短不揃の結果、終に縦横殊異の焦点を同一鏡玉に見るに至るなり。かの有名なシュタインハイル氏は、その昔、原料の不完全なるを顧みず初めてアスチグマットの矯正を、アプラナチック鏡玉に試みられしかども失敗し、次で1881年に至り、アンチプラネット鏡玉を製して幾分かその功を奏せり。その後エナ硝子製出せらるるに及びて、ロッス会社のコンセントリック鏡玉、レイ氏のユーリスコープ鏡玉等、この硝子を利用して頗る視科の態を改めしとはいえ、なお慊焉たるものありしが、ザイス氏社中のルドルフ博士精敏の才と深遠の学をもて、これを大成して所謂アナスチグマット鏡玉初めて世に出で、いくばくもなくしてゴルツ氏、シュタインハイル氏、ダルメイヤ氏、及びテイラー氏など、皆二三種のアナスチグマット式の鏡玉を製造しぬ。

今もろもろの新鏡玉の構造を按ずるに、各製玉者みな専売保護の特権の下に相競いて新機軸を出し、写度の速きこと(明るいレンズで速いシャッターが切れる)、焦点の深きこと、角度の広きこと(非点収差などが修正されているため周縁部まで使えること)、映面の坦きこと(像面湾曲が修正されていること)、照映力の強きこと(画面の中心部と周縁部の光量差が少ない)、アスチグマット(非点収差)の稀少なること等、みな旧式景色用鏡玉(色消しレンズをを装した鏡玉)の遠く及ばざる所なり。殊に卒然これを聞きて奇異の感を惹起するものは、新式鏡玉の多くが人像景色兼用なる事これなり。科学の研究、微より微に入り蜜より蜜に馳せ、1科分れて数科となり、数科復た岐れて十数科を成せる分業時代の今日に方りて、昔は人像景色の両種に別たれし鏡玉が、却って1方式の下に合併して両途兼用の標目を掲げ、それにもこれにも流用せらるるこそ不思議なれ。然れどもその然る所以をたづねて理の存するところを究め考えるときは、この事不思議に似て不思議にあらず。けだし視学の科は今やまさに総合の時代に在るなり。これを経過してしかる後に初めて分業に入るならん。むかしの写真鏡玉が人像景色の両種に別れたるは、初期の総合にすらも至り達し得ぬほどに、学術開けず製法に足らざるところありて、人像用に適すれば景色用に不便を感じ(画の周縁部が明瞭でない)、景色用に可なれば人像用に不可なりし(レンズが暗く速いシャッター切れずに人物がブレる)が故のみ。小西本店に一の ホワイト人像鏡玉を蔵せり。ひよけの周り18インチ、歯車を繰りて前後に進退するときは、往返の長さ20インチに達す。宛然巨砲を見るが如し、これを四五歳の小児に負わしむれば、忽ちにして歩むこと能はず。然り而してその用途を問えば、即ち八ツ切判に余りて、六ツ切判には足らざる照映力を有するに過ぎず、寧ろ滑稽というべし。主人も今は蔵めて顧客を待つにあらず、子孫に伝えて永く紀念に付せんと言われき。まことに主人の言へりしが如し。鳴呼ザイス、ゴルツのアナスチグマット式鏡玉にてありつらむには、かかる大きさの判に充てて良好の印画を獲んこと、わずかに2インチ、3インチの小品にして事足りぬべきものを、現時誰が好んで巨砲に等しき長物を購はんや。然れどもこの種の人像鏡玉が、一時世中の写真師にもてはやされ、盛んに需用ありしことは、今を去るそれ遠きにあらず。

今は乾板の製法大いに改良せられ、通常度と称する品にてすら、戸外に在ては1/250秒はおろか1/500秒または1/1000秒、さては1/1500秒の露出にても良き原板を作り得らる。その感光の敏且強なること推して知りぬべし。これをかつて使用せし湿板に較ぶれば其の差如何ぞや。人物撮影にはF9を用い景色の捉写にはF13を用ひなば、鏡玉の透光尤も穏当にして、それよりはやく又それより遅き写度(レンズの明るさ)をもて作れる画よりも、一層秀絶なる佳品をえらるべしとは、現今写真学者間の通論なり。それ写真学者は何をもてかく言うや。謂らく、鏡玉の写度の足らざるところは、乾板の感光の強きをもて補はるればなり。
さて何が故に在来の人像鏡玉は、旧式なりとさみせらるるに拘らず、写度頗る疾きに引かへて、新式のものは人像専用を除くの外、皆劣りて遅きやとは是れまた第二に起るべき疑問なるらし。応えて曰はん、鏡玉の写度の速からん事は吾人の希ふ所なり。映面の平かなると焦点の深からんことも、亦た吾人の願ふところなり。三者兼ねて宜しきに適せば吾人の望み足りぬ。然れども今の人智の進みは方さに初歩の期にあるなり。(中略)世は開明の途中に在ることなれば写度の迅速(明るいレンズ)、映面の平坦〈像面湾曲の修正)、焦点の深度等三者を兼備へざること、正しく当代写真術の欠点なり。写度の速かるべきことと、映面平かに又焦点の深かるべきこととは、不幸にして反対の位置に立てり。而して今の学術の力はこれを調和すること能はず。前者に便せんかすなわち後の二者に都合悪しし、然らばこれを反対にせんかすなわち結果は又反対せるものと同じかるべき理なり。読者が所持せらるる旧式人像鏡玉は小なる絞りを用ひ給はずば、恐らくは映象の1部分のみ鋭くて他の部分は殆ど焦点を外れ、映面また円かにして集合の撮影にかない難かりなん。
これは過ぎにし湿板時代において感光度のにぶきを補はんため、製玉者が専ら鏡玉の写度の速さ(レンズの明るさ)に汲々として他を顧みること能はざりしが故なり。

新式兼用鏡玉には、旧式鏡玉の如くカビネ判用もしくは八ッ切用などゝ定まれる制規なく、ひたすらシボリの開閉によりて大小の原板を作る。また、新式兼用鏡玉を用いれば人像といはず集合といはず景色といはず、その他あらゆる撮影に好適す。

いにしえをもて今を鑑みるに、旧式人像鏡玉のなお盛んに写真社会にもてはやさるる時、すでにダルメイヤ製迅速直線鏡玉及びスタインハイル製アプラナチック第三類鏡玉等ありて、写真師の手に運用せられしは、一葉落ちて天下の秋を知らるる道理、思えば人像用鏡玉景色用の区別を破壊する前ぶれたりしなり。さはいえ事専らならねは即ちくわしからず、広きは却って浅きのことわざあり。鋏とナイフと混用すべからざるごとく、融通の広きに過ぐるは未だ精巧の到り盡さぬを証するぞかし。人像と景色と建築物と複写とは、その用途において根本より鏡玉の製法を異にすべきこと勿論なれば、想うに二三十年を出でずして合うものまた離れ、これ等四種の下に分立するの期あらん。いま高遠なる学術界の削壁に立ちて見渡せば、当今写真鏡玉のなお不完全なることは、写真学者が人像用の方面において下記の説の下に一致するによりても推知せらる。
1.人像撮影には、手札判よりカビネ判までは優等なる旧式人像鏡玉を用いるを可なりとす。
其の理由 旧式人像鏡玉は判面の全体をあまねく輝かすこと能はねど、1人もしくは2人立のごとき、画の幅員狭く、左右両端に余地を存すべき撮影に用いては、新式兼用鏡玉よりも鋭き映象をあたふればなり。
2.八ッ切判以上の人像用には、新式兼用鏡玉をもて大に勝れりとす。
其の理由 旧式人像鏡玉は光線分散の煩ひありて、画は所望ほど鮮明ならず。
3、半切全紙及びそれ以上の大判人像用には、新式兼用鏡玉の前後の玉いずれかをはずして単鏡玉にすれば、絶好優美の画あるべし。
其の理由 鋭利の度合いは幾分か減ずる(絞りをはさみ対称型とし修正された収差が顕れる)ことあるも、畢竟するところ大人像画には鋭利のはなはだしきことを忌むこ となれば、その幾分を減ずるこそ却って都合よろしかるべく、而して焦点の深ふして調色の美はしく、兼ねて韻致の温雅秀逸なること他に比類なければなり。

新式の良鏡玉は欠点少なきをもて、開放のまま撮影を試みられる便利ありといえども、製法全からぬ鏡玉に在りてはシボリを利用して焦点の深さを増加せしめ、焦点の統一を計ることができる。また、アスチグマットの欠点を幾分減じ、また映画のあかるさを平等ならしむる。均斎式とてザイス製プラナー鏡玉、ゴルツ製アナスチグマット鏡玉およびダルメイヤ製迅速直線鏡玉など前後の玉ともに斎しきものは、シボリ必ずその中間にあり。また前玉後玉相異なるところの不均斎式の鏡玉は、、前後焦点距離の比例に準じてシボリの所在を変ず。
凡て絞器と両玉との間隔の遠近によりて、映面の曲坦と角度の広狭は互に影響を致すものぞかし。間隔の遠きとは鏡胴の長き謂いにして、この場合には映面を平坦ならしむる代わりに角度を狭め、また鏡胴短きときは(即ち間隔近きときは)角度を広からしむる代わりに映面は彎曲を増す。これ視学の理にして、鏡胴の長きものは鏡玉の周縁より斜めに焦点版上に落ちなんとする光線を妨げて、成るべく中央より直線的に入り来る光線を導くの結果、映面のひらたさを増すこととなり、鏡胴の短きものは透入光線の脚並は揃わずして帰着点に不同あるを矯むることはしばらく第二の手段として、ただ出来得るだけ斜めに広く光線を導くを主としければ、光線は為めに著しく平扁の円錐状を成して影画を焦点版面に宿すものから、角度は充分に拡がるなり。されど見よ、旧式迅速直線式の鏡玉は勉めて映面の彎曲を矯めんの方針よりして、折角拡がるべき角度を犠牲として鏡胴狭く長いの制を採るにも拘らず、第二第三の絞りを用いてすらなお映面を平坦にするの効乏しきことを。鏡玉製法の困難なるは殆ど想像に余れり。新式鏡玉の製造者がこの困難に打ち克ちて、吾人のほぼ満足するところの広角度を包容するが上に、開放のままにてすら映面の平坦を保ち、アスチグマットの損害を見ざる佳什を出すこと、その写真社会に貢献する功労甚だ偉大なるを思えば、余輩がこれを激賞賛嘆すること敢えて溢美にはあらじ。次いでながら記す、映面の彎曲とアスチグマットの発生とは初心者の多くが混同誤解するところにして、実践に臨んで惑い易し。之れを識別するに方法あり。その方法の一を挙げんに、すべて遠方の景色は之れを望むにさながら書割のごとく平たく見ゆるものなれば、焦点版にもまた平たく映るべき道理なり。今かかる景色の中心に焦点を定むる時、四辺の映象が焦点に外づるる欠点あるは、これ鏡玉に映面彎曲の弊あるか但しはアスチグマットの発生せる証左なれば、暗箱の置き場を改むることなくして更に四辺の映象のいずれかを焦点版の一端において焦点を定め、その部分の映象が鋭く鮮やかに見ゆるは(中央は勿論朦朧たるべし)先の欠点が全く映面の彎曲に基することなれど、若し焦点定まらず映象依然として不明瞭なることあらば、これ疑いもなくアスチグマットより起れる弊害と知るべし。



ペッツバール式人像鏡玉の前玉の単使用可なり。
アプラナートの後玉の単使用可なり。




鏡玉の収差

色収差
1752年   ドロンドは色消しレンズを発明(肉眼用)
1827年頃  エーリーはレンズの収差、像面彎曲、非点収差、歪曲についての研究を発表する。
1844年頃 (英)トウソンは当時の感光材料による写真に適した色消しレンズを解き、(仏)シュバリエは写真用色消しレンズを製造する。 
 

1枚レンズなど色収差のあるレンズで遠方の被写体を撮ると、焦点の合った色の像の周囲に焦点を結んでいない他の色の光線の像が重なりあって軸上色収差があらわれる。近くの被写体を撮ると倍率色収差があらわれる。絞りを入れると軸上色収差はレンズを通る光束が細くなりボケた円の径も小さくなるので色収差は目立たなくなる。倍率色収差(波長により倍率の違う像の端につく色)は変化しない色消しレンズとすることにより軸上色収差と倍率色収差をともに修正できる。写真が銀板、湿板、普通乾板の時代には感光材料は紫色光線の波長に強く感光するので、 単凸レンズなど色収差が修正されていないレンズで写真を撮影する場合、肉眼(可視光線、主として黄色光線でピントを合せたままで撮影すると焦点の合わない写真となった。そのため肉眼で焦点を合わせた後、感光板とレンズの間隔を50分の1程縮める必要があった。


普通のフリントガラスはクラウンガラスより屈折率と色の分散が大きい。ゆえにクラウンガラスの凸レンズにフリントガラスの凹レンズを組み合わせれば凸レンズの色収差を打消すことができる。凸レンズのクラウンガラスの屈折率は小さいので曲率をきつくして屈折を強め凹レンズと組み合わせてもレンズ系として凸レンズとなるようにする。 昔は紫色光線(昔は感光薬品が紫色光線に強く反応した)と黄色光線(肉眼で強く見える)を色消しとした。凸レンズを通過する紫色光線は黄色光線より内に屈折し、凹レンズを通過するとき、紫色光線は黄色光線より外に屈折し、凸レンズの分散より強い凹レンズの負の分散で紫光線と黄光線が一致するようにした。この色消しレンズは凸レンズの曲率を大きくすることで 凸の色消しレンズとしたため非点収差、像面湾曲は大きかった。

非点収差のない平坦な像面が得られる色消しレンズであるためには、ペッツバールの条件により度(レンズの焦点距離の逆数)が凹レンズより強い凸レンズは屈折率も凹レンズより大きくなければならないが、アッベとショットによる研究の結果、1886年(明治19年)、屈折率と色の分散の度合いが相伴わない新種のガラスが誕生した(イエナガラス)。この新ガラスを用いた新色消しレンズは凸レンズ(新クラウンガラス)が凹レンズ(新フリントガラス)より屈折率が大きいので凸レンズの曲率をきつくしなくても凹レンズより屈折が大きくなり、分散は普通のフリントとクラウンの関係と同様である。新色消しレンズは非点収差を修正できたが球面収差の修正が不十分であった。

イエナガラスを用いた新色消しレンズはアッベ博士により、まずツアイス社の顕微鏡の鏡玉に用いられた。新色消しレンズが写真鏡玉に初めて使われたのは1887年シュレーダーとミーテによってである。シュレーダー博士は(英)ロス社が製造したコンセントリック鏡玉を設計し、同じ年に(独)ミーテ博士も新色消しレンズを絞りを真ん中に置き対称に配置した複玉を設計しポーツダムのハートナック工場により製造された(ミーテの鏡玉に使われた新種ガラスは空気成分で腐食されやすく、じき市場から消えた)。ミーテ博士は新種ガラスを用いた鏡玉は、アスチグマット(非点収差)を修正できることによりこれを「アナスチグマット(非アスチグマット)」と冠名した。コンセントリック鏡玉とミーテ博士の鏡玉は非点収差は除かれたが他の収差は残っている。今日ではアナスチグマットレンズといえばザイデルの5収差全てを修正したものを指している。

1890年(独)ツアイス社のアッベ博士の助手であったルドルフ博士は、新旧の色消しレンズを組み合わせて、色収差とザイデルの5収差を修正したアナスチグマット鏡玉(後のプロター鏡玉)を開発した。
  前群
旧色消しレンズ
凸レンズ 凹レンズ
屈折率 小  分散 小   屈折率 大  分散 大
 後群
新色消しレンズ
凸レンズ 凹レンズ
屈折率大  分散 小   屈折率小   分散 大
前群と後群の収差を正負逆とし、前群で後群の色収差と球面収差を打ち消し、後群で前群の像面彎曲と非点収差を打ち消すよう設計された。


歪曲
レンズの前に絞りを置くと樽形の歪曲となる。レンズの後に絞りを置くと斜めに入る光線の上半部は遮られ、像は下半部の光線で作られるから軸に遠ざかって糸巻形の歪曲となる。絞りを小さくするほど歪曲はつよくなり、絞りをはさんだ前群と後群の対称性によって解決される。
                                                     
            
糸巻形歪曲            樽形歪曲      樽形歪曲             糸巻形歪曲
この絞りの置き方をすると、斜めに入る光がレンズ面に対し直角にちかく入り良い焦点を結ぶ
斜めに入る光がレンズ面に対し平行ちかく入り、良い焦点を結ばない
単レンズ(風景用レンズ)の後に絞りを置くと映面の中央が特に鮮鋭な画となり周辺にかけて朦朧となる。中央の画のみ使うのでなければ、絞りをレンズの前に置く。コマ、像面彎曲が減じられ中央から周辺にかけての像が均しく明瞭化し広く画が使える。



鏡胴の前端に凸レンズをおくと糸巻形歪曲となる。
糸巻形歪曲 絞りをおくと樽形歪曲にむかう
1枚レンズ、または2枚以上を組み合わせた単レンズの一般的な使用法
コマ、像面彎曲も減じられる



鏡胴の後端に凸レンズをおくと樽形歪曲となる。
絞りをおくと糸巻形歪曲にむかう
一般的な1枚レンズの使用法


樽形歪曲

複玉とすると糸巻形と樽形の歪曲が打ち消しあう。

鏡胴の前後両端にレンズを嵌めた複玉(明治時代シメトリカルレンズと呼ばれた)は歪曲のない写真を撮影できるラピッドレクチリニア、アプラナートは色消しレンズを使用した「シンメトリカルレンズ」であり速直鏡玉、R.R.レンズとも呼ばれる。色消しレンズの前玉と後玉を同じくした均斎式においては、絞りから被写体の距離と絞りから像面の距離が等しいときコマ、歪曲は無い。均斎式でない鏡玉はその距離の差が大きいとき歪曲が少ない。

球面収差

上図は球面収差のある鏡玉の例であるが、最もボケの少ない像を結ぶ位置より鏡玉に近い位置では光は紛円の周縁において密であり、鏡玉より離れた位置では中央が密である。この例では最もボケの少ない(紛円の径の最小な)位置Fにおける紛円内の光の分布は周縁に密で中央に疎である。もしこのFの円の径が点と視えるほど小さければこの鏡玉は焦点の合った部分の描写は球面収差の無い鏡玉の描写とちがいが無いが、その前後の被写体の映り具合はその鏡玉固有の前ボケ、後ボケとなる。光が紛円の周縁に密な場合は硬い描写となり、中央部が密な場合は柔らかい描写となる。ピントグラスを最小の紛円の位置(良像を結ぶ位置)より鏡玉に近くすれば描写が硬くなり、離せば描写がやわらかくなる。或る種の鏡玉においては焦点の最も合った描写が硬く見える。それは紛円の径が点に見えず、その円の周縁に光が密であるからである。反対に紛円の径が大きければソフトフォーカスの鏡玉ということになる。ふつう鏡玉の球面収差などは絞りを小さくするほどに減じられ、画像は鮮明となる(開放において最も鮮明で絞ると鮮明でなくなる鏡玉もある)。また絞るほどに回折により画像は不鮮明になる。絞り込むと収差の減少と回折の増加が相殺する状態となり、最も鮮鋭な描写をする絞りの限度を超えて絞れば、回折による不鮮明さがまさってくる。収差のよく修正された鏡玉は少し絞ると収差の更なる改善にまさって回折の影響が顕わになる。収差の修正がされていない鏡玉は絞り込むほどに回折の影響よりも収差の改善が顕わになる。最良の鋭さを得る絞り位置は鏡玉ごとに異なる。


コマ(コマの語源はコメットまたはコンマ)
球面収差はレンズの光軸に平行な光線による収差であり、斜めに入る光線においてはコマとなる。上方から斜めに入る光線は強く屈折し、下方から入る光線は弱く屈折し、中央から入る光線とそれぞれ焦点が一致しないため、周辺ほど彗星状の流れたボケが目立つようになる。コマのあるレンズの前に絞りを近くおけばコマが減じられる。アッベ博士はすべて鏡玉面において中心より距たる等距離圏は各焦点距離を異にし、正弦条件を満足すればコマはないことを解した。
鏡玉を均斎式とすると倍率色収差、歪曲、コマが修正される。均斎式のゲルツ第3類複アナスチグマットの後玉のみを用い風景用鏡玉とする場合、非点収差は除かれているがコマが発生し画面の周辺が流れる。光軸に平行に入る光線による球面収差は除かれているが光軸に対し斜めに入る光線によるコマは均斎式とすることにより除かれるよう設計されているので、単鏡玉として用いるときは絞りによって周辺から斜めに入る光線を遮ることで画面周辺のボケを防いだ。

非点収差
ペッツバール氏を初めとしてアプラナチック鏡玉においても鏡玉の曲面の度を弱くして非点収差を減じるようにした。それらの工夫を経て、根本的な方法で非点収差を除くことが出来たのはイエナガラスの発明によってである。非点収差を除いた初めての鏡玉はシュレーダー博士が(英)ロス社のため設計したコンセントリック鏡玉ならびに(独)ミーテ博士の設計によるアナスチグマット鏡玉である。両鏡玉は厳密に捉えればアナスチグマット(非点収差を修正)であるがアプラナット(球面収差、コマを修正)ではない。色収差、球面収差、コマ、歪曲、像面彎曲とともに非点収差の修正したツアイスのアナスチグマット(後のプロター)はアナスチグマチックアプラナットといえる。


もし鏡玉のアイウエオの如き一平面上の光線が斜めに通過するものを、一点に集まるよう設計すれば、鏡玉全面を斜めに通過する光線はすべて一点に集まるようになるが(コマの修正)、同じ一点に集まるものかというとそうではなくアイウエオの如き平面を斜めに通過する光 線のみはその点に集まるが、異なる平面を斜めに通過する光線は異なる点に集まる。これを非点収差と呼ぶ。図のトチの如く2つの焦線(点が線に化けるので焦点といわず焦線と呼ぶ)を生じる。イロを斜めの鏡玉軸とし、ハニの縦の平面を通過する光線はコマが修正されていればトの真ん中の一点に集まる。しかし非点収差があればホヘの平面を通過する光線はトより遠いチに集まる。トに焦点板を置けば像は横線になり、焦点板を離せば横の楕円になり円となって縦の楕円となりチに焦点板を置けば像は縦線になる。トとチの間の円の位置に焦点板を置けば非点収差のボケが最小となる。トにピントを合わせれば点は横線と成り(十字線写したとき縦の線は濃く見え横の線は薄く見える) チにピントを合わせれば点は縦線となる(十字線写したとき横の線は濃く見え縦の線は薄く見える) 。トを第一焦線、チを第二焦線と呼ぶ。 第一焦線と第二焦線の隔たりがおおきいと中間にあるボケの最小円も大きくなる。また中心から周辺部に向かうほど隔たりは大きいので非点収差のある鏡玉は狭い範囲しか使えない。非点収差を修正したアナスチグマットはトとチを一致するよう設計されている。

ペッツバール氏を初めとしてアプラナチック鏡玉においては鏡玉の度を弱くし、鏡玉間の距離を伸張して非点収差が減じるようにした。それらの工夫を経て、根本的な方法で非点収差を除くことが出来たのはエナガラスの発明によってである。非点収差を除いた初めての鏡玉はシュレーダー博士が(英)ロス社のため設計したコンセントリック鏡玉と(独)ミーテ博士の設計による鏡玉であり、厳密な捉え方ではアナスチグマットであるがアプラナットではない。色収差、球面収差、コマ、歪曲、像面彎曲とともに非点収差の修正したツアイスのアナスチグマット(後のプロター)はアナスチグマチックアプラナットといえる。
                                                                                       (明治41年 藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」を参照)

イエナガラス発明以前のガラスレンズを用いた色消しレンズはペッツバール条件を充たすことができず非点収差と像面彎曲をともに修正できなかった。そこで鏡玉製造者は鏡玉の用途に応じて 、或鏡玉は非点収差を特に修正したり、或鏡玉は第一映像面を平坦としたり(速直鏡玉に多く、鏡胴を短くすれば像面彎曲部が増し、非点収差が減じる)、或鏡玉は最小ボケの映像面を平坦にしたりした。旧式ガラス(普通のクラウンと普通のフリント)による色消しレンズを用いた密着式鏡玉においては非点収差と像面彎曲はともに修正されないが、旧式ガラスによる分離式鏡玉は色消しとしかつペッツバール条件を充たすことができる。しかし厳正な集光の分離式鏡玉を製造することは困難であり実用に耐えるものはない。イエナガラスの発明により色収差の修正ととも
にペッツバール条件を充たすことが可 能となり非点収差と像面彎曲がともに修正された密着式のアナスチグマット(スチグマットも同義)鏡玉が製造された。(当時の)アナスチ グマット鏡玉は一定の画角外は非点収差が顕わになる。

                                                                                      (大正11年 写真月報 加藤精一 通俗写真鏡玉講話 第十七 参照 )

像面湾曲
当時、画の周辺ほどボケる鏡玉で風景などを画角を広くに撮影したい場合は、中心部が鮮鋭に映るピント位置を避け、中心部と周縁部がある程度均等な描写となるピント位置とし、少し絞り込むという工夫をしたり、曲がりの線上に被写体を置く工夫をした。



像面彎曲は必ずしも鏡玉の側に向かうものではなく、彎曲のかたちもガラスの構成が単純でなければ複雑となる。第一、第二焦線面も必ずしも同一の方向に彎曲するものでもない。非点収差の縦横2つの焦線(第一焦線、第二焦線)の中間(真ん中ではない)の良像の点を連結したものが像面湾曲の曲面である。像面彎曲は絞りをいれても変化しないが、中央部にピントを合わせたときの周縁部のボケは絞るとボケ円が小さくなるので目立たなくなる。非点収差と像面彎曲は相反するものであり、画面が平坦になるようレンズを配置すれば非点収差の隔差(ハとニのひらき)を増し、非点収差の隔差を少なくしようとレンズを配置すれば像面彎曲がきつくなる。非点収差を無くしかつ像面彎曲をなくすためには、第一焦線面と第二焦線面を一致させながらペッツバールの和を0に近くする必要がある。これ実現したものが真のアナスチグマットレンズである。

非点収差と像面彎曲
点線:第1映像面
実線:第2映像面
第1映像面を平坦にちかく
設計した速直鏡玉の場合
最小ボケの映像面が平面
となるように設計された速
直鏡玉の場合
或角度まで非点収差、像面
彎曲が修正された、普通の
アナスチグマット鏡玉の場合
中央に近い部分は非点収差の
修正過度としたアナスチグマット
鏡玉の場合

英国の航空写真鏡玉について     写真月報 大正9年1月 第25巻第1号 加藤精一 航空写真鏡玉 より抜粋 
第1次世界大戦は航空写真鏡玉の発明を生んだ。大戦の初期においては、航空写真家も鏡玉製造者も航空写真鏡玉の必要条件を明確に把握 していなかったので、普通のアナスチグマットが採用されたが好結果を奏さなかった。そのなかでもコントラストが強く "relief effect" があるC1類テッサーF4.5が最も適する鏡玉と認められた。その後航空関係者の要求が鏡玉製造者に伝えられテーラー・テーラー・ホブソン会社のアヴィアール(Aviar)F4.5  81/4吋 101/4吋 101/2吋、ロッス会社のエアロエキスプレス(Airo Xpres) F4.5  81/2吋 10吋 14吋 20 吋 などの鏡玉が製造された。最も鮮鋭緻密な画像を得るためには各収差を極減するとともに、内面反射を抑えコントラストを高め、"relief effect" 言い換えれば画像の清明度と描写の"切れ"を際立たせることが必要である。収差が残存していれば描写の"切れ"は収差の量と収差の性質(最小のボケ円における光の分布状態)によって異なるのであるが、各収差が極減されていれば描写の"切れ"は解像力の問題となり、F4.5という明るいレンズとすることにより最小のボケ円の大きさが減少するとともにその輪郭の"切れ"は良くなる。鮮鋭緻密な画像を得るための鏡玉は収差の修正と相俟ってなるべく大口径とすることが望ましい。
鏡玉の理想としては広い角度において完全な画像を結ぶべきであるが実際には限定された或角度内において各収差を修正するほかなく、無理して角度を広くとれば残存収差(修正不足のために存する収差に非ず、合理的な修正をなしてなお存する収差を意味す)は避け難い。アナスチグマット鏡玉の像面彎曲についても、画像面の中央部と縁端部が同一平面上となるようにすればその中間部は異なる点となるため、中央部(縁端部)に焦点を合わせれば中間部は焦点が合わないこととなり、収差の修正の角度を広くとるほどにこの彎曲の程度も大となる。普通のアナスチグマット鏡玉は出来る限り角度を広くとるので、残存収差も著しい。したがってそれらの鏡玉を適切な用途に用いれば最良の鏡玉たりえるが、それを狭い角度に使用すれば最良の鏡玉となりえない。カビネ判に適す鏡玉を用いてカビネ1/2判の写真を撮ればその周辺部はボケることとなる。既存のアナスチグマット鏡玉が画角を狭く連続して撮影する航空写真撮影に適しなかったのはこのためである。いや既存の普通アナスチグマット鏡玉が航空写真に適しなかったのではなく、その用途に合った画角の狭いアナスチグマット鏡玉が製造されてはいなかったからである。したがって鏡玉製造者は実際に必要とする角度に対して収差の修正を計算し、航空写真鏡玉を設計した。角度が減じれば修正は比例以上に容易に又比例以上に高度に進め得ることは人の知るところであるから、製造者はこの用途においてはC1類テッサーにも勝る鏡玉をも製出し得たのである。ロッス社のロス・エキスプレス
は56度に対して修正されて最悪なる中間部の収差0.5mmであったのを、エアロエキスプレスでは修正する角度を36度とし収差を0.25とすることができた。その如き事情であるから或種の狭角撮影において航空写真鏡玉がC1類テッサーに勝るということは決して両者の価値の比較にはならない、元来異なった目的の為めに作られたものなのであるから同一の用途に就いて優劣を論ずべきではないのである、この点は英国の鏡玉製造者自身でも明言している所である。従来のアナスチグマット鏡玉にあっては広い角度の収差の修正が誇りとせられて居った観があって、製造者によっては角度の増大をはかるために軸上光に対する修正の幾分を犠牲とすることさえ行われた程で、特に狭い角度に対して修正された鏡玉を試みる者はなかったのである。終わりに臨んで一言を附け加へて置かう、極めて狭角な場合にはアプラナット(速直鏡玉)、集合人像鏡玉(ダルメイヤ D印 など)、或は人像鏡玉の中で然るべきものを選ぶが宜しい、此種の鏡玉の優良なるものは狭い角度内の描写に就いては同口径同焦点距離の普通アナスチグマットに比して勝るとも劣れることはないのである。普通のアナスチグマットの特徴と価値とは画面中で軸線から遠い部分の欠点を修正した点にあるので、軸線に近い部分の修正は通例普通の如くであるか或は軸線から遠い部分の修正のために幾分犠牲にしているのであるから、極めて狭角な撮影に普通のアナスチグマットを選ぶことは実に不経済なのみならず理論上から言っても愚な話なのである。英軍では航空写真暗函(航空カメラ)には主として新式の航空写真鏡玉を装置したが、空中戦の射撃演習に用いる写真砲暗函(ガンカメラ)は対する機影のみを撮るため撮影角度は極めて狭く、専ら速直鏡玉(R.R.レンズ)を用いたらしい。狭角撮影に関してはテレフォト鏡玉が必ず問題に上がるが、此種の鏡玉はバックフォーカスが短い為に通例の場合には非常に利便を感ずるが、同一角度内の画像の精密度は普通鏡玉に比して劣るとも勝るものではなく、かつ糸巻形の歪曲があるから精密性格を主眼とする場合には推薦できない。普通鏡玉の長い焦点距離のものを用い中心部を使うことがよい。

参考文献
アサヒソノラマ クラシックカメラ専科15 「小西六カメラの歴史」 
東京都写真美術館業書 「日本写真史への証言 下巻 亀井武 編」   
東京写真材料商業共同組合 「東京写真材料商組合五十年史」
小西六写真工業株式会社 発行 社史編纂室編 「写真とともに百年」
小西本店「写真自在」
小西本店「紀念帖」
小西本店「写真術階梯」
小西本店「写真用品目録」
藤井光蔵、藤井龍蔵 合著 「写真鏡玉」 東京浅沼商会
小西本店 発行  「写真月報」

初期写真レンズの歴史